案外早かったですね。
「何やってるの、笹木くん」
呟いた私に、彼が向けた視線は動揺したものだった。
笹木大輔。同じ専門学校の一回生で、私と別の音楽科に通っている。初対面で私を子ども扱いしたやつ。どういう経緯かは知らないけれど、磯川たちとは初めから親しかったよう。歌を歌わない音楽科、でも良い声はしていると思う。
というか今聞いた。
「あ、えっと………」
あたふたせず、座り込んで言葉に詰まっている。ゆっくりと、手を後ろのギターケースに伸ばす。
「路上ライブ、なんてやってたんだね」
びくり、と手が止まる。緊張を取ろうとしてはなった言葉は思ったよりも相手の心に響いているよう。普段感じたことのないえも言われぬ嗜虐心が浮かび上がる。気まずげな顔、いい顔である。眼福。
「ま、…まあ音楽科だから…」
「私たちには聞かせたことないのに?」
う、と息が止まる。別段それが悪いことでもないし、恥ずかしいことでもないのだが、彼にとっては後ろめたいことではあるのだろうか。嵌まったこれはいいネタになるのやも。
俯いた彼、そこまで深刻そうには見えないけれど、あまり顔が見えない。
「………一身上の都合で」
「…ふーん」
なんだかかわいそうに思えてきたのでいじめるのはやめておく。もともとそれほど趣味でもない。恨みがましそうに私をにらむ彼はなんだか可愛らしい。
一身上の都合。別に話してもらわなくても構いはしないけれど、気にならないのも嘘にはなる。しかしそれを踏み込む勇気も手段も関係性も今の私にはそれほどなくて。というより別にそんなもの誰でも持っているはずだと自分に言い聞かせる。
「二次会、あったんじゃないのかよ…」
「あったけど、いかなかった」
ふーん、と呻く彼の横に腰を下ろす。嫌そうな顔を浮かべはするが何か言ってはこない。ヘタレなのではなく、言う必要がないというか。溜息を一つ、ギターケースから手を離す。
身震いをして寒そうにジャケットの上から体をさすった。明らかに身軽なお金も持たない、貧しいバンドマン。お金がないわけではないらしいが、そういえばこの前機材を買ったと自慢げに話していたような。
首に巻いたマフラーを、外す。
「…なに」
つきだした私の腕に載せたマフラーを見て彼が呟く。聞かなくても分かるだろうに。面倒くさくてもう一度つきだすと、御礼を言って首に巻いた。少しだけ顔を赤くする彼を眺めながら、少しだけ満足。白い息を吐き出す。寒いですと、彼にアピール。
複雑そうな顔をするが何かを言うことはなかった。
「今日来なかったね」
友人とは言うが、彼は磯川と平岡の友人である。初めの何かがあっても私は特別親しくはないのだ。三人、四人でなら会話が続くが、二人であるならどうかと問われれば言葉にならない。
ぶっきらぼうに聞く私の印象は悪いだろうか。ちらりと見るがその顔は別段そうでもない。
「……気が進まなかったから」
「みんな寂しそうだったよ」
「へえ」
へえ、って。
まあ話したくないのであるなら仕方がないのだろうか。それでもあまり会話を続ける気がないのは感じ取れる。続ける気がないというか、おそらく気まずいのだろう。私も現状そうであるし。
彼の右手がギターを掴む。弾く。ぼーんと低い音が間延びする。
「なんでこんな場所でやってるの?」
「…こんなって」
「だって人来ないでしょ」
来ないけど、と彼が言った。
「それでいいんだ」
それは寂しげだった。じんわりと広がる低音が辺りを占める。吐く息は白く、視界は黒く。薄暗い月光だけが彼と私を照らしていた。今日は聖夜なのに。彼は光を欲している。
「…へえ」
「へえ、って……」
おいおいと困り顔。くすり、と口がほころぶ。訝しげな彼の顔。ころりと変わる顔に再び笑みが。なんだか心地いい。この空気、嫌いじゃない。
「最初に笹木くんが言ったんだよ」
「…………確かに」
手持無沙汰。再び響く弦の音。今度は少しだけ高い音。こっちの方が好きかも。
ふと、熱がこみ上げる。先ほど聞いたメロディが頭から離れない。何度も街中で聞いたメロディ。それでも何度も聞きたいと思ってしまう彼の旋律。急にどうしたと自分の体に聞きたいが耳からあれが離れない。
彼の顔を眺める。不思議そうに薄めで返される。構わず見ていても、そちらも逸らすことはない。
一分ほど経っただろうか。構わず見つめ続けるが、何か言ってくる様子もない。だから、もう一度聞きたくなった。
「ねえ―――歌ってよ」
直ぐには答えは返らなかった。
息をつく。彼の口から、あの美しい音を奏でる口から白い息が空へと昇る。
「やだよ」
「いいじゃん、せっかく綺麗な声なのに」
うっ、と顔を赤くして逸らされる。勿体ない。
「聞きたい、
我儘な私を彼は意外そうに見る。普段見せない私を出すほどには、彼の唄に惹かれていた。彼の声に恋していた。その声がもう一度聞きたくて、その音が深く残っている。
「あのな、矢野」
「聞きたい」
引けば負ける、分かっているから押す。うんと言ってくれるまではこれしか喋らない。いやしかし、引いてしまってもいけるのか。
睨みあいは続く。懇願するように彼を見上げる。見返す彼は少したじろいた。赤い顔で私を見る彼を見て、もう一押しだと思った。引くべきか、押すべきか。
ああ、それでも。このように思考で彼をどうやったら歌わせられるかと、考えているけれど。本当のところは、面白がっているわけでもなく。真摯に彼の歌が素晴らしいと思ったので、彼の声が好きだったので。それを本当にもう一度でも聞きたいと思って。
せっかくの聖夜なのだから、お願い一つくらいは叶えてくれても。
「―――歌ってよ」
「―――」
一瞬息が詰まった、ようで。どこか寂しげで悲しげで、私は嫌な奴だろうか。それでも彼はすぐに元にも戻り、うーんとうなり始める。やがてため息を大きく一つ。もう一つ。加えてもう一つ。どれだけする気だ。
やれやれ、と顔を上げるといつもの顔があった。
「みんなには、秘密だぞ」
言うもつかの間、彼の右手が、左手が揺らめいた。
「Last Christmas I gave you my heart」
歌い始めたのは先ほどの曲だった。Last Christmas。日本でも有名な、というか日本では本当に有名な曲。失恋のようなそうでないような誰でも共感できるような文面、らしい。けれど言うほどに、私は、英語なんて分かりはしないから。
ただ、目の前の彼と、その音を追うことで精一杯。
「But the very next day you gave it away」
優しげに左手で抑えるコード。リズムよく走る右手。奏でる和音はこの夜には些か染み入りすぎる。弾く、弾く、弾く。音の重なりがこの空間を他と隔絶させる。
「This year, to save me from tears I’ll give it to someone special」
彼はどうしてここにいるのだろうか。どうしてこんなところにいるのだろうか。とても勿体ない、けれど。彼の才能を今この場所で私が独占しているという、欲が私を嫌な女に変える。聞いている人間が今この場で私だけ。同時に、この声は、誰かに聞いてもらうためのものだ、と思うのだ。
寂しげであった。その声は寂しげであった。
たまらず、どうしてか涙があふれてきて。
別に傷心でもないのに、何かが嫌だったわけではないのだ。今日はとても楽しかった、日々は充実している。だから感情で泣いたわけはないのだ。感情で、流されるように泣いたわけではないのだ。
心を思わず動かされるほど、この同い年の、同じ学校の、同じ友達を持つ、彼の声が魅力的で。彼のそれがすごく心に残る。爪痕を残す。だから、年甲斐もなく、涙を流す。
「Last Christmas―――、っ」
演奏が止む。
心配した彼の顔。
「どうした、矢野………?」
声をかけられるけれど、うまく返すことは出来ない。流されるようにとは言ったが、でもどうしてか過去の少しだけ辛かったこととかを思い出す。大したことではないけれど、でも。
あたふたとした彼は鞄からタオルを取り出して私の目元を拭う。心配する顔はとても大人びていて、同時に撫でてくれる手がとても暖かく感じた。
「何か、…嫌なことでもあったか」
ふるふる、とゆっくり首を振る。そんなことはなかった。彼に、大輔に会ったことまでがとても良い一日だった。でも泣かずにいられなかった。
「………そういえば、了に客が入り込みすぎるからバラードはあんまし書くなって言われてたな」
撫でる力が弱まる。何の話をしているかは分からなかったけれど、どうしてか涙は止まらなくて。慰める彼がとても優しくて。
「―――きっと、矢野は優しいから、感受性が豊かなんだろうな」
「大輔くんはっ、どうして、こんな誰、もいない、ところで、演奏をするの…っ」
涙は強くなる、彼の指が温かい。何か理不尽な気がするのだ、彼が寂しげに弾くことは。間違っている気がするのだ。彼の声が誰かに届いてほしい。
手は止まない。
絶えず優しく、柔らかく。
「俺は女々しいから」
そう言ってくしゃくしゃといっそう撫でられた。
それ以降何も言ってはくれなくて、ただ私たちの息だけが音を立てる。次第に私たちを照らしていた月光はどこかへと消えて、薄暗い空間で私は彼を見つめる。
整った顔立ち、安い整髪料で簡単に整えられた黒い髪。体格は痩せ気味、あまり食べていないのだろう。顎の下、マフラーの隙間、首の中間に見える大きな喉仏。発する声はとても魅力的で。この声がもっと誰かに届きますように。
見つめる私を訝しむ。
どうした、といわれる前に声を出す。
「………少し、づつ」
「えー――?」
「少しづつで、いいから、皆にも歌、聞いてもらおうよ」
それは涙で掠れてしまった声だったけれど。言うたびにまた涙が出てきたけれど。まだ子供だなって、自分に嗤えてはきたけれど。それでも彼の力になりたいと思った。彼を支えてあげたいと思った。
「そしたら、少しづつ大丈夫になるよ、きっと」
何がとは知らないから言えなかった。絶対とは無責任に言えなかった。けれどきっかけになれば、いいって、思うから。
彼は少しだけ寂しそうに、ぐしゃっと強く私を撫でて。
「―――そうだなぁ」
そう言って笑った。
そうしてどうしてか私は少しだけ救われたような気になれたのだ。その顔を見て、涙は流れなかった。代わりに喜びがこみあげてきて、知らず口角は吊り上がった。
時刻はもう十一時というか十二時手前。左手のシンプルな腕時計を見て気づく。もうすぐ日付が変わるが今日は聖夜、クリスマスなのだ。目前で微笑む彼は関係なくこんな場所に来ていたけれど。
でも、喜びは、楽しさは、お祝いはみんなで分かち合いたい。
「ねえ大輔くん」
「ん?」
「メリークリスマス」
一瞬呆け顔の彼は、その言葉に理解が及んで。ああ、と頷いてこちらを見た。ああ、確かに皆が言うように彼の顔は整っている。私じゃなければ惚れていたところだったろう。
薄く微笑んで。
「メリークリスマス―――エリカ」
きっと私は撃ち抜かれた。
大輔の過去的なのは、人死や、虐待などではありません。
もし予想されたりとか、期待されている方の期待に添えられるものではないかもしれないです。
あんまし重くないと思います。
難しい。