私塾に入った私を待ち受けていたのは小さな政争だった。
盧植先生の私塾はとても有名であり、地方の大豪族から政事や軍事に深く関わる名家名族と、多種多様な人物が各所から来ていた。
特筆すべきは家柄の良い者達だけでなく実力のある者は平民でも入れていた点で、対比としては家柄六に平民四ぐらい。勿論私は平民枠。
家柄枠の者は格付けと取り込みにばかり精を出し、平民枠の皆は誰の派閥につくのかを蝙蝠しながら見ている。大変な割に実入りが少ないやり取りばかりで、しかし流れに乗っとかないと排斥されたりするから非常に面倒だった。
家柄勢は基本的に嫌な奴らで、変に優秀だから手に負えない者が多かった。
盧植先生の言う事は聞くが、裏では先生の陰口すら平気で言い放つ。
まあそれぐらいなら子供らしい児戯と言えるが、あいつらは平気で家を引っ張り出してくる。
威を借るぐらいなら可愛いもので、親を実際に介入させたりするので手に負えない。親もまともなのは少数で、我が子可愛さで実力行使すら辞さない。
先生が言うには、ここにいる者の家は多少ましだそうで、もっと酷い連中は実力行使の規模と陰湿さ、問題行為の頻度が違うらしい。権力を握っていられるような奴らっていうのは心底腐っていると思った。
とはいえまともな者も少しだがいた。
公孫賛という少女はとても真っ直ぐで優秀であり、さほど時間を要さず真名を交換するまでに仲を深められたのは幸運だったと言える。
さて、私塾に入った私が取った行動はというと、本気を出さず、ひたすら見に回る。
貴方とは丸っきり逆の方策だけど、後ろ盾を持たない私の唯一取れる選択肢がそれだった。
人を正すには上流の人間達と同じ舞台に立つ必要があるのだから、家柄が取り柄の奴らに謙って懐に潜り込むという選択肢もあった。
けれどそれは悪手だと、歴史について学んでいた私は知っていた。
どうせ長くない国の家柄や家格は中途半端に持てばむしろ重荷になるし、対等で無ければ飼い殺しか埋没させられそうだとも思った。だから友と呼べる人物で、いずれ涼州で頭角を現すだろう公孫賛の伝だけで構わないと割り切った。
だから勉強はそこそこ程度の評価を取り続けた。周囲からは出来れば味方に欲しいが無理にとは言わない、という印象を持って欲しかったからだ。そして性格も天然で昼行灯を気取って警戒心を解かせ、心の隙間をついては誑し込み、各人とその家が持つ情報を抜けるだけ抜いた。
その他に熱心にやったのは化粧、音楽といった趣味の分野の流行を調べては身に付け、鍛冶や冶金という専門色の強い技術を見て回った事か。こればかりは知識だけ持っていても仕方のないものだから、積極的に学んでいく必要があった。
そうそう。貴方はその時の私を知らないだろうけど、私はその時から貴方の事を注目していたよ。
ああ、絶対にこの人は最後まで立っている人だってね。
ふふ、少し怖い顔になってる。けど貴方も言っていたし、私も言ったよね。
私は計算高くて自己中心なの。皆が思っている以上にね。
そんな訳で、私塾に通った三年間に得たものは公孫賛という友、盧植先生の私塾に通ったという経歴、各地方と中央の情報、体験して深みをました知識群。
成長した物は元々鋭かった五感への確信と清濁併せのむ器。
人の表情、視線、言葉の選び方、抑揚、汗、匂い、仕草、癖、体温等を読んで人の嘘や悦に入る部分を探ってはこっそりと真実を知る。
私塾の外に出て、私塾の子に宮廷の中に秘密で入れてもらって、漢という国と人がどれだけ荒んでいるのかを知った。そこでのやり口と結末の悪辣さ、非道ぶりは筆舌に尽くし難く、それに対処するには同じ道を知らねばならず、また同等の行為を持って報いさせなければいけないと理解した。
特に感動も感慨もなかった卒業式後、私は野に下った。公孫賛から誘われていたけど、自分にはやるべき事があると言って断った。
戦乱の世が来るのは理解していたから、私がまずやる事は戦闘の経験を積む事、指揮官の経験を積む事だ。次点で民衆の慰撫と統率に関して経験を積む事、その次に仲間を探す事。
大徳と言われる私にしては意外な選択って顔だね。
私がまず戦闘に重きを置こうと思ったのにはちゃんと理由があるんだ。まあ単純な理由なんだけど、私の人心を繰る術は先生も太鼓判を押す程の得意分野だったからだよ。若い内に苦手を潰す方が良いだろうって考えたからこそ戦闘を第一に置いた。
そういう訳で野に下って幾つか賊を潰して経験と評価を得、縁と風聞でもって公孫家に客将として迎えられようっていうのが私塾卒業後二年以内の目標だった。
目標が決まっていたので即行動! と行きたかったけれど、まずはちゃんと私塾を出た事と夢を見つけた報告をする為に桃花村に帰る事にした。
そしてその道中で運命の出会いが私を待ち受けていた。
運命。
そう、今になって思い返してみてもね、まるで決められていたかのような出会いだったと思うよ。
桃花村に帰る道半ばのそこそこ大きな都市にて、私は二人組の少女に出会った。
少女達は商人に護衛の依頼はいらないかと声を掛けていた。しかしその見た目から完全に侮られている様子で、素気無く断られ続けていた。見目こそ麗しいが、一人は十代半ば、もう一人は十前後とあまりに幼い。これが扇子片手の春売りであれば引っ切り無しだったろうが、武器片手の護衛希望とあればそりゃ断られるって話だ。
だが私の目には彼女達が宝石に見えた。
あどけなさを残す少女達だったが、その使い込まれた武器と桁違いの気は既に磨かれた宝石のように私の目には映ったのだ。
私は迷いなく少女達に話しかけた。
「こんにちは。護衛希望らしいけど、私の護衛をしてくれないかな。商人達に比べれば依頼料は低くなっちゃうけど、どうだろ?」
商人達に搦め手無しで売り込みに行っていた様子から、この子達が真っ直ぐでそういった物が苦手なのだろうとあたりをつけ、虚飾無しで頼み込んだ。
「ふわー綺麗なお姉さんなのだー」
「た、確かにこれはすごいな鈴々……と、すまない、少し見惚れてしまった」
「あはは、お世辞でも褒められて喜ばない子っていないし、全然構わないよ。それでどうかな、日程的には半月前後、途中まで商人さんの馬車に乗せてもらって、後の七日間ぐらいは歩きになるかな。ここらへんの護衛料の相場はこれぐらいだから……こんな感じでどう?」
「ふむ、相場的にも妥当な依頼料だとは思うが……良いのか? 自分達で言うのもなんだが、こんななりだ、もっと低くても否とは言えん。そもそも一人に対して護衛が二人という状況は宜しくないだろう」
「それを自分から言っちゃうんだね。損な性格だと思うけど、私は好きだよ」
そう言って微笑む。好意を前面に押し出されると弱い人だとすぐに分かったので、実際に試してみる。
隣にいた子がじっとこっちを見てきた、それで勘の鋭い子だと予想を立てる。だが好意は本物なので笑顔は続行しながら交渉する。
「もし貴方達が私を騙そうと、それは私の見る目が無かったという事。命があるなら今後の勉強とするだけだよ」
これは本心から言っている。私の五感は宮廷で働く百戦錬磨の役人にすら通じると既に実証済みだけども。
それと私は殺気も闘気も誤魔化しているし、実力を隠せているだろう。だから万が一この子達が襲ってこようと、隙をつければどうにかなるだろうという楽観的な余裕もある。
「愛紗、大丈夫なのだ」
「うむ、鈴々も感じたか。当然ともいえる忠告に予想以上の答えを返してくれ、しかもそこには余裕すら感じる。これは素晴らしき出会いかも知れん」
「あはは、なんだかすごい過大評価を受けちゃってる」
「貴方からの依頼、受けさせてもらいたい。しっかりと目的地まで送り届けよう」
「そっか、ありがとう。私は劉備、道中よろしくね」
「私は関羽、こいつの腕前には自信がある」
「りんり、えっと違くて、張飛なのだ!」
「関羽さんに張飛ちゃんね、宜しく。それじゃあ商人の人に連れが増えたって言いに行くね」
「急な増員だが、大丈夫だろうか」
「大丈夫大丈夫、もし駄目だったら乗り合いの馬車か歩いて行くから。それじゃあ行ってくるね」
そうして私は私塾時代に縁を結んだ商人に頼みに行き、快諾をもらうのだった。
馬車が十台、専属の護衛を二十人雇っている結構な商隊だ。なので人が二人増えたぐらいは誤差だと言ってくれた。
荷物の積み下ろしを手伝い、私達三人は荷車部分に乗り込む。
道中は関羽と張飛と適当な話をして時間を潰す。
天気の話、何処から来たのか、好きなもの嫌いなもの、最近の事、そんな当たり障りのない会話。
まあ出会って一日も経っていないのに深くまで立ち入れないし、心地よい距離を探す為の会話だ。
その時、うつらうつらとしていた張飛が勢い良く顔を上げた。
「嫌な予感がするのだ」
そう言って立ち上がり、武器を掴む。
「ほう、まさか初日で出るとはな」
彼女達の反応に戸惑うが、しかし私の耳に警笛が聞こえてきた。
それは事前に盗賊の襲来を告げる物として聞き及んでいたもの。
「都市を出てからまだ半日、普通の街道なのに……どれだけ世情が安定してないか分かる話だよね。というか張飛ちゃん、警笛が鳴る前に良く気付いたね」
「何となく分かるのだ、肌がぴりぴりしたり、嫌な匂いがする時は大体危ない何かが迫ってるのだ」
「そっか、すごく頼りになるや」
「えへへ、りんり、違くて、張飛はすごいのだ! それにしても劉備のお姉さんは偶然だとか、たまたまだとか言わないのか?」
「たまたまだろうとなんだろうと、言い当ててすぐさま準備を整えたんだから、褒めるべき所でしょ?」
そう言って張飛ちゃんの頭を撫でる。
きっとその見た目から侮られ続け、感情を爆発させようものなら大層恐れられたのだろうなぁ。
こんな才能の塊のような子、普通なら調子付いて傲慢になっていてもおかしくないのに、こちらの顔色を怯えたような目で伺うようにしている様を見るのは辛い。
「ありがとなのだ」
「こっちが褒めてるんだから、ありがとうはおかしいよ。それじゃあどうしよっか、私は一応商隊の護衛も任されてる身なんだよね」
「ならばその身を守るためにも、私達も戦おう。……というよりも、これこそ私達の目的の一つでもある。各地の盗賊なんかを退治していくのに、護衛というのはとても効率が良くてな」
「ああ、そういう事。二人は正義の味方だったんだね」
「そう言われるのはむず痒いな。目的の為の手段だから、誇れたものではない」
「謙遜だと思うけど……んーじゃあとりあえず三人で出ようか」
「私は構わないが、劉備殿は剣をどの程度使われるので?」
「鍛錬はしてたけど、私塾にいた時は滅多な事で抜けなかったからなぁ。まあでも大丈夫だよ、一応護衛が出来ると認められてここにいる訳だし」
「一応、か。ならばまず私達が前に出させてもらおう。劉備殿には下がっていてもらい、いざという時に職務を果たしてもらう形で」
「そうだね、経験豊富そうな二人にまずは先鋒を任せようか。それじゃあ気配が近付いてきてるから打って出よう、自慢の腕前を存分に披露して見せて」
「任されよ」
「任されたのだ!」
二人が荷台から飛び出し、そのまま気配のある方向へ凄まじい速さで走っていく。
「……まっすぐ行っちゃったけど、戦力分析とかしないのかな? まあ並の盗賊程度でどうにか出来る二人じゃないだろうけど、ちょっと心配だなぁ」
剣と弓を掴み、外へ出る。そして木箱が一際高く積まれた荷台を見つけ、するりと頂上に登って全体を俯瞰する。
商隊は交戦の構え。まあ今回はかなり大きな商談らしいから、ここで捨てたらどっちにしろ首を括らなければいけない。付き合いの長い護衛の人達もそれを知っているから、恐らくぎりぎりまでは粘ってくれるだろう。
「ふむ、これは最悪だね。後味が悪くなりそうな戦いになるなぁ」
敵は六十人もおり、しかも馬乗りがその半数はいる。
夜でもなく、森でも何でもない平原の街道で襲ってくる訳がわかった。
まあしかし、弓騎兵っぽいのはいないのが幸い。
「まあ殲滅は簡単だろうけどねー」
敵はそこそこ手慣れている感、統率出来ている感こそあるが、それでも長年護衛を生業にしているこっちの者より個々の熟練度は低いと推測。
つまりは馬さえなんとかすればどうにでもなる感じ。
とはいえ馬をどうにかするのがどれだけ難しいのかという話。古今東西、騎馬をどううまく使うか、または対処できるかが戦争を左右する。
「とはいえあの練度で三十だったら、私一人で正面から対処できるけど」
先生と過ごした半年で殲滅した盗賊団は二十を超える。
もっと大規模で練度の高い奴らも相手にしてきたから、戦力を測る眼も自身の力量の把握も土壇場での胆力も死線の上で鍛えてきた。だからこの程度の状況は平時と変わらず、何を見誤る事もない。
「けどあの二人の力量は知っておきたいよね、弓で適当に援護するかなー」
私は一人で考えをまとめる時、独り言が結構多い。並列思考の一環で、最初は口と目と脳を分離するとやりやすいよという先生からの助言が今も微妙に残っているのだ。
私は木箱の山から降り、弓士がいる馬車の荷台を改造した高台へ準備を整えながら向かう。
先に準備を完了していた弓士に挨拶をし、早速矢を弓弦につがえ、引き絞る。
騎馬兵と歩兵が戦うには統率の取れた精兵が対策を練った上で罠に掛けなければ撃退は難しい。
だがそれはあくまでも正規兵の話。
素人の運用ではそこそこの戦果しか挙げられない……いや、そこそこの戦果を挙げられてしまうと言った方が良いか。
馬の突撃というのは横一列で行うか、前後の間隔を開けるなどしなければ、
「どれだけ巻き込めるかな」
敵は速度を上げて近付いてくる賊にニヤリと笑いかける。
一団の一部が膝下まである石を避ける為に隊列を微妙に崩した所を狙い撃つ。
矢は予測通りの軌道を描き、賊は予想通りの速度と進路で進み、ぶつかった。