分史世界から最後の道標を持ち帰ったユリウスは――何も言わずにGHSを開いた。
今はただ、ルドガーの声を聞きたかった。
優しいルドガー。その手が、まだ綺麗なままでいてくれているルドガー。
彼がいることを、確認したかった。
「…………」
しかし、ルドガーのGHSは一向に繋がらなかった。
「っ」
苛立って、ユリウスはGHSを閉じた。
ルドガーの今日のシフトは早番だった。今頃は家に帰っているはず。なのに、GHSに出ない。そのことが、ユリウスに言いようのない不安を抱かせた。
「――……ユリウスさん、ルドガー、出ないんですか?」
「……ああ」
ジュードの躊躇いがちの声に、ユリウスは低い声で短く応じた。
その余裕のなさがありありと伝わったのだろう。ジュードがユリウスの背中を押した。
「ユリウスさんは、一足先にトリグラフに帰ってください。僕たちは、今日はここに泊まります。……エルは、まだショックで動けないでしょうし」
「……すまない」
「……いいえ。僕のほうこそ……すいません。何も出来なくて……」
「――いや。……それでは、言葉に甘える」
「はい。お気をつけて」
ジュードの見送りを受け、ユリウスは駅に向かって駆け出した。
トリグラフ行きの列車に飛び乗り、到着までの時間をじりじりと過ごす。
途中何度もGHSをチェックするが、相変わらずルドガーからの反応はなかった。
列車は、深夜近くになってようやくトリグラフに到着した。
列車のドアが開くなり、飛び降りる。改札を駆け出て、全力で家へと走った。
夜中だったので人通りは少ない。その時のユリウスを見かける人がほとんど居なかったのは幸いだったろう。それだけ、ユリウスの様子は鬼気迫っていた。
マンションの廊下も走り抜け、ユリウスは家に飛び込んだ。
明かりのない室内。
静まり返ったリビングに、ユリウスの胸はざわついた。
「――ルドガー? ……ルドガー」
呼びかけに返事が無いのは、深夜だからだ。
ルドガーはもう眠っているからだ。
そう己に言い聞かせて――ユリウスはルドガーの部屋のドアを開けた。
「ルドガー……」
そして、ベッドで寝てるルドガーを発見した。
――だが、いることを確認しただけでは、足りなかった。
眠っているルドガーは穏やかな表情をしているが、身動きは見られず……それが腕の中で消えていったヴィクトルの姿に重なって。
「…………」
恐る恐る呼吸を確認し、そこでようやくほっとした。
ルドガーはここにいる。
そのことに、ユリウスは感謝した。
「……ナゥー?」
ルドガーの枕元で丸くなって眠っていたルルが、ただならぬ様子のユリウスに気付いて眠たげな声を上げた。
「……ああ、ごめんな、ルル。起こしちゃったか。……大丈夫だよ」
幾分余裕を取り戻したユリウスがルルの背をそっと撫でてやれば、ルルは再び眠る体勢に戻った。
「……大丈夫だ。ルドガーは、ここにいる……」
ユリウスはルドガーの手に触れた。
すると、その手が握り返された。
「……ルドガー?」
まさか起きているのか、と囁くように声をかけてみるが、返事は無い。
どうやら反射的なものらしい。
「…………変わらないな、お前は」
ユリウスは小さく笑った。
昔、ルドガーが幼かった頃。寝かしつけて、部屋に引き上げようとしたユリウスの手を、まるで引きとめるように――そう、今のように、握り込んできていた。
「…………」
ルドガーの体温が、じんわりと伝わって――ユリウスの心を温める。抱いていた恐怖や緊張が、ゆるりとほどけていく。
しばらくしてからユリウスは、名残惜しく思いながらも、そっと手を引いた。
そして、ルドガーのGHSから己の着信履歴を消去すると、静かに部屋を出た。
翌朝、いつも通りルドガーより早く起き出したユリウスは、いつも通りの顔で、リビングにてルドガーの起床を待った。
ドアの開く音を聞いて、新聞を読んでいたユリウスは顔を上げる。
「――おはよう、ルドガー」
「あれ、おはよう、ユリウス。いつ帰ってきてたんだ?」
「昨日の夜中だ」
「そっか。お帰り、お疲れ」
「ああ、ただいま、ルドガー」
簡素ではあるが確かな気遣いに、ユリウスは微笑んだ。
「今日は、ユリウスは仕事?」
「――そうだな。急ぎの仕事はないが、会社に顔は出すかな。お前は?」
ユリウスは、台所で手際よく朝食を作るルドガーの背を幸せに眺めながら問い返した。
「今日は非番」
「そうか。なら俺も休みにするかな」
「……エージェントって、そんな気まぐれが許されるのか?」
胡散臭げにルドガーが振り返ったのに、苦笑する。
「はは。そういうわけじゃないが……大きな山を一つ越えたところだ。アフターケアの時間も必要だろう」
ジュードたちに任せてしまったが、エルが事を受け止め、納得するのには時間がかかるだろう。
ビズリーやヴェルならばエルの覚悟などお構い無しに動かそうとするだろうが、そのあたりへの反発は、恐らくジュードたちがするだろうとユリウスは踏んでいた。
結局その日、ユリウスは休むことにした。今は、可能な限り、ルドガーを視界に入れていたかった。
「……」
新聞を開いて読む振りをしながら、ユリウスは、ルルと戯れるルドガーを見る。
これからのことを考えれば、ここでルドガーとルルと逃亡生活に入るほうがより確実にルドガーを守れるのだろう。
だが――それはあまりに無責任だと思う。
一族の悲願を見届けることも出来ないし、ビズリーの目的を知り、場合によっては阻止することも出来ない。
それに何より、ルドガーに逃亡生活を強いることを、躊躇った。
上手く行けば――このまま、ルドガーは何も知らないままで、全てを終わらせることが出来る。
ルドガーとルルとの、穏やかな時間。
この穏やかな日を守るためならば、どれほどにだって、泥を被ろう。
ルドガーの手を白く保つためならば、どれだけ己の手が血に染まったとしても構わない。
――穏やかな表情の下で、ユリウスがどれほど物騒なことを考えているかを、ルドガーはしらない。
それでいい、とユリウスは思う。
ルドガーは、クルスニク一族の血なまぐさい呪いとは無縁に、幸せに笑っていてくれればいい。
そう思っていた矢先に――ルドガーのGHSが着信メロディを奏でた。
「もしもし、ジュード?」
「…………」
ルドガーの呼びかけに、ユリウスは緊張した。
が、表にだすことはなく、ルドガーの会話に耳を欹てる。
「ミラが? え? 駅に行ったかも? ああ、わかった。じゃあ、ちょっと見てみるよ。ああ」
「……どうした?」
「ん。なんか、ミラ……友達が、無断で連れと別行動してるみたいなんだ。もしかしたらトリグラフの駅にいるかもしれないから、確認してみてくれないかって。ちょっと行って来る」
「……ルドガー。俺も行こう」
「え? ユリウスも?」
既にドアから出ようとしていたルドガーは、驚いて足を止めた。
ユリウスがトップエージェントとなって以降は、ルドガーがユリウスの身内と知られぬよう、トリグラフで共に出歩くことは控えてきた。
精々、マンション前の公園で、友人を装って話すくらい。連れ立って出かけるのは本当に珍しい――というか、初めてのことといっていいだろう。
「……彼女とは、仕事で面識があるからな」
「え、そうだったのか? なんだ、なら言ってくれれば良かったのに」
「一応、機密扱いの仕事だからな」
「大変なんだな、エージェントっていうのも」
「そうだな」
労うようなルドガーの言葉に小さな笑みを返して、ユリウスはルドガーと肩を並べて歩き出した。