今昔夢想   作:薬丸

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臥龍視点です。


72.軍師はとにかく眠りが欲しい

 私は困惑の中で様々な対応に追われていた。

 どこれもこれもが一歩間違えれば奈落の底に堕ちる類の重要案件で、一切の気が抜けない。

 しかもここ数ヶ月に渡ってそんな状況なので睡眠も中々取れず、私も雛里ちゃんも限界に近い……というか限界を突破している。

 ああ、それもこれもあの曹操という怪物のせいである。

 

「朱里ちゃん、これもお願いなの」

 

「雛里ちゃん、さすがに、さすがに死んじゃうの、寝かせて……」

 

「ここで私と朱里ちゃんが寝ちゃったら、多分蜀も呉もやられちゃうから、駄目」

 

「またそんな重要案件なのっ?!」

 

「攻めてきたんだよ」

 

「……誰が?」

 

「魏が」

 

「…………何で?」

 

「分かんない。領地の無抵抗解放と一緒で本気で分からない」

 

「あれを無抵抗って言って良いのかな? まあいいや。でもこれで勝ち目が出てくる!」

 

「うん、私達の睡眠時間を勝ち取る為に、話し合お?」

 

「うん、ここで勝てば確実に寝れる時間がいっぱい取れるからねっ」

 

「ここ最近は睡眠時間二時間の日が続いてたから、頑張ろっ」

 

 こんな風に励まし合いながら、ずっとずっと寝れない日々が続いていた。

 始まりは確か、定軍山での戦い。

 全ての予定が狂いだしたのはあの日からだった気がする。

 

 

 定軍山の戦い。私達の策が完全に嵌り、全てが思惑通りに進んだ筈なのに……結果、骨を絶たせて肉を切るような作戦に成り下がった苦い戦いだ。

 

 

 あの時点で蜀と呉が手を組むのは既定路線だった。でなければ両軍ともに強大な曹操に対して打つ手が無く、仮に手を組んだとしても勝利は困難という状況だったから。

 しかし既定路線に乗ったとして、あの状況のままでは蜀陣営は呉陣営から侮られ、利用されるだけ存在になっていただろう。蜀と呉の間にはそれだけの国力差があり、手を組むというよりは取り込まれるというのが正しかったからだ。

 けれどそれを受け入れてしまっては私達の理想は潰えてしまう。

 それだけはなんとしても避けたかった私達は、自身の価値を見せ付ける為に賭けに出た。

 

 曹魏の様々な行動を読み、割と高い可能性に賭けた私達。もし読み違えていたら別の場所から防衛線が瓦解していたかもしれない、そんな賭けを強要させられる程に私達は追い詰められていたのだ。

 

 

 あらゆる偽装工作を施して、定軍山という穴を演出した。

 ここで苦心したのは、明確に穴だと思われると策謀を感じ取られるかもしれないので、上手く調整しなければいけなかった点だ。

 向こうの情報網などを予測し、動きに応じて作戦を随時変えなければいけなかったので、あの時は寝ている暇なんて無かった。

 

 しかし渾身の策略は成り、予想通り魏の柱石の中の柱石である夏侯淵を引っ張り出す事に成功した。

 最精鋭の情報支援部隊から、率いる将と兵の規模が予想の範疇であり、作戦実行に一切の支障が無いとの報がもたらされた時の喜びは人生で一番だったかもしれない。

 そして待ち望んでいた報をきいた瞬間、私と雛里ちゃんはその場で睡魔に負けた。

 

 

 泥のように眠った二日後、まさかの報が入った。

 精鋭部隊の多くを討ったが、夏侯淵と典韋を打ち損じたという。

 有り得ない話だった。

 あそこに張り巡らせた策は二人の将でどうにか出来る物ではない。

 将、兵、地理、罠、あらゆる物を詰めに詰めた必殺の地。

 それを凌がれた?

 私と雛里ちゃんは同様の表情をしていた。

 怖気、だ。

 策が見破られたのなら分かる、しかし策にかかった上で食い破られたのだ。

 あまりに理解が及ばず、怖くなった。

 理解できぬ事がこんなに怖い事なのだと、私達は同時に知った訳だ。

 

 背筋を這う恐怖を殺すため、詳しく事情を聞く。

 すると正体不明の人物が介入した為という話だった。

 なんだそれは、たった一人の介入で罠がご破産? そんなの、策謀の意味が無くなる。不条理過ぎるっ!

 いつぞやの曹操を追い詰めたあの時を思い出す。

 一人の仮面の人物によって愛紗さんや恋さんが退けられた時のような……もしかしてその存在がついていたの?

 いや、それならば最初から出てきていた筈だ。負けが確定した段階で出て来る意味は皆無。

 

 何故策を読まれた? 何故策を破られた? 何故介入を遅らせた?

 何故、何故、何故、何故……

 私は生まれて初めて理解が及ばない事態を目の前にしてしまった。

 今までは頭の中で全ての物に辻褄を合わせ、理解してきたつもりがあった。

 けれど想像だに出来ない事態に頭がこんがらがり続け、あまりの気持ち悪さに吐き気がした。

 起きたばかりで胃の中に何もなかったのは幸いだった。

 

 私の頭では理解できないと判断した私は考える事を止めた。

 ともかく事実だけを見て、以降の策を練らなければいけない。

 仕損じはしたが、魏の精兵を大敗させ、柱石たる夏侯淵を追い返し、曹操の知略を上回ったのは紛うことなき事実。それなりの成果は上がったと言っていい。

 呉に良いように利用されるだけ、という事態は避ける事が出来るだろう。

 

 けれどこの時から、私の、私達の何かが変わった。

 

 

 呉と共闘するという公然の密約を交わしたその一週間後、魏が呉を攻めた。

 いつか来るとは思っていたが、あまりに唐突の事態に蜀からは何も手が出せなかった。

 これで終わりだと蜀の陣営は、いや恐らく呉の陣営ですらも思っていたに違いない。

 

 けれど奇跡は起きた。

 孫策という稀代の英雄を犠牲にして、呉は勝利を得た。

 

 正直、私はこの事に納得が出来ていない。英雄の死に対して不敬かもしれないが、どうしても疑問が過ぎってしまうのだ。

 あの曹孟徳が、そんな不手際を晒すだろうか?

 私は情報部に調査を頼んだ。わざわざ終わった事態にそれなりに人員を割くのは愚挙と言えたが、それでもやるべきだと思った。

 呉の陣営からの協力もあり、詳細が分かった。

 

 それは奇妙な偶然が折り重なった末の奇跡だった。綱渡りとか薄氷とか、そんな程度のものじゃない。

 こんな偶然、曹操だけじゃなく、私や雛里ちゃんを束にしたって想定不可能だ。

 

 私の胸に以前感じた気持ち悪さが再び去来する。

 意味不明である、理不尽である、不可解である。

 しかしここから何も読み取れなかった私は、これもまた今の私には荷が重いと判断し、気持ち悪さから逃げるようにして考えるのを止めるしかなかった。

 

 

 しかし、それから気持ち悪い日々の連続だった。

 魏が小さく負け、呉とついでに蜀が小さく勝つ、という構図が続いた。

 どれもこれもが不思議と上手くいく。策も、戦も、重要な場面で賭けに勝ち続けている。

 少なからず分の悪い賭けにも、何故か、勝ち続けているのだ。

 

 この気持ち悪さは、思考を生業とし、様々な情報を得られる立場であり、大局を見通す第三者の視点を持っている者でなければわからないだろう。

 策を講じ実行している呉は勿論、策を破られている魏ですら気付いている者は少ない筈だ。

 大戦を避け、小競り合いが続いていて勝負の規模が小さいので気付きにくいのもある。だが何よりも魏は多くの局所で勝っているのに、勝負が決するような要所でだけ負けているのだ。だから気付かない。

 気付いているのは、魏の軍師の一部と曹操だけだろう。

 本当に勝ちたい所でだけ絶対に負けるのだから、何かの意図が介在しているのではと疑っているはずだ。

 けれど呉の味方をしている私が断言する、そんなものを仕組んで実行できる人間など居ない。

 

 戦場に絶対はない。歴史上のあらゆる軍師が辛酸を舐め続けて至った結論だ。

 戦術の天才である雛里ちゃんですら読めない戦場はある。

 けれどその絶対が、今ここでは起きている。

 

 言い様のないもやもやが頭と胸に蟠る。

 

 私は頭を振った、これについては答えが出ないと今まで悩んできてわかっていたからだ。

 完全に頭の中から消し去るのは無理なので、出来るだけ頭の片隅に追いやる。

 相手は覇王曹操、二つの事に考えを割いて勝てる相手じゃない。

 

 私達が賭けに勝つには、最善の手を打てば、という前提があった。

 ほんの少しでも甘い策を講じれば、曹操は一瞬でそれを見抜いて撃ち抜いてくる。

 下手をすれば将が一人二人討たれていても可笑しくない状況が幾度かあったが、そこでも何故か私達に物事が有利に働き、最小限の被害で切り抜ける事が出来た。

 それがまた、物事を知で図ろうとする軍師として、何とも言えない気持ち悪さを感じてしまう。

 そうしてまた思考停止のような考えが頭を巡り、それをまた頭の隅に追いやる。

 私に出来る事は最善手を考え続け、曹操に隙を見せないようにする事だけなのだと、強く深く念じ続けた。

 

 

 頭を働かせ続け、睡眠を削り続けていたある日、有り得ない事が起きた。

 私達のちょっかいに対して魏が何の反応も示さず、結果領土を削られる愚を犯した。

 領土とは人、物、流通といったあらゆる力の源泉となる最重要要素。それを削り取られるのはよほどの事情を抱えていない限り悪手である。

 

 私達はその理由を懸命に探したが、答えらしいものには至らなかった。

 これもまた最近多い思考停止に類する案件だ。

 抵抗しないのなら、頂けるだけ領土を奪っておこう。

 

 

 私達の手の及ぶ範囲で領土を掠め取っていると、しばらくして毒がまわってきた。

 無抵抗で手に出来たのは敵味方の誰々将軍の手引きだった、という情報が各地から挙がり始めてきたのだ。

 蜀は桃香さまの元、将兵の結束が固い。

 けれども、こうも容易く領土が手に入ったとなると、疑わしきは疑いたくなってしまう。

 

 しかも敵の手引き情報だけじゃなく、味方の誰々が敵に兵を潜り込ませて手引させたという情報もまた面倒極まりないものだった。

 本来であれば褒められる事態だ。その手引きをさせた者は褒賞に値する。

 けれども荊州の地を治めて間もない事が枷となった。

 まだまだ桃香さまに心酔しきっていない民も多く、私達の統治を不安の中から厳しい目で見つめている段階。一枚岩である事を示さなければいけない時期だったのだ。

 

 仲間達の仲は非常に良好なのだが、付き合いの期間で言うなら他国の柱石や宿将に比べて極々短期間のものに過ぎない。

 だから精査しない訳にはいかなかった。でなければ民が納得しない。

 実はあの将軍は桃香様に隠れて部隊を囲っているだとか、勲功欲しさに勝手をしただとか、桃香様は将を収めきれていないだとか、妙な噂が立つ。そうなれば王と将、将と兵、兵と民、それぞれの乖離は大きなものとなってしまう。

 それだけは避けなければならず、味方に示すように厳しく調べなければいけない。

 

 しかし人の心とは難しく、仕方ないと理解していても、痛くない腹だろうと、あれやこれやと探られれば誰だって気分が悪い。

 それが不仲に進展せぬよう、またその類の噂が立たぬよう厳正かつ公正に、緻密に計算しながら作業せねばならず、これが非常に手間であり面倒であった。

 

 領土を切り崩す利はない、曹操のした事は戦略的に言えば愚挙である。

 けれども、嫌がらせとしては最上であったと言わざるを得ない。


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