世界を変える選択
右手に持った剣が、弾き飛ばされた。
「っ!」
突進してくる獣。
咄嗟に左手の剣で庇う体勢を取ったが――怪我を覚悟したその時に、白いコートの、広い背中が立ちはだかった。
ざしゅ、と何の抵抗もなく斬り捨てられる音。
広い背中の向こうで、どう、と、獣の身体が倒れ伏す音を聞いた。
「これは、判断力を試すテストだったんだよ」
あっさりと獣を切り伏せた男――クランスピア社きってのトップエージェントであり、今回の採用試験官であるところの男、ユリウス・ウィル・クルスニクは告げた。
「ルドガー・ウィル・クルスニク。不合格だ」
それは、決して不条理な判断ではなかった。
ルドガーとて、これが他の試験官であれば、肩を落としてその結果を受け入れただろう。
しかし。
「あの、試験官」
諦め切れなかったルドガーは、挙手して発言を求めた。
「なんだ? ルドガー」
応じたユリウスの表情には、試験中の厳しいものとは違い、多少なりともリラックスした様子が窺えた。そのことが、ルドガーの背中を押した。
「ユリウスがいるので、一撃凌げれば増援がくると当てにして突っ込みました……では?」
ルドガーの物言いに、ユリウスは軽く目を瞠り――そして、苦笑した。
「……だとしたら中々冷静な判断力だが……お前、本当は違うだろう?」
腕組みし、お見通しだぞ、という口調のユリウス。
「……ええと……」
眼鏡越しに澄んだ瞳がむけられた時点でルドガーの負けは確定していたが、それでも突破口を求めて色々と考えをめぐらせ――結局誤魔化しきれずに、てへ、とルドガーは笑った。
これが他の試験官なら、それなりに言い訳を重ねることも出来ただろう。
だが、今回ルドガーを物言いに踏み切らせたのと同じ理由で、今回の試験官であるユリウスには、どんな誤魔化しも通じない。
ルドガーの照れ隠しの笑みを見て、ユリウスも柔らかく笑んだ。
「俺を騙そうなんて、十年早いぞ、ルドガー」
「はーい」
ぽんぽん、とユリウスに――たった一人の肉親である兄に――頭を叩かれて、ルドガーは全面降伏した。
大企業、クランスピア社の入社試験に落ちたルドガーは、それから色々まわって、ようやく駅の食堂に就職の口を見つけた。今日はその、初出勤の日である。
「おはよう、ユリウス」
自室で身支度を整えたルドガーが朝の挨拶と共にリビングに入れば、「やっと来たな」とユリウスが微笑んだ。
「おはよう、ルドガー。……全く。今日といい、クランスピアの試験のときといい。お前は時間に余裕がないな。これは、兄から、社会人の心得を話しておくべきかな?」
「……時間には余裕を持って、以外なら拝聴するけど」
ルドガーは肩を竦めつつ答えた。
クランスピアの入社試験に、時間ぎりぎりに駆け込んだのは、ルドガーとてまずかったと思っている。その反省があるからこそ、今日はちゃんと朝食を作って、食べて、後片付けも出来る余裕を見て起きたのだ。ルドガーに言わせれば、ユリウスが早起きすぎた。
「そうか。となると……」
ユリウスは軽く考え込んだ後、一つ頷いた。
「よし、それじゃあ、これだな。君子危うきに近寄らず」
「……試験のこと根に持ってるの、ユリウスのほうじゃないか」
何かとクランスピアの試験にからめてくるユリウスに、ルドガーは呆れた。
ユリウスは、入社試験に失敗して落ち込むルドガーに、クランスピア社のことは忘れて切り替えろと折々に言っていた。どうかすると、試験努力が報われず気落ちしたルドガーよりも気にしていたかもしれない。
そして、「切り替えろ」の次に多かったのが、この「君子危うきに近寄らず」だ。試験で勝算なく獣に立ち向かったのを、まだ根に持っているらしかった。
しつこいと顔を顰めるルドガーに、しかしユリウスは動じなかった。
「当たり前だろう。たった一人の弟に、下手なことに首突っ込んで死なれるのは御免だからな」
「……わかった、わかりました。自重する」
親代わりとなって育ててくれたこの兄が若干過保護気味なのは、今に始まったことではない。
そして、たった一人の肉親を、ちょっとした無鉄砲、なんてことで失うのが願い下げなのは、ルドガーとて同じだ。
なのでルドガーは、両手を上げて降参した。
ちょっとおどけたそんな動作でも、ルドガーの言質を取ったことで、ユリウスは安心したらしい。
眉根を寄せて少し険しかった表情が、安堵に緩んだ。
「ああ、そうしてくれ。――さて、シェフ、今朝のメニューは?」
そして、ルドガーの初出勤日であること以外は何にも変わらない、いつもの朝が始まった。
朝食の後片付けを終え、ユリウスの出勤も見送ったルドガーは、戸締りをしてマンションを出た。
途中、トリグラフ駅から出発する列車に乗るという青年に出会って案内したのまでは、まあ順調な滑り出しといえただろう。
しかし、その後が宜しくなかった。
何故か見知らぬ少女に変質者扱いされ――駅員の注意がルドガーに向いている間に、件の少女は、青年も乗った特別列車に駆け込んだ――周囲から冷たい視線を浴びた。
そして、突然の襲撃である。
何の予告も、前触れもなく起きたその襲撃に、改札近くにいたルドガーは巻き込まれた。
「……くっ」
目くらましの白煙が立ち込める構内。銃撃の音が止んだあたりで、床に伏せていたルドガーは身を起こした。
「……何なんだ、一体……っちょ、大丈夫ですか!?」
白煙の残る周囲をざっと見回してみたルドガーは、すぐ傍に、駅員が血を流して倒れているのを発見した。何かの破片で頭を切ったらしく、鮮血が額を伝っている。意識は無いようだが、呼吸は確認できた。
「ええと、止血止血……」
ルドガーは駅員の傷口にハンカチをあて、ネクタイを包帯代わりに応急処置を済ませた。
「これでいい……かな」
これ以上自分に出来ることはなさそうだと判断して、ルドガーは顔を上げる。
周囲をもう一度見渡せば、救急隊員がちらほらと姿を見せ始めていた。
これならあとはプロに任せられると、少なからずほっとして――
「……! そういえば、列車!」
ルドガーはようやくそのことを思い出した。
あの列車には、道案内をした青年と、ルドガーを利用した少女、そしてその少女にくっついて、何故だかルドガーの飼い猫であるルルが乗りこんでいた。
しかし、構内にはすでに列車の姿はなかった。
「……壊された……というよりは、出発したって感じか?」
少なくとも、列車が破壊されたような痕跡は見受けられず、そのことにルドガーはほっとした。
襲撃者が乗り込んでいるのでまだ不安があるが、ルルは賢い猫だから、そのうち帰ってくるだろうと自分に言い聞かせる。勿論、ルルだけでなく、あの青年、そして少女のことも気にはかかったが、優先順位としては、愛猫のほうが上だ。
「君、大丈夫か!? 怪我はないか!」
「あ――はい。俺は大丈夫です」
心配してくれる救急隊員に微笑み返して、ルドガーは、さて、初出勤の今日はこれで仕事になるのだろうかと、己のことを心配してみた。