真・恋姫†無双 飛信譚   作:しるうぃっしゅ

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蛇足之7:神箭手

 

「何故、何故我の従軍が許されんのだー!! あのような幼いあわわ軍師に我が役目を取られるとはなんたる不覚っ!!」 

「はいはい。そうじゃのー」

「黄巾の乱以後、我の帯同は減る一方!! それに対してあの娘ばかりともに行くことを許されているのは断じて許されることではない!!」

「はいはい。そうじゃのー」

「司馬徽!! あやつはお主の愛弟子であろう!? 何なのだ、あの化け物(・・・)は!!」

「はいはい。そうじゃのー」

 

 洛陽に存在する官僚育成機関の屋敷にて、泣き叫びながら自分の悲運を訴えるのは外見と実年齢が見事に合わない見た目詐欺師の韓遂であった。その訴えを適当に相槌を打ちながら聞き流しているのは見た目詐欺師二号の司馬徽徳操だ。

 

 彼女達がなにをしているかと言えば、自分の仕事を淡々と行っていた司馬徽の下へと韓遂がやってきたかと思えば大声をだしながら世の理不尽さを訴えてきているところであった。ここまで司馬徽が流すのにも理由があり、最近は殆ど毎日のように同様のことが起きている為、流石の面倒見が良い彼女であってもこのような対応を取ることになってしまっている。それを証明するように広間にいる多くの生徒達は、またやってるよといった生暖かい眼差しを送ってきていた。

 

「まぁ、そう言うでない。韓遂……お主も本当はわかっておっただろうに。所詮自分は軍略に優れた軍師がくるまでのつなぎ(・・・)でしかないことにのぅ」

「あ、あわわ……」

「お主があわわ言うても全く可愛くないから止めぃ。むしろお主の年齢でそれをやるのは本気できつい」

「だ、黙れ司馬徽!! 我とお主の年齢は変わらんだろうが!!」

「……いや、変わらぬが。ワシはそもそも、あわわなど言うとらん」

「ぐ……ぐぬぬぬ……」

 

 もはや自分が何を言っているかわかっていない韓遂の暴れっぷりに、司馬徽は溜息の一つでも吐きたくなる気持ちであった。こんな会話が毎日行われているのだ。仕事の邪魔にもなるし、はっきり言って鬱陶しいことこの上ない。それでも同僚である韓遂の愚痴に付き合うのだから彼女こそ聖人ではなかろうか。 

 

「……はぁ。まぁ、お主の言うとおりだ。覚悟はしておったが、実際にそれを迎えるとなるとなかなかに自分を納得させるのが難しい」

「気持ちは分からんでもないがのぅ」

 

 韓遂は李信の軍師として初期から部隊を支えていたが、それは実のところ適材適所と言い難いものがあった。彼女の名声を涼州で高め上げた武器は内政外政といったそちら方面の分野であり、軍略関係に関しては精々が一流止まり。だが、かつてはそれらを受け持つことができる人材がおらず、結果韓遂がその役目を負うこととなっていた。華雄や高順では不足であるし、胡軫でも心許ない。ある程度の戦略は練れる李信であるが、それでは隊長である彼の負担が大きすぎる。故の韓遂抜擢だったが、何時の日か自分の立場を奪われることになるだろうと確信していた彼女ではあったが、やはり実際にこうなってしまうと精神的な被害が実に大きいのが実情だ。

 

「本音を言うと我が自分の座を明け渡すことになるのは、あの娘だと思っていたぞ」

「……龐統を知らなんだお主ならばそう考えるのも無理はないのぅ。もし龐統の帰参がもう二年……いや、一年遅れていればお主の考えが現実となっていたはずじゃ」

 

 死んだような目である方向を見つめる韓遂と、それを追う司馬徽。二人の視線が交わる先には多くの生徒がいた。彼女達からしてみれば慣れたものだが、この官僚育成機関を訪れぬ者であったならば異常としか判断できない光景がそこにはある。ある盤を前にして十数人の生徒と向かい合っているのは、一人の少女(・・・・・)

 

 こうではないか、ああではないか。など必死で生き残る道を模索している十数人を前にして、どこか退屈そうに帽子を弄っている彼女は―――陳宮広台。かつて呂布に拾われ、この官僚育成機関に預けられた少女は随分と成長を遂げている。肉体的な成長は皆無だが、軍師としての能力は飛躍的に高まっていた。いや、進化ともいえる成長速度だ。既にこの幼い少女に軍略囲碁で勝てる者はいない。それどころか十数人がかりで相手をせねばまともな勝負にもならないという馬鹿げた腕前となっている。

 

「はやく降参すると良いですぞー。ねねは恋殿と御飯を食べに行くのです」

 

 対戦している生徒達を煽る陳宮。洛陽で休暇中の呂布との逢瀬に気をやっていながらも、彼女の打つ手は迅速にして正確。そんな陳宮に韓遂と司馬徽の評は、決して過大評価というわけではない。こと軍略関係でいえば陳宮は群を抜いていた。韓遂司馬徽の両軍師の遥か上。おそらくは中華の中でも上から数えたほうが早い程の能力。いや年齢的な面を考慮すれば、やがて頂の上に手をかけることが可能なのではないか、と思わせる超新星。もっとも、その能力とは対象的に内政外政面でいえば韓遂達に軍配があがるのだが。

 

「主が龐統を帯同させているのも、あやつの唯一の不足。戦場を経験させるため。だが欲を言えば、あの陳宮も同伴させてほしいというのが本音ではあるのぅ」

「……悔しいがそれには同意するしかあるまい。実戦を経験すれば、陳宮もまた間違いなくさらに化ける」

 

 さすれば龐統と陳宮の二枚看板。二人の知者が李信軍を操れば、軍もこれまでの比ではない飛躍を遂げる。

 

「もはや我が主を脅かす者など存在しまい。ふはははははー!!」

 

 先程までの韓遂とは真逆。確かに自分が戦場にともに行くことが無くなったのは非常に辛いことだが、それでも主の無事が一番の願い。それを思えばどんなことでも堪えられる。それに李信の為に出来ることは幾らでもあるのだから、腐るよりはまずは行動しようと決意した韓遂であったが―――浮かない顔の司馬徽が妙に気にかかった。

 

「どうした、司馬徽。お主がそのような顔を見せるのは珍しいではないか?」

「うむ……」

 

 韓遂の問いに暫しの間沈黙を保っていた司馬徽ではあったが、やがて陳宮から視線を韓遂へともどし何か覚悟を決めた眼差しで訥々とした口調で語り始める。

 

「……実は、ワシは厄介極まりない存在を一人知っておる」

「ほぅ!! お主が厄介と称するか。一体何者であるか?」

「諸葛亮。字は孔明……今は劉玄徳という輩のもとにいるそうじゃ」

「あぁ……確か、覚えがあるぞその名。確か張純の乱の際に李信と言い合っていた小娘のはず。そう言えば龐統が着た時にも言っておったな」

 

 うっすらと思い出した韓遂が声を上げる。確かに非常に厄介そうな人間だと思っていたが、数ヶ月前に黄巾の乱が終結後やってきた龐統の初めての献策が―――劉備玄徳を始末するべきだ、という内容だ。劉備のことを覚えていた李信がそれは却下したのだが、それも無理ない話。今のところ何の罪も犯してはいない彼女を処罰する理由はないし、李信としても劉備の行く末を実は微妙に楽しみにしている思惑もある。

 

「……皇族の末裔を詐称している故にその点を突けば処罰は可能、か」

 

 龐統は如何なる手段を使ってでも劉備を今のうちに処罰したいのだろう。劉備は前漢の景帝の第九子中山靖王劉勝の庶子の劉貞の末裔と名乗っているという情報をあげていた。確かに劉族の末裔と詐称すれば罪となる……が、劉勝は子と孫を含めれば百人以上の血筋を残しており、可能性はなくはない。もしかしら何かしらの証拠を持っているのかもしれないし、実は皇族の末裔を名乗る人物は劉勝のこともあって一定数存在した。

 

「その劉備の軍師を勤めているのが諸葛孔明。軍事内政外政問わず、あらゆる面において超一流の軍師と評価しても構わないじゃろう」

 

 ようするにワシの上位互換じゃ。と些か悲しくなる事実を告げる司馬徽に韓遂は微妙な表情となる。司馬徽は優秀なくせに自己評価が少し低い。龐統や孔明といった突き抜けている連中と比べれていれば仕方のない話かもしれないが、韓遂からしてみればこの若作りの方が余程恐ろしい。

 

「龐統と肩を並べられる相手、か。それは厄介であるな!! だが、それだけでは怖れる理由は少し弱いと思うが」

「……諸葛孔明は、龐統を友と呼び慕っておった。いや、あれは執着と表現したほうが良いかも知れん。そのあやつを置いて、龐統は我らが主のもとへ参じた。ワシらにとっては龐統が着たことは有り難かったが……」

 

 失敗だった(・・・・・)かもしれぬ(・・・・・)

 龐統は孔明を完璧と称した。それに間違いはないだろう。だが、完璧なのは龐統士元とともにいたからだ。諸葛亮孔明は、幼い頃から孤独であった。彼女は物心ついた頃より、他の人間が理解できぬ世界に到達していた。周囲すべてが人とは思えず、ただの紙人形程度の認識しかしていなかった彼女が初めて出会えた()。龐統という自分に匹敵する存在を得て諸葛亮孔明は、ようやく他者を理解できるようになった。だからこそ、孔明は龐統に拘っている。依存している。執着している。そんな彼女のもとを龐統が離脱した。となれば、孔明がどうなるかは三通り考えられる。

 

 光か中庸か闇か。昇るか、止まるか、堕ちるか。

 

 もっとも厄介なのは諸葛亮孔明がかつての彼女に戻ること。人を紙人形程度にしか認識していない頃に戻れば―――それを止めることができる存在は果たしているのか。

 

「……我が愛弟子には悪いが、今のうちに消えて貰わねばならぬかもしれんのぅ」

 

 白扇を折れんばかりの勢いで握り締める司馬徽は、かつての教え子であろうが容赦なく処断しようと決意するのであったが―――。

 

「終わったですぞー!! それではねねはこれにて失礼させて貰うです!!」

 

 司馬徽と韓遂の緊迫した空気をぶち壊す、陳宮の声が響き渡った。言うが早いか、陳宮の姿は広間からなくなっており、残されたのは盤の前で死屍累々となった生徒達。

 

「……龐統と陳宮の二人で何とかなるのではないか?」

「……そうかもしれんのぅ」

 

 如何に孔明が覚醒しようと能力的には恐らく龐統と互角。

 ならばそこに陳宮が加わればどうか。さらに李信軍という超人染みた軍の力があれば。軍師として敗北の二文字は絶対にない、と断言できてしまう。先程まで孔明と劉備を始末する気満々であった司馬徽は、暫しの間様子見と言う結論を下すのであった。

 

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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 司隷河東郡の陽県にある小さな……本当に小さな村。そこで起こった流行り病は瞬く間にその地を席巻した。ほぼ同時期に村人達は病に倒れ、助けを呼ぶことも出来ずに滅び行く運命を突きつけられた哀れな村であった。その病に身を冒されながらもぎりぎりのところで生き残ったのは僅か二人。まだ十になったばかりの少女と弟。彼女達が病から命を拾ったのは本当に偶然だったというしかない。だが、体力も落ちてもはや動くことも適わない二人は、

静かに飢え死にを待つばかりであった。地に倒れ、二人手を繋いで意識が朦朧とするなかで何日たったのかわからない。そんな時に―――少女は天命と出会う。

 

「こいつは酷いな……病気か?」

「ああ。恐らくは……誰も彼も外傷は見当たらない。しばらく前に流行った病気のせいだろう。」 

 

 馬蹄の音を響かせて、人の声が少女の耳に届いた。最後の力を込めて顔を上げると、馬に乗った矛を背に背負うまだ若い男の姿が擦れた視界の中やけに鮮明に映る。少女のたてた僅かな音に反応して、馬上にあった少年が視線を少女へと向けた。まだ息があることに驚いたのか、少年―――李信は馬から降りると傍へとやってくる。

 

「生き残りがいるぞ。医療に詳しい奴を呼べ」

 

 ハッと部隊の後方へと伝令に走る部下を見送りながら、李信は倒れていた少女の背に手を入れ支える様にして上半身を軽く持ち上げる。

 

「意識はしっかりしているか? まずは水を少しで良いから口に含め」

「……ありがとう……ございます……でも、シャン……より……弟へ……」

「……」

 

 李信はだまって首を横に振った。何故、と口から言葉が出るよりもはやくシャン―――徐晃は気づく。既に隣に倒れていた弟は蛆が湧くほどに当の昔に死んでしまっていたことに。

 

「この娘以外の生き残りは?」

「……残念ながら」

「そうか。一度近場の街に立ち寄るぞ。この娘を連れての従軍は厳しいからな」

「はっ!!」

 

 李信に抱きかかえられる徐晃はすべてが朦朧とするなかで悟った。死ぬはずだった自分がこうして生き長らえたのにはきっと理由がある。両親も親類も弟も村の人間も死んだ中で、唯一残った自分の道。それはきっと―――。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……というのがシャンの昔の話」

「なんと。ならば徐晃は昔に李信殿と出会っていたのか」

「うん……李信様は覚えていないと思うけど」

 

 金属音が激しく耳を劈く空間で、徐晃と趙雲は世間話をするかのように会話をしている。二人がいるのは洛陽の官僚育成機関がある館の一部……巨大な面積を誇る練兵場にて日々の日課である手合わせを行っているところであった。会話をしながらであるが、二人の戦いは頂点に近いと表現しても構わない。無論、まだまだ李信と呂布の世界には到底及んではいないが、中華において彼女達二人に並べる武人はそうはいないであろう。

 

「人に歴史あり……とっ」

 

 趙雲が踏み込み放った刺突と同時に、徐晃もまた自分に迫ってくる槍目掛けて大斧を振り下ろす。問答無用で武器破壊を狙った徐晃に、冷や汗を流しながら趙雲は無理矢理に槍を引くと間合いを外す。

 

「全く。後の先の使い手というのも実に厄介極まりない」

「……シャンの得意技」

 

 ふふっと薄く笑みを浮かべる徐晃に舌を巻くのは趙雲だ。単純な速度だけで言えば趙雲が遥かに勝るが、徐晃は豪腕に頼った圧倒的な火力が武器と思わせて何と言うか―――上手い(・・・)のだ。趙雲の戦いの調子を狂わせるような戦い方が実に巧みだ。相手に全力を出させ、欲する李信とは異なる。自分本来の力を十とすれば李信と戦うときにはそれが十五にも二十にもなる自覚がある。だが、徐晃と戦えば五や六程度しか出すことができないという印象を受ける。どちらが正しいかとは言えないし、決めることはできないだろうが、戦場で命を賭ける者達からすれば徐晃の方が正しく厭らしいのは間違いがない話だ。

 

「しかし、お主の話で信じがたいことが一つある」

「……ん? 何?」

 

 武器破壊を狙わせないように、龍指を交えての三連突。防ぐことはせずに、また紙一重で避けるような真似もしない。先程の趙雲を見習うように大きく距離をとった徐晃が問い返す。

 

「話が真ならば、お主の武の経験は僅か数年程度ということになるのだが……」

「うん。それくらい」

「……こうして手合わせしている身としては信じがたい話だ」

 

 趙雲の嘆きも仕方のない話である。僅か数年程度で生涯を武に捧げてきた自分と互角に渡り合えるこの少女……徐晃公明の才能には頭を下げるしかない。武の才能だけならば、中華随一と評価しても決して大袈裟ではないのではなかろうか。勿論、呂布は除いてとなるが。

 

「信じるも信じないも、それが事実。シャンが李信様に拾われたのは天の計らい(・・・・・)

「天の計らい……?」

「うん……。運命天命宿命……とにかくシャンは命を救われた」

 

 あの天下無双の飛将軍李信に、確かに命を救われたのだ。偶然などあろうはずがない。これは必然なのだ。途方もない戦いの天稟があった徐晃が李信に拾われたことはきっと全て定められた命運だった。

 

 きっとこれには意味がある。無いはずがない。

 戦いの天才(かいぶつ)が、戦場を支配する大将軍と出会った事。

 

「……天に寵愛された李信様。そしてシャンは……天命に導かれた金剛の斧(・・・・)

 

 故にこの斧。砕けるものか。李信を守護し、あらゆる敵を打ち砕くのはシャンだ。

 不撓不屈の意志を相手に打ち付ける徐晃の気迫に息を呑むのは一瞬で―――それに恐れる趙雲ではない。壊れた龍牙の代わりである槍を徐晃に向けたまま手合わせしている怪物の意気を逆に飲み込む圧の展開は、彼女達の周囲に焔舞う幻想的な光景を描かせる。

 

「李信殿に手を届かせた我が神槍。甘く見てもらっては困る」 

 

 ピリピリと二人を包む空気が沸騰していくなか―――それが一瞬で静まり返った。熱している空気がそれを遥かに超越した大熱波に飲み込まれ流されていく。バッと二人して対峙していることを忘れてある方向へと視線を向けるとそこに鎮座するのは方天画戟を携えた呂布奉遷。彼女はゆっくりと立ち上がると二人に近づいてくる。

 

「……李信を守るのは恋。敵を打ち砕くのも恋。肩を並べるのも恋」

 

 なにやら言い出した呂布の姿に、だが趙雲と徐晃は視線が逸らせない。いや、身動き一つ取ることができない。

 

弱い者は(・・・・)いらない(・・・・)

 

 おいで。遊んであげる。

 静かに手招く呂布に、趙雲と徐晃は理解した。これが頂点なのだと。この存在こそが、孤高の世界に住まう本当の怪物なのだと。李信がどれだけ手加減していたのか、二人はようやっと気づき、全貌もはっきりとしない遥かな高みの霊峰が目の前に聳え立つ幻覚を見た。二人は戦慄すると同時に、確かに笑う。二人同時に戦ったとしても決して及ばぬ、自分達の目指す果て、二人存在する矛盾した意味の天下無双―――それを授けられる本当の意味を悟る。趙雲と徐晃は、李信へと手をとどかせるための目標をこの日ようやく見つけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「李信様、早く行かないと遅刻してしまいます」

「あー、そうだな。まぁ、もう完璧に時間過ぎてるから慌てても仕方ないだろう、龐統」

 

 百万都市洛陽の道を行く龐統と李信の姿があった。娘軍師は相当に急いでいるのか李信の手を引っ張って少しでも目的地に早く向かおうとしているのだが肝心の主は自分の調子を崩していない。

 

「李信軍の入隊試験がもう始まってしまいます、李信様ぁ……」

 

 龐統の泣き落としも通じていないのか、李信の歩みは何時もと全く変わりはしていなかった。龐統の発言通り、実は官僚育成機関の一画を借りて李信軍の人員補充の入隊試験が行われることになっている。黄巾の乱や異民族との戦いで欠員となった兵の補充として、民官問わず募集したところ想像を絶する希望者が集まってしまった。そのため入隊試験を行うことになったのだが……丁度李信が王宮に呼ばれた為にその場に立ち会うのが丁度遅れてしまい、今現在試験場に向かっているところなのだ。それは龐統が慌てるのも無理なかろう話である。

 

「もう完璧に遅刻だしな。こうなったら開き直ってゆっくり行こうぜ、龐統」

「だ、駄目ですよぉ……。何が何でも連れて来いって華雄様に言われてるんです」

「まぁ、試験に関してはあいつに任せているから気にするな。こんだけ遅れたらもう急いでいっても一緒だろ」

「うぅぅ……」

 

 文句を言うなら王宮に呼んだ官僚達に言って欲しいと思う李信。実際、まさかこんな時に呼ばれるとは思ってもいなかったというのが本音である。

 

「はやく行きますよ、李信様ぁ。試験が終わる前に行かないと、怒られますよ」

 

 鬼の形相の華雄を想像してぶるりっと龐統が身体を奮わせた時の事であった。

 

「おぉー!! あんたら李信軍の入隊試験の会場に向かってるところなのー?」

 

 凄まじい勢いで李信と龐統の前に飛び出してきたのは、黒……というより灰色染みた肩まで伸びた髪を後ろで纏め、動きやすそうな服装をした一人の少女。年齢的には龐徳よりも僅かに上に見えるが、つまりはまだ成人しているかしていないか微妙な年齢ということだ。目を悪くしているのか、右目を大きな眼帯で塞いでいるのが特徴だが、それを考慮したとしても十分に可愛らしいという表現が似合う美少女だ。背には大きな弓を背負い、小柄な彼女との対比を際立たせていた。

 

「ねーねー。良かったらどこで試験やってるか教えてくんない? いやーこの都市って本当にやばいところだねぇ。都なんて初めてきたけどもう何が何だかわかんなくてさー」

 

 人の警戒心を解くような人懐っこい笑顔を貼り付けて李信達に語りかけてくる少女だったが―――龐統は反射的に主の背に隠れてしまった。 

 

「あれ? もしかして怖がらせちゃったー? あー、ごめんごめん。あたしってば何時もこんな感じだから結構人に面倒臭がられちゃったりするんだよねー」

 

 てへっと舌を出して笑う少女だが、別に彼女は悪くはない。龐統は軍師に徹しているときは冷静沈着で的確な判断を下すことが出来るのだが、生憎と日常生活においてはこのような状態が普通なのだ。人見知りが激しいし、会話の最中に時折噛んだりもする。

 

「いや、此方こそ悪いな。で、だ……お前も入隊試験の希望者なのか?」

「おー!! よくわかったね、お兄さん!! 遠く涼州から遥々きたぜ、洛陽!! お、もしかしてあんた達も希望者だったりするの? おにーさん本当に凄い強いね。というか本気で人間辞めてる感じのやばさだよね……都って恐っ!! ……ああ、でもそっちのおチビさんは流石に違うかー」

「チ、チビじゃないです!!」

「いやー、小さい小さい!! わははーお嬢ちゃんが幾ら威勢よい声を出しても可愛いだけだぜぇー」 

 

 なんだこいつは。やけに勢いが良いな、と思う李信の前で人見知りのことも忘れて噛み付く龐統の姿は、実に年齢相応だ。珍しい姿を見たな、と李信は少しだけ得した気分となった。

 

「第一もう入隊試験は始まっています!! 試験に遅刻は認められません!!」

「な、何だってー!? それは本当? いやいや、冗談きついねー」

「冗談ではないです!! 時間も守らない人が試験に受かるとでも思っているのですか!!」

「わーお、確かに!! いや、でもそこはほら……一芸合格とかあったりしてー!?」

「ないです。ないです……絶対にないですから!! それはもう人間離れした特技でもない限り無理でしゅ……です!!」

「ええー、特殊技能……うむむ……あ、あるよ!! あたしそれあるからー。いやぁ、困ったな。合格しちゃうなーあたしちゃん」

「ええ、あるんですか!? い、いえ……それこそ水の上を歩けるとかそれくらいの技能じゃないと認めませんよ」

「水の上を歩行ね……いや、できるか、そんなことぉ!?」 

 

 言い合っている二人の会話は結構な無茶苦茶な内容だが、地味に面白いなと李信は聞いていた。あの龐統と初対面でここまで話が出来るのはある種の特殊技能ではないか、とも考えている李信の前で、ポンと手を叩く少女。

 

「あー、あー、あー!! あたしってば、ほらこれ持ってるよ、これ!! これ見てよ!!」

「これじゃ分かりません。なんですか、明確にしてください」

「ほらほら、推薦の手紙!! 李信将軍に渡せば何とかしてくれるって言ってたけどなー」

「……え」

 

 懐から取り出した書簡を手に持って天へと掲げる少女に、誰からの推薦なのか気になった李信が口を挟む。

 

「へー。誰からの推薦なんだ? ちょっと見せてみろ」

「い、いやいや!! 何言ってるのさ、おにーさん。李信将軍に対しての書簡だよー? 中身勝手に見たら下手したら首斬られちゃうぜ!!」

「別に問題ないだろ」

「いや!! 問題しかないってば。流石のあたしも自分が原因で人死にがでたら三日ぐらいへこんじゃうってばさー」

「いや、だから俺が李信だ」

「ほぅほぅ。なるほど、おにーさんが……李、信?」

 

 またまた面白くもない冗談言ってー。と笑う少女の口元は若干ひくついていた。

 

「冗談ではありません!! ここにおわすお方をどなたと心得ますかっ!! 漢王朝独立遊撃軍が将、李信将軍であらせられます!!」

「……え。本気で?」

 

 こくりっと龐統が頷いた瞬間だった。

 

「は、ははー!!」

 

 その場で何のためらいもなく平伏する少女。確かに見ただけでわかるとんでもない領域に住まう怪物だと気づいていたし、これほどの存在ならば李信将軍だということにも納得できる。それに気づかず都ならこんな存在が普通にそこらを歩いていても仕方ないと勝手に思い込んでいた。

 

「いや、よく考えたらこんな化け物がそこらに歩いているわけないじゃん!! 気づけよ、あたしちゃん!!」

 

 よく考えなくてもそうなんだが、初の都ということで随分と気が緩んでいたらしい。というか、当の将軍の前で化け物扱いするなどそれこそ首を斬られても文句を言えないのだが、それに噛み付こうとした龐統をおさえて平伏している少女から推薦の書簡を受け取る。封を切って中身に目を通した李信だったが、龐統は確かに見た。自分の主の口元が綻んでいくのを。

 

「どなたからの推薦だったのですか?」

「……お前、面白いな」

 

 龐統の質問に応えずに平伏して周囲の注目を浴びている少女を立ち上がらせる。へへへ、と愛想笑いをしている少女の頭からつま先までをじっくりと眺める李信は、推薦の書簡を少女へと手渡す。

 

「来い。試験は始まっているが、お前の()見せてもらうぞ……龐令明(・・・)

 

 一瞬李信の発言の意味がわからなかった少女―――姓は龐。名は徳。字は令明。彼女はパァっと顔を明るくすると李信の後へと続く。幸いにも首切りは免れさらには試験も受けさせてもらえることになるとは、やはり日頃の行いがいいのかとホクホク顔だ。それに対して納得がいっていないのは龐統である。試験を特別に見る上に、知らなかったとはいえ李信への無礼。憤懣やるかたないとはこのことだ。そんな龐統を気にしてか、李信が手招きして歩く自分の真横へと龐統を呼び寄せる。

 

「さっきの推薦者の話なんだがな……馬騰に、傅燮。董卓、賈詡といった涼州の重鎮の面々全てだ」

「……え?」

 

 まさか過ぎる推薦者達に驚きの声を龐統が上げる。この龐徳という少女は、それほどの推薦を受けているのか。先程までの怒りは収まり、純粋に驚きが龐統を支配する。

 

「……この者、中華十弓(・・・・)をも凌駕する腕前、か。随分と期待させてくれるな、賈詡」

 

 沸々と湧いてくる言葉通りの期待を胸に、李信は龐統と龐徳をつれて試験会場へと到着した。熱気と喚声が溢れる会場で、李信の到着にいち早く気づいたのは華雄であり、文句を言いに近寄ってきた彼女だったが真剣な表情の李信に毒気を抜かれ―――龐徳のことを教えられた華雄は、まじまじと弓を背負っている龐徳に視線を送った。

 

「弓使いか……確かに李信軍(うち)には並外れた腕前のやつは少ないが……」

 

 華雄が推薦の書簡に記されていた中華十弓をも凌駕するという文言を聞いて眉を顰める。確かにそれほどの力量を持つ者が加われば随分と戦力強化に繋がるが、果たしてあの賈詡の言葉とはいえどこまで信じればよいのか。その称号は、この広大な中華において頂点の弓使い十人のことを指す。決して伊達や酔狂で名乗れるほど軽くはない称号だ。

 

「……とりあえず、弓実技試験の場に行くぞ。自信があるようだし、皆がやっている距離の倍くらいからやってみるか」

 

 華雄は試験場の隅で離れた的を射ている弓兵入隊試験の方を指差すと、龐徳へと移動を促す。だが彼女は遠く離れた弓の的を見るなり一言。

 

「えー? あれくらなら余裕、余裕。へいへいへーい。行くよー」

 

 は? と、この場にいた李信と華雄と龐統が声を上げた。止める間もなく―――いや、静止の声を出そうとした皆のそれが止まった。止められた。龐徳の全身から迸る無色透明で静寂に包まれた圧に三人は目を奪われ、その一瞬で彼女は愛弓を引いて射る。残されたのは美しく、流麗な龐徳令明の残心。

 

 龐徳の静かな構えとは真逆に、凶悪で破滅的な威力を秘めた矢が遠く離れた的の中心を貫いて―――中心に巨大な風穴を打ち破った。シン、と静まり返った試験会場にて、一足早く正気を取り戻した華雄が頬を引き攣らせる。

 

「お、お前……まさか狙ってやったのか、今のを」

「えー? いやいや、狙わないと当たんないでしょーに」

「馬鹿か、お前!? 他の人間の数倍の距離があったぞ!? 熟練どころか達人級の力量でも難しいぞ、あれは!!」

「へっへっへー。凄いでしょ、おねーさんや」

 

 こいつ化け物か……ただただ驚愕する華雄と、常識外の腕前を見せ付けられた龐統はまだ固まっている。そんな中で李信もまた龐徳の弓の技術に驚きを隠せなかった。それは弓の射的距離もあるし、威力も驚嘆に値する。だが、実はもう一つ。華雄と李信は互いに顔を見合わせて、頷く。

 

二射(・・)、撃ったな」

「え、えぇぇ……気づいちゃった? まさか初見で見破られるなんて、初めてなんですけどー」

 

 二度の速射。残像すら残さぬ速度にこの場で気づいたのは李信と華雄の二人のみ。技術速度威力―――どれもが人の理を超えている。

 

「んと、見破られたら仕方ない。じゃー、合格するためにももうちょっと凄いの見せちゃうぜ」

 

 よく見てみれば、龐徳が持つのは一人では到底引けなさそうな剛弓だ。それをくるくると器用に回しながら李信達から離れていく。即ち、弓の的からさらに遠ざかって行っているということだ。

 

「ところで将軍におねーさん。それとちびっこさんや……中華十弓(・・・・)の由来って知ってますー?」

「いや……生憎と私は知らん」

「……趙の武霊王の時代に弓自慢を集めて腕比べをしたとか。まぁ、詳しい話は覚えてないけどな」

 

 華雄の答えは龐徳の予想通り。だが、李信のまさかの返答に目を見開いた。

 

「腕が立つだけじゃなくて博識とか完璧じゃないですかー、やだぁ」

 

 ケタケタと笑いながら彼女は随分と遠い場所で足を止める。

 

「その催しで優秀な成績を残した上位十人をそう呼んだのが始まりらしいですよー。で、その時優勝した方はなんでも五百歩のところから十射中八射が的を射抜いたとかなんとかー。まぁ、数百年も前の話なんで結構誇張されてるとは思うんですけどね」

 

 ここがおよそ五百歩のところかなぁ。

 平然と言い切った龐徳は、そこから軽々と剛弓を引くと放つ。引いて放つ。を繰り返す。丁度十度繰り返したところ手をとめた。

 

「昔の中華十弓ならいざ知らず、ぬるま湯に浸かった今の中華十弓程度ならあたしの方が上ですぜぇ。どうでしょーか、この龐令明を李信軍に入れても損はないと思うんですけどー」

「……ええっと、射た矢どうなってるんですか?」

 

 あまりにも的が遠いため龐統が目を細めても結果がどうなったか不明だ。だが、李信と華雄の真面目な表情を見れば、彼女の十射した矢の行方は自ずと理解してしまえた。事実、龐徳の十射は全てが五百歩離れた的の中央に的中している。

 

「……実際、大口を叩くだけはある。俺は入隊を認めても良いと思うんだが」

「あぁ……その口調以外は文句はない」

 

 軍の大将と副将の答えに満面の笑顔を浮かべる龐徳。幾ら軍師とはいえ龐統が拒否したとしても結果は変わらないだろう。いや、純粋な弓の力量だけ見れば彼女を落とすなど有り得ない。それでも龐統はしばし熟考をして、龐徳へと向き直る。

 

「一つお聞きします」

「おぅおぅ。何でも聞いてくれよーう、ちびっこさんや」

「だからちびっこじゃないです!!」

 

 またもや調子を狂わされそうになったのを実感した龐統は一度深呼吸をして心を落ち着かせる。

 

「……龐令明殿。貴女は馬上にてどれだけの技術を発揮できますか?」

 

 嘘偽りは許さない。龐統の軍師としての眼差しは、これまでの彼女とは一線を画している。龐徳の全てを見通そうとするそれに、にははと平然と笑うのは弓の怪物。

 

「いやだなー、軍師殿(・・・)。あたしは涼州生まれの涼州育ち。馬上の方(・・・・)が得意(・・・)なくらいさー」

「―――信じます」

 

 パンっと手を叩いた龐統が、龐徳から李信へと視線を移す。

 

「李信将軍へ龐士元が献策致します。龐令明を隊長とする弓騎兵団の設立の―――」

「任せる」

「―――はい。有り難く」

 

 阿吽の呼吸の二人の姿に、目を丸くするのは龐徳令明だ。今龐統はなんといったか。弓騎兵団……これの意味はわかる。では次だ。龐令明が隊長。それは一体誰のことなのか。

 

「あたしじゃん!!」

「……はい。貴女です、龐令明殿。実は弓騎兵団の設立を最近考えていたところでしたので」

 

 丁度その中心人物となる存在を探していたが、まさか入隊試験でこんな逸材が見つかるとは全く考えていなかった。嬉しい誤算とはこのことだ。

 

「隊長ー? 本当に? あたしやっていいの?」

「はい。弓騎兵のみで構成される遊撃隊……それを貴女にお任せしたいと思っています」

「おぉぉー!? あたしちゃん、入隊直後の超出世!! 日頃の行いのおかげだね、やったぜぇ!!」

 

 剛弓を振り回しながら小躍りしだした龐徳が、喜びを爆発させてあちら此方を駆け回る。歳相応といえば相応なのだが、ここまで恥ずかしがりもせず感情を全身で表現させる少女も珍しい。

 

「そういえば令明に聞きたいんだが、何故李信軍(うち)なんだ? それほどの弓の腕前があれば、涼州でも引く手数多だったろうに」

 

 華雄の問いは当然と言えば当然の質問である。中華十弓に匹敵どころか凌駕する力量の龐徳令明ならば、仕官の誘いなどそれこそ山のように来ていただろうに。確かに李信軍の名は中華に轟いているが、待遇の面を考えれば幾らでも上の誘いはあった筈だ。

 

「実はあたしは馬騰様に仕えてましたよー。結構いい待遇でしたぜ、へっへっへ」

 

 だからこの軍でもそれなりの待遇を要求します、と堂々と言い放つ龐徳の遠慮の無さに少し早まったかと後悔が押し寄せる龐統。

 

「まぁ、優秀な人間にはそれに見合った報酬があって然るべきだしな。そこらへんは期待していいぞ」

「おぉぉー!! さっすが将軍様!! 話がわかるぅ。いよ、天下無双!!」

「……おい。私の質問に答えろ、新入り」

 

 女性らしいとは決して言えない……むしろ貧相な胸を李信へと押し付けながら胡麻をする龐徳の頭を背後から鷲掴みにした華雄が引き離す。渾身の力を込めた握力が、龐徳の小さな頭を握りつぶさんと圧力を加え始める。ミシミシと頭蓋骨が悲鳴をあげ、あまりの痛みに甲高い声にならない絶叫が試験会場に響き渡った。

 

「あ、あばばばー!! た、助け、助けて!! 割れる、砕けるぅ!!」

「……放してやれ、華雄」

「ちっ……」

 

 明らかな不満を全面に出しながらも華雄は龐徳の頭から手を放した。残る鈍痛に地面を頭を押さえながら転がっていた龐徳だったが、数十秒もして漸く痛みがおさまったのか涙目になりつつも、荒い呼吸のまま立ち上がる。 

 

「ちょっとー痛いんですけど―――あ、いえ。何でもないです」

 

 人でも殺せそうな眼光の華雄に腰が引けたのか下手な愛想笑いで誤魔化す龐徳だったが、真剣な眼差しの華雄にこれ以上茶化すのは本当にまずいと判断したのか、咳払いを一つ。

 

「えー、馬騰様の下で働いてて、優秀なあたしちゃんはふと気づいちゃった訳ですよ。ああ、この人は所詮は涼州どまりだなぁ、ってね!!」

 

 別に馬騰を悪く言うつもりはない。彼女もまた十分に英傑級。涼州という戦乱溢れる地を最低限とはいえ住める場所にしているのは馬騰という存在がいるからであろう。もしも彼女がいなくなったならばあの地は血で血を洗う凄惨な地獄へと変貌するはずだ。だが、それでも、それでもだ。龐徳から見れば、馬騰はたりない。自分の理想には決して届いていない。己の欲を満たしてくれる相手とは言えず絶対的に不足している。涼州如きで満足など出来るものか。

 

「あたしちゃんは自分の名前を広めたい。龐令明の名を涼州だけじゃなく、中原だけでなく、中華全てに轟かせたい!!」

 

 馬騰のもとで異民族を相手にしばしの間自慢の弓の腕を奮った。射って、射って、殺して、殺し続けて、何時しか異民族は、龐徳の姿を見るだけで逃げ出すほどの屍の山を築き上げた。それだけの死山血河を作り上げながらも、龐徳令明の名は涼州のごく一部でしか知られていない。馬騰や娘の馬超に比べれば微々たるものだ。この調子では龐徳の名を皆が知るまで何十年かかることか。

 

「広大な領地。目も眩む黄金。食べきれない御馳走。酒も異性も、この世のありとあらゆる贅沢快楽を思うが侭にしたいんだぜぇ、あたしちゃんはさぁ!!」

 

 龐徳の口に出した通り、財を為す為の領地。山のように積みあがる財貨。一生涯飽きないであろう馳走。最高の美酒に格好良い男達を侍らせるために。それを為すためには名が必要だ。中華の西端に位置する涼州でさえもその名を知らぬ者はいない中華の怪物。韓約の乱を鎮めた立役者の一人。李信永政が隊員を募集していると噂に聞いた龐徳は、それが運命だと感じた。このまま涼州で燻って過ごすか、中華へと足を踏み出すか。自分の行く末を決める分水嶺がここにあると理解し―――何の迷いもなく涼州を飛び出した。きっとこの道こそが龐徳令明が求める欲望の最速。いや、この流れに乗らねばきっと一生不可能であろうと第六感が囁いた。

 

「……随分と俗物的だな、お前の入隊理由は」

「俗物ー? いいーでしょ、別に。人間の一番原始的で根本的な、欲望のためにあたしは頑張るんだからよー」

 

 華雄が僅かに不快感を表情に表すものの、対する龐徳は全く気にも留めていなかった。彼女の人生が万事このような感じならば、例え他の人間になんと言われても気にしないのは当然のことか。龐統もまた、何故ここまでの力量を誇る龐徳を馬騰が手放したのか薄々理解する。ようするに技術的な面では頼りになるが、人格を考慮すれば手放しても仕方のない人物であったのだろう。

 

「だからさぁ、将軍様。あたしに色々と任せちゃってくれたまえ。将軍様の為に何が何でも頑張るぜ!!」

「……それだけか(・・・・・)?」

「それだけ? 他になにかあたしちゃんあったかなー」

 

 本人には本当に心当たりがないのだろう。頤に指をあてて見上げながらしばし考え込むが、結果は思い当たるふしはなく李信の腕へと纏わりついてくる。

 

「だからさぁ、あたしは手柄が欲しいのー。ねぇ、将軍様。どの戦場にでもいいから連れてって!! この龐令明が百発百中の弓で貢献するからさー」

「黄巾も一段落したし、北の異民族も最近大人しいから差し迫った出陣要請はないんだよな、実は」

「な、なななななんですとぉー!? もしかして入隊する時期がちょいと遅かったかー、失敗したかもあたしちゃん!!」

「……まぁ、南の方で蛮族が大暴れしてるって話もあるし、もしかしたらそっちにいくかもな」

「よっしゃ!! 行く行く行きますー、はいもう予約したからあたし」

 

 へにゃりっと身体から力が抜けてその場で崩れ落ちそうになるも、続く李信の言葉に俄然元気を取り戻して食いついてくる。これまで自分の周囲にいなかった性格の龐徳令明の姿に興味を惹かれる李信だったが、その時に他の場所で監督にあたっていた高順が自分を呼ぶ声を聞く。

 

「じゃあ、細かいところは龐統と話し合え。弓騎兵隊が形になったら俺に持ってくればいい。任せたぞ、龐統」

「は、はい。近日中には必ず」

「へいへーい!! あたしちゃんに任せれば万事うまくいっちゃうからー期待しててよ、将軍様」

 

 去っていく李信へと両手を大きく左右に振って見送る龐徳。ニコニコと天真爛漫な笑顔を振りまく灰色の少女は、仕えることになった将軍の後姿を何時までも眺めながら―――哂っていた。

 

 もしも一瞬浮かんだそれを龐統が見ていたならば、気づいたかもしれない。いや、気づいたはずだ。龐徳令明の本性に。だが龐統士元はこの少女を読み間違えたことに長い間気づかなかった。馬騰が彼女を手放した理由。それは龐徳が手に負えないと判断したからだ。心の底に怪物を飼っている龐徳に、涼州の覇者ともいえる馬騰は一抹の不安と恐怖を抱き、李信への推薦状を持たせて追放した。怪物を御するには怪物しかいない。絶対に己の器では飼いならせるとは思わなかったからだ。馬騰はおろか馬超をも喰いつくさんとする見かけとは裏腹な無限の欲望。それが灰色の少女の深奥に沸々と渦巻いている。

 

 

 

 うん。将軍様。あたしの弓を捧げます。何時如何なるときでも貴方の傍にて、誰が相手であったとしても七難八苦を退け、ありとあらゆる万難を排しましょう。我が全てを懸けて李信永政という怪物を、中華の歴史に語り継がれる功績の領域にまで推し上げて見せます。貴方が敗北(・・・・・)するその日(・・・・・)まで。李信将軍の首は五十の城を落とすより、百の将軍の首をとるよりも価値がある。その貴方が敗れる日が来たならば、どこぞの有象無象に貴方の命をくれてやるものか。その首、その命、その魂―――それはあたしが頂きます。

 

 李信永政の首を挙げた者の名は未来永劫中華に語られる存在となるであろう。遥か遠い未来の彼方まで、龐徳令明の名は噂され続ける。天下無双を屠った弓使いとして。その想像は全てに勝る。結局それは最終的な目的の通過点における副次的産物にしか過ぎないのだから。百年、数百年、千年、自分の名が語り継がれることを考えれば領地、黄金、馳走に酒に異性など比べ物になりはしない。それが例え悪名であろうと構うものか。天下無双を討ち果たした神箭手龐徳令明―――ああ、それだけで子宮が疼く。

 

 ええ、将軍様。この龐徳令明。

 貴方が敗北を喫するその時まで。全身全霊をかけてお仕え致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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