ジュードとエルと別れたユリウスは、ルルを連れて足早に家路を辿った。
その足取りよりも早く回転しているのは、ユリウスの思考だ。
今日の出来事は、ユリウスのこれからを大きく変化させるものだ。今後に想定される事態、その対処方法を組み立てていく。
家に入る前までには、大雑把にでも纏まるだろうと思っていたが――
「! ルル!」
マンションのエントランス前に弟の姿を認めた時点で、ユリウスの予定は崩れ去った。
「ナァー」
ルドガーに呼ばれたルルは、さっさとユリウスを追い越して、腕を広げる彼の元に飛び込んだ。
「良かった、無事だったんだな、ルル!」
「ナーゥー」
抱き上げられたルルは、ルドガーに頬を摺り寄せられて上機嫌に鳴いた。ちなみに、これをユリウスがやると、返ってくるのは甘えた声ではなく、猫パンチである。
ここにくるまではエージェントの厳しい顔で、声をかけようとする人たちを気後れさせ、遠ざけていたユリウスだったが、大事な弟と愛猫が戯れる可愛らしい絵面を見せ付けられては、シリアスな思考等続けられるものではない。
頬を緩め、穏やかな気持ちになりながら、ゆっくりとルドガーに歩み寄った。
「なんだ、お出迎えか、ルドガー」
「あれ、ユリウス。お帰り」
ルルを抱っこしたままのルドガーが、今気付いた、という様子で返してくるのに、ユリウスのハートは傷ついた。
「……おいおい、ルルとのその温度差はなんだ。悲しくなるじゃないか」
「あ、ごめん。でも、ルルがあの列車に乗っていくのを見かけたきりだったから……無事でよかったよ。な、ルル」
「ナァー」
そういってもう一度ルルに頬を寄せるルドガー。
和んでもいいはずのその様子に、しかしユリウスは動揺を押し隠すので精一杯だった。なんとか表情には出さずに済んだが、切りかえしが遅れた。
そう、あの襲撃はルドガーの仕事場付近で行われたのだ。ルドガーが巻き込まれている可能性を、失念していた。
「……そうか。ルドガーは、怪我はなかったか?」
「ああ。俺は平気」
「ならいい」
嘘のないルドガーの様子に、ユリウスは心底からほっとした。
ほっとすると同時に、ちょっとした疑問も沸いてくる。
「……しかし、良く乗り込まなかったな。お前のことだ。ルルを追いかけて列車に乗るくらいしかねないと思ったが」
この優しい弟は、誰かを助けるためなら、自分の危険も省みないときがある。クランスピアのエージェント試験のときもそうだった。
その優しさは貴いと思うけれど、誰よりも無事に居てもらいたい弟が危険を省みないというのは、ユリウスの心臓に悪すぎる。機会があるたびに釘を刺しておいたが、それが効果を発揮するかどうかは、ユリウス自身半信半疑でもあった。
「……しようとは思ったけど」
「……ルドガー」
ユリウスは眉を寄せて、苦々しくルドガーを呼んだ。
やはり、釘は刺しきれていなかったらしい。
ここは一つ説教せねばなるまいとユリウスが続けようとしたところに、その気配を察したか、ルドガーが言葉を重ねた。
「でも、朝に自重しろっていわれたばっかりだったし。近くに怪我人もいたから、手当てしているうちに、乗りそびれた」
「……おいおい、それは自重したとはいわないんじゃないか?」
呆れた様子を装いつつ、ユリウスの内心は、その怪我人とやらへの感謝でいっぱいであった。
もし怪我人がルドガーの傍にいなかったら、ルドガーは列車に乗り込んだはずだ。
そして、そうなった場合に想定されるシナリオは――ユリウスにとって最悪なものでしかない。
最悪の事態を避けられた幸運に感謝して、そこでユリウスは、ルドガーが浮かない顔をしているのに気が付いた。
「……ルドガー? どうした?」
「……列車に、小さな女の子が乗り込んでいったんだ。ツインテールの。……あの子……」
「ナーゥ」
すれ違っただけの少女の身を案じるルドガーを慰めるように、ルルが鳴いた。
ユリウスもまた、ルドガーの肩に優しく手を置く。
「…………きっと大丈夫さ」
「……でも」
「確かに酷い事件だったが、生存者がいないわけじゃない。うちの社長と秘書も乗っていたが無事だった」
「そうなのか? そっか……なら……あ、ユリウス、ジュードって人は無事か知らないか?」
「ジュード? ジュード博士か? ……どうして彼を?」
オリジン研究の第一人者としてそれなりに有名ではあるが、その名前がルドガーから出てくるとは思っていなかった。
「駅に行くのに迷っていたから、道案内したんだ。どこかで見たことあるなとは思って、あとで思い出した。何かの研究者だったよな。……知らないかな?」
「……大丈夫、彼も無事だよ。社長と話していたから、間違いない」
「良かった……」
その辺りで、ルドガーの知り合いの安否情報が揃ったのだろう。憂いの影が薄まったのをみて、ユリウスもまたほっとする。
「まあまあ、ユリウス君! お手柄だったねえ!」
「大家さん。いやあ、どうも」
エントランスで立ち話をしているうちに、マンションの大家が近くまで来ていた。満面の笑みで労う彼女に、ユリウスは穏やかに返した。
「? ユリウス、何かやったのか?」
ルルを抱っこしたままきょとんとした表情を見せるルドガーに、大家が呆れた。
「何言ってるんだいルドガーちゃん。今回のあの列車テロ、犯人制圧したのはユリウス君だって、ニュースでずっと流れてるじゃないか!」
「ええ!? そうだったのか!?」
「ああ……まあな」
今更驚くルドガーに、ユリウスは苦笑した。
「全く、あんなに騒いでいるのに何で知らないのかねえ、この子は」
呆れる大家の言うとおりである。
「え、いや、だってずっとルルを探してたから……」
「ナゥー?」
「おいおい、俺の優先順位はルルより下なのか」
少しばかり拗ねて見せれば、その効果は覿面で、ルドガーは明らかに肩を落としてしょげた。
「……ごめん」
「はは。そんなに気にするな。知らせてなかったのは俺なんだからな」
心配されないのも悲しいが、落ち込ませるつもりではなかった。
ユリウスはルドガーの頭をぽんぽんと叩いた。
「けど……。……怪我、してないか?」
「大丈夫だ」
上目で窺うルドガーに、ユリウスは微笑む。
気遣ってくれるのは嬉しいが、やはり、ルドガーには笑っていて欲しいと改めて思う。
「とにかく、さっさと家に入ったほうがいいよ。まーた追っかけどもが騒ぎ出してるからね! 大丈夫! 五月蝿いファンたちは私たちが追っ払っといてあげるから!」 大家の元気な声が、しんみりした空気を吹き飛ばした。
大企業のエリートであり、その活躍をニュースでも取り上げられているユリウスには、家まで押しかけるファンも存在する。大家とマンションの数人の有志には、大変お世話になっていた。
「いつも、ご面倒お掛けします」
「なあに、いいっていいって、さあ、お入り」
「ではお言葉に甘えて。ルドガー」
「あ、うん」
大家に軽く一礼して、ユリウスはルドガーを促した。
エレベーターに乗り込んでも、隣に立つルドガーは無言だ。
「何だ? まだ気にしてるのか?」
ユリウスの仕事をチェックしていなかったからといって、そこまで気にすることではない。ルドガーに思い煩って欲しくないからこそ、何も言わずにいるのだから。
「……いや」
ルドガーは、自身に言い聞かせるかのように、小さく呟いて。
そして気持ちを切り替えたのか、ユリウスを見上げた。
「ユリウス。今日の晩飯は何がいい? トマトソースパスタ作ろうか?」
お詫びのつもりか、それとも、慰労のつもりか。
トマトメニューを提案するのは、ルドガーがユリウスの機嫌をとろうとするときが多い。
そんな弟の心が見透かせて、ユリウスは微笑んだ。
嬉しいか嬉しくないかでいえば、勿論嬉しいのだが、ちょっとばかり意地悪もしてみたくて、ユリウスは突っ込んだ。
「お前、俺にはトマト食わせとけばいいとか思ってないか?」
「というか、トマトならハズレはないと思ってる」
悪戯げな笑みを見せて「間違ってるか?」と問うルドガーに。
「……いや、まあ、大正解なんだけどな」
ユリウスは苦笑した。