「っやば! 遅刻っ!」
ドアが開ききるのももどかしく、ルドガーは部屋を飛び出た。
「待てルドガー!」
「っ」
すでに廊下を走り出していたルドガーを、ユリウスが鋭く止めた。
遅刻寸前だが、ユリウスの声を無視はしない。足を止めてルドガーが振り返れば、ユリウスがルドガーの首元に手を伸ばした。そして、曲がっていたルドガーのネクタイを直す。
「身だしなみには気を使えと、何度言った?」
「……堅苦しいの、苦手なんだって」
ネクタイを直され、他の身だしなみチェックの視線も大人しく受け止めつつも、ルドガーはぼやいた。
「まったく。お前はいつまでたっても……よし、いいだろう」
「ん、じゃあ、行って来ます!」
ユリウスの許可が出るなり、ルドガーは走り出した。
エレベーターに駆け込む前に、思い出したように振り返って叫ぶ。
「あ、今日の夕飯は、トマトソースパスタにするからさ!」
「……ったく。あれで機嫌を取ったつもりなんだからな」
呆れたようにいいつつも――ユリウスの声には笑みが滲んでいた。
結局ルドガーは、ユリウスの機嫌を取ることに成功していたのだった。
ルドガーがマンションのエントランスを飛び出したところで、公園にエルとミラの姿を見つけた。
「あ、ルドガー!」
「エル、ミラ、お早う! 悪いけど、俺急いでるから!」
元気一杯の笑顔を見せたエルの横を通り抜けざま、ルドガーは詫びた。
「……随分慌ててるのね」
「遅刻寸前なんだ、悪い!」
驚くミラを振り返ってもう一度詫び、ルドガーは走り去る。
その慌しさに、エルは大人ぶって溜息をついてみせた。
「……まったく。しょうがないなあ、ルドガーは」
「……そうね。案外、だらしないとこあるわよね」
オリジンの審判から一ヶ月が経とうとしている。
エルとミラは、今はヘリオボーグに住み込んでいるバランの部屋を借りて、トリグラフで生活していた。ルドガーの家とも近いので何かと行き来をしているのだが、そうなると日常のルドガーというものも見えてくる。
「きっと、眼鏡のおじさんが甘やかしてるからだよ」
「そうね。べったべたに甘いものね」
「だからさ、やっぱりエルとミラがしっかりしなきゃなんだよ!」
「――そ、そうね。そうよね」
笑って見上げてくるエルの言葉に――ミラはちょっと頬を染めつつも、満更でもなさそうに細かく頷いた。
「うん! ねえミラ、お金貯まった? あとどれくらい?」
「そうね……物件にもよるけど、頭金くらいは稼げてるわ」
ミラは今、クランスピア社のクエストをこなして金を稼いでいる。特にモンスター狩りは実入りがいい。日々の生活費を引いても、十分な金額が手元に残っていた。
「すごー! ミラ早い! じゃあ、エルたちがルドガーと暮らせる日も近いね!」
「え、え、ええ。そ、そそう……」
改めてはっきりいわれると、その光景を思い描いて無性に照れて、ミラはあからさまに挙動不審になった。
「――なんだか興味深い話をしているじゃないか?」
「うえ!?」
だが、そんな浮ついた気持ちは、背後からかけられた声によって冷やされた。
「あ、眼鏡のおじさん!」
「ルドガーと暮らすって? 詳しい話を是非聞かせてもらいたいな」
顔は笑っている。笑っているが――眼鏡がきらりと光っていて、ミラたちの位置からでは、その目が笑っているのかまでは確認できなかった。
いや、ちょっとした冷気が漂ってきている感じからして、推して知るべし、である。
戦闘の気配に敏感なミラは思わず戦慄したが――子供と鈍感さは強い。
エルは両手をぶんぶんと振りながら無自覚に暴露した。
「駄目! ミラが一軒家を買って、エルとミラとルドガーとルルで暮らす計画は内緒なんだから! 喋っちゃ駄目なの!」
「ちょっとエル、あなたしっかり纏めちゃってるじゃない!」
「あっ」
しまった、とエルが両手で口を塞ぐが、もう遅い。
「ほう……ミラがねえ……」
「……な、なによ……」
含むもののある視線と声。ミラは動揺する気持ちを押し隠した。
そんな虚勢はユリウスにはお見通しだろうが――不意に、視線も敵意もゆるんだ。
「――いや、構わないんじゃないか? それよりも俺の名前が省かれていたのは、勢いか? わざとか?」
「…………来るなっていっても、来るんでしょ」
ミラはそっぽを向いて、不貞腐れたように言い返した。
「まあ、その通りなんだが。――よし、それじゃあ俺も良さそうな物件を探してみよう」
「……っていうか、なら、眼鏡のおじさんがお家買ってよ。しゃちょーさんなんでしょ? お金、いーっぱい持ってるんでしょ?」
協力的な姿勢を見せたユリウスを、エルが半眼で見上げた。
ユリウスは、ビズリー亡き後、クランスピア社の社長に就任している。エレンピオス一の大企業だ。ユリウスが動かせる金は、その気になれば国家予算並みである。
「それは勿論、家を買うくらい簡単だが――しかし俺は、自力で一軒家を買えないような甲斐性無しに、ルドガーを嫁にやるつもりはないぞ。いや、家だけではない。他にも364個の試験を受けて、全て合格したものにしかルドガーは任せられない!」
腕組みをし、胸を張る。ガイアスっぽいその姿勢には威厳すら感じられたが――ぶっちゃけ、言っていることは娘大事の父親のそれだ。
「嫁……どうしよう、突っ込むべきだとわかってるのに、すごく納得しちゃったわ……」
「そっかー。じゃあ、ミラ、頑張んないと!」
「え? わ、私は、その、別に……」
ミラは頬を染めて口ごもった。これに肯定で応じるのは、つまりミラがルドガーを嫁に欲しいと暴露しているも同然である。いや、欲しくないわけではない。ないのだが、それを認められるほど、ミラは素直ではない。
「――ふ。怖気づくのなら、それでも俺は構わない」
が、ユリウスのその発言に、ミラはかちんと来た。
「っべ、別に怖気づいてなんていないわよ! 見てなさい! すぐにお金を貯めて、立派な自宅兼店舗を構えてみせるんだから!!」
「ミラー、頑張れー!」
「任せなさい! ――さあ、行くわよ、ギガント狩り!!」
エルからのエールを受けたミラは、腕まくりしつつ力強く踏み出した。その周りを飛び跳ねるような足取りで、エルも続く。
「ははは」
賑やかな二人の背を、ユリウスは見送った。
そのユリウスの足に、遅れてマンションから出てきたルルが身体を摺り寄せた。
「ナァー」
「……そうだな、ルル。楽しみだな」
笑みを零したユリウスは片膝ついて、ルルを撫でた。
そうしながら、一転、真剣な口調で今後の検討を始める。
「――だが、そう簡単にルドガーは渡さないぞ。まずは、一等地を選んで見積もりも高く出して……そう、試験も考えないとな。とびっきり難しいやつを」
「ナァー」
もっと、と甘えるルルを撫でていると、GHSがバイブして時間を告げた。
もう行かないと、ルドガーの遅刻に意見する資格がなくなってしまう。
「……夕食はトマトソースパスタだしな。さっさと仕事を切り上げて、帰るとするか」
「ナァー」
「ルルにも、今日は特別にロイヤル猫缶をあけような」
「ナァー♪」
ユリウスは、最後にルルの頭を一撫でしてから、立ち上がった。
「――ああ、今日もいい日になりそうだ」
空は高く、翳り一つなく晴れ渡っている。
吹き抜ける風は清々しい。
ルルがいて、エルやミラも顔を見せて賑やかで。
そして、ルドガーと共に笑いあえる世界。
これ以上、望むものなんてない。
「――♪」
幸福を噛み締めながら、ユリウスは歩き出した。
ハミングを、優しく響かせながら。
End