真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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第27話:黄巾の乱終結。そして……

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 最大の勢力を誇った冀州黄巾党は、盧植将軍率いる官軍と互角の争いを続けていた。元々が堅実な戦法を好む盧植は大敗もしなければ大勝もしない。今回に限っては、それが吉となる結果となっている。各地の反乱を鎮めた官軍が次々と合流してきたからだ。特に豫州に派遣されていた朱儁と皇甫嵩の軍が冀州へと来たのは例えかなりの兵数を削られたとはいえ大きな戦力増強となっている。官軍の兵は既に十五万を超え、さらに膨れ上がっている最中でり、その中には当然李信軍も含まれていた。各地から義勇軍まで参加する一方―――冀州黄巾賊は逆に次々と人が減って行っていた。元々が純粋な信徒だけではなく、盗賊や野盗、略奪などの良い思いがしたいからといった邪な考えで参加した者達は形勢が不利だと感じれば即座に逃亡していったからだ。とはいっても元々の黄巾党の数は凄まじく、減ったといっても彼らもまた各地方より集ってきた敗残兵を吸収し官軍と同等の数を保っていた。もっともこれまで李信軍に叩きのめされた兵達も多く、そういった人間は勝ち目がないのでは、と薄々感じてはいたが、それでも残った彼らの目は穏やかですらあった。首魁となった張挙はそれに驚きと満足を覚え、信徒達の視線を浴びながら静かに頷いた。

 

 冀州黄巾賊と官軍が相見える平原にて、遂に両者が最後の決戦をするべく対峙する。

 官軍。中央―――盧植将軍兵八万。及び李信軍一万。劉備玄徳が義勇軍五百。左翼朱儁率いる兵四万。及び孫堅軍二千。右翼皇甫嵩率いる兵四万。及び曹操軍一千。

 黄巾賊。中央―――張挙率いる兵六万。左翼韓忠率いる兵四万。右翼孫夏率いる兵四万。

 

 後世に言い伝えられる黄巾の乱。それの最後が近づいていることをこの場にいる三十万近い人間は自ずと理解し始めた。冀州黄巾指導者張挙、今は張角と名乗っている彼は馬を軍の前へと走らせると、真っ直ぐと官軍を見据える。彼が放つ意気は、何も言葉を発していないにも関わらず官軍の兵士達の心を呑もうとしていた。かつては張純とともに十万の反乱兵を纏め上げた手腕。義兄の影に隠れていた張挙だったが、この度の黄巾党を指導した経験が、彼に従っている八万の信徒の想いが、彼を英傑級の高みへと昇らせていた。

 

「我こそが、大賢良師張角であるっ!!」

 

 一瞬、官軍の馬がのけぞった。悲鳴のようないななきがあがり、十数万の官軍を驚かせる気迫と気合。

 

「聞け、官軍ども!! 漢王朝が腐れ果てたのは一体誰の手によってか!! 国を腐敗させた者達の走狗となって我ら黄巾党と戦おうとする愚かさを知れ!!」

 

 ざわめく官軍。それほどまでに張挙の声は距離を越え、彼ら皆の耳に届いていたからだ。

 

「皇帝とは天の意志を代行する者である!! しかし見るがいい!! 皇帝の血族というだけで外戚が権力を持ち!! 後宮を取り仕切る宦官どもに特権が与えられた!! 皇帝にのみ与えられるそれを、天の意志を捻じ曲げ自らの欲とした奴らの専横実に許しがたし!!」

 

 呑まれる。呑み込む。官軍の一兵卒の心にまで訴えかける張挙の言葉は、悲哀と怒りに満ち溢れていた。

 

「政道の乱れは、天の意志の乱れである!! それは天の怒りとなって、病は蔓延し大地の実りを失わさせた!! 即ちこれは天が漢王朝を見放したことに他ならない!! これより我らは己の心胆をぶつけよう!! 世を変えるには血と屍を用いるしかない!! されどその先には必ずや黄天の世が待っていよう!!」

「蒼天すでに死す!! 黄天まさに立つべし!!」

 

 対して黄巾賊にはこれ以上内ほどの鼓舞となり、士気をあげていく。

 一方、盧植軍の片隅にいる劉備玄徳は、笑顔のままぽつりと呟いた。下らない(・・・・)、と。彼女の傍らに控えていた関羽もまた頷く。そして、関羽と真逆の位置にいたもう一人の少女も大きく頷いた。少女という言葉よりもなお体は小さく幼い。ただし自分の身長を超える巨大な蛇矛を片手に、どこか退屈そうな表情で張挙の宣誓を聴いている。

 

「言っていることは立派。でも……鈴々の心には響かないのだ」

「そうだな、翼徳。奴のあの言葉は本心であろう。だが、人とは天の意志でのみ人生を左右されるものではない。人は地に根を張って生きるものだ」

 

 蛇矛を持って吐き捨てるような発言をした少女の名は張飛翼徳―――真名は鈴々。劉備を長姉とし、次女の関羽、三女の張飛という義理の三姉妹のうちの一人。どこか悲しげに語る関羽に、張飛は真面目なのだ、と本心から呆れていた。

 

「よく吼える!! 暴徒を操り人々の生活を脅かすことに何の大義があるというのか!!」

「国を憂いている我らが心、何故分からぬ!!」

 

 言われっぱなしの官軍ではない。四大将のうちの一人、盧植が声を張り上げ張挙へと反論するも、それ以上の怒声が彼から帰ってきた。張挙の言に官軍が呑まれかけようとしたその時、二人の弁論を中断させる激音が響き渡ると同時に官軍、黄巾続ともに目を瞑らせる突風が巻き起こる。それは、李信が地面へと大矛を叩きつけた際に発生した音であり、衝撃の波でもあった。李信が大矛を天へとかざせば、配下の兵が鬨の咆哮をあげる。あまりの声量と熱に、呑まれていた官軍の兵全てが正気を取り戻し、釣られる様に叫び始めた。十数万にも及ぶ怒声は、離れた黄巾賊をも呑みこみ竦み上げさせる。

 

「お前が天意を語るかっ!! それを許されるのはお前が先程言ったように、皇帝(・・)だけだ!! それを騙りし罪は重いぞ、張角!!」

 

 李信の声が轟き、官軍の士気を最大限にまで高め上げた。全ての官軍が認める大将軍李信の大矛が天から振り下ろされ黄巾賊へと向けられると、同時に檄走を開始する。続くは、李信直属兵一万。

 

「全軍―――突撃!!」

 

 声にならない喊声を響かせて、残りの三将軍の軍勢もまた黄巾賊へ吶喊した。頭の冷静な部分では、三人が三人とも、大戦開始後の策も何もない突撃に止めるべきだと告げては来るものの、それを振り切る。少なくない戦場を経験してきた彼女達の身、ここが正念場だと直感が確かに告げていた。ここでひよる方が、逆に危険だと理解した彼女達も各々の敵へと指揮を飛ばす。

 

 この大戦における最初の交差は、言うまでもなく李信軍と張挙率いる中央黄巾賊であった。盾と槍を構え隙間なく陣形を形作っていたそこに、大矛の一振りで風穴をあけ侵入すると後は李信軍による破滅の進撃の良い的となる。飛将軍を先頭とした漢王朝最強の軍がまるで蟻を踏み潰すかのように行進する。左右を守るように、華雄と高順が。中央に胡軫が位置取り、細かく指令を出しながら、一つの巨大な生き物となって敵兵を食い荒らしていく。

 

 

「……なるほど。張曼成の情報通りだ。これでは策も何もあったものではない」

 

 中央の本陣へと引き返した張挙が、李信軍の突撃を見ながら呆れにも似た声を漏らした。義兄である張純を討たれた時から薄々わかっていたことだが、あれは人の枠組みを外れた怪物の集団。所詮は農民などで構成された黄巾党ではとめることなど不可能であろう。だが、事前に多くの情報を集めていたからこそ打てる策もある。今戦っている官軍でもっとも危険なのは間違いなく李信軍だ。まずはこれをなんとかしなければ戦にもならない。李信達が中央の軍勢の半ばまで突き進んだ時の事であった。韓忠と孫夏の指示により、左右両軍の二万がそれぞれ前方から侵攻してくる官軍へと突撃を敢行する。そして、残りの二万ずつが、中央へと突如として進路を変更し、さらにその二万の内の半分ずつが、中央から攻め込んできている盧植軍へと時間稼ぎの為に立ち塞がった。残された両翼合計二万の兵が、中央の軍へと合流し、李信軍が空けた穴を塞ぐばかりか背後から彼らへと襲い掛かったのである。如何に強力な李信軍の兵士といえど、完全な無防備状態となっている背後からの強襲は防ぎようもなく、この奇襲は子供と大人程の差がある力量を埋めるに至った。まずは李信軍の兵士を削ること。それを第一目標として張挙の策が唸りをあげる―――。

 

 が、その程度で戦乱多いあの時代を生き抜いてきた李信を凌駕することなどできようか。退路を塞いだ両翼の兵士達は、逆に自分達の後方から雷光のように攻め入ってきた騎馬隊に消し飛ばされたのだ。李信からの命により、ともに突撃をせずに盧植軍と同時に動き出していた呂布奉先率いる超精鋭が、中央の軍を抑えに出てきた両翼の兵士が合流するよりもはやく空白地帯となったど真ん中を突っ切って背後に攻勢を仕掛けてきたことに誰が気づけたであろうか。李信軍の背後から攻撃をする予定だった両翼の兵士達は一騎当千の騎馬隊により、圧倒的な蹂躙を受け混乱の極みに達した。呆然と、一瞬で自分の策が瓦解した光景を見ていた張挙を誰が責められというのか。

 

 これはもしもの話だが、張挙が両翼の将に、兵士達にこの策のことを伝えていなかったならば、如何に李信といえど絡め取られた可能性はあったかもしれない。そもそも李信とは理論的な計算で策を見破っているわけではないからだ。敵軍の配置、比重、兵士の表情視線、気配に士気。自分の経験に、直感。とにかく戦場におけるあらゆる要素を元に、戦況を敏感に感じ取る。例えそれがほんの僅かな策略の匂いでも、だ。理不尽の塊―――それが本能型の究極である李信という存在であった。故に、大多数の兵士に何も知らせずにもしも張挙の指示一つでこれだけの策が実行できたのならば、李信であっても反応はおくれたであろう。だが、そもそも司令官の期待に完璧に応えられる部隊があるだろうか。ましてや黄巾の者達はこれまで農民であったものが大多数。そんな行動を取れるはずもない。結局のところ、張挙には勝ち目など最初からなかったという答えに帰結する。

 

 狂信の叫びは絶え間なく聞こえはすれど、それをも突き破る純粋な力の突破。響くのは信徒の断末魔の声。中には得物を捨てて逃げるもの者もいる。だが、諦めずに干戈を敵にぶつけようとする勇者もいた。そんな狂乱渦巻く黄巾党を抜け、ほどなくして李信率いる軍団は本陣へと迫った。張挙にとっては長き戦いでもあり、短い戦いでもあった。全ては幻のように消え去っていく。彼にとっては、ある目的をもって起こした争いであったが、それの答えを問うものを自分の前へと導いてくれた天意に感謝の気持ちを送りたくもなった。

 

 血風のなか、張挙は一際強い馬蹄の音を聴く。彼の視線の先、そこには果たして乱世そのものを体現している怪物がいた。その怪物が放つ重圧はあまりにも重く深く、黒い色を為している。異様にして異常に濃い李信の気配は、人という存在を逸脱した正真正銘の悪鬼羅刹に見えた。

 

「李信―――!!」

 

 張挙は持っていた槍を握りなおすと、雄叫びを上げた。敗れて以来、義兄を討たれて以来、彼のことを考えない日はなかった。思わない日はなかった。ただ李信を討つためだけに擦り切れた心を磨き続けた張挙は、槍を構え最大にして最強の敵へと馬首を向ける。李信もまた張挙の姿を確認し、そちらに向けて愛馬を駆けさせた。

 

「李信よ!! 冥府への花道、お前の首を餞として貰って行くぞ!!」

「俺の首、そう易々と持っていけると思うなよ」

 

 両者の大矛と槍が激突し、凄まじい音が響き渡った。耳を劈く金属音に、戦場にいた兵士達が渋面を作る。一撃。たった一合の交差にて、張挙は己の愛槍から伝わってきた李信の力量に感動すら覚えた。これが義兄張純を討った男の力。全てを押し潰す将軍としての格。それに羨望すら覚える。なんと良き戦士か。そして、その若さや。未来を託すには十分な器。張純が撤退する寸前に語ったという、ある言葉。何故あと二十年早く現れてくれなかったのか。お前さえいればこの国を救えたかもしれないというのに―――今ならば義兄の気持ちもわかる。何故ならば、一合の手合わせで同様の想いを抱いたからだ。だが、引かない、退けない。黄巾党を率いた者としての責任が彼の双肩には乗っている。放たれる神速の三連突。突く速さ、引く早さ。どちらともが言葉通りの神速である。だが、それさえも李信にとっては児戯に過ぎず、大矛の強烈な振り下ろしが槍を弾き飛ばす。

 

「李信!! 李信将軍よ!! 見事、見事だ!! だが我ら黄巾を潰したところで如何する!! もはや漢王朝は風前の灯!! お前にこの国が救えるというのか!!」

 

 次の一合は防ぎきれない。そんな判断を下した張挙は、李信に向かって問いただした。この国を託すに値する男かどうか。それの答えを聞きたかった。

 

「馬鹿か、あんたは。俺が漢を救う? 出来るわけがないだろう」

 

 張挙の血を吐く想いを李信は、否定する。所詮この男は戦にしか興味がないのか。託すには値しない男なのか。そんな想いがくるくると張挙の胸中を支配した。

 

「俺一人でできるなら苦労はないだろうが、その為に今洛陽で皆が駆け回っている!!」

 

 お前達黄巾は否定しかしてこなかった。破壊しか行わなかった。否定も破壊もすればよい。だが、何故お前たちは築かなかったのか。創らなかったのか。十万、数十万も人の想いを受け継ぎながら、何故新しく何かを生み出そうとしなかったのか。国を壊したいと願った者は多くいた。だが、壊したくないと想った人間もまた数多くいる。国の為にと立ち上がった義勇兵のなんと多いことか。中には金の為にと来た者もいるだろうが、純粋な救国の為に立ち上がった勇者も大勢いたのだ。皮肉な話だ。壊したい者も守りたい者も漢と言う国の為に命を賭けて戦ったのだ。それは戦場だけにはとどまらない。この国を立て直そうと奔走している文官も数え切れない。この国はきっと皇帝劉弁と彼らの手によって、名前の残らない小さな英雄達によって立て直されるであろう。李信の熱い想いが戦場でなお溢れ、ぶわりっと張挙の身体を強かに打ち据えた。その強い念に、ああ……と短く嘆息をするのは張挙その人。

 

「……兄者、申し訳ありません」

 

 やはり間違っていたのは我らの方であった。長い間漢王朝の腐敗を見届けていたが故に目が曇っていたようだ。今を正しく見れていなかったのは、自分たちのほうであった。後の世で、きっと我らは非道の者として名を残すであろう。だが、それもまたよし。

 

「李信よ!! 天下無双の飛将軍よ!! お前に、お前達に漢王朝の行く末を託すぞ!!」

 

 張挙は笑った。義兄が死んでから決して浮かべることのなかった心からの笑みを咲かせ、李信へと最後の攻勢を仕掛けた。誇らしさが胸をよぎる。ともに中華を駆け巡った三兄弟。そして、自分についてきてくれた多くの民。長き人生の最後でようやく張挙は救いを得たように感じた。己を討つ者、それが義兄と同じ男であることに、奇妙な縁と満足感を胸に抱き―――冀州黄巾指導者張角、李信将軍の手によって討ち取られる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 黄巾賊の反乱を遂に抑えた官軍は、当日の夜勝利の酒宴を行っていた。それぞれの陣では篝火が焚かれ、ようやく終わった長い戦の日々からの解放で皆が破目をはずして大騒ぎをしている。ひたすらに食べる者もいれば、酒を飲む者もいる。疲れて身体を横にしている者もいれば、踊っている者もいる。そんな中、戦が終われば官軍では最弱の勢力にすぎない義勇軍を率いる劉備は自分の小さな陣幕にて一人の少女と向かい合っていた。

 

「どうして……なんでそんなことを言うの、雛里ちゃん!?」

 

 いや、劉備と少女―――龐統士元だけではない。劉備の左右には関羽と張飛が控え、平伏している龐統へと涙ながらに訴えかける諸葛亮孔明もいた。悲哀に満ちた声をかけられながら、龐統の気配は微塵も揺らぐことはない。何故ならば既に彼女は覚悟を決めていたからだ。だが、騒いでいるのは孔明だけで、劉備たち三姉妹は慌てる素振りは一切見せていない。あの龐統士元が辞する(・・・)というのに(・・・・・)。ニコニコと相変わらずの笑顔を見せている劉備へと、孔明が食って掛かる。

 

「桃香様!! 何故、引き止めて下さらないのですか!!」

「うーん……何時かこうなることはわかっていたから、かな?」

 

 劉備の台詞に、驚かされたのは孔明だ。一体この主君は何を言っているのか。それにピクリっと肩を振るわせたのは龐統である。ほぼ完璧な臣下を演じてきた自信はあるが、見破られていた事実に内心で感嘆の声を漏らす。平伏していた顔をあげ、関羽と張飛を見るも二人ともが劉備と同じく驚いている様子は見られない。関羽は恐らく主である劉備が動じていない故に、感情を見せていないのだろう。一方の張飛は野生の勘とでもいうべきモノで薄々はこうなることを悟っていた。自分や関羽、孔明のように劉備に命を賭して仕えようと言う熱量を感じていなかったからだ。

 

「うん、いいよ。それで、士元ちゃんはこれからどうするか決めているのかな?」

「それは……」

 

 あっさりと龐統の辞意を認めた劉備が、次なる主は決まっているのかと問い掛ける。それに一瞬言いよどむ龐統士元だったが、それを見た劉備の口元が緩む。そして、笑みはそのまま小さく呟いた。当ててあげようか、と。

 

李信将軍(・・・・)のところにいくのかな?」

「―――っ!?」

 

 驚愕。ただそれだけだ。内心の驚きを全て前面にだして、まじまじと劉備を見つめる龐統に、嬌笑を浮かべる今先程までの主は平然としていた。

 

「何故、わかったのですか?」

「やっぱり正解? ふふ、実は勘だよ」

 

 笑顔の劉備は、万人を惹き付け引き寄せる。まるで夜に燃える大炎が如く。

 

「……勘? そんなあやふやなもので……?」

「うん。でも限りなく確信に近い勘。だって、最初に会ったときから匂ったもの」

「に、匂う?」

 

 反射的に龐統は自分の服を鼻に寄せ、クンっと一度嗅ぐものの、生憎と特殊な匂いなど一切しない。

 

「ああ、ごめんね。違う違う。士元ちゃんの匂いじゃないよ。李信将軍(・・・・)の匂い(・・・)がしただけ」

 

 それこそ、何を言っている、である。理解不能の答えを発する劉備に、疑問を浮かべるのは孔明だ。龐統の過去については聞いたことがあり、李信に命を救われたということも知っている。だが、それは数年以上も前の話。それ以来会っていないというのに、李信の匂いも何もあったものではないはずだ。

 

「……玄徳様は、李信将軍にお会いしたことが?」

 

 龐統の疑念に、初めて劉備は表情を歪めた。常に笑顔を振りまいている彼女にしては実に珍しい。いや、両軍師が仕えてから彼女の笑顔が崩れたのは初めてのことだ。

 

「うん、あるよ。二年以上前に起きた張純の乱。そこで私は李信将軍に出会った」

 

 何も知らなかった自分。何も知ろうとしなかった自分。戦争を否定した自分。力を拒絶していた自分。人殺しと忌み嫌った自分。物事を一つの角度でしか見れかった自分。

 

「昔の私を、粉々に砕いた人。ぐちゃぐちゃに汚した人」

 

 とても忌々しくて、大嫌いで、憎い人。恨み、憎しみ、嫉妬、恐怖、不満、無念に、嫌悪。軽蔑し、罪悪を持ち、劣等感を抱き、怨恨、苦悩。あらゆる負の感情を李信に向けている。この世界で間違いなく、劉備がもっとも相容れない唯一の男。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 でも――愛おしい人。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 世界で一番憎く想いながらも、尊敬し、憧憬し、感謝を抱いている。劉備の道を指し示した李信に相反する正と負の気持ちが心を二つに割っていた。散っていく仲間の想いを、希望を、無念を、願いを、ひたすらに拾い集めて双肩に乗せ、磨耗し砕け落ちる自らの心をかき集めて貼り付ける。人として耐えられない行為に身を置き続けられるのも、きっと李信との対話があったからだ。心の奥底で、それが劉備の心を守護する最後の拠り所として残っていた。

 

「士元ちゃん……李信将軍に、宜しくね」

 

 龐統へと近づき耳元で囁く劉備の言葉は、脳髄をとろかすほどに甘く恐ろしい。辛うじて頷いた龐統は、この場から脱兎の勢いで逃げ出した。引き止める孔明の声など耳に届かず、ただひたすらに李信がいる方角へと駆け逃げる。背後を振り返れば、劉備の手が自分の首にかかっているのではと幻想させるほどの恐怖が背に張り付いていた。

 

「李、信様!! あの人は、劉玄徳は―――間違いなく貴方様の怨敵となる人です!!」

 

 彼女の危険性を、恐ろしさに気づいている者は果たして何人いるのだろうか。自分がそれを李信へと伝えなければならない。危険だ。彼女は純粋に危険な存在だ。放置しておけば必ずや李信にとっての最悪となるであろう。劉備へ対する恐怖を胸に抱き、龐統はひたすらに夜の闇のなかを足をもつれさせながら駆けて行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 洛陽へと凱旋した討伐軍は、民からの凄まじい歓声にて迎えられた。この洛陽において、民の生活は向上し日々の暮らしが以前に比べて遥かに向上している。この度の官軍は、誰もが英雄として褒め称えられる歓迎振りであった。皇甫嵩、朱儁、盧植などの名が呼ばれる中、やはりもっとも民からの声があがったのが李信であった。

 

「李将軍!! 李将軍!!」「李信将軍!! 大将軍李信様ぁぁあああ!!」「李信様!! 御帰還御喜び申し上げますぅぅ!!」「飛将軍!! 天下無双ぉぉぉぉぉおお!!」「万夫不当の李信将軍!!」

 

 凄まじい人気だな。思わず漏らした華雄は、津波が如く押し寄せる歓喜の声に耳を反射的に押さえていた。近くにいる相手にも届かないほどに熱を上げている洛陽の百万の民。無論その全てがここに集まっているわけではないだろうが、それに近い膨大な人数が凱旋してきた彼らを迎え入れていた。もっとも、李信のみならず、呂布や華雄、高順なども名将として名高く、彼女達の名もおおいに叫ばれている。そういった熱烈な声を受けながら、李信達は洛陽の城へとゆっくりと歩を進め、門を潜り抜けた途端、変わる雰囲気。

 

 そこを起点として突如、神聖な空気が周囲全てを満たし始める。これはなんだ、と息を呑む全ての官軍。珍しくも驚いた表情の李信の視線の先に―――皇女劉弁が馬上にてゆっくりと此方へと歩み寄ってくる姿があった。あの彼女が宮中からでることはとても珍しいことだが、歩くたびに散じる尋常ではない気配に誰もが息を呑み見惚れてしまった。此度の黄巾党との戦では多くの英傑が活躍したが、これほどまでに突き抜けた存在には誰もがお目にかかってはいなかったからだ。

 

「帰ったか、信。お前の無事、万感の思いである」

「有り難きお言葉。感謝致します、弁殿下」

 

 跪き、頭をたれる李信の語る弁殿下。それの意味を悟った周囲の全ての官軍兵士が李信を倣って膝をつく。それは無理の無い話だ。宮中に篭っている彼女の姿を知ることが出来る者などそうはいない。次代の皇帝の姿に、皆が皆期待に心身を震わせる。たった一目で理解出来る存在としての格の違い。彼女ならば漢という国を良き方向へと立て直せるのではないか、と漠然とした予感を抱くことが出来たからだ。流石の李信も人目がこれだけある場所で普段通りの対応をするのはまずいと考えたのか随分と丁寧なそれに、劉弁はたまにはこういう李信も可愛いなと苦笑を漏らす。しかし、と跪きながら李信は疑問を覚えた。何故彼女がこんな場所に出てきているのか。単純に自分を迎える為に来たのかとも思ったが、次の瞬間にはその疑問は氷解することとなった。

 

「信よ。此度は大義であった。北方での功績も踏まえたうえで、特別にお前に褒賞を取らす」

 

 ざわりっと揺れる官軍兵士であったが、それに気がつかないほどに李信はある方向に視線が釘付けとなっていた。劉弁の後方から三人(・・)がかり(・・・)である巨大な矛を運んできている。それに、その矛を見て李信の心がざわめいた。

 

「お気をつけください、将軍。我ら三人で持ち上げるのが精一杯なのですから」

 

 運んできた兵士の言葉も耳に入らない李信は、目の前まで運ばれたその矛を手にとると―――片手で持ち上げ空に向かって一閃。ぶわりっと空気を引き裂く衝撃波が巻き起こる。ただの偶然ではあろうが、蒼天に浮かんでいた雲が真っ二つに両断されて彼方へと流されていく。それを愕然と見ている兵士達は、ただただ圧巻。兵士達が運んできたときとは異なり、まるで意志を持っているかのようにその大矛が煌き、発光を繰り返している。

 

「はははっ……よく見つけたな、煌」

「苦労はしたがな。王允が先祖代々受け継いでいたらしいぞ。実際に血の繋がりがあるかわからんがな」

「あのおっさんのところに? 今度あったら感謝しとくか」

「ああ。そうしてくれ。しかし、やはりお前にはそれが良く似合う」

 

 王騎将軍(・・・・)の大矛。二人だけにしかわからない。二人だけにしか理解できない。二人だけが知っていればよい思い出。目を細め懐かしむ劉弁に、手に持った矛を肩に乗せ、口角を吊り上げた李信が珍しくも笑い声をあげた。その声は遥かな蒼天の彼方にまで響き渡ったという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 巨大な、底深い穴だらけの荒野。異民族が住まう漢の北方にあるとは思えない異界を思わせる平原。その穴の淵には数千の人々がいた。カタカタと皆が恐怖で震え、中には小便を漏らしている者達もいる。老若男女問わず、縄で縛られた彼ら彼女らは恐怖で悲鳴をそれぞれがあげている。中には必死になって命乞いをする者も多く、小さな子供達すらも助けを呼んでいた。穴の淵に立たされている彼らの眼前の丘には一人の少女がいる。楽しげに、鼻歌まで歌って、恐怖で引き攣っている人々を見下ろしていた。

 

 その姿や、こんな状態ですら気を抜けば見とれてしまう傾国の美少女。髪は烏の濡れ羽色。肩まで伸びた艶やかな長い髪は一本一本が絹糸が如く細やか繊細。闇と比べても女性の髪色はなお深い、それは奈落を連想させる。芙蓉の顔、柳の眉。黒曜石のような煌きを灯す眼が、悲嘆にくれる人々を睥睨していた。無垢なる雪原に等しい白い肌。少年少女から年寄りまであらゆる人を魅了し恐怖させる十四か五の歳を迎えたか青い果実は、楚々としながらも魔性を匂わせる矛盾を孕んだ相反する美。

 

「お、おのれぇぇえ!! 檀石槐(・・・)!! これが降伏した人間に対する仕打ちかぁ!! この非道必ずや貴様は歴史に悪名を残すぞ!!」

 

 少女へ対する畏れを振り切り、縄で縛られた老人が一人怒りの声を上げる。それを皮切りに、数千の人々が丘の上で此方を見下ろしている少女へと怒号を浴びせていった。

 

「その通りだ!! まともじゃねぇ!! こんなこと、天が絶対にゆるさんぞぉ!!」

「呪ってやる!! 絶対に呪ってやる!! 例え死んだとしてもお前を絶対に呪ってやる!!」

「絶対に許さんぞ!! 檀石槐!! 我らが怒りは貴様の生を決して許さぬ!!」

「御慈悲をぉぉ!! せ、せめて子供達だけでも!!」

「助け、助けて下され!! お願いだぁ!! 頼みます!! 檀石槐様ぁ!!」

 

 喧々囂々。怒り、憎しみ、恨み、あらゆる負の感情が乱れ飛ぶそこで、数千の民の想いを一身に受けている少女―――檀石槐は笑みを零した。天女もかくやと、今の今まで絶叫していた人々がピタリっと騒ぐのを止めるほどの万人を魅了する微笑。

 

やりなさい(・・・・・)

 

 檀石槐の合図とともに、縄を持っていた彼女の配下達が縛られていた人々を容赦なく、躊躇いなく穴へと突き落とした。次々と、穴の底へと落とされ詰み上がって行く肉の山。衝撃に痛みの声をあげる彼らへと、穴の上から兵士達が土をかぶせていく。

 

「や、やめろぉぉぉおお!!」

「やめてくれぇ!! たのむぅ!! たすけてぇええ!!」

「いやだぁああああああ!! こんなの嫌だぁああああ!!」

 

 泣き喚き、助けを呼ぶ彼らの悲鳴は悲哀に満ちていた。だが、恐ろしいことに土をかぶせていく兵士達はそれに一切心を揺さぶられた様子もなく、淡々と事務的に己の仕事をこなしていた。これほどの非道、眉一つ動かさずにこなす彼らはまさに氷の兵士。血が通っていないと言われても納得がいってしまう異質異端な怪物達であった。

 

 そんな地獄に勝るとも劣らずの最悪を、機嫌よさげに見ている檀石槐の背後にて、数千にも及ぶ騎馬兵が控えていたが、その中の一人。檀石槐に年近い一人の少年が眉を顰めていた。これほどの暴虐非道、果たして許していいものだろうか。心が悲鳴をあげている。いくら檀石槐に従わなかったとはいえ同じ鮮卑族。このまま見捨てて自分はこれからの人生を誇って生きていけるのか。

 

「……あ、兄上。せめて子供だけでも救ってやることはできないものか」

 

 傍にいた騎馬隊の隊長である兄へと、子供の延命を口にだした瞬間の出来事であった。首が飛んだ(・・・・・)―――せめて子供だけでもと口にだした弟の首を斬ったのは実の兄である男であった。首を斬られた少年はしばらく馬上にとどまっていたが、やがて地面へと音を立てて崩れ落ちた。パシャンっと自身が生み出した血の海へと沈み込んだ異様な光景。それを見ていながら、騎馬隊の兵士達の心の水面は凪一つ浮かぶこともなく、誰一人として動揺したものはいなかった。騎馬隊の隊長である兄は、馬から降りると檀石槐のもとへと歩いて行き跪くと自身の頭を彼女へと差し出す。

 

「御前を騒がした罪。この首をもって償いとさせて頂きます」

 

 首を刎ねられたとしても後悔はなく、それさえ忠義である。無言でそれを指し示す彼に、檀石槐は一瞥することもなく、眼下で行われている無慈悲の光景を見下ろしたままだ。

 

「お前の首なんていらないから。死ぬのなら戦って敵を殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺しつくして―――死になさい」

「……はっ」

 

 完全な忠誠を向けられてなお一切の興味を持たない檀石槐は、やがて目の前の光景にも飽きてしまったのか、嘆息を漏らしつつ蒼天を見上げた。

 

「……思ったよりつまらなかったかなぁ。やっぱり白起(・・)を見習って四十万くらい生き埋めにしないと駄目だったかも」

 

 失敗失敗とぼやく檀石槐は埋もれてゆく眼下の惨劇に背を向けて、地に置いてあった自分の相棒である巨大な矛を片手で器用に回しながら騎馬隊の下まで戻っていく途中、騎馬隊の内より精悍な中年の男が割って出てくると檀石槐と相対する。

 

「まったく。貴様は我が娘とは思えぬな。だが、それもまたよし」

「ああ。父上ですか。何か用でも?」

「娘の雄姿を見物にきたのよ。いやはや、如何に降伏を受け入れなかったとはいえここまでのことをしでかすとはな」

「出来ればもう少し生き残ってくれたら面白かったんですけどね」

 

 戦場にて戦った男たちは皆殺しにしてしまいましたから。平然と言い切る檀石槐に、筋骨隆々な並々ならぬ武人―――男の名は投鹿候。檀石槐の父であり、勇名を馳せている鮮卑族の勇者でもある彼は大声で笑った。先程言葉にした通り、我が娘ながら自分の想像を絶する怪物ぶりに感心させられる一方だ。あまりにも愉快だったためだろうか。投鹿候の心に僅かな綻びが出来てしまったことに当の本人が気づくことはなかった。

 

「恐ろしい奴よな―――()よ」

 

 ギシリっと空気が軋んだ。その場に居合わせた全ての騎馬隊の兵士が初めて揺らいだ。彼ら彼女らの視線の先、交わるそこで檀石槐が物言わぬ咆哮を全身から発している。先程埋め殺した数千の呪いの言葉など足元にも及ばぬ怨嗟が質量を帯び、視界に映る全ての世界を軋ませ、軋む空気は暗い色を帯びこの場にいる全ての人間の視界に薄い暗幕を垂らすに至った。投鹿候は自分が口に出したそれに、しまったと思う間もなく稲光が迸り、携えていた大矛がまるで暗雲を切り裂くかのように空間を渡る。投鹿候が何かを言う間もなく、その大矛が彼の頭から股下までを一刀両断に断ち切った。まるで何かの劇を見ているのではと勘違いするほどに滑稽に、あっけなく投鹿候だった二つに断たれた肉体が左右にごろんっと転がり、血の池が出来上がったそこに冷たい視線を向ける檀石槐―――真名は()。実の父を斬り捨てて置きながら、後悔を一切見せない彼女は、もはや物言わぬ躯となった父を鼻で笑う。

 

「駄目ですよ、父上。真名を相手の許可なしに呼んでは。殺されても文句は言えないんですよね」

 

 くすくす、と頭がおかしくなる笑みを零す檀石槐のそれは、冥府より聞こえる餓鬼の合唱にも似た恐ろしさを感じさせる。父殺しの光景を目の当たりにしながら、それでも鮮卑の兵たちの忠誠に一切の変化は見られなかった。完全に逸脱したこの少女と敵対したくない。この少女ならば自分達をかつてない世界に連れて行ってくれる。そんな相反する想いを胸に抱き、彼らは檀石槐のための尖兵としてここにあるのだ。

 

 そんな配下の忠誠願望を一切合財気にも留めず、檀石槐は蒼天を仰ぐ。それだけで空にあった雲が彼女を怖れたかのように散っていく。彼女から漏れ出でるのは、李信にも匹敵する破滅的で壊滅的でどうしようもないほどに外れに外れた悪夢の圧力。

 

「ああ、信兄様(・・・)。愛しい愛しい私の(・・)麗の(・・)信兄様(・・・)。貴方の活躍、この地にまで聞き及んでおります」

 

 遥か南へと視線を向けて、奈落の底にて佇む彼女はただ笑う。

 

「ああ。ああ。ああ―――おいたわしや、信兄様。今世でも国に縛られているんですね。愛しい私に会いに来れないなんて辛いですよね。苦しいですよね」

 

 あははは、と狂ったように檀石槐は笑う。前世にて始皇帝の娘として生を受け、李信に命を救われて以来、彼に憧れた。彼に恋焦がれた。彼に愛情を抱いた。それが報われることはなかったが、別に構わない。李信を(・・・)愛して(・・・)いる(・・)―――それが彼女の絶対にして揺らぐことのない唯一の柱。

 

「待っていてください、信兄様。貴方の麗が、遠くない未来に貴方に会いに行きます。貴方の愛する私が、麗が馳せ参じましょう。漢という国を滅ぼせる力を引き連れて」

 

 彼女の下に集った異民族は無論ここにいる数千の騎馬兵だけではない。既に鮮卑族のみならず匈奴と羯のほぼ全てを支配下に置いている。僅か数年も経たずして鮮卑の領土をかつての匈奴に匹敵するほどの版図を手中におさめていた。だが、実際のところ麗としては、漢と戦い勝っても負けてもどちらでもよいのだ。勝てば信とともに新たな国を創り暮らせばよい。その時は後秦とでも名づけるべきか。いや、あの始皇帝を思い起こさせる名は止めるべきだ。国の名前はその時に決めればよい。負けたとしても、自分がそこらの有象無象に負けるわけもない。ならば自分を殺すのはきっと李信になるであろう。

 

「ああ……なんて甘美な!!」

 

 李信に殺されると考えただけで天にも上る絶頂が背筋を駆け上っていく。李信を説き伏せ、叩き伏せる。それが彼を手に入れる試練となるに違いない。相死相愛―――愛しているが故に、きっと信兄様は私を試す。本当に自分を手に入れるに相応しい力を持っているのか、と。

 

 麗のそれはどこまでも都合が良い自分勝手な狂った想い。だが、それ故に強い。止められない。幾ら拒絶されようが彼女には届かない。ある意味李信達と同等の、決して朽ちず曲がらず折れずの不撓不屈にして不撓不滅の狂気を撒き散らす。

 

 

「兄様、兄様、兄様……信兄様!! この麗が、信兄様を縛り付ける全てを滅ぼしますね!! 焼き尽くしましょう!! 森羅万象あまねく全てを―――灰燼と帰してみせます!!」

 

 

 人として極限にまで振り切った怪物が、始皇帝の全ての才覚を受け継いで、大将軍李信の全ての武を受け継いだ極点に達した人修羅が―――漢に知られぬまま極大化し始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……ちっ」

 

 狂気に染まった天真爛漫な笑顔を浮かべていた麗が、突然に能面のような無表情となり舌打ちをする。忌々しい、倶に天を頂かない宿怨の敵ともいえる相手が、天地を揺らす激震を起こして到来を告げてきた。それは大地の怒りにも似た大震で、数千の人を生き埋めにしながらも眉一つ動かさなかった檀石槐の騎馬兵すらも緊張させる絶望の訪れでもある。草原の彼方より此方に来るは北方を領地とする騎馬民族の集団。それは檀石槐と変わらない。ただそれを従える人間は()だということだ。轟々と、対するものは全てを燃やすと言わんばかりの煉獄の炎めいた強大な気配を滲ませた一万の騎馬兵。檀石槐が配下の氷の兵団とは正反対の、苛烈で激烈な騎馬兵が目と鼻の先で足をとめた。彼らの錬度たるや矛を交えないでも一目で敵対する者達に絶望を理解させる領域である。単純な話、この一万の騎馬兵は、中華最強の李信軍にも匹敵……或いは凌駕している戦闘集団であった。その先頭にいた巨大な矛を携えた大男がゆっくりと馬を檀石槐へと向ける。長い髪を後ろに流し、太目の眉に、鋭い眼差し。厚い唇に顎から伸びるのは三本に纏められた長い髭。甲冑姿の大男は、先程まで檀石槐が行っていた非道を見ながら、コココココと笑った。

 

「ンフフフフ。全く、やんちゃな娘ですねェ。白起さんの真似ですか?」

「……」

 

 檀石槐が返すのは沈黙だ。ギラギラと、宿敵を見るかのような憎悪を込めて彼女は現れた大男を睨みつける。悪鬼も尻尾を巻いて逃げ出すそれを受けながら、されど対象となっている大男の表情一つ変える事はない。特に何もしていない大男から檀石槐が受けるのは、想像を絶する重圧だ。吐き気を催す程の最悪の気分。生存本能が絶えず全神経を絶叫させ肌が粟立ち、呼吸も侭ならない。彼女はこれを知っている。この状態がなんなのか気がついている。これは格の違いだ(・・・・・)今は(・・)覆しようのない彼方と此方の格差を骨の髄まで身にしみて理解しているが故の心身の乱れ。超大にして強大、そして絶大。余計なものを一切含めず、纏わず、ただ純粋なまでの王道の強さ。鬼神、武神、戦神、人修羅、人食い虎―――様々な人では無き呼び名をされる者はいれど、この大男の強さは言うなれば人類の頂点。荒れ狂う天災でありながら、波一つたたない静かな湖面。正反対の印象を見ている者に与えてくる絶対の最強。李信や呂布といった孤高の領域に顔色一つかえることなく平然と割って入ることができる選ばれた超越者。戦うな、逃げろ。どう足掻いても勝機は皆無。檀石槐の本能が下す判断は、この大男を嫌っている彼女でさえも正しいものだと理解している。天地がひっくり返っても今はまだ届かない力の差……それをねじ伏せてこの場に佇むだけでも一苦労なのだ。だが、それを表に出すことは決してしない。弱味など決して見せるものかと檀石槐は覚悟を持ってこの場に立つ。

 

「落ち着いてますねェ……昔の童信(・・)よりもずっと。ココココココ、素質はとんでもないモノがありますよ、麗さん(・・・)

「―――ッ!!」

 

 檀石槐の声なき咆哮。己の真名を呼んでいいのはこの世界でただ一人。それを呼んでいいのは信兄様だけだ。私を汚すな、私の名前を呼ぶんじゃない。踏み込み、大矛のすくいあげの一撃が、必殺の速度と軌跡を持って大男へと迫り行く。神速斬閃の大矛は、恐らくは中華の英傑であったとしても回避防御ができるのは一握り。李信や呂布級の怪物でなければこの一太刀で終わっていたであろう。

 

「とは言っても、やはり勢いが先行しているところは似てますねェ……」

 

 ピタリっと檀石槐の大矛が止まった。止められた。気がついたときには大男の大矛の刃が自分の首に突きつけられていたからだ。自分が死地に立たされていた事に気づいた彼女の行動は機敏であった。この場から飛び下がり、体勢低く如何なる相手の行動にも対応できるように意識を尖らせる檀石槐であったが、肝心の大男は何をすることもなく大矛を持ち上げそれで自身の肩をトントンと叩く。 

 

 かつての時代、李信が咸陽に生活していた頃に王宮を抜け出して彼の屋敷へと遊びに行ったことは数え切れない。その時に幾度もせがんで聞いた昔話。李信が誰よりも尊敬し、憧れた男。大将軍という意味を身を持って教えてくれた真なる天下の大将軍。李信が中華六将と謳われるようになってからも、戦えば負ける気はしないが勝てる気もしないと言わしめた怪物。彼の心の奥底にいつだって鎮座し、死ぬまで目標と定められたこの男―――だから(・・・)こそ(・・)憎い(・・)。李信に必要なのは自分だけだ。始皇帝も、この男も、他の女も、一切全てが不純物。彼の横に立つのは、心の中にいるのは、自分だけで十分だ。

 

「全く……あの王の子が随分と歪んでしまっていますねェ。いえ、中華を統一するという偉業を成し遂げた唯一の王。その娘ならばここまで外れる素質があるのもある意味当然というべきかもしれませんが」

 

 数千の人間が生き埋めになったそこを一瞥した大男は、馬首を返すと檀石槐に背を向ける。

 

「こんな遊びをしている暇はありませんよ、檀石槐さん。残っている民族は氐と羌。五つの民族を従えたその時、協力して漢へと攻め込むという同盟を忘れたわけではありませんよねェ?」

「……」

「ンフフフフ……協力はすれど目的は早い者勝ちですよ? 貴女が童信を欲するのと同様に……私がわざわざこんな真似をしているのも童信に答えを見せて貰いたいからですしねェ」

 

 光り輝く才能はもっていたが、まだまだ小さかったあの少年が。自分の死後、どのような道を辿り、如何なる艱難辛苦を乗り越え、天下の大将軍へと至ったのか。

 

「果て無き(おとこ)達の命をかけた戦い。ンフフフ……舞台は私が整えて差し上げましょう。ねェ、童信」

 

 興味は尽きませんねェ……大男はまるで怪鳥のような笑い声を残して配下の騎馬兵を引き連れて新たな戦場を求めて去っていった。残された麗は、握っていた大矛を更に強く握り締める。柄が拉げるほどに強く、血が滲み出るほどに凶悪に。これ以上ないほどの恥辱屈辱に身を震わせる彼女であったが、それがさらに彼女を強く、高みに昇らせることとなる。それはまるでかつての李信と大男の関係のようであった。抱く想いは、尊敬と憎悪という相反する感情なれど、どちらもがこの大男を目標として天を駆け上るという意味では似た者同士であったのかもしれない。ただでさえ怪物であった麗が、大男との共鳴効果によりさらなる怪物へと変貌を遂げる。ギリギリと姿が見えなくなった憎い同盟相手を脳裏に描きながら麗は凄絶な笑みを浮かべた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……王騎(・・)。忘れないでください。信兄様を手に入れるのは私です」

 

 

 始皇帝が娘にして檀石槐―――麗。天下の大将軍―――王騎。

 これは黄巾の乱が終結する二年も前の話。二人の怪物が五胡全てを従えて中華を侵略する日が訪れるのはもう間もなくであった。

 

 

 

 

 

 

 

   

 

 

 

 

 

 

 


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