「ミラ」
落ち込むミラを、ルドガーがそっと呼んだ。
「っ」
名前が呼ばれただけ。
だが、そこに含まれる暖かさと優しさに、ミラはハッとして、思わずルドガーを見上げた。
ルドガーは、穏やかな微笑でミラを見つめていた。
「……あ……その……」
「ミラ。誰に聞いてもっていうのは間違ってるぞ。だって俺は、ここにいるミラを選ぶんだからな」
「! ルドガー……」
その優しい微笑みに、ミラは見惚れた。
ここのところずっと塞いでいた胸が、すっと軽くなった心地すらした。
「っあ、あなた、わかってるの? 私は偽物で……」
だが、意地っ張りなミラは、それを素直に受け止めることが出来なかった。まるで自分の希望を打ち砕くかのように、己を否定する。
「大体理解できてると思うんだけどな。ようはパラレルワールドのミラ二人が同時存在できないのが問題なわけだろう?」
「……何いってるのか、私のほうがわからないわ」
腕組みして考え深げなルドガーは己の言葉に納得しているようだったが、しかしミラはパラレルワールドなる言葉を知らず、従ってルドガーが本当に理解しているのかの判断がつかなかった。
「リーゼ・マクシアではどうかわからないけど、こっちでは結構あるフィクションのネタだよ、ドッペルゲンガー的なものは」
「……なら、解決方法もあるんでしょうね?」
また耳慣れない言葉が出てきたが、今度は疑問よりも反発心のほうが強かった。
腰に手をあて、はっきりとした解決策を求める。
「……どうだったかな?」
「ちょっと! 期待させておいてそれはないんじゃない!?」
散々思わせぶりなこと言っておいて! と怒るミラに、ルドガーは苦笑しながら謝った。
「悪い。でもその前に、こっちの世界のミラとやらは、どこにいるんだ?」
「それは……この世界じゃない、どこかよ」
「じゃあ、遭遇しないままでいいっていうわけには……」
「そんな簡単な問題じゃないの。……あなたは知らないでしょうけど、エルたちの探し物を、こっちの世界のミラが邪魔してて……邪魔を取り除くにはミラをこっちに戻さなくちゃいけなくて……つまり私が邪魔なわけよ」
「ミラが邪魔をしている? どうして?」
「知らないわよ。知らないけど……精霊の力を使ってて、それが邪魔になってるの」
「精霊の力?」
「……私と違って……こっちの世界のミラは、今も、精霊の主だから……」
かつて己も持っていた力を思い出して、ミラは切なくなった。
こちらの世界のミラは、今もなお、マクスウェルなのだ。
その称号が、今も使命をもっているこちらの自分が――少し、羨ましいと思う。
「精霊の主……ってことは、生身の人間とは違うのか?」
「……まあね。マナを使って実体を持つことは出来るけど、基本的には精霊と一緒ね」
「……ならさ、憑依は出来ないのか?」
「ひょうい?」
突然の言葉に、ミラは思わず聞き返していた。
「精霊って、ようはお化け……精神体なんだろ? けど俺の目の前にいるミラは、人間だろ?」
「ちょっと! 精霊をお化けなんかと一緒にしないでよね! ……まあ、人間とは存在が違うのかといわれれば……そうだけど」
エレンピオス人の無知さにかちんと来つつ、それでもミラは頷いた。
人間と精霊の存在のありようが違うのは確かである。
「なら、人間ミラの肉体に、精霊ミラがちょっと間借りするって形で解決できないのか?」
「…………」
「ドッペルゲンガーがどういう理由で同時存在できないのかがわかってないから、確実なわけじゃないけど……可能性としては、あり、じゃないか?」
「……かも、しれないわね……。……でも、私は……」
そこでミラは俯き、曖昧にぼかした。
何故だかミラは、ルドガーに、自分が人間ではない、という気にはなれなかった。
彼の折角の提案を却下するのが躊躇われたのか、あるいは――
「……ミラ?」
「……あ、な、なんでもないわ」
考え込んでいたミラは、気遣うような声をかけられて、慌てて顔を上げた。
心配そうなルドガーに、小さく笑ってみせる。
「――そうね。どういう理由で同時存在できないのかは、調べてみる必要がありそうね」
ルドガーの言うとおり、正史世界で同一物が存在できない理由は不明である。
本物がこちらにある以上、偽物には存在価値がないのだとミラは思い込んでいたが、もしかしたら、全く別の理由かもしれないのだ。
「ん。他にも、ドッペルゲンガーには何でもいいから悪口をいえばいいとか、むしろ融合しちゃうのがいいとか」
「……意外とあるのね」
提示された可能性に、ミラは感心するやら呆れるやらである。
「だろ? じゃあ次のステップだ。今の可能性をもっと突き詰めてみようじゃないか」
「……貴方に出来るの?」
ミラは胡散臭げに訊ねた。
ルドガー曰く、本で得た知識、である。まさか実験できることでもあるまい。
「俺には無理だよ。精霊のことはわからないからな」
「なら駄目じゃない」
案の定、あっさりと否定するルドガーに、ミラは肩を竦めた。
解決策が見つからないといわれたようなものなのに、それでも何故か、気持ちは格段に軽くなっていた。
それだけでも、ミラは話した甲斐があったと思えて満足だったのだが、ルドガーはそこで終わろうとはしなかった。
「けど、俺の友達には、精霊に詳しい人がいる。ジュードとか。あと、最近精霊そのものとも知り合いになったんだよな」
「……姉さん……」
分史世界のミラの姉ではない。
だが、こちらのミラの姉であるミュゼも、大精霊である。精霊の知識に関しては頼りになるだろう。
「希望が見えてきたか? やっぱり、ほうれんそうは大事だよな。ミラ」
「……ほうれんそう? なんでいきなり野菜が出てくるのよ」
「はは、野菜じゃないよ。社会人の心得、その4。報告、連絡、相談をしましょうってな」
眉根を寄せるミラに、ルドガーは笑って解説をした。ちなみに社会人の心得その4は、ユリウスではなく現在の職場で掲げられたものである。
「ほう、れん、そう……ああ、なるほどね。……ふふ、面白いこというのね、こっちでは」
確かに、一人でうじうじ悩んでいたのが馬鹿みたいに思えた。
「……その、ルドガー」
「ん?」
「……あ、ありがとう……」
「ああ。どういたしまして」
照れながらお礼をいったミラに返されたのは、少年のような笑み。
その笑みに目を奪われたミラは――火照った顔を見られないようにと、慌ててルドガーに背中を向けた。