どうしようもない僕がブリュンヒルデに恋をした 作:のーぷらん
千冬さんが浮かれまくっている件について。
7(千冬視点)
マスク越しでも分かる湿度の高い空気を感じながら、私は日本に降り立った。それが一昨日のこと。
出来うる限り早くと思って一夏の元に行ったが、保護施設に一夏がいなくて焦ったことは記憶に新しい。ただ、まだ金曜日で学校に一夏は帰宅していないだけだと気づいて苦笑したことも。
帰ってきた一夏に「おかえり」と言えたことも。
一夏が目を丸くしながらも嬉しそうに「ただいま」と言ったことも。
その日と土曜日は一緒にのんびりと過ごした。
蓮さんたちと「久しぶり」と挨拶をして日曜日を家族団らんで過ごし、朝に一夏を学校に「行ってこい」と送り出し――。
そして、月曜日11時、着替え。
12時、家を出る。
そして今、駅。
人目が多い駅だが、英がどうしてもと言うから来たのだ。当初私のことを知る者がいるかもしれないと恐れていたが、人がここまで多いと分からないのか、変装のためのマスクと髪型を変えているせいか、案外私だとバレないようであった。少なくとも一般人には。嬉しい誤算である。
しかしながら、全てが完璧という訳にはいかないようだ。
(これから『恋人』と初めて会うというのに)
首筋に違和感がある。サイドにゆるく編んだ髪の毛があたっているからではない。
(見られている)
好奇。興味。
そんな生温い視線ではないもの。
舌打ちしたい思いに駆られながらも黒目を動かさないように周囲に視線を走らせた。
いる。どこぞの諜報員か政府関係者か知らんが舐めた真似をしている奴らが、いる。
しかも、防犯カメラまで私の動きに反応して数台傾きを変えたところを見ると、……この駅はもう駄目だな。英にここで会うのも危険だ。移動しなければ。
そうと決めたら早い。人ごみとカメラの死角を縫うようにして走る。後ろで監視していた奴らが人にぶつかり距離が離れていく気配がした。こんなにたくさん人が歩いていてもカメラがあったとしてもISの戦闘に慣れきった私からすれば、人と人との間は広く、緩慢に見えるものだ。カメラも動きが遅く、範囲も狭い。
角を曲がったところで改札口からゆっくりと出てくる男が見えた。
(いた!)
良いタイミングだ。
彼の家の最寄り駅からこの駅に着くとここから出てくると分かっていたから、という言葉で片付けるな。
運命とでも言え。
右足を大きく踏み出し、左足踵を捻り、思い切り右足で地面を蹴る。
体が浮く。
緩い三つ編みが続いて宙に舞った。
勢いのまま彼の肩をつかんだ。
「英」
「え」
大きく目を見開く彼に笑いかける。ああ、マスクをつけていた。笑っても気づかれないだろうな、と思うと、彼もマスクをつけていた。それでも彼が笑っていることが分かった。瞳がきらきら輝いて弓型に曲がる。仏頂面と思える私の顔も今このとき笑顔だと彼に分かってもらえればいいと思う。
残念ながら、笑顔を見る時間も悠長にこの場で話す時間もないが。
「ちふ「黙ってついてこい」」
喜色満面に話しかける英を遮って走る。
「え、え?!」
後ろから彼の困惑、さらに後ろに私を探す焦燥の気配を感じた。私のようにうまく人を避けられない彼はこけそうになったり離れそうになったりしつつ必死で私の後をついて来ている。あぶなっかしくて見ていられん。彼の方を振り返り左手を出した。
「手を!」
私としては手を引いて走るつもりだった。
だが。
「は、い…っ!」
息を切らして差し出されたのは、彼の右手、――と彼の左手。
「ふふっ……!」
何故、両手なんだ。
こんなときなのに笑いがこらえきれなくなった。
「…そうだな」
離れていた期間が長いのだ。
片手じゃ足りない。
それに、普通のカップルのように指を絡めるよりも、いじらしい女のように数本の指だけを持つ繋がりよりも、この方がずっと私たちらしい!
両の手を掴んで彼の体をぐっと引き寄せた。
「え、え?!」
そのまま踊るように彼と人ごみの間を縫う。彼が左によろめけば左に、右に倒れかければ右に。ステップは不規則。リズムはアップテンポ。踊ると比喩するにはおこがましいほど優美さのない動きだったが、一体感があった。
楽しい!
だが。
「何あのカップル??」「駅中でダンス??」「すげー」「新手のパフォーマンス??」
いかん、人目を引きすぎたな。
入口近くに駐車していた車に飛び乗り、英が乗り込んだのを確認してその場を離れた。
「ち、千冬、どうしてあんな…」
「ああ…その、邪魔者がいたから、な」
「…ああ!」
さすが我が恋人。それだけで彼は分かってくれたらしい。デートに尾行者や監視人がいるのは無粋だからな。
にしても目立ちすぎた。どうやら私はとんでもなく浮かれていたようだ。
その原因はシートベルトをつけようと隣で四苦八苦している。息が切れているせいで指先が上下し、金具の部分が留め金に合わずカチカチとリズムを打っていた。
「ふっ。焦るな、英」
「し、シートベルトしないと、法律違反…でしょ……千冬、もう出発してるし…」
金具が合わさる音がして、英が隣で息を吐いた。どうやらベルトをやっとのことで装着したようだ。
「それで?これからどこに行く予定なんだ?」
「あ、まず、ここから200メートル先の交差点を左に……じゃなくて!」
信号が赤になり、緩やかに車を停めた。
行先をあくまで言おうとせず、道案内をしようとする隣の男に目を向ける。道が分からないなら、おとなしく目的地を言えばいいのにな。
「なんだ?道が分からないのか?」
「何回も確認したんだから分かるよ。じゃなくて」
さらっと嬉しいことを言うと、恋人は私を見て微笑む。
「おかえり、千冬」
気恥ずかしげに「本当は一番に言いたかったんだけど、それは織斑君に譲ってるから」と彼は言う。
振り返る。一夏には「ただいま」としか言われてないし、私が迎え入れる側だった。蓮さんたちには「久しぶりね!」と言われた。
ということは。
「……お前が一番だ」
「え」
「『おかえり』と言ったのは」
私は「あー。そうか。そうだね」と繰り返して言う彼から目を離してブレーキペダルから足を浮かす。
信号は青になっていた。
「交差点を左に行ったらどうするんだ?」
「え?…あ!えーと、次は400メートル先に……」
こと細かく道案内をする彼の声を聴きながら胸の中で『おかえり』の言葉を大切にしまう。
ここは、英のいる場所は、私が帰ってくる場所なんだな。
「ん、了解」
車を走らせながらこの後行くデートコースにわくわくした。