どうしようもない僕がブリュンヒルデに恋をした   作:のーぷらん

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ガチョウの雛は生まれた直後に見たものを親だと思う。

誰に教えられたわけでもなく、本能的に。

人間は生まれてすぐ泣く。泣いたことがこれまでなくても息をするために必要だから泣く。

誰に教えられたわけでもなく、本能的に。

僕も誰に教えられた訳でもない。これまで同じ気持ちになったこともない。ただ、この女性を見た瞬間、本能的に『好きだ』と思い、これが『恋』や『愛』といわれる気持ちなのだと思った。

 

もっと詳しく言うと『一目惚れ』だ。

 

女性というものを一目見ると、苦手だ、嫌だと思っていたこの僕が。

女性の目に留まるのが怖かったこの僕が。

 

この人ならばずっと自分の姿を見ていて欲しいような気分に……

 

 

「……ッ!!」

 

 

そんなわけなかった。

彼女の綺麗な瞳に映る自分のみっともない真っ赤な顔を見た途端、ずっと見ていて欲しいという思いは霧散して、代わりに恥ずかしいようなむずがゆいような…とにかくあまり見ないで欲しいという思いがしたのだ。圧倒的な存在感をもって美しく、僕なんかの前に立っているなんて信じられないほど素晴らしい彼女。僕は「あさ、あさひがまぶしい、ので…」と言い訳をしながら、ケーキ作りに邪魔だからと前髪を上げていたピンを急いではずして顔を隠した。

彼女はぽかんとした顔をしたが、しばらくすると気を取り直したようだ。

 

「…急にすま、いえ、すみません。こちらで働かせていただいている織斑一夏の姉、織斑千冬と申します。今日明日は弟がバイトに出られそうもないのでそれを伝えに伺いました」

 

女性にしては低い声だ。女らしくない、という人もいるかもしれないが、キンキンと耳にも心にも突き刺さるような高い声ではない彼女の声は、僕の全身に何よりも心地よく響いた。それに比べて僕はなんとたどたどしく、聞き苦しい声であったことか!これ以上、彼女…千冬さんの前で醜態をさらしたくない一心で僕は「はい」とだけ答えた。

 

 

「「…………」」

 

 

妙な沈黙が走る。僕は何かまずいことでも言っただろうか。

不安でうつむいてしまう。

千冬さんはどこか困ったように黙りこくった後に「では、…失礼します」と店のドアを閉めようとした。わずらわしい外の光や人の目や外の世界を遮ってくれるいつものドアが、今日は千冬さんと僕とを永遠に引き離す憎らしいものに見える。彼女が遠ざかる…僕は…僕は、

 

 

 

「何か?」

「…?」

 

 

 

どういう意味か分からず、千冬さんの視線をたどると、彼女が閉めようと引いたドアノブとちょうど逆側のドアノブを逆に引っ張っている僕の手があった。

何ということをしているんだ、僕は!

血が頭に上り、顔が熱くなるのが分かった。

だが、それは幸運だったかもしれない。この熱が僕を動かすエンジンになった。後から思い出しても信じられないことだが、僕はその熱で蒸気した頭の下す命令のまま、錆びついたように動かない股関節を無理やり回転させ、千冬さんに歩み寄った。

 

「あ、あ。あの、おわたししたいものが、あるので、待ってもらえないでしょうか?」

 

加速した血流のポンプが心臓を急速に打ち、その音が彼女に聞こえないか心配なくらいだった。

急な鼓動で、僕の心臓は壊れてしまいそうだった。何しろ、僕はこんな感情を経験したことがない。慣らし運転にしてはこの急発進と急加速は激しすぎじゃないだろうか。

 

彼女の「分かった」という声に僕は安堵しすぎたのだろう。それに、『ちょっと戸口で待ってもらって、ケーキだけ渡して家で食べてもらおう…』という考えがあったせいもある。

 

彼女の次の行動に全く反応できなかった。

 

「これは…」

 

僕は彼女の声ではっと我に返った。

大きすぎるメロンの飾り、小さいケーキ、メロンの皮に刻んだ、お疲れ様の文字とおこがましいことに彼女の下の名前。

いつの間にか、彼女はカウンター前に立っており、それらを見つめていたのだ。

 

み、見られた……!!!!!

 

飾りにしては大きいメロン、それにしては小さいケーキは、気が利かないを通り越して、いっそシュールで滑稽だった。

千冬さんはただただそれらを見つめている。彼女の視線にも動じず、メロンとケーキはカウンターの上にどっかりとあぐらをかいていた。

優しい彼女は、作った本人の前で嘲笑することも気の利かなさをなじることもしないのだ。きっとコメントに困っているのだ。その証拠に彼女は何も言わない。

 

「「………」」

 

静かだった。沈黙に重さがあるとすれば僕の体はもうぺしゃんこになっている。実際、心の方はばきばきに折れてつぶれてるからね。…いっそ笑ってもらった方が気分が楽です、千冬さん。

 

僕は足元を見ながら「笑ってください……」と言った。千冬さんの顔は見えない。ただ、彼女のほうから聞こえるふっと吐かれた息に、失笑していることが予想されて、僕はますます顔が上げづらくなった。笑い声が止んでもそうしていると、店のフローリングしか見えなかった視界に黒いハイヒールが入り、窓から差し込んでいた光を遮った。

 

「顔を上げて、胸を張れ」

 

彼女の言葉は不思議だ。

何年も人の顔を見ずに猫背だった僕の背中は自然と伸びていた。伸ばしてみると、これまで気付かなかったことに色々気付く。

たとえば、彼女より僕の方が5cmほど背が高いとか。

思ったより彼女と僕の距離が近いとか。

彼女の目の下にちょっと隈が出来ているとか。

 

 

 

 

 

 

 

彼女が優しく微笑んでいる、とか。

 

 

 

 

 

「ありがとう」

 

背後の窓から差し込んだ光が彼女の黒髪と瞳をきらきらと照らした。実に絵になる幻想的な光景だが、彼女は現実に僕のすぐ目の前にいて、僕に笑いかけている。

 

僕はひきこもりだ。この店と自分の部屋にしかいない。外の世界なんて出ない、うちにこもっているだけだ。気が利かなくて会話もろくに出来ない。親のすねかじりに近い僕は、自慢じゃないが手に入るお金だけでみるなら立派に生活保障金を受給できる。

 

そんなどうしようもない僕が彼女に恋をした。

 

この人に何人の人が惹かれ、傍にいたいと思ったことだろう。僕はその一人に過ぎないし、彼女にとっては取るに足らない存在かもしれないし、声をかけただけで笑いかけただけで自分に好意をもっているなんて勘違いする痛いちょろい男と思われるかもしれない。でも、―――彼女を好きな僕も、その気持ちも、「僕なんか」で終わらせたくない。もう卑下したくない。他の人に譲りたくない。背筋を伸ばして傍にいたい。

 

 

 

 

 

「好きです」

 

 

 

 

 

この気持ちも胸の内にとじこめていたくないんだ。

 

 

 

千冬さんがほほ笑みの表情を驚きに変えて絶句している様子を見ながら、僕は返事を待つ。

もううつむかない。

千冬さん、あなたの決断をしっかり受け止めます。

 





千冬さんの敬語って違和感ばりばりですが、さすがに初対面で、弟のバイト先の人にあの口調はないだろうということで。
告白早すぎ!急展開すぎ!って思われるのは作者の力不足ってことで。

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