ユリウスはその日、休日を潰された代償として休暇をもぎ取っていた。
ルドガーの出勤を見送り、新聞を読みながら適度にルルを構うという、非常に穏やかな時間を過ごしていたユリウスであったが、重要な書類を忘れた! というルドガーのSOSを受けて、ルルと散歩がてら届けに出る。
駅の食堂に来た辺りでGHSに連絡を入れれば、すぐにルドガーが出てきた。
「ユリウス! ありがとう、助かった!」
「全く、お前って奴は。大事な書類を忘れるなんて、社会人失格だぞ。これは、社会人の心得に追加が必要だな」
「うう」
ぐうの音も出ないルドガーに、ユリウスが「社会人の心得その三。準備は万端に」を告げた、その時。
「――ルル!」
少女の声が響いた。
「え?」
「……」
ルドガーは驚いて、ユリウスは若干イラッとして、声の主――エルを見た。
「あ、君は……!」
「え? あ……!」
ルドガーとエルは、お互いの顔に見覚えがあることに気がついた。
「よかった、無事だったんだな」
ルドガーはエルを見て嬉しそうに笑った。
「列車に乗って行っただろ? 怪我はないか?」
「……うん、平気……」
ルドガーを利用したことを怒られると思っていたエルは、戸惑いながらも頷いた。
「そうか。よかったな」
「……うん……っ!?」
ルドガーの優しい微笑みに警戒を解きかけたエルだったが、ユリウスの険しい視線に気付いて、身体が強張った。
「? どうした? やっぱりどこか痛むのか?」
ユリウスはルドガーに背を向けてエルを睨んでいるので、ルドガーはエルが何に怯えているのかがわかっていない。
「……えと、その」
エルは、ちらちらとユリウスを気にしながら、何かを言おうとしている。
ルドガーに聞かせたいものではないなと察したユリウスは、ルドガーを仕事に戻すことにした。
「ルドガー、そろそろ戻ったほうがいいんじゃないか? 忙しくなる頃だろう」
「!?」
今までエルには、戦闘エージェントモードの硬質な声しか聞かせていなかった。それとは違う穏やかな声に、ユリウスの予想通り、エルは驚いて言葉を失った。
「あ、うん。そうだな」
仕事を抜け出してきているルドガーは、ユリウスの言葉を素直に聞き入れた。
「書類、ありがとう、ユリウス」
「ああ、頑張れよ」
「ん。じゃあな、お嬢ちゃん」
「…………」
ルドガーはエルに小さく手を振ったが、驚きすぎているエルは何の反応も見せなかった。
驚愕を引きずっているエルに――ユリウスは今度こそ、エルにとっては聞きなれた、冷たい声をかけた。
「――何故こんなところに一人で居る」
「……ジュードたちは、マクスバードに人に会いに行った。エルは……ルルに会いたくて探してた」
「…………」
エルが捜し求めていたルルは、ユリウスの足元で首をかしかしとかいている。
そのうちに彼女の負けん気が顔を覗かせたようで、エルはユリウスを睨み上げた。
「っていうか、おじさん何、にじゅーじんかく? さっきの優しい声、なんか気持ち悪いし」
「気持ち悪くて結構だ。だが――これだけはいっておく」
「な、べ、別に、すごんだって、エル、怖くなんかないし……っ」
強がっているが、エルは明らかに腰が引けていた。
そんなエルに、ユリウスは容赦なくプレッシャーをかける。
「ルドガーのことを、誰にも話すな。特に、クランスピアの人間にはだ」
「え……エルが誰と何を話そうが、エルの勝手だし!」
「ルドガーのことを知らせたら、俺は君に協力しない」
「!」
「カナンへの鍵は手に入らないぞ」
「っえ、エルは一人でもできるし!」
鍵が手に入らないといわれて一瞬顔色を変えたエルだったが、すぐに反発した。
「カナンの道標がある分史世界は、有能なエージェントでなければ生還できない。俺が降りれば、君の生還確率は低くなる」
「せ、せいかん……? む、難しいこと言って誤魔化そうとしたって、駄目だし!」
少女には難しい言い回しだったらしい。ユリウスは言葉を変えることにした。
「……先のヘリオボーグでヴォルトに負けそうになっていただろう」
先のヘリオボーグこそ、ユリウスの貴重な休日を潰してくれた出来事である。
いまいち力のコントロールが出来ていないらしいエルは、何かの拍子に分史世界に入ってしまい、そこへユリウスが駆けつける破目になったのだ。
「あのような危険な戦闘が、これから先、何度もある。有能なエージェントが居なければ、君は分史世界で命を落とすということだ」
「…………」
「カナンの地へ行きたいのなら、ルドガーのことを誰にも知らせるな。わかったな」
「…………わかった」
念を押したユリウスに、エルは不満顔ながらも頷いた。
エルに口止めしたユリウスは、その後、仕事を終えて帰宅したルドガーに訊ねてみることにした。
「ルドガー。お前、職場の人間に、俺と兄弟だってこと、話してあるか?」
「? いや、話してないよ。ユリウスが言ったんじゃないか。エージェントの身内って知られたら危険があるかもしれないから、そうそういうもんじゃないぞって」
「ああ。そうだったな」
それは実践してくれていたか、とユリウスは少なからずほっとした。
「でもさ、マンションの住人には知られてるし、ちょっと調べればわかっちゃうんじゃないか? それで意味あるのか?」
「……一応、大家さんを始め、外では言わないでくれっていってあるんだがな」
「学校では俺、あのユリウスの弟!? って、結構噂されてたぞ。一応、聞かれるたびに否定はしてたけど、ユリウスのニュースが出るたびに、様子を窺われてたし」
ユリウスの意向を入れて、ルドガーは、一番親しい友人のアーサーにすら教えていない。
ユリウスとルドガーが兄弟だと確実に知っているのは、ユリウスの追っかけをしていたルドガーの同級生ノヴァくらいだ。それも偶然が重なった結果として、である。
「……人の口には戸を立てられないものだな」
ユリウスは腕組みして考え込んだ。
マンションの住人や、学校内で噂されるくらいならば構わない。
確かにエージェントの身内は心配というのもあるが、ユリウスはそれよりもルドガーの存在が、クランスピアの人間――特にビズリーに知られることを恐れているのだ。
一応、個人データにはプロテクトをかけてある。今のところ破られた痕跡は無いので、ビズリーは、ユリウスにルドガーと言う弟がいることは知らないはずだ。
何らかのきっかけが無い限り、ビズリーが、今更ユリウスのマンションや母校を調査するとは思えないが――ビズリーの秘書、ヴェルには、ユリウスのプロテクトを破るだけの技術がある。データを調べる気になりそうなきっかけはとことん排除しておきたいところだが、噂話の操作などは、一個人でそうそうできるものでもない。
「……なあ、ユリウス。なんかあったのか?」
考え込むユリウスに、ルドガーの心配そうな声がかかった。
「……いや。どうしてだ?」
「だって、急にそんなこと確認してくるし……仕事で何か下手を打ったとか?」
「――心外だな、ルドガー。俺はお前と違って、寝坊も忘れ物もしないぞ?」
ユリウスは、ルドガーを心配させまいと話の矛先を逸らした。
「でも危険な現場に出て行くんだろ! 逆恨みが精々の俺なんかより、よっぽどユリウスのほうが……!」
「……心配してくれるのか。優しいな、お前は」
ユリウスが微笑めば、ルドガーは照れたような、怒ったような顔でユリウスを睨む。
「……ていうか、家族を心配するのなんて、当然だろ」
「……そうだな」
当然、と言い切れるルドガーが、ユリウスには眩しかった。
ユリウスの周りには、そういった「当然」があまりなかった。
だからこそ、それを真っ直ぐに示してくれるルドガーが、大事でならないのだ。
「……大丈夫だ、ルドガー。俺は絶対に帰ってくるから」
「……ん」
ぽんぽん、とルドガーの頭をあやすように叩けば、ルドガーは小さく頷いた。
「――だが、念には念を入れて。エージェントの兄がいるってことは、これから先もいわないでおいてくれ」
「……わかった。俺だって、変に捕まって、ユリウスの足を引っ張ったりしたくないし」
「ああ。そうしてくれ。……お前に何かあったら、俺は……」
きっと、暴走する――
その言葉は、声に出さずに飲み込んだ。