今昔夢想   作:薬丸

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本日二話投稿です。


75.惜別

 漢統一を諦めると華琳は宣言した。

 急速に沈み始める皆の表情とは裏腹に、華琳は笑顔で軽やかに続ける。

 

「だってこの国で一番の都市って許昌でしょう? 学問、医療、技術、法制度、教育、商業、流通、あらゆる分野で最も進んでいて、更には人口、活気、出生率、流入率だって洛陽や長安をとっくに追い抜いているのよ? それってもう国の頂点を取ったって言っても良いじゃない。

 負けてそれを譲り渡す形になったのは癪だけど、街を見て、資料を読んで、彼女達も私達の成し遂げた偉業に大いに慄いてくれる事でしょう」

 

「でしょうけど、それで、本当に」

 

「終わりなんですか? ここで諦めちゃうんですか?」

 

 流琉と季衣が泣きそうな顔で聞く。

 皆も同じような、捨てられた子犬のような表情。

 失意、失望、絶望、後悔。そんな皆の表情を見回し、しかし華琳は傲岸不遜に言ってのけた。

 

「それは違うわ。さっき私はこう言った筈よ、この国の、と」

 

「えっ、それじゃあ」

 

 華琳は大きく頷き、その身に宿る覇気を解放した。

 ただそこにあるだけで周囲を圧する程の気力。気を抜いてしまうと膝を折り、頭を垂れてしまいそうになる感覚。

 脳髄を、心臓を、呼吸器を鷲掴みにされるようなそれはしかし、恐怖を生むだけの物ではない。

 全てを預けてしまいそうになる圧倒的な安心感と信頼感がそこには存在している。

 それは真なる覇気。全てを引き連れ、全てを守り、全てを切り裂く王者の気配。

 全てを得て、その殆どを失って成長した彼女だからこそ放てるその気配を持って、彼女は告げる。

 

「私、曹孟徳、真名を華琳が語らせてもらう。

 まずは敗北を認める所から。

 私は負けた、貴方達というこの国で最も優秀な者達に支えられていながら負けて堕ちた。我ながら情けなくもあり、しかし天とぎりぎりまでせめぎ合ったという自負を誇りにも思っている。

 ついで謝罪を。

 私を信じて付いてきてくれた貴方達の信を裏切ってしまい、心の底から申し訳なく思う。頂点という高みこそ見せたが、そこに君臨し続け、見下ろす大陸の全てを手中に収める事が出来なかった事はこの国における唯一の心残りである。

 次いで約束を。

 負けてこの国の未来を別の者に渡してしまったが、けれども私は懲りずに別の場所で高みを目指そうと思っている。もし付いてきてくれる者が居るのなら、次こそ高みに至って全てを得てみせよう。

 しかし無理強いはしない。この国の将来を見据えるならば、貴方達は残って未来を作るべきだ。覇者となった彼らは高みというものに慣れおらず、道を誤るかもしれない。

 だが貴方達の誰かが傍にいて導き示せば、道を違う可能性もなくなるだろう。彼らも貴方達を邪険にはしない、少なくとも諸葛孔明を筆頭とした軍師や内政に関わる役人は無碍にはできないと理解している筈だ。

 最後に願う。

 これで私が語れる物はもう何もない。最後に皆の意見を受け入れるだけ。

 失望したなら唾を吐き捨て罵倒して欲しい、殴ってくれたって構わない。私は何もせずただ受け入れる、周りにも手は出させない。

 だからその心根を素直に見せて、聞かせて欲しい」

 

 そう亡国の王は彼女達に問いかけた。

 

 

 華琳の呼びかけに真っ先に応えて立ち上がったのは春蘭と秋蘭の姉妹だった。

 

「最早我ら姉妹がここに来てどうのこうのと言葉を重ねるのは無粋」

 

「姉者の言う通り、ここで改めて言葉にする方が野暮という物でしょう」

 

 言葉こそ少ないが、しかし目だけで色々な会話をしているみたいで、五秒ほどしたら三人でくすりと笑いあっていた。水魚、断金、刎頸の交わりと言える確かな絆がそこにはあった。

 その間に挟まれ、頭を撫でられ続けていた桂花は堪らずと言った様子で立ち上がる。

 

「私は貴方の子房ですよ、付いていくに決まっているではありませんか。心根を正直に? 愛しています以外に何があろうと言うのか!」

 

 高らかに、当然のように声を張り上げて心情を吐露する。

 

 季衣と流琉が立ち上がる。

 

「何か華琳さまの空気、軽くなったというか、丸くなったというか、澄んだというか、えっと、ボク馬鹿だから上手な例えが出てこないんですけど、白様みたいにほっとするような空気を感じます。

 あっ、ボクは絶対ついて行きますよ! 」

 

「平和の世になればもう盗賊が蔓延る事もなく、私達の出番はもうないでしょう。ならば季衣と私の望みを果たしてくれた華琳さまに恩を返さないとです。それに別の地方に行くのなら、そこの料理も研究したいですし!」

 

 朗らかな声には絶対の信頼と役に立ちたいという強い気持ちが込められていた。

 

 稟と風が立ち上がる。

 

「こちらに残っても治世という名の現状維持に尽力しなくてはいけないのですよね、それは発展を推し進めていた身からすれば些か退屈そうにも見えてしまいます。また別の知見を得られるのでしょうが、性に合わないでしょう。……それに心根を素直にというなら私も桂花のように愛の告白をごにょごにょ」

 

「日輪がまた登ろうとしているのです、ならばそれを支えるのが昱の名を頂く私の役目なのですよ。ご安心ください、今度は決して落日などさせないのです」

 

 稟は理屈っぽく、風は直情的に親愛と決意を込める。

 

 霞が立ち上がる。

 

「ウチは太平の世ってのはイマイチ合わんらしいし、元より旅する気満々やったし、この面子が揃っとって面白ない筈があらへんし、ならもうついて行くしかあらへんわなー」

 

 しゃあないなーと言いながら、その瞳は猫のようにらんらんと輝いている。

 

 凪と真桜と沙和が立ち上がる。

 

「私達を見出して頂いたご恩を返せたとは一欠片も思えておりませんから、まずはそのご恩を返したく思います」

 

「固い、凪の言葉は固すぎるて。もー顔がわくわくしてるのバレバレやから。ウチは勿論ついて行きますよ。新しい土地で新しい技術を身に着けて、将軍人形を更なる高みへ……あ、最後のは聞かんかった事にしてください」

 

「二人が行くならアタシも行くかな、後は華琳さまに付いていけば間違いないしっ。みーんなに付いて行って楽しく姦しく、これからもその生き方は変わらないの!」

 

 噛み合った空気から、三人の意志もまた同様なのだと感じさせる。

 

 さて、

 

「皆の心、見させてもらった」

 

 いやいや、俺の番じゃないのかっ?!

 

「俺の思いは聞いてもらえないのか?」

 

「だって聞く必要はないわよね。白には約束を守ってもらわないと」

 

「ん、華琳を一人にしないという約束か?」

 

「違うわ。今までの言葉を聞いて、私は孤高で孤独である、なんて言える訳ないじゃない。

 それよりも前、貴方と出会ってすぐに交わした言葉よ。

 私とともに運命に負けて欲しい、と貴方から言ってきた約束」

 

「ああ、記憶にはあるが、それは今まさに果たされて」

 

「さっき私は言ったわ。先の戦いは私一人が負けたと。だからまだ貴方との約束は果たされてない。

 私と貴方が隣に並んで戦いに負けるまで、貴方は私の傍にいなければいけない訳」

 

 そう彼女はドヤ顔で手を伸ばしてきた。

 

「言っておくけど、今の私が、私達が何かに敗北するなんてあり得ないわ。

 ……だからまあ有り体に簡潔に分かりやすく言うと。

 ずっと一緒にいなさい、白」

 

 頬を微かに染め、少し視線を泳がせ、こちらに手が伸ばされる。

 伸ばされた手、俺はその手をすぐさま取る事が出来なかった。

 頬を涙が伝うのを止められない。もはや何の感情から流しているのかわからず、ただただ心が生み出す巨大な想いに翻弄される。

 

 皆がぎょっとしている。

 俺と華琳がここまで感情を露わにする事が珍しいから、皆が皆あたふたとしている。

 俺は唇を噛み締め、漏れそうになる嗚咽を殺して声を絞り出す。

 

「その言葉がどれだけ嬉しいか、表現する言葉がない程に心が震えている。気の利いた台詞一つ出てこないが、人前で晒す四百年ぶりの涙に免じて勘弁してくれると助かる」

 

 ああ何故俺は、この手を取れないのだ。

 ループは確定している。以前のように視界が切り替わり、俺は新たに課された役割を果たさなければいけないのだろう。

 ずっと傍にいてやれない俺にこの手を取る資格はないのだ。

 けれど手を取れずとも、その小さな体躯を抱きしめ、感情の全てを伝え、謝りたい。

 その為に一歩踏み出そうとして、けれど俺はもう動けなかった。

 気付けば足の感覚が無くなっていた。

 

「良いから早く手を取りなさい。そして貴方の本心を伝えるの、全く、女心の分かっていない奴……白?」

 

 切り開かれた森の中、夜闇を照らすのは月明かりのみ。

 だから彼女はそれに気付くのが遅れた。

 

「華琳、君が運命に抗い、後一歩の所まで天の御遣い達を追い詰める様には心が踊った。

 君が俺の教えをどんどん吸収し、街を大都市に変えていくのは教師生活の集大成を見られているようで楽しかった。

 君との会話はなによりも価値があり、昔の記憶を慰めてくれたのは君だけだった。

 君といた時間のその全てが尊く、輝いていた」

 

 もはや足は向こうの光景が透けて見えるほどで、感覚もない。透明化はゆっくりと確実に進み、今は指の先が透け始めている。

 ああ、天も空気を読んでくれたのか。以前は視界が暗転するだけだったというのに、まさかこんな猶予をくれるとは。

 

「やめてよ、なんで」

 

「大陸の趨勢は決まった。千変万化の戦国絵巻は終りを迎え、観測者たる俺の役割もまた終りを迎えた。

 元より俺自身に期限があったという事だが……とはいえ今この瞬間とはな」

 

 俺の手を迎える為に差し出された華琳の手が、俺の手を掴まえる為に更に伸ばされる。

 だけど彼女は何も掴めなかった。

 もう手の感覚も消えている。

 

「身体が、透けてっ」

 

「あーくそ、勿体振らずにすぐさま抱きつけば良かったかな。

 華琳、俺の愛した人、君が君のままで幸せになるのを願う。

 皆も末永く息災でな。あとはこの可憐で気高き王様を俺の分も支えてくれ。この子はすぐ無理をする上、それを誤魔化すのが上手いから、よくよく見ていてやってくれよ」

 

「何一方的に言ってんのっ、私はまだ貴方に何も返せてない! 私達はこれからじゃないのっ!? 白っ!」

 

「すまない、約束を守れずに去る。それじゃあ、さようならだ」

 

 皆が俺の名を呼ぶ声が聞こえる。

 悲痛に響くその呼び声に、ああ、俺は愛されていたのだと、嬉しくなってしまう。

 すぐにやって来るだろう視界の変化を嫌い、俺は目を閉じる。

 相変わらずまぶたの端からは延々と、だくだくと涙が流れている。

 ああ、涙とはこんなにも温かく、色々な物を流しだしてくれるのだと、何百年ぶりに再認識した。

 勝手な自己満足に浸っていると、唇に何かがぶつかる感覚。

 思わず目を開けると、そこには視界いっぱいに広がる泣き顔の愛しい人。

 

「馬鹿っ、嘘つきっ、薄情者! 好き、愛してる、浮気は絶対に許さないからっ! だから天に帰っても私だけを見守り続けてなさいっ!」

 

 もう残った時間が無い事を悟り、短い言葉に全てを込めて感情をぶつけてくる。

 子供が癇癪を起こしたような愛らしい姿を、自分にだけしか見せてくれないだろう特別な姿を目に焼き付ける。

 もう何も話せない、だから彼女に向けて俺は精一杯の笑顔を作る。

 もう何も聞こえない、だけど彼女はずっと言葉を叩きつけているだろうから、頷き続ける。

 もう何も見えない、けれど彼女は可愛い醜態を見せ続けているだろうから、目は開き続ける。

 

 幾ばくかの時が過ぎ、消え去った感覚が歪みを感じ取る。

 そして新たなループが始まるのだった。




これから書き溜め分を毎日二話ずつ投稿しますので、お暇な時に良ければ読んでやって下さい。
感想は数日後に過去分も含めて返答させていただきます。

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