その日の夜、時雨は部屋から一人で抜け出し、白い吐息を零しながら夜空を見上げていた。暗くとも、月光が彼女を照らす。佐世保に配属される予定だった時雨が、何故こんな辺境の地になったのか。ここでは彼女と秋窓しか知らない。
「不安なのか?」
「……僕は大丈夫だよ」
「そうか」
背後からの声に、時雨は唇を動かす。夜中に部屋から消えた時雨を探しに来たのだろう。木曾は彼女の隣に立ち、真似るように夜空を見上げる。離れず近付かず、一定の距離感に時雨は心地良さを覚えた。理由もなくそう感じた彼女は首を傾げ、なんとはなしに木曾に視線を向ける。
彼女は、見たこともない黒い外套を羽織っていた。
「それ、どうしたの? 備品にはなかったと思うけど」
「ん? これか。提督から渡されたんだ。艦娘用の外套、それの試作品だそうだ。それと……」
言葉を区切り、木曾は外套で時雨を包み込んだ。人肌のぬくもりか、それとも外套の保温性か、どちらか定かではないが心が落ち着く。互いに向き合う形で抱きしめられた時雨は、戸惑いを隠せない。急に縮まった距離感が近すぎるのだ。
「わっ、急にどうしたんだい」
「頼まれたんだよ」
「試作品の情報収集を?」
密着する事に何か意味があるのだろうか。外套が似合う彼女は時雨の問いかけに、微笑む。艶のある唇が、存在を激しく主張する心音が、木曾のぬくもりが、時雨の脳に強い刺激を与えた。
「ふっ、それもあるかもな。だが違う。提督が夜は冷えるだろうから、二人で使えだとさ」
「……そうなんだ。提督は夜更かししない方がいい気がするけど」
「本人に言ってくれ」
「ふふ、そうだね。そうするよ」
仕返しとばかりに、時雨は木曾の腰に手を這わす。冷えた手に過敏反応を示してしまう彼女は、声を抑えて顔を歪ませる。その表情が愛らしく感じ、もっと見たいという欲に溺れた。時雨の手は徐々に上へと登り始める。けれどもそれは木曾に阻まれ、近すぎた距離も遠ざかっていく。
「度が過ぎるんじゃないか?」
「あ……うん、ごめん。ちょっとふざけ過ぎたね」
「わかってるならいい。さて、俺は先に戻るぞ。外套は明日返してくれ」
外套を時雨に巻き付け、一度だけ頭をくしゃりと撫でる。それを嬉しく感じる反面、どこか気恥ずかしく思う時雨は、苦笑した。
いつもの格好では寒さに耐えきれないのか、素早く帰る木曾に手を振り、再び一人になった彼女は夜空を見上げる。
「みんなも、どこかにいるのかな……? ううん、いるはずだ。絶対会いに行くから待ってて」
暗示するかのように、それでいて祈るかのように、時雨は瞳を閉じた。数刻ほど続け、今度は強く頷いた。踵を返し、ゆっくりと歩いて帰る。外套のぬくもりが彼女を守るように包み込んでくれていた。
先に帰った木曾は、とある部屋の扉に手を伸ばす。施錠されておらず、簡単に開く。秋窓が椅子に腰掛け、ペンを走らせている。彼女は困った表情で、秋窓に声をかけた。
「時雨からだ。夜更かしもほどほどに、だとよ」
「……聡い子だな。木曾も遅くにすまなかった。助かる」
「これから長い付き合いになるだろうしな。気にするな」
なんとも頼もしい言葉である。だからといって世話になり続ける訳にもいかないが。ため息を漏らし、ペンを置いて立ち上がる。茶のひとつでも奢らねばと考えたのだ。茶でもよいか尋ねようと、視線を木曾へと向けると、渡したはずの黒い外套を羽織っていなかった。
「おい、外套はどうした」
「時雨に渡したぞ」
彼女の言葉を聞くやいなや、秋窓は木曾の手をつかむ。ひんやりと冷たくなったそれは、温度によるものか、それとも元々そういうものなのか。彼には判断出来ないことだが、やることは決まっていた。そのまま彼女を引き連れ、とある場所へと急ぐ。
「な、なんだよ。そんなに時雨に渡しちゃ駄目だったのか?」
「そんな事はどうでもいい。付いて来い。命令だ」
初めて彼が言う命令に、戸惑いつつも大人しく木曾は付いて行く。しばらく歩き続けたと思うと、見覚えのある場所へと辿り着いた。看板には、
「で、こんなとこまで連れて来てどうするんだ? 一緒に風呂でも入りたいのか?」
「風邪引く前に、さっさと風呂入って寝ろ!」
その一言で木曾を投げ飛ばした。とても武闘派に見えない秋窓だが、現実問題で彼女を投げ飛ばしている。無論、木曾は想定外の出来事に何も出来ないでいた。ただ、彼女が秋窓への認識を変えるには充分であろう。なんとも、面白い男であると。
木曾は浴槽に叩きこまれ、水飛沫を上げた。彼女が浮かび上がってくるよりも早く、秋窓は無言で出て行った。