熊狩り後、ルドガーの家で調理したミラは、保温容器に移したスープを持って、ユリウスと共にディールへ戻った。
「ミラ! ユリウス! 戻ってきたか!」
宿屋に入ると、待ち構えていたらしいアルヴィンが二人を出迎えた。
「アルヴィン。……エルの様子は、どう?」
「……駄目だ。部屋に篭りっきり。レイアやエリーゼが声かけてっけど……」
階段下から見上げれば、レイアとエリーゼが途方にくれて立っている様子が窺えた。
「食事は……?」
「……何も喰ってねえよ」
「……そう。すぐ支度するわ」
「ミラ……いいのか? もしかしたら、また……」
ミラのスープがひっくりされたことを、アルヴィンも知っていた。それを心配して言葉を濁したのだが、ミラは動じずに頷く。
「いいの、それでも」
「……そっか。んじゃ、頼むわ」
エルに拒絶されてショックを受けていたミラだったが、どうやら随分とタフになって戻ってきたようだ。
何があったのかは知らないが、とても頼もしく思えて、アルヴィンはスープを温めなおしに調理場に行くミラを見送り――
「……って、ユリウス、手に持ってるそれはなんだ? 兎……いや、熊か?」
ユリウスが持つには不似合いな、熊だか兎だかのぬいぐるみを見て目を丸くした。
「……良い子には、ご褒美が必要だろう?」
「?」
ぬいぐるみを軽く掲げて笑うユリウスに、アルヴィンは首を傾げる。そこへ、ユリウスたちが戻ったことを知ったエリーゼが降りてきた。
「あ、ユリウスさん……! もしかして、それ……!」
「バーニッシュだー!?」
ティポがすっ飛んできて、ユリウスの周りをくるくる回った。
「すごい、見つけられたんですか!?」
ぬいぐるみを受け取ってあちこち見ても、それは間違いなく、バーニッシュだった。いつだったかのスピードクエストでつかまされた偽物ではない。
「ああ。色々伝手を辿ってね」
エリーゼに協力要請されたときから色々と手を回した結果が、ようやく出たのである。
「流石、トップエージェントです……!」
「これで、エルも元気が出るといいけどー」
ティポの声に、盛り上がっていた空気が再び重くなる。
ユリウスは、エルの部屋を見上げて訊ねた。
「……部屋に鍵は?」
「……かかってます……」
「呼びかけに返事は?」
「……ありません……」
「――開けるか」
考えた末、ユリウスは呟いた。
エルは一日以上、部屋に篭っていることになる。
一人になりたいというのも尊重してやりたいが、様子が見られないまま、というのはいただけなかった。
「開けるって、鍵をか?」
「ああ。マスターキーを借りてこよう」
宿の主人に事情を説明して鍵を借りたユリウスは、ノックをしてから、しかし返事は待たずにドアを開けた。
「エル、入るぞ」
部屋はカーテンが締め切られ、明かりのひとつもついていない。
その暗さゆえ、すぐには部屋内部を見渡せなかったが、廊下側の光も頼りに様子を窺い――そして、床に座り、ベッドに突っ伏したエルを見つけた。
「…………エル? ……これは……」
「ユリウス? どうだ?」
ドア口からアルヴィンが訊ねてくる。
ユリウスは、ぴくりとも動かないエルを抱え上げた。
「アルヴィン、水とタオルの用意を頼む。熱が出ている」
「! わかった!」
弾かれたようにアルヴィンが走り出した。
「エル……!」
エルに駆け寄るエリーゼの顔は青白い。
「……大丈夫、いろいろあって身体が参ったんだろう。休めば治る。エリーゼも疲れているだろう。少し、休んできなさい」
エルをベッドに入れながら、ユリウスはエリーゼに言った。
「でも……!」
「後で、看病を代わってもらうこともあるだろう。それまでは、休んでなさい」
「…………はい、わかりました」
穏やかながらも、有無を言わせない口調で重ねて言われ――エリーゼは頷いた。
ヴィクトルが死んだ。
ヴィクトルは十年後のルドガーで、正史世界でエルと二人で生まれ変わるために、エルを正史世界に送り込んで――そして、エルが連れ帰ったユリウスに、貫かれて死んだ。
ヴィクトルは、カナンの道標の、最後の一つだった。
ヴィクトルが死ななければ、ユリウスたちは、正史世界へ帰れない。
そもそも、カナンの道標を手に入れるためにやってきたのだし、道標を手に入れなければ、正史世界は滅亡する。
――それはしょうがないよ。
しょうがない。分史世界は消滅するべきなのだ。
そう思って――エルは、今まで分史世界の破壊を肯定してきた。
そのしょうがない、の言葉が、今、エルには酷く痛かった。
今まで、深く考えずに使ってきた、分史世界が消滅するのはしょうがない、の言葉。
それに従えば、ヴィクトルが死んだのも、ユリウスがヴィクトルを貫いたのも――しょうがないのだ。
だが、今――エルはどうしても、そんな言葉では納得できなかった。
どうしてパパが死ななくちゃいけなかったのか。
「どうして……っ……パパ……っ」
出口の見えない、光も見えない暗闇の中、エルは必死に呼びかけ――手を、伸ばしていた。
「……パパ……パパ……」
熱で顔を真っ赤にしたエルが、ぽろぽろと涙を零しながら、手を彷徨わせている。
「…………」
辛い夢を見ているのだろう。
本当に――クルスニク一族の呪いは、ろくでもない、とユリウスは歯軋りした。
こんな小さな子に、こんな過酷な運命を突きつける。
「……いや、俺が言えることではないな……」
ユリウスは自嘲した。
ユリウスとて、エルに過酷な運命を突きつけている一人なのだ。
カナンの道標のためにヴィクトルの命を奪った。
そして――エルに代償を押し付けて、骸殻変身をしている。
出来る限り、必要最低限の変身にしてきたつもりだが、それでも――すでに、エルの身体にはタイムファクター化の兆候が現れている。
その上、まだクロノスとの決戦も控えている。エルには、更なる負担が強いられるだろう。
「パパ……パパぁ……」
エルの手が、彷徨っている。
昔――ルドガーもまた、熱を出したときに、手を求めていた。
「…………」
その手を取りかけてユリウスは、握ってもいいものかと、迷った。
ユリウスの手は、ヴィクトルの命を奪った手だ。
エルにとっては仇の手。
――その責めは負うと、ユリウスは決めていた。
どんな怒りも、罵声も、受け止めよう。
それだけが、エルに対して、してやれることだと思うから。
「パパ……」
「…………」
エルは、嫌がるかもしれない。
だがユリウスは、ぬくもりを求めているその手を、見過ごすことは出来なかった。
「…………」
エルの手を、そっと握り締める。
「……パ、パ……?」
力なく握り返してくる、小さな手。
「…………」
安心したのか、エルの呼吸も落ち着いてきた。
そのことに、ユリウスは胸を撫で下ろし――そっと、囁くように、ハミングする。
昔、ルドガーが熱を出したとき、このハミングを聞かせていた。
ヴィクトルがルドガーならば……もしかしたら、エルにも聞かせていたかもしれない。
このハミングが、せめてもの安らぎになれば――そう、願って。