カーテンの隙間から差し込む光が、エルの目覚めを促した。
「――目が覚めたか」
静かな声は枕元から聞こえてきて、エルはそちらを見た。
「……王様……?」
「体調はどうだ」
「…………なんだか、頭が、ぼーっとする……」
「ふむ……まだ熱があるようだな」
ガイアスの手がエルの額に触れた。少し冷たい手が、気持ちよかった。
「……もしかして、王様が、看病してくれてたの……?」
「俺だけではない。皆で、交代でな」
「……そっか……。……ありがとう、王様」
「いや」
短く応じたガイアスの手が、エルの視界に入る。
「…………ねえ、王様。……手を握ってくれたの……王様?」
誰かが手を握ってくれていたのを覚えている。
大きくて、ちょっとごつごつした手。
その感触が、まだ残っているように思えて、エルは自分の手を見下ろした。
「……いや。俺ではない。だが、熱を出しているお前を見つけて、大半の看病をしていたのは――ユリウスだ」
「! 眼鏡のおじさんが……?」
「そうだ」
「…………」
ちょっと信じられなかったが、王様が嘘をつくとは思えなくて、エルは黙って俯いた。
その沈黙を、ガイアスはどう受け取ったのか――静かに、問うた。
「――奴が、憎いか?」
「……え……?」
「お前にとっては、親の仇だろう」
「…………かたき……」
確かにユリウスは、エルのパパを、ヴィクトルを――殺した、のだろう。
だが――
「……ねえ、王様。エルね、今まで、分史世界を壊すのはしょうがないって、思ってきたの」
「しょうがない、か?」
「うん。だって、分史世界って偽物……だし。壊さないと、本物の正史世界が、なくなっちゃうっていうから……本物と偽物だったら、偽物が消えるべきでしょ?」
「……そうとも、言い切れぬがな」
思っていた答えが返ってこなかったので、エルは首を傾げた。
「……そうなの……? ……でもエル、難しいことわからないし……。……前ね、眼鏡のおじさんに、いわれたことがあるの。分史世界を壊す覚悟はあるかって。その時、やっぱりエル、しょうがないって、いったの」
その時に向けられた目を、今も覚えている。
冷たく強い瞳が、ふっと悲しそうに揺れたのを、覚えている。
あの時はわからなかったが――今は、わかる。
ユリウスは、きっとわかっていたのだ。
エルの「しょうがない」の言葉が、エル自身に手酷く跳ね返ることを。
「……だから、眼鏡のおじさんがパパを……エルの世界を壊したのは、しょうがないって……」
「……しょうがない、で納得する必要は無い」
「え……?」
しょうがないと必死に自分に言い聞かせようとしていたのに、それを否定され、エルは戸惑ってガイアスを見上げた。
ガイアスは、いつも通り、揺るがない視線でエルを見つめ返していた。
「お前が今感じている悲しみも、怒りも、それは全て紛れもなく、本物だ」
「……でも、エル、偽物だし……」
「……分史世界は、可能性の世界だ。正史世界とは確かに違う世界だが、だからといって、そこに住む生命が偽物だということにはならん。皆、それぞれの世界で、精一杯、一度きりの生を生きている。それを偽物とはいわない」
「……でも、そうしたら、エルは……」
ガイアスの言葉を理解しようと努めながら、エルは、漠然と嫌な予感を抱きつつあった。
偽物だからしょうがない。エルが壊しているのは、本物の命じゃない。
その思い込みが――崩されつつあった。
「――そう。俺たちは、代わり等無い、たった一つの命を、世界を、破壊してきたのだ」
「っ」
直視したくなかった事実を突きつけられて、エルは息を呑んだ。
聞きたくない、と頭を振って耳を塞ぐ。
だが、ガイアスはエルに逃げることを許さなかった。
ガイアスの静かな声は、耳を塞ぐ手を滑りぬけてエルに届く。
「お前には酷な話だろう。だが――人が生きている限り、そういった生存競争は、珍しいことではない。規模こそ違えど、かつてリーゼ・マクシアでは、俺とジュードたちが。ラ・シュガルとア・ジュールが。そしてシェルの無くなった今は、リーゼ・マクシアとエレンピオスで行われていることと同じだ」
「…………」
「勝ったほうも負けたほうも、どちらが本物でどちらが偽物であったわけではない。ただ、己の信念を奉じ、貫き――その結果、勝敗が出ただけだ」
「……よく……わかんない……」
耳を覆う手を下ろし、エルはぽつりと呟いた。
「……そうだな。誰しも、迷う。己の正しいと思うことを信じ、その時その時の最善を選ぶしかない」
「…………」
「奴も……ユリウスも。譲れない願いのために、お前の世界を破壊したのだ。それに対して怒りを抱いたのなら、それをぶつけることを躊躇うことはない。お前の怒りから逃げるほど、奴は器の小さな男ではない」
「……でも、エル……わかんない」
エルは、ユリウスの手を握った、自分の手を見つめた。
暖かくて――優しい手だったことを、覚えている。
「……パパね、パパのお兄ちゃんのこと、大好きだったの。パパのお兄ちゃんのこと話すパパは、とっても楽しそうで……でも、悲しそうで……あんまりたくさんは聞けなかったんだけど、でも、覚えてるよ。パパは、パパのお兄ちゃんが大好きで、だから死んじゃったときは悲しくて辛くて、もし、エルがいなかったら、パパ……死んじゃってたかもしれないくらい……ええと……ぜつぼー? ……したって」
「――そうか」
「……眼鏡のおじさんは……パパが大好きな、パパのお兄ちゃん……なんだよね……」
「――そうだ」
「…………エルの手を握っててくれたのも眼鏡のおじさんで……子守唄を、歌ってくれたのも……」
「子守唄、か……?」
「……うん。エルのパパが歌ってくれてた子守唄……」
湖の遺跡でユリウスが歌ったとき、パパのと同じ子守唄だ、と思った。
パパの子守唄がとられた、と思ったものだが――けれど違うのだ。エルのパパが、ユリウスと同じ子守唄を歌っていたのだ。
エルのパパが大好きだった子守唄を――ユリウスが、エルのために、歌ってくれていた。
ユリウスはやはり、エルのパパが大好きだった、エルのパパのお兄ちゃん、なのだ。
「会ってみたかったな」と言ったエルに、「きっと、エルのこと大好きになってくれたよ」とエルのパパが笑って言ってくれた――優しくて、ちょっと口うるさいという、エルのパパのお兄ちゃん。
「……っ」
パパのことを思い出して、また涙が出そうになってきて、エルが唇を噛んで堪えようとしたとき――こんこん、と控えめにノックの音が響いた。
無言で立ち上がったガイアスが、ドアを開けにいく。
「エルは……?」
「今、目を覚ましたところだ」
「エル……」
ガイアスに促されて入ってきたのは、ミラだった。入れ替わるように、ガイアスが部屋を出て行く。
「ミラ……」
ミラに会うのは手酷く追い払ってしまって以来で、エルは気まずくなって目を逸らした。
「……エル、……その、お腹、すいてない?」
「…………」
いつも強気なミラが、恐る恐る、といったように訊ねてくる。
そんな風にさせたのは自分なのだと、エルは、ミラに八つ当たりしたことを後悔した。
「……スープを作ってあるの。食べられそうなら……ちょっとでもいいから、食べてみない?」
酷いことをいったのに、ミラはまた、こうして歩み寄りを見せてくれている。
だからエルは、自分の気まずさなんかには蓋をすることにした。
「……うん。……食べる」
「! じゃあ、すぐに持ってくるわ」
ぱっと、ミラが笑顔になって、エルも少しほっとした。
早速ミラが作ったというスープが運び込まれ、湯気を立て、おいしそうな匂いのするスープを飲む前に――エルは、ミラを見上げた。
「……ミラ……」
「何?」
「……ごめんなさい」
「……いいの。……私も、エルが辛いときに鬱陶しくしちゃって、悪かったわ」
「ミラは悪くないよ! ミラは、エルのことを心配してくれただけだし! あれは、エルが……」
「……子供がそんな気を使わなくていいの。――さあ、食べなさい」
ミラにスプーンを突きつけられて、エルはそれ以上の言葉を飲み込んだ。
「…………頂きます……」
一口、スープを飲む。
「…………どう?」
ミラが、固唾を呑んで感想を待っている。
だからエルは、素直に答えた。
「……うん。美味しい……すごく……美味しいよ、ミラ……」
「……そう。ま、まあ、自信作なんだから、当然だけどね」
ほっとしたように笑った後、ミラは少し得意げに胸を張った。
「……うん。……ちょっと……パパの味に、似てる……」
「! そ、それは……」
ぽろりと落ちた、言わずにいおうと思った言葉に、ミラの表情が強張った。
エルの手から、スプーンが落ちる。
「…………っ」
ぽつり、ぽつりと――スープに、エルの涙が落ちていく。
声を殺して泣くエルの頭を、ミラが抱きこんだ。
「エル……いいの、我慢しなくていいの」
「……っう、あああああ! わああああっ」
ミラの泣きそうな声に、誘われるようにして。
エルの慟哭が、部屋に満ちた――