どうしようもない僕がブリュンヒルデに恋をした 作:のーぷらん
親と面と向かって真剣な話をする機会は、人生で何回ほどあるのだろう。
世間一般ではもっと多いかもしれないが、僕の場合は今のところ二回だ。
一回目は「家から出て行くか」と言われたとき。
あのときは、僕の生活がかかっていた。必死にこの家にもう少しいさせてもらえるように頼み込んだっけ。土下座した記憶もある。
二回目は今だ。
僕の前には喫茶店のテーブルをはさんで背筋を伸ばした母さんと父さんが座っている。かつてない緊張感がそこにはあった。腰の悪い父さんがしゃんと背筋を伸ばすほどの。
沈黙を破ったのは母さんだった。
「…本当?」
僕は思わずため息をついた。
「本当だよ…何度も言ったけど、明日は人と会う約束があるんだ…だから店を閉めるね…」
また沈黙が走る。
次に父さんが口を開いた。
「…誰と?」
今度は僕が背筋を伸ばす番だった。さすがの僕でも分かる。22歳の成人男性が親に明日デートだと告げることは普通ではないと。
「お、おお織斑君と」僕は咄嗟に千冬さん以外で唯一接点のある人物の名前を出した。
「嘘だな」
だが、悲しいかな。僕の嘘はあっさりバレて否定される。「普段から会ってるじゃない」「明らかに目が泳いでいる」、ついには「ズル休みは許さんぞ」と言われる始末だ。
僕に全てを話す以外の何が出来ただろうか。
…全てを話し終えて赤くなったり青くなったりして憔悴している僕に無数にかけられたお優しい父上と母上のアドバイスと言う名の駄目だしは三時間にも及んだのだった。
翌日の午後三時。
海辺には両親にデート現場まで車で送られた男の姿があった。その男は大きなピクニックバスケットを持って真新しい服を着ている。
というか、僕だった。
ピクニックバスケットの中身には、自信がある。朝から家族会議の疲れが残る中で、しっかり下味にこだわって衣のカリカリを引き立てるために二度揚げした唐揚げ、しっとりと仕上げたポテトサラダ、時間が経っても伸びないようにオリーブを使ったトマトベースのショートパスタ、苦手な食べ物や飲み物が分からないので様々な種類のサンドイッチ。付け合せのレタスやブロッコリー、トマトが目にも鮮やかだ。魔法瓶に温かいコーヒーと紅茶、ペットボトルにジンジャーエールを準備。最後にデザートも用意している。やっぱり好みが分からないので数種類のケーキ。
海なのでレジャーシート、おしぼりもばっちり持ってきている。
だが、問題は外であることと服だ。
まず、今朝。
あまりに人がいるかもしれない怖さに外に出れなかった僕は警察に連行される容疑者よろしく、両親に強制的に自動車に連れ込んでもらった。予想通りシーズン・オフである海には人っ子一人いないのが唯一の救いだが、あまりに普段と違って全視界に広がる空間に目まいがしそうだ。…冗談でもなく、脳が普段より視覚から入る情報量の多さに驚いている気がする。
それに服。
外を出歩かない僕はオールシーズン料理人用の服かジャージを着ている。今着ている真新しい服は早朝両親がわざわざIS学園近くの有名ショッピングモール『レゾナンス』で買ってきたらしい。「黒のテーラードジャケット、白のVネックTシャツ、濃紺のジーンズ、黒いブーツが嫌いな女性はいないんだと。これを着て行きなさい」と言いながら、僕の前にそれらを差し出した両親の満面の笑みを思い出した。
テーラードジャケットって何だよ…。
真新しい服はどれもそうだが、特に丈の短く仕立ててあるこのジャケットは大変着心地が悪かった。薄手でひらひらしているのに確か付いていた値札には20948円と書かれていたような…父さんや母さんの気持ちは嬉しいが、そんなに高価でぴしっとした格好良い服が僕に着こなせるはずもない。むしろ着ていることが申し訳ない。
ふがいない息子でごめんなさい。
僕は内心で両親に謝りながら、バスケットにジャケットを押し込み、家から隠し持ってきた普段部屋で愛用している灰色で丈の長いカーディガンを着た。多少毛玉はたっているし、厚ぼったくてくたびれてはいるけど、さっきのよりはまだ落ち着く…
「待たせたか?」
背後から聞こえてきた声に僕は飛び上がりそうになった。
さっき時計を見たときは三時だったはずだ。約束の時間までまだ時間があるので、弁当の中身が崩れていないかとか、あとあまり変わらないだろうけど身だしなみも確認したかったんだけど…
そう思いながら、振り向いた僕は固まってしまった。
千冬さんがいた。
ここまではまだ分かる。
だが、昨日見た彼女の感じとは大分違っていた。
スーツではなく、………何と言ったらいいのだろうか。
袖や裾に繊細なレースで描かれた花が浮かび上がっている白い半そでシャツ。薄い生地で出来ていて、海からの風に任せてふわふわとなびく。シャツの下には少し濃い目の青いタンクトップを着ている。…重ね着と言うやつだ。小さな金の首飾りがゆらゆら揺れて、何とはなしに彼女の鎖骨まで見てしまい、恥ずかしくなってうつむく。
うつむくと足もとまで千冬さんがおしゃれであることが分かった。七分丈の薄いミルクティーのような色をしたズボンに、細い素足に絡みつくようなつくりの白いサンダル。
黒いスーツもまた凛としていて綺麗だったが、今日の服装は女性らしくどこか可愛らしさを感じる。
先ほどまで自然と目に入る広い空間に辟易していたが、今の僕は彼女しか見えなかった。
僕は天にも昇るような心地になった。
だが、その数瞬後、自分の格好が恥ずかしくなる。
毛玉のついたカーディガンとそのほかは真新しい服というちぐはぐなファッションで引きこもりの僕。上から下まで完璧で美しい彼女に並ぶなんて、やっぱり変だ。
恥ずかしくてもいいからテーラードジャケットとやらを着ているべきだった…
後悔したものの、今更着替えるわけにもいかない。僕が落ち込んでいると心配げな千冬さんの声がかかった。
「はなぶささん?…かなり待たせたのか?」
あ。
顔を曇らせた彼女を見て僕はハンマーで頭を打たれたような気持ちになった。
慌てて「いえ、まったく!!」と返した後で「今日は…その、昨日と、随分感じがちがいますね」と言う。
そしてまた後悔する。『可愛いですね』と褒めようと思ったのに…
千冬さんは斜め下を向いて髪の毛を触りながら「…スーツと私服では雰囲気も違うだろう」と言った。
そういう意味じゃないです、千冬さん。
僕は勇気を振り絞って「よく、似合っています…」と言った。ただし、蚊のなくような小さい声で。
千冬さんに聞こえただろうか?それとも聞こえなかった?どちらにせよ、反応を返されるのが怖かったので「行きましょう」と砂浜の方に足を踏み出した。
一拍おいて後ろから砂の上を歩く音がする。
その日の海は穏やかだった。寄せては返す波の規則的な音がドキドキと高鳴る胸の鼓動を鎮めてくれる気がした。
「お昼、食べられましたか…?」
「…忙しくてあまり」
僕は振り返ってバスケットを掲げた。
「あの、軽食を作って来たので…海、見ながら、食べませんか?」
千冬さんはピクニックバスケットの存在に初めて気づいたように目を瞬かせると、「ありがたくいただこう」と微笑んだ。
軽食を食べながら僕らは話をした。とはいっても、盛り上がったとか、ずっとしゃべっていたという訳ではない。ぽつりぽつりと話し、会話が途切れたら波の音に耳を澄ましたり空や海を見たりご飯をつまんだりしただけだ。
沈黙が走っても気まずくはなかったが、千冬さんを意識してそわそわしてしまうので僕にしてはかなり話したと思う。
一時間半は経っただろうか。
僕は、ずっと胸にひっかかっていることを聞くことにした。
それは、千冬さんがドイツに行ったら本当に一年間ずっと帰ってこられないのかということだった。喉がからからになったので、その場にあったコーヒーで口の中を湿らせて尋ねる。
「ドイツ……で、何をするんですか…?」
僕は今日何度目か分からない後悔をした。
聞くのが怖かったのは確かだが、自分がちゃんと質問も出来ないくらい臆病なんて情けなかった。
「…ああ、教師だな」
「何の教師ですか?」
「機械関係、かな」
また少し沈黙が落ちた。
千冬さんはすっとレジャーシートから立ち上がって、海辺に向かう。
海風に彼女の黒い髪がはためいた。
太陽は傾き始め、薄暗く少し肌寒い。これでは薄着の千冬さんも寒いだろう。
何か上にかけられるもの……
「…」
僕はバスケットを開けてテーラードジャケットを取り出した。今日の彼女の格好に合わないかもしれないが、風邪をひいてはことだ。
ジャケットを渡しに歩み寄る。
大粒の砂ばかりある浜を歩くとざくざく大きな音が鳴った。
千冬さんが気付かない訳ないのだが、彼女はそれでも僕が声をかけるまで海――さらにその向こうを睨むように立っていた。寄ってくる波が彼女のすぐ足もとまで迫っている。
僕はすぐ隣まで行くと声をかけた。
「千冬さん、寒くなってきたでしょう…どうぞ」
「ああ、…」
彼女は僕の方を見て、手を差し出した。その手の上に上着を置く。
ひらりと軽いジャケットだが、何だか今の千冬さんは儚げで、それを置くのもためらわれるほどだった。
「はなぶさってどう書くんだ」
唐突に千冬さんが口を開いた。
疑問に思いながらも、しゃがんで近くにあった短い木の枝で砂浜に『英』と書く。普段字を書くことがないし、木の枝は長い間海を漂っていたのだろう、中身がすかすかで書きづらかった。
「下手だな…何と書いたんだ?」
「…英語の英だよ」
思わずすねてしまった。ほぼ同時に波が僕の字を消す。波の音で子どもっぽい反論が聞かれなかったらいいんだけど。
「『書き直せ』だとさ」
顔を上げると千冬さんがくすくすと笑っていた。
「あと、私は『教師』になるが、英の教師じゃない。さっきみたいに敬語は使わなくていいんだぞ?」
どうやら聞かれていたらしい。
それに、さらっと呼び捨てされた。
可愛らしい笑みと名前呼びに心臓が耳元にあるのではないかと思えるほど、ドキドキという音が聞こえる。
本当に千冬さんはずるいよ。
僕ばっかり振り回されているようで悔しかったので、思い切って僕も名前で呼んでやろうと思った。
「じゃあ、ちふゆ…って書いてみて、よ」
…予想以上に照れくさく、お茶を濁してしまった。
どぎまぎしている僕を尻目に、彼女は僕の手から枝を受け取ると、同じようにしゃがみこんですらすらと自分の名前を書いた。
千冬
達筆だ。
さらに悔しくなって、近くにころがっている菓子パンの袋に描かれているキャラクターを指先で描いてみる。
大きな丸い目に二本の耳、じぐざぐのしっぽにネズミとは思えないほど愛らしい体躯。
ピカチュ●。
絵ならうまいんだよ?
千冬さんは感心したように笑ったが、すぐさま言った。
「懐かしいな。でも目が大きすぎじゃないのか」
「こういう絵は目が大きい方がかわいい、んだよ…少女マンガだって顔の三分の一くらい目でしょ?」
「そうか?」
そうこう言っているうちにまた波がきた。ちょうど顔半分が消え失せる。
「やっぱり『書き直せ』だとさ」
こらえきれないというようにまた千冬さんは笑った。
僕は無言で千冬さんに枝を渡す。
「え?」
「今度は、千冬、が描いてみてよ」
彼女は非常に困った顔をして、パンの袋を睨みつけるように見ながら某電気ネズミを描いていく。
ちょっと後悔した。
非常に写実的でピカソの再来を思わせる力強さ。
極度に抽象的で、愛らしさはなくどこか不安になるような非対称性。
思わず見ずにはいられない圧倒的な存在感。
「「……」」
僕らは無言で絵を見つめた。
沈黙が落ちる中、静かに波が砂浜の絵をかきけした。ご丁寧に全部。
「………ボツだってさ」
横を見ると眉間に縦じわが入るほど、盛大にすねた顔をしていた。
今度は僕が笑う番だった。
彼女の凛とした顔、きれいな顔、色々好きな顔はあるけど、今のように子どもっぽい顔は初めて見た。その顔も好きだ。
「ありがとう」
気がつくと、ぽつりと言葉が出ていた。
千冬さんはよく分からないという顔をしている。
「今日だけでも…いちにちだけでも、…色んな顔が見れて、思い出も、出来た。また…一年後でいいから、会って…ください」
彼女は笑った。儚くなんかない、沈み落ちる夕日が地上に最後に見せるような強い強い笑顔だった。
「一年も待つ必要ないさ。心配をかける愚弟は日本にいるし、…また会いに来る。それに、ほら」
彼女はちょこんと僕のかけたジャケットをつまんだ。
「これだってすぐ返しに来るさ」
彼女はすごい。
僕の不安も恐れもすぐに吹き飛ばしてしまうのだから。
僕はもう一度「ありがとう」と口の中でつぶやいた。
これを書くためにファッション雑誌一冊、服飾のサイト数件を熟読してきた!
絵を描きながら必死でファッションを考え、雑誌を切り貼りしていた私を誰が小説書いている人間だと思えただろうか。
千冬さんのかわいさが数パーセントでも伝わることを願います。
※2012年7月29日、内容を少し編集しました!