フーと散歩   作:水霧

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第五話:うつしているとこ

 透き通るほどの晴天に燦々と太陽が照っている。肌寒さと唇がちょっぴり湿り気を覚えるくらいの気候。それは初春を迎えようとする頃に似ている。

 そんな空を一つの影が見下ろしていた。フードの付いた黒いセーターにダークブルーのジーンズ、新調した黒いスニーカーという出で立ちで、登山用のリュックを背負っていた。それには黒い傘が横から貫いていた。それに両腰にはウェストポーチを(たずさ)えている。影と呼ぶほどに黒づくめの男だった。

 今度は空を見上げていた。はぁ、とため息をついても白い息は出ないが、(のど)の奥から温かい空気が出ていく。それをリアルに感じ取る。

「どう思う?」

 男は誰かに話しかけた。

「どうというのはどういう意味でしょうか?」

 すると突如、女の“声”が聞こえた。方向的には男からだが、明らかに男とは違う声だ。凛々しい口調だった。

「この光景を見ての感想は? ってことだよ」

「聞かなくても分かるでしょう?」

「それもそうだな」

「“息を()む”とはこのためにある言葉なのかもしれない、と思うほどに感動しています」

 先ほどの“見下ろす”という表現は語弊(ごへい)ではない。なぜなら、

「空が二面ある光景なんてそうそうないな……」

 ということだ。

 男の頭上にある空と全く同じ模様が、それどころか男自身や太陽、雲、何もかもが写っている。まるで鏡の上に立っているようだ。それが見渡す限り、地平線の彼方まで広がっている。

 しかしよく見ると微妙な違いに気がついた。男が歩き出す一歩一歩で、“見下ろす空”は揺らめいている。

「不思議な場所」

「そうですね」

 男の進んだ後は波紋として“海の空”を揺らしていた。

 夕暮れ。空が赤みを帯びていく。それにならって“海の空”も赤みを帯びていく。より一層(まぶ)しくて、しかし綺麗な景色に心が打ち震える。浮かんでいるような錯覚に陥ってしまう。その幻想的な浮遊感が男の足を止めてしまうのだった。

 結局、この日も誰にも出会えなかった。

「……」

 組み立て椅子に座って、ずっと眺めていた。一言も話さず、夕日が沈んでいく動きをじっと。夕日が地平線で一つの球になるのを待ちわびる。“声”も空気を読んでか話しかけようともしなかった。

 夕日が一つになる。海に写っていた夕日も幻想の地平線に交わり、お互いの地中に潜っていくように見える。輝きを失わずに。

 ふと反対側を見ると、藍色が迫ってきていた。粒々の光を連れてきている。男はその後の景色も楽しみだった。

「ダメ男?」

 “声”が溢れてきた言葉を漏らした。“ダメ男”と呼ばれた男は、

「なに?」

 反射的に返事をする。

「見飽きませんか?」

「見飽きない」

「瞬きしていませんが、」

「つらくない」

「お腹、」

「空いてない」

「カミソリ」

「キレテナーイ」

「ふふっ」

 予想通り過ぎて、不意に笑ってしまった。

 ダメ男も気分が良くなって笑みをこぼす。

「ほら、そろそろだよ」

 夕日が沈みきった後、夜空が一面、いや二面を占めた。まるでプラネタリウムのように上下左右に星が散らばっている。キラキラと輝いていた。

「あそこにあるのって何座だっけ?」

「オリオン座です」

「隣は?」

「おうし座です」

「あっちは?」

「おおいぬ座です」

 ダメ男はぴちゃぴちゃと足踏みした。すると、“海の空”はゆらゆらと景色を波立たせる。

「今思ったのですが、そこまで深くはないですよね」

「ん? ……そういえば」

 ダメ男のスニーカーの厚みの半分ほどの深さ(?)だった。

「フーは細かいよな」

「どうしてこういう景色になるか、気になりませんか?」

 “フー”と呼ばれた“声”は会話の糸口を(つむ)ぐ。

「気になるけど人が見つからないから、知りようがない」

「確かにそうですね」

「誰かいないもんかな」

「それともう一つ気づいたことがあります」

「なんだ?」

「どうやって眠りましょうか」

「……」

 翌朝、ダメ男は早起きした。まだ日も昇っていない頃だった。

「からだいたい……」

「当然です。そんな無茶苦茶な方法では身体を痛めるだけです」

 どんな方法というと、組み立て椅子に座ってそのまま上体を後ろに倒して眠るというものだ。枕の代用としてウェストポーチ二つを、ベッド代わりにリュックをビニール袋で包んで使った。一応水には濡れないものの、ロクに寝返りもうてないので身体の節々を痛めてしまったようだ。早く起きたのもそれによるものらしい。

 丹念にストレッチして、身体を伸ばしていく。

「そろそろ日の出ですが、見なくていいのですか?」

「からだいたい……」

「もう楽しんでいる場合ではないというわけですね」

「からだいたい……」

「分かりましたから」

 日が昇る頃に出発した。

 地中から顔を覗かせた朝日が黄金色に輝き始める。楕円だったものが球になり、やがて二つの太陽へと分かれていく。重なっていたものが分裂していくように。そして空二面も青さを取り戻していく。今日の天気も快晴だ。

 ダメ男はぴちゃぴちゃと鏡の水面を歩いていく。その度に小さく波立ち、偽物の空を(ゆが)ませる。朝の不調も少しは良くなったようだ。

「さて、誰かに会わないと何も起こらないなぁ」

「いいではないですか。このままのんびり行きましょう」

「うーん……なんか地に足がつかないんだよな」

「一応、地面ではないですからね」

「そういうことじゃないんだけど……」

「そういえば朝食は食べました?」

「あ、まだだ」

「どうやら地に足がついていないようですね」

 ポーチから携帯食料を取り出し、もぐもぐ食べ始めた。

「食べカスやゴミを出さないようにしてくださいね」

「分かってるよ」

「存在自体がゴミみたいな人はいますけどね」

「あー、一体誰のことだろうな」

「今現在、ここにいる“人”は一名しかいませんよ」

「おいフー、そんなに自虐するなよ。生きてればいいことあるぞ」

「どうやら自分を人間だと思っていないゴミがいるようです」

「お前は人じゃないだろ」

「差別です。大人しく溺れて死んでください」

「ここで溺れる方が難しいよっ! 数センチしかないからっ!」

 そんな風に駄弁(だべ)っていると、

「あ」

 人を発見した。

「フー、あの人にそんなこと言ったら失礼だろう」

「?」

 豆粒くらいにずっと先だが、誰かが(うずくま)っているのが見える。ポーチから取り出した双眼鏡で見ると、少年のようだ。

「第一村人発見だな」

「ダメ男、ちょっと待っ、」

 フーの言葉を振り払い、少年の方へ歩み寄っていく。

 少年はダメ男に気づいたようで、チラ見するが、再び踞った。

「何か苦しんでるようだ」

 一転して険しい顔つきになる。

 すぐに駆け寄った。

 少年はボロボロの衣服で、褐色(かっしょく)の肌を(さら)け出している。

「どうした? 大丈夫か?」

「……」

 少年は空を見“下ろして”いる。

 特に傷や内出血は見られない。

「今日は少し冷えるみたいだから、そのままだと風邪ひくよ」

 リュックから新しいシャツを取り出した。自分から着たがらないようなので、元の衣服の上から着させた。

「何かあったのか?」

「……」

 小刻みに頭を横に振る。

「何もないのにここには来ないだろう」

「……」

 深くゆっくりと(うなず)くと、少年はふらふらと歩いていく。

「待て。一人だと危ないぞ。一緒に行かないか?」

「……」

 無反応。だが、ダメ男は良い方に受け取ったようだ。

「よし、君の家はどこだ?」

 少年が指差したところは、

「……」

「……え?」

 “ここ”だった。

「それってどういうこと……?」

「ぼくの家はここ」

 幼い少年の声が耳に響く。頭の中を一直線に貫くように透き通っていた。

「もしかして精霊的なもの? 異世界に入れる何かがここにあ、」

「ないよ」

「ないのかいっ」

 まだ浮き足立っている。

「ねぇ、ここにいてどんな風に感じた?」

「……えっと、なんか浮いてるような感じかな」

「それだけ?」

「……もっと言うなら、鏡の世界って感じ」

「ふーん……全然感受性ないんだね」

 一瞬ムッとする。

「じゃあお前はどうなんだ?」

「ぼくはね、どっちが本当の世界か分からなくなる感じ。ぼくのいる世界が本物か偽物か、ずっと考えてるんだ。あっちの世界はいい世界なのかなぁ……」

「それは行ってみないと分からないな」

「行けたらとっくに行ってるのにね。ぼくがこうして見ると、」

 少年は屈んで水面を見る。

「向こうのぼくもぼくを見るんだ。みずぼらしい、小汚い格好をしたぼくをね」

「……」

 怪訝そうに少年を見るダメ男。

「さっき鏡の世界って言ってたけど、ここは完璧な鏡じゃないよ。だって、ぼくが水面を叩けば、水が跳ねて揺らめく。つまり、ぼくが望むようにカタチを変えてくれるんだ。でも、向こうのぼくも同じように水面を叩いてはしゃいでる。向こうから見たら、こっちも鏡の世界なのかもしれないね。どっちが実像で虚像なんだろうね」

「ずいぶんと哲学的なんだな」

「大人は汚いからね。みんなを簡単に騙すんだよ。だからいろんなことを一生懸命考えるんだ」

「騙す?」

「うん。僕も騙されてこうなったんだよ」

 少年はダメ男の手を取って握った。

「!」

 思わず手を引いてしまった。

「ね。今ので分かったでしょ?」

 ダメ男は立ち去ろうとした。

「あれ? お兄さん、どこか行くの?」

「あぁ。そういうことは小さい頃に置いてきたから、もう進むしかないんだよ」

「そっか。大人になるとみんな虚像になっちゃうんだね」

「さぁ? オレには分からないけど、虚像が全て悪いってことはないとは思うけどな。……それじゃ、また鏡の世界でな」

「うん。シャツ……ありがとね」

「……めお、だめお、ダメ男!」

「……ん? あ……?」

 フーの声がフェードインしてきた。

 気がつくと、どこかの部屋にいた。モダン調の、まるで高級ホテルの一室のようだった。

「ここは……?」

「ダメ男、気づいていないのですか?」

「何がだ? オレは歩いてたら男の子を見つけたんだ。それで彼とずっとあそこの話をしてて、」

「何を言っているのか理解できません」

「は? だってお前だって、」

「ダメ男はいきなり気を失ったのですよ。どうしてなのか分からなくて、たまたま通りかかった人に助けてもらったのです」

「え? ……あ、誰だろ?」

 ノック音がした。重い身体を起こしてドアを開けると、見知らぬ男がいた。

「大丈夫かい、ダメ男さん?」

「? えっとどちら様?」

「……あぁ、そういえば意識がなかったんだった。……俺はこの街の観光部の役員だよ」

「観光部?」

「あの湖はこの街の観光名所なんだよ」

 なるほど、とダメ男は納得した。

「ありがとう」

「いやいや、それより身体は大丈夫か?」

「あぁ。なんか少し身体が重いんだ」

「たまにいるんだよなあ。ダメ男さんみたいに卒倒するお客さんが」

「何か原因があるのですか?」

「それよりも何があったのか教えてほしい」

 ダメ男は自分の身に起きたことを事細かく話していった。特に少年との出会いを詳しく話した。

「やっぱりか」

「?」

 確信しているようだった。

「もし発見が遅れてたら死んでたな」

「! 本当ですかっ」

「間違いない」

 こくりと固唾を飲む。

「あの湖を守る……言わば守護霊みたいなのがいるんだ」

「守護霊?」

「いや、守護霊というより地縛霊に近い」

「ということは、何かが恨めしいことがあったのですね?」

「……その話をする前に、あの湖のことを話さないとな」

 観光部の男はこう話した。

 あの湖は特殊な湖で、塩湖と呼ばれている。何万年も前、湖はかつて海の一部だった。それが火山活動の活発化によって海が隆起し、山となった。海水を()んだまま隆起したため、乾季になると湖の水が蒸発して真っ白の大地、つまり塩の地面となる。雨季では雨水が溜まり、湖となる。湖面が鏡のように見えるのはその塩湖によるものではないかと考えられている。

「ここ山だったんだ。どうりで肌寒いと……」

「その前に山に登ったでしょう?」

「あぁ、そうだったな」

「どうやら見当識障害があるようです。今すぐ病院行きましょう。特に脳外科か心療内科を受診させたいです」

「意識ははっきりしてるから平気!」

「頭自体が問題なのです」

「ぶん投げるぞ」

「探している間に失神されても困りますね。幸い、塩はたくさんありますから、ミネラル不足には困らないでしょうけど」

「……く……」

「話……進めていいか?」

 完全に置いてけぼりにしていた。

「あぁ、ごめん。……でも塩湖と少年の繋がりはなんなんだ?」

「実は嫌な事故があってな。昔、嵐かと思うくらい酷い雨季があってね。子供が一人飲み込まれたんだよ」

「え?」

「後日、捜索したんだが……見つからなかった」

「別に湖は流れているわけではないのですよね?」

「それは間違いない」

「なら生死は別として、発見できるはずでしょう?」

「いや、どういうわけか全く見つからなかったんだ」

「……なるほどな……ぶつぶつ……」

 ダメ男はぽそっと呟いた。

「え?」

 フーは聞き取れてしまった。

「とにかく、無事で何よりだ。それで、もっと観光はする予定あるか?」

「いや、もう少し休んだら出発するよ。観光は済んだからね」

「そうか。まぁ次の機会に立ち寄ってくれ。いいところ紹介するよ」

「あぁ」

 ダメ男は険しい山道を降りていた。木々も深くて勾配がきつく、歩くだけでも一苦労だ。森林にしては岩っころが転がっており、時折“落石注意”の看板が設置されている。

 空は曇っていた。もう雨が降ってもおかしくはない。ちょっとした刺激で一気に降りそうだ。

「よく分からない街と湖でしたね」

「たまにはこういうところもあるよ、っとっ!」

 ずるっと滑りそうになるのを踏ん張って耐えた。うまく立て直す。

「大人は汚い……か」

「あの時も言っていましたよね? どういうことです?」

「ただの事故じゃないんだろうなってこと」

「え?」

「だってあの子の家は“あそこ”なんだから」

「あ、あぁ、そういうことでしたか」

「本当に鏡の世界に行っちゃったってことだ」

「どう報告しますか?」

「報告しづらいけど、ありのままを話すしかない。社長さんにとっては死の宣告に近いかもな」

「少し気分が悪いですね」

「ここか?」

「あぁ。どうしてただの旅人が知ってんだよ……誰かちくったのか?」

「初めて見るぜ、あんなモヤシ」

「俺もだ。うまくはぐらかしたが……さっさと掘り返しちまおう」

 夜の湖。作業着を着た男三人がスコップ片手に掘り起こしている。すると、

「! なんじゃこりゃっ」

「……やばい……バレてやがるぜ……」

 骨があった。しかしそれよりも男たちは驚くのはもう一つの物だった。

「どうしてこんなのがあるんだよ……」

「間違いねえ。あの旅人の仕業だぜ」

「どうする? 弱みを握られちまって……」

「……あの旅人がいつここへ来るのか分からねえ。いや、そもそもヤツが依頼した人間かもしれねえ」

「……もう……ダメか……」

「……あぁ。ここまでだ……」

 男たちの中に、あの観光部の役員がいた。

 後日、男たちは全員自首したという。誰かの白骨とダメ男の新品のシャツを手に持って。

 




次のお話はすごく長いです。時間にお気をつけてお読みください。

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