「おおおおおおお!!」
獣の咆哮を思わせるその叫びと共に、ルドガーの顔全体が、骸殻で覆われる。
――フル骸殻だ。
「よもや……これほどとは……!」
その進化の早さ、伝わる強さに、ビズリーですら驚愕した。
「ああああああっ!」
ルドガーは、目にも見えぬ速さで跳躍してユリウスの身体を越えると、反応し切れないビズリーの顔面に蹴りを叩き込んだ。
ビズリーの身体が吹き飛ぶ。
追撃は容易で、効果的であったことだろう。
だがルドガーは、ビズリーに追い討ちをかけるのではなく、ユリウスを振り返ることを優先した。
「……ルドガー……お前……」
「ユリウス、俺の、せいで……っ」
「……はは、俺は大丈夫だ。ルドガー」
ユリウスは、血に染まった両手を見せて微笑んだ。
確かにユリウスは槍で怪我を負ったが、それは突き出された槍の刃を両手で掴んだゆえのものである。槍は、ユリウスの骸殻に触れてはいたが、身体を貫いてはいないのだ。
「…………良かった……」
その事実を知って、ルドガーは心の底から安堵した。
ユリウスの言葉を無視してここまで来て、その上、自分のせいでユリウスを失うことになったとしたら、正気でいられる自信等、ルドガーにはなかった。
「ルドガー……」
俯き、縋ってくるルドガーを見て――ユリウスは、分史世界のルドガー、ヴィクトルの言葉を思い出していた。
ユリウスがいない世界は耐えられない。
その言葉の重みを、今まさに、痛感している。
ユリウスは、ルドガーを守るためならば命など惜しくはないと思ってきたが――違うのだ。
ルドガーを本当に守るつもりならば、ルドガーは勿論だが、ユリウス自身も、無事で居なくてはならないのだ。
「……ルドガー」
「何?」
ユリウスの囁きに、ルドガーは顔を上げて問い返した。
ユリウスは、ビズリーの動向に注目しながら告げる。
「……時間を稼ぐんだ。ビズリーに、骸殻の力を使わせ続けろ」
ビズリーは今、ふらつきながらも立ち上がったところだった。余程ルドガーの一撃が効いているらしい。
「わかった」
ルドガーは、何故、とも問わずに頷いた。
そっとユリウスの身体から離れて――少し躊躇った末に、ユリウスの血がついた槍を拾い、構える。
「――ふっ!」
そして、ビズリー目掛けて駆けた。
まずは飛び込み突き。かわされたら横になぎ払い。ビズリーの足元目掛けて斬りおろし、斬りあげる。
突き出された拳は柄で受け、逸らし、再び突く。
フル骸殻同士の戦いは、一進一退の攻防を続けていた。もう、ミラはもとより、ユリウスにも下手な手出しは出来ない。
一体、どれほどに槍と拳が打ち合わされたか。まるで演舞のようにすら思えたそのやりとりに、いつからか変化がおき始めた。
一突きごとに鋭さ、力強さを増していくルドガーに対し、ビズリーのほうにブレが見られた。
一撃が大振りになる。反応が半瞬遅れる。些細な変化ではあっても、この二人の高次の戦いではそれは大きな差となって現れ始め――
「ぐ、おおっ!?」
ついに、ビズリーは呻いて膝をついた。
「え……?」
驚いたのはルドガーである。これが一撃を食らわせてのことならば問題ないのだが、今のはそうではなかった。
ビズリーは、ルドガーの槍の一撃をかわしたあと、何故かいきなり苦しみだしたのだ。
「あ、あれは……!」
ビズリーの身体から噴出す黒い靄を見て、ミラはその原因に思い至った。
あれは、分史世界でみた現象。
「タイムファクター化……やはり、進行していたか」
そしてこれこそが、ユリウスの狙いであった。
「……ふ、ははは」
どこか力ない笑いと共に、ビズリーの骸殻が解けた。
「気付いていたか。ユリウス」
侵食は、ビズリーの顎に至っていた。
「……ああ。二十年前のクロノスとの戦い以来、一度も変身していない。……近いと思っていた」
「ははははは。流石だな。ユリウス。……早く、審判を受けるがいい」
「ビズリー……?」
ユリウスは眉を顰めた。
ビズリーは頭の切れる男だ。油断はならない。
そんなユリウスの警戒を察しつつ――ビズリーは、999999の数で止まっているカウンターを見上げた。
それは、タイムファクター化したものたちの数。
あと一人で、1000000。タイムファクターの上限値になる。
「……ふふ、私がタイムファクター化すれば、オリジンの審判は失敗に終わる……それは、我が一族の犠牲を無にする行為だ……」
それだけは、ビズリーは避けなければならない。
これまでの一族の犠牲を、無意味なものには絶対にさせない。
「ビズリー……」
一族の期待を背負い、悲願の成就を目標としてきたのはユリウスも同じだ。
だから、ビズリーの気持ちは――ユリウスにも理解できた。
「さあ、私が……踏みとどまっているうちに、分史世界を消滅させるがいい……」
タイムファクター化に伴う苦痛に耐えながら、ビズリーは腕組みをし――これ以上の邪魔はしないと態度で示した。
ユリウスは、その真偽を判断しかねた。
確かにユリウスは、ビズリーはタイムファクター化寸前まで行けば、負けを認めるだろうとは思っていた。上手くすれば、ビズリーを、最後のタイムファクターに出来るだろうと。
――が、これは潔すぎるようにも思えた。
だが今は、悩んでいる暇は無いのだ。ここにはタイムファクター化しかかっている人間が三人もいる。ビズリー、エル、ユリウスだ。そしてここではない分史世界で、今にもタイムファクター化が発生するかもしれない。
ユリウスは、決断した。
「……ルドガー、頼む」
「え? 俺が?」
骸殻解除して成り行きを見守っていたルドガーは、突然の指名に驚いた。
驚くルドガーに、ユリウスははっきりと頷く。
「ああ」
「……わかった」
ルドガーが、999999のカウンターに近づいていく。
ユリウスは、そのルドガーの後姿と――そしてビズリーとを視界に入れた。
あからさまな警戒をむけられても、ビズリーは気を悪くした素振りも見せなかった。
「……ふふ。そう睨むな。何も企んではいない」
「……」
だがそんな言葉を鵜呑みにするほど、ユリウスはビズリーに信用をおいていない。
緩まぬ視線にビズリーは小さな苦笑をもらし――ルドガーの背を、見つめた。
「今更甘言を弄しても、お前の弟は、お前を裏切るまい」
そして、ユリウスを見返す。
「――大事に、育てたのだな」
それは、どこか暖かい視線で――満足げな声音であった。
ビズリーが、このような表情で、このようなことをいうとは、ユリウスは思いもしなかった。
だが、それを嫌とは思わなかった。
――嬉しかった。
「――ああ。当然だろう」
だから、ユリウスが返した声も、穏やかで誇らしげなものになった。
閉じられていた空間が開かれ、瘴気の中からオリジンが滑り出てくる。
子供のような姿と声の彼は、クロノスを治療した後、ルドガーに問うた。
「さあ、君は何を望むの?」
「…………」
ルドガーは、ユリウスを見た。
ユリウスは微笑みながら頷く。
次にルドガーは、ミラを見た。
ミラはまっすぐに、ルドガーを見返す。
「…………」
ルドガーはミラに一つ頷くと、オリジンに向き直って告げた。
「――分史世界の、消滅を」
「わかった。君の願いをかなえよう」
オリジンを中心として、光が生まれた。
光は力を伴って空間を渡る。
世界に広がった光は、緩やかに明度を落とし、そして消えた。
これで――オリジンの審判は終わった。
「……ふふふ、ははははは」
ユリウスたちの感慨を打ち破ったのは、ビズリーの笑い声であった。それとともに、ビズリーの全身から黒い靄が噴出す。
どうやら、ビズリーの気力もここまでのようだ。
一気に、タイムファクター化が進行していく。
「……ビズリー」
「ふはははは、これでは何も終わらん。……争いは……我らクルスニク一族の呪いは、続いていく」
ビズリーの悲願はかなわず、クルスニク一族は呪いから逃れられない。
いずれまた、一族間、親子兄弟間にも醜い争いが引き起こされることだろう。
そんな予想が、どれほど容易くても。
「……だが――……不思議と、悪くない気分だ」
それでも今は、ユリウスとルドガーの二人が残る。
それを思えば、ビズリーの口元には笑みが浮かんだ。
「ビズリー……」
ビズリーの声に、偽りは感じられなかった。
ルドガーと己に向けられる穏やかな眼差しに、ユリウスは言葉に詰まった。
ビズリーは、一族の犠牲を無駄にしないために、ユリウスたちに審判を譲ったのだ。
それは間違いない。
だが――それだけではないのだと、ユリウスには感じられた。
タイムファクターが上限値に達した時点で、他で進行しているタイムファクター化はリセットされる。
つまり、ユリウスとエルのタイムファクター化は消去されるのだ。
ビズリーが最後のタイムファクターとなることで、ユリウスとエルが救われる。
それも確かに、ビズリーが望んだ結果なのだろう、と。
「…………」
皆が見守る中――ついに、ビズリーは消滅した。
誰も、何も言わず、動かない静寂の中――不意に、ルドガーの身体がふらついた。
「っルドガー!?」
「やだ、どうしたのよ!?」
慌ててユリウスが抱きとめ、状況がわからないながらも、ミラが治癒術を発動する。
ミラの治癒術を受けながら、ユリウスの肩に頭を預けたルドガーが呟いた。
「……はは……力が抜けた……っていうか、物凄く……疲れた……」
その言葉に、ユリウスとミラの気が抜けた。
「……っ何よ、驚かせないでよね! ったく」
ミラは腰に手を当ててそっぽを向き、ユリウスは笑いながら、ルドガーの頭をそっと撫でる。
「ははは。無理もない。何しろいきなりフル骸殻まで使ってしまったんだ。意識があるだけ大したものだぞ」
「……うう……なんか、眠い……」
ルドガーの瞼は、もう落ちかかっていた。
優しく髪がすかれる。ユリウスが喋る際に伝わる微かな振動が、何故だかとても眠気を誘う。
「……いいぞ、ルドガー。ゆっくり休め」
そっと囁かれ、背に回されている手に、ぽんぽんとあやされる。
全身全霊で守られている。
それを疑う理由なんて、どこにもなかった。
この人の腕の中以上に暖かくて安心する場所なんて、ない。
それは、ルドガーが小さい頃、寝付けなかった夜にあやしてもらって以来変わらない、絶対の真実だ。
加えて、あの子守唄。ユリウスの優しいハミングが聞こえて――
「……ん……」
ルドガーの瞼は落ち、何の憂いもない眠りへと旅立った。
そして――