第1話「月人」
八雲紫が動き出してから2週間が経過した。その間、忘却の存在は彼女の動向を黙認していた。
しかし、黙認はすれど対策は怠らない。彼は月夜に満月が反射する小さな湖にじっと座って待っていた。
既に2週間。この幻想郷の至るところで虚実の境界が狂っている。一度彼岸との境界が薄れてしまったことにより、虚実の境界の狂いも著しく変化していた。
虚実の実よりに変化した幻想郷。即ち彼の及ぼしてきた力を弱めるというもの…彼はこの状態事態には特に何も思わない。彼が危険視していたこととは、ただ一つである。
湖が薄く光る姿に目を細め、自身の考えが正しかったと理解する。
ここは千年ほど前に八雲紫が月へ侵攻した際に使われた入り口である。彼女は当時も虚実の境界を弄り月へと到達した。つまり、虚実の境界が狂うと月への干渉が可能。逆に言えば月からの干渉が可能となってしまう。
また、忘却の妖怪は千年前、月の都周辺を結界で覆ったのだ。忘却の力を内包した結界。自身と同じように全ての影響を受け付けない結界。しかし、彼とは違い結界は虚実の変化に顕著に弱ってしまう。流石に大勢の月人が突破できるわけではないが……
「二人か」
月夜見の加護を一心に受けた実力者は突破できてしまう。
月夜見の怒りを買っていたのは知っていた。月夜見がいずれ復讐を企てることは予感していた。だからこそ、けじめは自分自身で着けなければならないと忘却の妖怪は感じていた。
立ち上がり目の前の存在へと視線を向ける。
月からの通路であろう穴から出てきた二人。片方は刀を携えた、片方は扇で口元を隠した女性だった。
「貴様があの時の者か」
「あの時と言われてもわからないが、貴様らが言うあの時というのが千年ほど前の事ならばご名答と答えよう」
「あら、私達が来るのを予見していたのかしら?」
「どうでもいいだろ、そんなこと」
威圧的に二人へと歩み寄る。その異様な空気に月人達は呑まれそうになる所をあと一歩の所で踏みとどまった。
「私は依姫、綿月依姫だ」
「私の名前は綿月豊姫。以後お見知り置きを」
「貴様らの名に興味はないよ。名乗りを期待しているみたいだが、生憎と儂には名が無くてな」
「そう、なら仕方あるまい」
依姫が腰を落とし刀を水平に構えて忘却の存在の一挙一動を観察する。
隣に立つ豊姫はパチンと音を立て扇を閉じ、冷ややかな視線を忘却の存在へと送っていた。
「参る!!」
一足。それで湖の半周という距離を詰めた依姫は薙ぐように刀を振るう。
それをひらりと躱され、すぐに刀を返し、斬りつける。しかし、忘却の存在が腕をあげるとガギン!という音を立て刀が止まった。
まるで鋼鉄よりも固い何かを切りつけたような手のしびれに依姫は舌打ちをし、一歩で豊姫の隣へと戻った。
忘却の存在は未だにその真意を表に出すことはない。ただ、目の前の存在を眺めているだけ……
「次はこっち!」
豊姫が閉じた扇を前につき出すと湖の水が盛り上がり忘却の存在へと殺到する。
余りにも多くの質量は、忘却の存在の視界全てを埋め、押しつぶさんと襲いかかった。
しかし、無意味。忘却の存在は一歩も動かず、攻撃を受けたのだが、傷どころか、濡れた様子すら無かった。
「はぁぁぁ!!!」
後ろに回り込んだ依姫が斬りつける。
わずかに光る身体に先程よりも鋭い剣筋。
そこらの妖怪であれば真っ二つにするであろう攻撃を、忘却の存在は見ることもなく指で挟むように受け止めた。
視線を依姫へと向ける。何故身体が光っているのかはわからないが、先程までよりも月夜見の加護の力が強まっていることに気付いた忘却の妖怪は指に力をこめ、依姫の持つ刀を砕いた。
「な!?」
呆気なく折れた刀に驚き、また、いくら力を入れても抜けなかった刀への抗力が消えたたことによりバランスを崩した依姫に忘却の存在はくるりと回転し打ち上げるように右拳を腹部へと叩きつけた。
くの字に折れ曲がる身体に少し血を吐く依姫。そのまま地面に倒れ込みそうになる所を更に追撃が行われる。
左拳による顎への打ち上げ。構造的に人間と変わらない月人である依姫はそれにより激しく頭を揺らされ、空中に浮きながらも何処が地面で何処が空なのかがわからない。
「依姫!!」
妹の危機に姉の豊姫は急いで大地を操り、忘却の存在へと攻撃を仕掛ける。
話には聞いていたが、この妖怪の実力を目のあたりにした豊姫は冷静な判断を取れず、ただただ本能のままに行動してしまった。
それが命取りだと気づかずに……
「注意が散漫だぞ」
「あ……」
気付いた時には遅かった。豊姫の周囲全てに霊力により作られた弾幕が展開され、隙間わずか数ミリ程の高密度な弾幕が一斉に豊姫へと襲いかかる。
すぐに水を操り打ち消そうとするが、意識を大地へと割いていたため、弾幕が到達するよりも早く水を自身の周りに浮かべることが出来なかった。
凄まじい霊力弾の弾幕によって撃ち落とされた豊姫に向かい、依姫を回転しながら蹴ることで飛ばす。
意識が途切れ途切れの二人がぶつかり合い、月への穴へと吸い込まれる。
それを見届けた忘却の妖怪は、虚実の境界が狂っている状態でも関係のないように、以前月の都を覆った結界よりも忘却の力を込め、穴を結界で覆った。
「………」
そして、一度月を見上げた後、森の中へとその姿を消していった。