侍女たちの力も借りて皆を寝所に移動させ、俺は医務室に戻って皆の分の二日酔いの薬や整腸薬を作る。そうして全てを作り終えた時には朝日が登り始めていた。
皆との一時になるか、今生となるかの別れの日がやって来たのである。
俺は盛大な出陣式を行っている華琳達の元には行かず、医務室で時が過ぎるのをぼーっと待っていた。
皆は見送りに来てくれと言ってきてくれたが、戦場に向かわない者がその場に居ては士気向上に陰りを差してしまうと固辞させてもらった。
それなりに長く城に常駐して怪我人の世話をしていたからそこそこ俺に世話になった人間は多く、しかも居残り組も殆どが出陣式を見に行っていたので理由としてはかなり弱かったが、華琳は納得してくれた。
まあなんだ、正直に話すと、華琳の話を聞いて皆の姿を見てしまうと、俺は泣くかこっそり付いていくかしてしまいそうだったのだ。
更に自身を拘束するため、中央での仕事を終えた管輅や卑弥呼に直ぐ様来てもらうように連絡もしてある。
俺は目を閉じ、無心を心掛ける。
しばらくすると一際大きな歓声が遠くに聞こえてきた。
「ああ、行ってしまう」
無心の心掛けなど一瞬で吹っ飛んだ。
俺の大好きになった人達が、強大な運命に立ち向かいに行く。
焦燥、心配、不安、後悔、多くの負の感情に、そして少しの期待。
俺は歯を食いしばってざわめく心を抑えつける。
今からでも見送りに行けば、この胸中も多少落ち着くのだろうか。
だが……。
俺が思い悩んでいると、医務室に近づいてくる気配が一つ。この気配は城に残った侍女長のものだ。
彼女は医務室の前で止まり、声を掛けてきた。
「失礼致します、謙信様にお手紙が届いてございます。お目通りを願います」
手紙……こんな時に誰からだろうか?
俺は侍女長を通し、手紙を受け取った。
では、と静かに退室していく彼女にありがとうと言い、気配が遠ざかったのを確認してから手紙を調べる。
差出人は書かれていないが、封蝋の部分に呪いの文様が描かれていた。
見覚えこそ無いが、覚えのある気配。以前卑弥呼の部屋で感じた気配にそっくりだ。
恐らく人避けの応用で、手紙を決して読まれないように卑弥呼が術式を編んだのだろうと見当をつけ、封を切る。
中に入っていた手紙に目を通すと、それが管輅と卑弥呼からのものであり、近くに来てはいるのだが、出陣式の異様な熱狂ぶりと警備体制の厳戒さから城に近づくことが出来ないという文言が書かれていた。
外から聞こえる大歓声に納得する。
今日明日は軍の精鋭達から警備を少なくない数出さなければいけないほどの盛り上がりなのだ。警備を担当した者達は後日急いで本隊と合流する手筈で、手間が増えたと出陣前に桂花が愚痴っていた。
このような状況ではさすがの卑弥呼の呪術も形無しのようだ。
しかし、こうなると、枷が一つ外れてしまった訳で……。
「一目、一目だけ、行列の中から見送ろう。絶対、それだけ」
俺はそう強く念じ、白い装束を脱いで町人の変装をし、駆け出したのだった。
勝手知ったる路地裏を超スピードで走り抜け、どうにかこうにか門近くにて主役達の最前列までやってこれた。
俺は大通り脇の人垣の前の方、こちらからは向こうをよく見れて、向こうからはこちらが紛れて見難いという絶好の位置をキープした。
主役達の最前列は騎兵、弓騎兵達。霞、春蘭、秋蘭の部隊だ。最精鋭たる彼女達は門を出た後、赤壁までのルート確保の為に先陣を任されていた。
大歓声、人。動物にとっては脅威以外の何物でもないそれらの大波を、馬達は何事でもないかのように整然と進んでいる。
それだけで騎手達の力量や練度が分かろうものだ。
粛々と進んでいく兵達の中で、三将軍だけが得物を振ったり声を上げたりして、歓声に応えている。
彼女達は士気や民衆への影響力などを熟知しているからこそ丁寧に対応している。
また他の兵が馬や人に気を使わなければいけないと分かっているので、余裕のある自分達が役目を負わねばと大げさに対応していたりする。
「ほんと、素敵な女性達だよ。勝てよ、皆」
小声でそう漏らし、俺は周囲に紛れながら彼女達に大きく手を振るのだった。
次いで歩兵達を纏める三羽烏と軍師達。
先んじて駆け抜けていく騎兵達の通った道を固め、拠点を構築するのが彼女達の役目だ。
歩兵は民衆と目線も一緒で進む速度も騎兵よりは遅いので、行軍を乱さぬ程度に兵達は民衆にアピールしている。
先程の騎兵隊とは打って変わり、将軍達が彼らを抑える場面が多い。
軍師達は多少のアピールだけして欠伸を隠れて噛み殺している。
あまり飲んだりする場面に居ない軍師達には昨日の酒宴は堪えたみたいだ。
「将軍達の中でムードメーカーやってる三羽烏ばかり見てきたからしっかり隊長やってるってのは違和感あるな。けど、しっかり務まってるじゃないか。
軍師達も無理せず、生きて帰ってきてくれよ」
そして最後の最後、親衛隊とちびっ子二人、そして華琳がやって来た。
胸を締め付ける感情が高まるのを感じる。
俺は胸を抑え、乱れそうになる気配隠蔽を強く意識して保たせる。
彼女にバレるのは一番格好悪い。
なので殊更強く気配を隠蔽する。気配を消すのではなく、気配を薄めて周囲と一体化させるというより高度な気配隠蔽を行使している。
だが何故か、彼女はこちらとの距離が近付くにつれ、急にキョロキョロと周囲を眺め始めた。
それまでは鷹揚に手を振ったり、彼女の象徴たる鎌を掲げたりして周囲の望むパフォーマンスをしていた彼女の変化に、隣にいた季衣と流琉が首を傾げている。
彼女の一挙手一投足に周囲は狂騒と熱狂を強めている、そんな中で高度な気配隠蔽をしているのだから、俺の存在などバレる筈がない。森の中から一本の木、いや、一枚の葉っぱを探すような無理難題。
けれど、彼女と目があってしまった。
一瞬だけ目が合い、小さく小さく彼女は表情を緩めた。
すると彼女は鎌を季衣に渡し、するりと帯剣していた剣を抜き放ち、掲げた。
彼女が象徴たる鎌を手放し、剣を抜く姿を見る民衆は少しぽかんとした。けれどもそれが初めて見る姿だと理解が及んだ瞬間により強い騒ぎとなる。
その様子を艶やかに見渡した彼女は剣を鞘に収め、毅然とした表情となってただ前だけを見た。
俺はそのまま通り過ぎる彼女の横顔を眺め、後ろ姿を眺め、門の向こうに彼女の姿が消えるまで見送った。
そうして彼女の姿が見えなくなった瞬間、駆け出す。
何もかもを置き去りにして医務室へと駆け戻った俺は、人知れず涙を零した。
華琳の抜剣、その仕草に感動して泣いている訳ではない。
彼女からしたらただ単純に、頑張ってくる、道を切り開いてくるといった意図以上のものはないだろう。
その意味は伝わってきた。
しかしあの姿を見て、このループには続きがないと、確信してしまったのだ。
ひたすらに前を向くあの姿こそ、俺にとっては永遠の別れの姿、別れの象徴。
灯華様、漢建国の元勲達、光武帝とその仲間達、私塾の生徒達、呉の皆。
俺が別れてきたのは前向きな姿がとても良く似合う人達だった。
だから、華琳達にはもう会えないのだと、この時俺は強く実感してしまった。
それまでは使命が終わる可能性は三割、別のループが始まる可能性は七割ぐらいに考えていた。
呉、魏と来れば、恐らく次は蜀のループが来る可能性が高いとは予測していたし 別ループが始まればこのループが上手く完結したとしても俺にはこの先がないという事も理解していた。
だがそんな懸念があったとして、これで本当に終わる可能性は無くはないのだから、やり遂げなければいけない。
そう考えて使命が終わる可能性を三割と残していた。
けれど、そんな甘い希望が絶たれた。
まだ分からない筈なのに、理解してしまった。
遠い昔の鴻門の会の時、これはもうどうしようもないのだという絶対的な確信と同質の物を感じ取ってしまったから。
だから俺は当時と同じく、膝を屈し、無力感と虚無感にただただ涙を流す他なかったのだ。
しばらくその状態だったのだが、医務室に近付く気配を察知して居住まいを正す。
すると先程手紙を渡しに来た侍女長が扉の前に立ったのを感じた。
「何度も申し訳ありません。曹操様よりお預かり物がございます。式を終えたらお渡しするよう命じられておりますので、お目通りを願います」
今度は華琳から?
なんだろうと思いつつ、俺は彼女を招き入れた。
侍女長から手紙と布と紐でしっかりと巻かれた何かを受け取る。そして彼女は一礼をして素早く退室していった。
気配が遠ざかったのを確認し、俺は手紙の方を先に読んだ。
そこには短く『曹家と夏侯家の家宝を預ける。帰り次第返してもらう』とあったので、俺は預かったもう一つの品を紐解いた。
そこには二枚の銅板、曹参さんと夏侯嬰の描かれた二枚の銅板があった。
俺に対する紐付けの為なんだろうが、このタイミングで家宝を渡されるとなると、どうしてもお別れの品のように思えてしまう。
華琳にはそんな気は全く無いだろうに。
二日後、卑弥呼と管輅がやって来た。
俺はそれを喜びを持って迎える。
一人になると色々と考えてしまうから、話せる相手が出来るのがとても嬉しかったのだ。
再会を喜び、そして改めて仕込んでいた食事を振る舞い、大変に喜ばれる。それだけで心の中の何かが少し回復した。
今日はそのまま休んでもらおうと思ったのだが、出陣式の合間にゆっくり休めたとの事で、そのまま話し合いを始める事に。
「いやしかし、遅れてしまって悪かった。些か予想よりも大掛かりな式となっていたようでな、私とした事がぬかったわ」
「出陣式という事で城の方は空いているだろうと勝手に思い込んでいました。直前で占い、中に入るのは危険だと知らなければ少し面倒になっていたかも知れません」
「俺は出陣式が盛大になるから警備がいつもより厳重になるとだけしか聞かされてなかったんだ。しかしまさかのまさか、出兵と式の騒ぎの隙を狙う輩を誘い込んで一網打尽にする空城の計が発動していたとはなぁ。知らせる事が出来なくて申し訳なかった」
実はあの日の警備体制はただ厳重なだけでなく、巧妙だったらしい。城の警護をあえて手薄に見せ、そこかしこに兵を仕込んでいたそうな。
おかげで幾つかの盗賊団を秘密裏に処理できたそうで、良い成果を得られたと警備の隊長さんが誇らしげに言っていた。
二日もすれば目ぼしい盗賊が消えたので、今では通常時の警護に戻っている。多めに配置されていた兵は後追いで合流するそうだ。
「それであれば仕方あるまい。勝手な思い込みで準備を疎かにした我らに責任がある。
ともあれ、開戦前に無事合流を果たせた事は喜ばしい事だ」
「ですね。さすがに観測者である白様に赤壁での戦いを見て頂かない訳にはいきませんし、間に合って良かったです」
「いやいや、まだ開戦には時間がかかるだろう?」
「そうとも言えんのだ、蜀の対応が恐ろしく早くてな、道を切り開いておる魏軍騎馬隊は既に幾度かの迎撃を突破しておる」
「……まじか?」
「管理者の手引きではないぞ。我らは主だった主要人物達とは強く関われぬ、情報を流せたとしても市井の噂程度しか操れん」
「つまり、今の時期を読んでいたのが向こうにいる?」
あくまで華琳が今攻めると言ったのは、赤壁のみに焦点を当てているからだ。
そうでなくては魏軍出陣は有り得ない。
そもそも国力で勝る魏がこの時期に勝負を急ぐ意味は無く、時を置けば置くだけ敵両陣営とは格差が開く。
だから魏としては攻められても適度にあしらいつつ防衛し、内政を整えていけば、五年ぐらいで蜀呉が何をしようが最早どうしようもない位置にまで持っていける。
時間がもたらす勝算の増加を無視する形はデメリットが多く、メリットは戦争の早期決着における将来的損害の軽減以外にないのだ。
一ヶ月から二ヶ月後に最も差が縮まる蜀呉は無理攻めをしなくてはいけない。
だが今の段階でも十分に差は縮まっているので、あちらからすればこの時期の戦闘が開始されても悪い話ではない。戦闘の準備も万端とは言えないがそこそこに整えているし、初動こそ遅れるだろうが迎撃できないわけではない。
つまりだ、この時期に魏が攻めるなど愚の骨頂。攻められると思っていない蜀呉は必ず初動に遅れる、筈なのに。
「それが神算鬼謀と謳われる臥龍と鳳雛よ」
華琳という万能の英傑も化け物だったが、三国志における知の代名詞もまた化け物だった訳である。