エルの体調が回復するのを待って、一同はマクスバードへ向かった。
五つの鍵を組み合わせてカナンの地を出現させたが、乗り込むにはまだ準備が整っていないということで、エルはリーゼ港ホテルで待機するよう言われた。
言われるがままホテルに入ったエルを、エリーゼが訪ねた。
「エル、エルにプレゼントがあるんですよ」
「……プレゼント……何?」
「はい」
「バーニッシュだよー!」
「あ……! 本当に……?」
差し出されたぬいぐるみを見て、エルは思わず目を瞠り――手を伸ばす。
「はい、本当に、本物のバーニッシュです」
バーニッシュを抱きしめたエルを見て、エリーゼとティポは笑顔になった。
「どうして……」
「遅くなってごめんなさい。ちょっと、バーニッシュ、迷子になってたみたいです」
「僕たち、あちこち移動してるからねー」
「迷子になってたこの子を、ユリウスさんが連れてきてくれたんですよ」
「……眼鏡の、おじさんが……」
エルは、ヴィクトルが死んで以降、まだユリウスとまともに会話を出来ていなかった。
話さなければ、とは思うのだが、何を言えばいいのかわからなくて、結局口を噤んでしまうのだ。
ユリウスからの歩みよりも特別はなく――いや、一度だけ、初めて顔を合わせたときにあったのだが、その時はまだエルのほうが心の準備が出来ていなくて、逃げてしまった。それ以降ユリウスは、むしろエルに近寄らないようにしているようだった。
「え、ええと、エル、喉かわきませんか? 何か、飲み物もって来ましょうか?」
バーニッシュを抱えて黙り込んでしまったエルに、エリーゼが躊躇いがちに声をかけた。
「……うん」
「じゃあ、少し待っててくださいね」
「……エリーゼ」
立ち上がったエリーゼを、小さな声で呼び止める。
「……その……バーニッシュ、ありがとう……」
「どうしたしまして。エル、……ユリウスさんにも、お礼、言ってあげてくださいね?」
「……うん……」
頷いたエルを残して、エリーゼは部屋を出て行った。
バーニッシュを抱いたまま、エルは考え込む。
「……眼鏡のおじさん……」
ちょっと怖いけど――でも、優しい、人。
エルのパパの、お兄ちゃん。
エルの、伯父さん。
エルはGHSを取り出して画面を見つめた。
今すぐ電話をして御礼を言うべきだろうか。
今かけないと、またきっかけをつかめずに、ずるずると引き延ばしてしまいそうで――思い切ってかけようと手を伸ばしたその時、GHSのほうが先に鳴った。
「っも、もしもし……?」
眼鏡のおじさんかも、と思ってどきどきしたエルだったが、聞こえてきた声は聞き覚えのない男性の声だった。
「クランスピア社の、分史対策室です。エル様に、ビズリー社長より内密の指令がおりました。お一人で、宿を出てきていただきたいのですが」
「…………うん。わかった……」
通話を切ったエルは、抱えていたバーニッシュをベッドの上に置くと、そっと部屋を出た。
「エル、ナップルジュースを……エル?」
エリーゼがジュースを持って戻ってきたときには、既にエルの姿は消えていた――
エージェントに会ったところで意識が途切れたエル。次に気付いたときは、誰かの背に負ぶわれていた。
「……う……」
「エル、気がついたか」
「……眼鏡の、おじさん……? エル、どうして……っ」
ユリウスに背負われていると知ったエルは身じろいで――右半分に痛みを感じて呻いた。
「……痛むのか……」
「うん……少し……」
「すまないが、今しばらく辛抱してもらうよ、お嬢さん」
前を歩いていたビズリーが、エルを振り返ってそういった。
「ビズリー……貴様!」
ユリウスが苛立った声を出したが、ビズリーは唇をゆがめて笑った。
「ふふふ。お前が私を責められるのか? お前とて、お嬢さんを利用しているだろう」
「…………っ」
ユリウスが悔しげに呻くのを聞いて、エルは少しだけ嬉しくなった。
ユリウスは、エルを利用することを、すまないと思ってくれているのだと知れて。
「……平気だし。エル……は……っ」
「……無理はするな」
痛みで言葉を止めたエルを、ユリウスが気遣う。
エルは、ユリウスの広い背中に身体を預けた。
「…………ねえ、眼鏡のおじさん」
「……何だ」
「……バーニッシュ、連れてきてくれて、ありがと……」
「……ああ」
少し前までなら、短いユリウスの言葉を、怒ってるとか不機嫌だとか思っただろう。
だが、今のエルは――色々な思いを抱えているせいで、ユリウスは多くをいえないのだろうと、思えた。
ユリウスは、パパの大好きなパパのお兄ちゃんなんだ、と思えば――それだけで、ユリウスの印象は変わる。
ユリウスの背に揺られながら、エルは、思い切って聞いてみることにした。
「……ねえ、眼鏡のおじさん……ルドガーは……偽物のエルのこと、どう、思うかな……?」
「……あいつに、本物や偽物の区別は無いよ。分史のミラも、精霊のミラも、優劣など無い、等価の命だ。あいつは、目の前の人間を、そのまま受け止める」
小さく笑った後、ユリウスは静かな……優しさを含んだ声で答えた。
いつだったか聞いた、ルドガーへ向けられた、優しい声。
あの時は気持ち悪い、なんていってしまったが――あれは嘘だ。
ちょっとパパを思い出して……あんなことを言ってしまっただけ。
「……エルのことも……?」
「勿論だ」
「……ルドガーは、エルのこと、嫌いじゃ、ない?」
「嫌ってなんかないさ」
保証されて、エルはほっとした。
気を抜いたところで、また痛みがぶり返す。
その痛みをなんとか噛み殺しながら、エルは、囁くように訊いた。
「……じゃあ……眼鏡の、おじさんは……?」
「!」
ユリウスの歩みが、一瞬、止まった。だが、すぐに同じリズムで歩き出して――
「…………嫌ってなど、いない」
小さな、けれど確かな答えは、気を失う寸前のエルの耳に滑り込んだ。
「エル……?」
気遣うようなユリウスの呼びかけを最後に、エルの意識は落ちた。
そして――
全てが終わって、いくらか落ち着いたある日。
エルたちは、お弁当を持ってピクニックに来ていた。
「あ、トマト! 眼鏡のおじさん、あげる」
エルは、サンドイッチに入っていたトマトを見つけると、隣に座っていたユリウスに差し出した。
「ん、そうか? それじゃあ……」
「ちょっとユリウス! そうやってエルを甘やかさないで!」
トマトをつまんで口に運んだユリウスを見てミラが怒ったが、しかしユリウスは一向に悪びれない。
「まあ、いいじゃないか。トマトだって、美味しく食べてもらったほうが嬉しいだろう」
「そうだよ、ミラ。残すよりは、眼鏡のおじさんが食べてくれるほうがいいでしょ?」
ユリウスとエルは、ねー、と共犯者の笑みを浮かべあう。
トマトを食べたいユリウスと、トマトを食べたくないエル。二人の利害は完全に一致していた。
「……だから、残さないでエルが食べなさいっていってるの。好き嫌いしてると、大きくなれないわよ」
「なれるもん。エルが苦手なのはトマトだけだから、ええと、他の食材で、十分なえいよーそ、はとってるし」
「……もう、ルドガー、貴方もなんとかいいなさいよ」
口の達者なエルに、ミラがお手上げ、というように空を仰いでルドガーを引っ張り込んだ。
「え、俺? ……でも、エルも、絶対食べられないってわけじゃないしな……トマト・ア・ラ・モードは好きだろ? ほら、これ」
ルドガーが取り出したデザートに、エルは目を輝かせた。
「あ、あの美味しかったやつだ! え? 嘘だー、これがトマトだなんて、エル、信じないし!」
それは、エルが美味しいと思ったデザートだ。トマトが美味しいはずがないので、これはトマトではない、とエルは主張する。
「残念でした。これはトマトよ」
「うーそー」
「嘘じゃないわよ。ねえ、ユリウス?」
「ああ。だから、エルの分は俺がもらおう」
「! え、じゃあ、本当にトマトなんだ!?」
エルのトマトは俺のもの、なユリウスが手を差し出したことで、エルはようやくそれをトマトと信じた。
「……判断基準はそこなのか……」
ユリウスが食べたがるからトマトだと納得したエルに、ルドガーは苦笑するしかない。
「だからそういってるじゃない。でも、エルはトマトは食べないのよねー?」
「う~、そ、それだけは別!」
「おいおい、それは契約違反じゃないか? エル」
「れ、例外! それはエルが食べるのー!」
「まったく、この二人は……」
トマト同盟に亀裂が入ってデザートを奪い合う二人を、ミラが呆れて眺める。
「…………」
そんな三人を眺めながらルドガーは、さて、いつトマトシュークリームを出してユリウスを止めようかと考えて――まだ少し放っておくことに決めると、微笑みながら、膝で丸くなっているルルを優しく撫でた。
End