横浜鎮守府の湾内には、艦娘専用の海上訓練場が設けられている。
陸上で行われる体力向上などの基礎訓練とは違い、海上訓練場では艤装を装備した訓練に臨むことができる。そのため、所属部隊の多くが連携や個々人の技量向上のため日々汗を流している。
また艦娘にはそれぞれ艦種専門の艤装整備班が配置されており、艦娘のバックアップ一つとっても東日本最大の錬度を維持している。これも東の要所、横浜鎮守府故のことだ。
そんな海上訓練場を、水しぶきを上げながら駆ける二人組みがいた。
小さな背丈に背負った艤装が轟音を鳴らし、海上を猛スピードで突き進んでいく。障害物として置かれたフラッグを避けるために、二つの小さな影が左へ右へとターンを繰り返す。限界まで缶の出力を上げ、決められたコースを駆け抜けていく様は、まるでアルペンスキーのダウンヒルのようだ。
その内の一人。後方を行く清霜は、歯を食い縛って前を行く霞を追いかけていた。
――霞ちゃん速すぎ……! でも、わたしだって!
夕雲型『清霜』の艤装は、この度新たに建造された最新鋭機だ。日下率いる護衛部隊に試験的に配備され、データ取りのための航海を終えたばかり。錆を知らない艤装は少女の意志に応えるようにスクリューの回転数を上げる。最大船速は霞とそれほど変わらないが、使い込まれた旧式と新品同然の艤装の差なのか、直線に入るたびに僅かに差を詰めて行く。
――ぜったい! 勝つんだ!
辛い状況だからこそ、清霜は何時も通りの笑みを浮かべる。
既に終えた砲撃・雷撃訓練では負けている。機動訓練でまで負けるわけにはいかない。実戦経験が乏しいからといって、それを理由に勝負を諦めることもできない。新型の艤装を預かった意地もある。なにより、ここで負ければ自分が目指す戦艦級艤装の適合者になれるわけがない。だから、今勝つべく清霜は艤装へと力を籠める。
じりじりと迫り、霞の背中に手が届く距離まで近づき、並ぶ――瞬間、清霜の目に霞の横顔が映った。控えめに曲線を描いた口元に気を許した瞬間、霞は角度の深いU字ターンに缶の出力そのまま、命一杯外側から切り込むように侵入した。
「えっ、なんで!?」
一般に、コーナーを曲がる場合はその前で減速する。当たり前だが、ブレーキを掛けるのだ。
今までのコーナーでもそうだった。減速したところに膝を使って体重移動を行い、曲がる。それが艦娘の基本機動だ。その基本を霞は無視した。
清霜はそんな霞を不可解に思った。ブレーキングを行わずコーナーに侵入すればコーナリング時の外側に向かう力が大きくなり、コーナー終了時には大きく膨らんでしまう。下手をすれば外側に引っ張られる力に踏ん張りきれずに吹っ飛ぶ。ましてや重い艤装を背負った状態なのだ。少しのバランスの崩れが身を危険に晒すことを、霞が知らないはずがないと。
霞はそんな清霜の度肝を抜いた。
缶の出力を最大からOFFへと急速に切り替える。けたたましい音を鳴らしていた缶は煙を吐き出した後、全ての機能を僅かの間停止した。全機能を停止させたことで艤装の補助機能が失われ、霞の小さな背中には缶そのものの重みが課される。
霞は艤装によって重心が後ろに掛かることを利用し、身体の前後が入れ替わるように横滑りからの反転。膝を目一杯使って横滑りの慣性から逃れつつ、再び缶を起動、スクリューの回転数を一気に最大まで上げる。
「慣性ドリフトォ!?」
霞が行ったのは、艤装のアシストをカットしての水面移動。
艤装のブーツは単体でも浮くことを前提に作られてはいるが、如何に艦娘と云えど艤装の補助なしに水面を自在に行くことは不可能に近い。バランスを崩して水面に叩きつけられるのがオチだ。しかし、霞はそれを己の技術だけで回避したのだ。
驚くべき技量の高さに、清霜は度肝を抜かれた。それでも気を取り直し、追いすがるために前のめりになるが、二人の距離は縮まるどころかコーナーの度に広がっていく。純粋な技術の差だった。
「わ、わたしだってぇ!」
今の清霜には霞ほどの技術はないが、離されないためには同じことをするしかない。そのため少しでも減速しないように缶の出力を抑えずコーナーに入るが……
「あ、あれ? 膝が笑って足が――うきゃああああああ!?」
缶の出力に膝が踏ん張りきれず、海面を派手に吹っ飛んでいった。
◇
海水をたっぷり浴びた艤装を整備班に預け、軽い入渠を終えた二人は埠頭に腰かけていた。預ける際、夕雲型艤装の整備班にイイ笑顔で頬を抓られた清霜は唇を尖らせて愚痴る。
「そりゃあ私だって新人だし? まだ霞ちゃんみたいに上手くできないけど? だからってほっぺ抓ることはないじゃん!」
「缶の中にまで海水が入っていたし、怒られて当然でしょ。むしろオーバーホールにならなくて良かったと思いなさいな。」
呆れたように霞が言った。訓練場には、二人と交代で訓練場に入ってきた部隊が訓練をはじめていた。霞はそれをぼんやりと眺め、清霜はそんな霞を心配に思った。
横浜に着いて以来、霞はこうして遠くを見つめることが多くなった。
その理由を清霜はそれとなく悟っているが、それは霞にとってデリケートな部分。他人が触れていいのか分からないため、清霜は手を出せずにいる。
「霞ちゃんの機動ってすごいよね。なんか綺麗だなぁって思っちゃったし」
「私なんてまだまだよ。でも清霜は艤装の補助に頼りすぎ。直線距離でしか差が縮まらないのは体幹がてんでなってないから。だから吹っ飛ぶのよ」
「えへへ……思った以上に足にキてたみたいで」
「典型的な体力不足よ。走ることが仕事の駆逐艦が途中で疲れて動けません、なんてことになったらだらしないっての」
何時もなら覇気のある声もだいぶ弱く、薄く笑った表情は自嘲のようにも見える。
「訓練内容は変更ね、これからは海上訓練以上に陸上訓練をするわ」
「えっと~……つまり、何をするの?」
「走りこみよ、倒れるまで。……なに? 嫌ならココの二水戦にでも鍛えて貰う?」
「霞ちゃんの方がイイです! 横鎮所属の神通さんの訓練だなんて、わたしまだ死にたくないもん!」
青褪めた清霜の指差す方角で、横浜鎮守府所属の二水戦が訓練中だった。内容は、さっきまで霞と清霜が行っていたものと同じだ。最後尾を【神通】が走り、追いつかれた艦娘のお尻を魚雷で叩いている以外は。訓練中の駆逐艦娘は硬い棒でお尻を真っ赤に腫れさせないよう、ヤケクソになりながら訓練を行っている。
「ああ成りたくなかったら、さっさと走ってきなさい」
「霞ちゃんも元々は呉の二水戦所属だったんだよね……」
そんなに悩むくらいなら、いっそ今の部隊を離れて――などと、言い出そうとした言葉を清霜は咽喉奥へ抑え込んだ。
「お望みとあらば同じ訓練内容にしてあげるけど?」
「清霜! 全力で走らせていただきます! はい!」
「まったく、あんたって子は――っ」
「霞ちゃん? あ……」
一瞬、清霜には霞が怯えたように見えた。何事かと視線を辿った先には、片腕を上げる日下がいた。純白の海軍服が鎮守府の中で異色を放っている。黒の礼装を好む提督たちの中で海軍服を着る根性は凄いが、時と場所を弁えた方がいいのではないかと清霜は思った。
「大丈夫……?」
「平気よ。別に」
『別に。』そんな一言で片づけられる様子じゃないよと、清霜は霞にそう言いたかった。
それでも清霜は霞の強さを知っている。艦娘としての技術はもちろん、心の強さも。だから霞には何も言わなかった。霞が平気と言ったのなら、それ以上は彼女のプライドを傷つけるだけだと。
「そっか。霞ちゃんなら平気だよね! よーっし、走るぞー!!」
えいえいおー! 清霜は掛け声と一緒に飛び起きて走り出し、日下の前で一度止まった。
「司令官!」
「なにかな? これから昼食に誘おうと思っていたんだが、君もどうだい?」
「私は別にいいよ。今から走り込みするし」
「そうか。清霜君もあまり無茶はしないように」
「うん! 司令官も、ね?」
ニパッと今日一番の笑顔を日下へ向けた。そのまま踵を返し、全力で走り出して行った。
「……気を遣わせたかな?」
日下は被っていた帽子を取り、後ろ頭を軽く掻いた。横浜に戻って以来、何処か晴れたような表情を浮かべながら。
「ところで霞君、昼食でもどうだい?」
「は?」
とぼけた顔で誘う男に、文句を垂れながらも結局付いてて行く少女も少女だった。
◇
横浜市街。市民の多くは深海棲艦の脅威を避けるため内地へと疎開したが、離れなかった者も多い。家族が軍にいる、軍人相手に商売をして金を儲ける、生まれ育った場所を離れられないなど色々だ。
特に軍人相手に商売をする者は多い。いつ深海棲艦が分からない以上、街に出る彼らは宵越しの金は持たないと言わんばかりに散財する。人の営みは深海棲艦が現れてからも変わることは無かった。
もちろん食事処も多い。上級軍人が会合に使う料亭や戦前から続く中華はもちろん、洋食を扱う店も多い。港町らしい多文化がこの街には溢れている。
「それなのに、なんでお好み焼きなわけ?」
そんな中、日下が選んだのは錆びれたお好み焼き屋だった。”腐っても提督”との昼食ということで、霞は洋食レストランでの豪華な食事を期待していた。実際、レストランの前で日下が足を止めた時には内心ガッツポーズもしたものだ。
しかし日下は少しメニューを眺めただけで、何事も無かったかのように通り過ぎた。振り上げた心の拳を物理的に振り下ろしてやろうかとも思ったが、日下がそういう男だと思い返すと自然と納得してしまった。
「私はお好み焼きが大好物でね。これを食べるためなら、面倒な休暇申請を出す手間も惜しまないんだ」
「好きなだけ行けばいいじゃない。陸に上がってからは仕事をするフリをしているだけの癖に」
「必要なことを終えると暇にもなるさ。末端の提督業が暇になるってことは、それだけ横浜鎮守府が上手く回っている証拠にもなる。ああ、豚玉二つで。あと焼きそばも頼むよ」
注文を受けた店主は頷いて店の奥へと引っ込む。互いの間に置かれた鉄板に、日下が慣れた手つきで火を入れた。
「……妙に手馴れてるのね」
「士官学校に通っている時からの常連さ。小奇麗なレストランは性に合わなくてね」
「確かに、貴方がナイフとフォークを使っている姿は想像できないわね」
「言ってくれるが、私だってそれなりの作法は身に付けているさ。上官に失礼のない程度にはね。これは私の格言の一つでもある」
「【人の弱みに付け込むつもりなら、まずは日常生活から見張れ】前に言ってたことね」
「後ろ暗い人間は完璧を繕うから分かりやすいものさ。表と裏から少し手を加えてやればあら不思議、新装備が補給部隊にも配備される手筈になっている。ほら、4連装酸素魚雷なんていい例だ」
四連装酸素魚雷。日下の艦隊では、多くの駆逐艦娘で運用されている三連装魚雷は既に扱われていない。装備の充実を図る日下と海軍の思惑から、優先的に新兵器が配備される手筈になっている。
「貴方ね、本当に足元救われるわよ。本当に怖いのは人間なんだから」
「重々承知しているさ。鎮守府に配属されてからは特に」
横浜が襲撃された直後とはいえ、日下隊発足当時の装備品は劣悪そのものだった。人材は幾らか融通が利いたが、無茶を通り越した機械の使用限界だけはどうしようもなかった。当時の事を思い出した二人は、揃って溜息を吐いた。
当時は酷い有様だった。補給部隊を軽視している。そんな声もあったが、目に見える戦力拡充に力を入れる参謀本部はそれらを封殺していった。
それを知った日下は、彼にしてはそれなりに憤り、真正面から正論で叩きのめした。補給線を重視する別派閥の力添えを受けて、と付くが。結果、大本営内のパワーゲームを制した褒美と口封じの為に褒美の魚雷を貰った。
「あんまり無茶やってると、ホントに味方を無くすわよ。貴方の部下からすれば、敵を増やす真似だけは辞めて貰いたいのだけど」
「その心配は分かるがね。私も引き際は分かっているし、当時は市民の生活のためという大義名分もあった。それに市民の生活保障を守れ、なんて煽るマスメディアを味方に引き込めたのは、私にとっても大きな後押しだったよ」
「別部隊の艦娘に根回しさせられたこっちの身にもなりなさいっての。配備されるはずの兵装をかっぱらったって文句言われたのは、秘書働きしてた私なのよ?」
「その部隊を支えるのが私たち補給船団護衛艦隊の仕事さ。なに、戦力と数えられている間は潰されやしないよ。無理に肘を張るよりリラックスして海を往けばいい」
「そんなだから貴方は余所から嫌われてるのよ……」
「ここまでして嫌われなかったら、それはそれで驚きだがね」
うんざり顔の霞に、日下はニコリと笑いかけた。
そうこうしている間にお好み焼きの種が机の上に置かれた。焼きそばは店の奥で作って持ってくるからか、まだ少し時間が掛かるようだ。
慣れた手つきで種をお玉でかき混ぜる。混ぜ終わったそれを鉄板に円を描くように乗せ、片面だけ焼いた豚バラをその上に乗せた。
「貴方に作れる料理があるとは思わなかったわ……」
「呉の知り合いがお好み焼き屋を開いていてね。その影響さ」
「呉、か……」
「懐かしいかい?」
「少し、ね。私や不知火が抜けてから再編成された部隊のことも気になるし」
憂いを帯びた表情でそう言った。郷愁の思いが強まっているのか、霞は呉への想いを馳せる。そんな霞を見た日下は、手に持っていたヘラを置いた。
霞の知る日下ならここで何も言わず、時間が過ぎるか話題を変えるところだ。日下は決して他人の内側には入ってこない。何時ものことで、今日もそうだと思っていた。だから聞いて貰えないのだと思っていた。
「言っておくがね、霞君。私に君を手放すという選択肢は無い。君が私の下を離れていくと言うのも、その、何だ、あまり好ましくはないと言うか……とにかくだ、認められることではないと言うことだけは覚えておくように」
けど今回は違った。日下は霞の頭に前もって被っていた帽子を乗せ、霞の視線を隠した上でそう言った。
「……っお、男のツンデレって気持ち悪いだけだから!」
霞は初め目を点にして、次に沸騰したように顔を真っ赤にして、口から何とか出せた言葉はそれだけだった。
自分を手放さない、離れることは認められない。そう言って貰えたのは艦娘になる前も合わせて初めてだった。誰かに必要とされた。秘書艦に選ばれながらも心の何処かでは必要にされていないと思っていた。強くもない駆逐艦だから。だから秘書艦を解任された。そう思い込んでいた。
でも違った。自分が司令官として信じたいと思っていた人から、必要だと言って貰えた。ただそれだけで、霞は今まで自分の中にあったモヤモヤした気持ちが晴れていくのが分かった。
「まったく、ほんとに、クソ司令官は私がいなかったら何もできないんだから! まったく、ほんとに、ふんとに……ばか」
「すまない。君にも苦労掛ける」
「謝ったって許さないんだから」
潤んだ目で睨む霞に、場違いながら可愛い子だと日下は思った。そして置いていたヘラを持ち上げて、霞の前に置いてこう言った
「ところでコレ、ひっくり返してくれるかい? 私はこれが苦手でねぇ」
「○ねこのクズ! 私の純情返せ!」
霞は被っていた帽子を日下へと投げつけた。熱い鉄板の上に落ちた帽子を慌てて拾い上げた日下は、ちらりと霞の表情を除いた。その顔は訓練後に見たそれよりも実に晴れやかだった。
「はい焼けたわよ。ほら食べなさいよ。レストランでハンバーグ食べるよりも大阪だか広島だか知らない粉物が好きで好きで仕方ないんでしょ? ほら食べなさいよ、ほらほら!」
「霞君、怒ってる?」
「別に。クソ司令官にレストランでランチだとか勘違いとかしてないし」
「次はそうさせて頂きます」
「最初からそうしてなさいよ、バカ」
そう言いながらも頬張ったお好み焼きを口に入れた途端、霞は目を見開いた。少し辛みのあるソース、掛けたマヨネーズが熱々の具と相成り、口の中で絶妙な旨さを生み出す。呉で食べたカキオコとはまた違った旨さに箸が止まらない霞。日下はそんな霞を見て満足そうに頷き、自分の物へと箸を伸ばした。
「お好み焼きは凄いと思わないかい? 好き勝手に具材を入れて焼いただけなのに、ソース一つで味が纏まる。これは料理が辿り着いた一つの真理だと思うんだ」
「もぐもぐ」
「君たち艦娘も色んな娘がいるね。不知火君はクールで興味のあること以外には我関せず、曙君は周囲に噛み付く所が目立つが心根は優しくて努力家、羽黒君はしっかり者に見えて実はうっかりしてて、君は人一倍の努力をする秀才」
「もぐもぐ」
「空母二人は誰に似たのか楽天家で、清霜君は……あれは天然か。だからと言って、同じ艦種でも性格は個々で全く違う。違う艦娘だから当然と言えば当然だ」
「もぐもぐ……で、何が言いたいわけ?」
残り僅かになったお好み焼きから目を離さずにそう問いかけた。
「部隊内の不和を取り除く。力を貸して欲しい」
「……いいわ、やってあげる」
真剣な顔で問いかける日下に、霞も力強く頷いた。
「で、どうするの?」
「横浜鎮守府の提督に、喧嘩を売りに行くぞ」
日下はニヤリと笑い、霞はまたかとゲンナリした。
投稿するの何時振りだろバレテナーイ