「あぁ~あ……」
青年はわざとらしくため息をついて、見上げた。曇天から落ちていく雨。ざらざらと音を立てている。西の方では先程までの青空が逃げるように消えていった。
辺り一面はなだらかな平原で、ピンと張っていた草が
「雨ですね」
“声”はぽつりと呟いた。妙齢の女の声で
「……参ったな」
フード付きの黒いセーターに光の加減で黒にも紺青色にも見えるジーンズを履いている。フードには黒毛が付いていた。しかも
青年は歩きだした。地面にも靴にも水が染みこんでいき、緑の床と靴底に泥がついていく。そのせいでぐしゃぐしゃと音に水気を含ませる。足跡は雨でやがて洗い流されていった。
「リュックが濡れてしまいますよ」
「……別にいいよ」
上体を揺らして、リュックを背負い直す。
「大切なものがあるのではないのですか?」
「……」
青年は立ち止まると、
「充電器が濡れる」
リュックからビニール袋を取り出した。それですっぽりと包む。ゴミ袋のように持ち上げて、再び歩き出す。
「気温はぐんと下がりました。四度です。風邪をひかないように気をつけましょう。薬は一切ないですし」
「お前は母親か」
ふっ、と漏らす。
フードを被る。既に雨を吸っていて、いつになく重さを感じる。
「最悪だ。雨なんか嫌いだ」
「もう一日泊まることを勧めたのに、無視するからです」
何時間かして、
「何にもない……」
呟いた。
雨空にはどす黒さが目立ち、
「雨宿りは見当たりませんか?」
「見当たらないし、少し暗いな」
草原が地平線の彼方まで広がり続いていた。
髪先から水滴が垂れ、顔から下へ流れていく。頭を振ると、それが飛び散っていった。
「ここで野営した方がいいのではありませんか? まだまだ降り続くみたいですし」
「……ここじゃちょっときつすぎるっ」
意地になってとことん歩き続ける。
“声”の言うとおり、雨脚は衰えることなく、むしろ激しさを増してきた。“ざらざら”から“じゃあじゃあ”へと変わり、ところどころに水溜りができていく。青年はそこを避けることなく突き進んでいく。
黒の強い雨空、その端っこにまだあった晴れがついに見えなくなった頃、正面に大地の切れ端が見えてきた。その奥には空の色を映している本物の海が広がっていた。切れ端を左右に辿ってみるが、ジグザグ線のようにどこまでも伸びていくのがかすかに見えた。地平線の向こうもきっと伸び続けていると想像できるくらいに。
ちょうど右手の方に、崖からぼっこりとせり出しているところを見つけた。しかもそこは盛り上がり、丘を形成している。その手前に、
「光」
があった。
「雨宿りさせてもらいましょう」
青年は“声”の意見に従うかのように、走り出す。
近づいてみると、それは山奥にありそうなログハウスだった。一戸建てで二階があるかないかくらいの大きさだが、奥行きがある。垣根はないが、崖の方には景色を独り占めにできるテラスがあった。その反対、つまり大地のある方には玄関があった。小さな太陽と表現したくらいの
青年はその明かりで今の自分の状態を確認できた。服を着たままプールに入ったかのように、全身がずぶぬれだった。セーターやジーンズは完全にやられ、その中にあるウェストポーチは表面が濡れている程度、アンダーシャツや下着は体にへばり付くくらいに濡れている。被害が一番少ないのは袋包みにしたリュックだった。
三角の屋根から雨が
「そんなに濡れていましたか。早くしないと風邪を引きます」
「少し寒い……」
ドアにはノブが付いていなかった。その横にある輪っかを使ってノックした。その後、反応がなかったので、直接ノックする。
「……中に入れなきゃここで雨宿りしよう」
「テントも無理ですし、それしかありませんね」
少しして、
「は~い」
「えっ?」
ドアは引き戸だった。
中から女が出てきた。三十過ぎくらいで、片手にお玉を持っていた。青年の姿を見て、
「あなた、ずぶ濡れじゃない! 早く入って!」
否応なしに引っ張られた。
玄関入ってすぐに居間があった。それらを繋ぐ廊下を廃しているらしい。家の広さが居間の広さと言っていいほどに広い。天井は高くなく二階があることを想像したが、階段がなかった。奥には壁一面が窓となっていて、テラスに通じている。
居間の真ん中にはこの家庭の生活様式があった。大きなカーペットを敷いて、その上にテーブルやソファ、テレビを置き、端っこにキッチンや棚が並べられている。観葉植物や水槽などもあった。
青年はリュックとウェストポーチ二つを下ろす。青年はセーターをひっぺがされ、黒の長袖のシャツになった。真っ白のタオルを貸してもらい、頭やら体やらを拭う。
首飾りの黒い紐を持って、服の中から四角の物体を取り出す。水色とエメラルドグリーンを混ぜた色をしていて、厚みのある
「濡れてない?」
青年はそれに話しかけると、
「防水機能がありますので、多少は平気です」
喋った。
「雨はまだ止まない?」
「はい。明日の昼までは降り続けます」
「……まいったなぁ」
青年はいろいろと支度をしてくれる女に目をやる。そして彼女が来た。
「お風呂の支度できたから入っておいでっ」
「いや、そこまでしてもらわなくても、」
「風邪ひくでしょっ! さっさと入って!」
「……はい……」
青年は気圧された。靴を脱ぐと、すぐに腕を引っ張られ風呂場へ、そしてドアを閉められ、閉じ込められた。よく分からないうちに事が進んでいた。
しゃくしゃくと頭を掻くと、
「と、とりあえずお言葉に甘えましょうか」
「何でお前が動揺してんだよっ」
服と水緑色の蝶番をバスケットに入れ、風呂場に入った。
数十分して、風呂から上がってきた。十分に温まったようで、湯気が立ち上っている。
「早く服を着てください。気持ち悪いです」
「それなら見なきゃいいじゃん……変態……」
「何か言いましたか?」
「……言葉を発しました」
いつの間にか用意されていた下着とシャツ、上下黒のスエットを着込む。そして水緑色の蝶番を丹念に拭いて、首に掛けた。
居間に出ると、女はキッチンで料理を作り、中心で同年代らしき男と幼い子供が二人いた。男の子と女の子だ。
青年はばつが悪そうに、
「あの……どうも……」
お礼を告げた。
「ん? ああ気にしないで。困った時はお互い様さ」
「本当にありがとう。何かお礼を、」
「いいっていいって。これも何かの縁なんだからね」
男は気が優しそうで、悪い感じが一切しなかった。
「このひとだれー?」
女の子が青年に指差して言った。
「そういえば、君は……?」
「えっと……オレは、」
「“ダメ男”です」
いきなりの“声”に場が固まった。
男がごくりと固唾を飲み込む。
「今の……まさか、幽霊か……?」
「うそ~! ゆうれいっ?」
「お父さん、カメラカメラ!」
「今のはこれだよ」
傍にあった背の低いテーブルに置いたのはあの蝶番だった。
女の子がきゃぴきゃぴ笑い出す。
「“だめお”だって。なにやっても、おちこぼれだったんだね~」
「あはは! へんななまえ~。ママとパパはなんでそんなばかななまえにしたんだろうね」
「今までで一番酷い言われようだ。ムリもないけどね」
それよりも、幼い子供が年齢に合わない言葉を使っていることにショックだった。
「えっと……ダメ男君?」
「うん」
ちょっとふてくされて返事をした。
「この物体は
「喋るよ。自己紹介して」
ダメ男は立ち上がってそれを
「“フー”です。ダメ男の主を務めています。皆様方、よろしくお願いします」
「よろしく!」
「よろしくだよ」
「誰が主だっ」
「まあまあ……」
男はダメ男を何とか
「フーちゃんは機械みたいだけど、八つ当たりするなよ」
「……命の恩人にそう言われたのでは……仕方ないっす」
「“拙者食わん”」
「……」
いきなりフーが言い放つ。ダメ男は少し考えて、
「……フー」
「はい、何でしょう?」
「ダイエット? ダイエットは止めた方がいいよ。リバウンドが、」
「だからダメ男なのです」
「この……。何が言いたいんだよ」
ぎりぎりと
「ダメ男君、落ち着きなさい。そういうのを“
「……あ、なるほどって、お得意のかっ!」
ようやく理解できたので、大人しくすわ、
「だめだめだめお~だめだめお~」
「ねえ、なんでだめおってなまえなの? おしえてよ、ね~え~」
「だ~め~お~! だめっお、だめお~」
「だめおのパパもだめおだったの? だめおって“いっしそうでん”なの?」
「完全にナメられてるんだけど。とんでもない言葉知ってるし」
「それは構ってほしいのだと思います」
「可愛さ余って憎さ百倍ってな。……もう駄目だ、限界だ……」
「“カンニング黒野、親キレる”」
「……とうとうぶっ壊れたか……? 何が言いたいのか分からん」
「えっと、つまり“堪忍袋の緒が切れる”?」
ダメ男の代わりに男が答えてくれた。
「ピンポンです」
「誰だよ、黒野って……。カンニングの達人か? まったく、この場を
フーをテーブルに置いて、
「お仕置きじゃああぁぁ!」
「うわぁっ! にげろ~!」
「待ってよ、おねえちゃあん!」
追い掛け回すことにした。夫婦はそれを止めようとはせず、むしろ温かく見守っている。笑顔が溢れていた。
「すみませんね、ご主人。ダメ男は精神的に幼くて、やかましいところもありますが、ご容赦願います」
「全然構わないよ。たまにはいいもんだ、うん」
男はじゃれているダメ男たちを一瞬だけ見やる。
「気兼ねせずにゆっくりしていくといい」
ダメ男は夕食をもてなされ、
食後でも会話が途切れることがなかった。女のお手伝いをしようと、ダメ男が行くものの、ことごとく断られた。そこには優しさがあった、と本人は思いたかったようだ。そして、
「お仕置きタイムの再開じゃああぁぁ!」
またしても追い掛け回す。
そこへ、妻である女がトレーごと持ってきた。大きめのグラスと茶色い瓶が載っている。それをフーの近くに置いた。
「フーちゃんはダメ男クンとはどんな関係なの? その声だと、お嬢さんのようだけど」
「ご婦人は嫌なところを突いてきます。ただの所有者と物の関係に過ぎません」
男は瓶の蓋を開け、とくとくとグラスに注いでいく。黄色い層の上に白っぽい泡の層がグラスの
「ふふっ、年頃の女の子があんなカッコイイ青年に何も想いを持たないとは思わないわ。たとえ機械であってもね」
「い、いえ、それはですね、ご婦人の勝手な解釈ではないでしょうか?」
「そうかしら? ねぇ、あなた?」
ごくりと飲んで、グラスを置く。
「俺に振るのかヨ、わかるわけないヨ、ヘイヨ!」
「酔っていますね。さっきまで優しげな印象だったのに、今ではめんどくさくなっています」
「こりゃ、たいした毒舌だヨ。あはははは!」
「それより、どうなの? 単刀直入に、彼のことは好きなの?」
「え、え、ええっとですね、そんなことは、ないです、はい。ないです」
いつもの機械的な声に感情が加わっていた。
「満更でもないようね……。大変ね~」
「ご婦人も酔っ払っていませんか?」
「雰囲気に酔っ払ってるわね~。それで、告白はしたのっ?」
「こ、告白!」
ボンっと、何かが噴出した。
「どうしてあんなダメ男に告白なんてするのですかっ? ありえないです。絶対にありえません。人間のクズで取り柄もないダメダメ人間に、どうして告白なんてしなければならないのですか? しかもですね、」
この後も言葉を挟む隙間もないくらいのマシンガントークが炸裂した。一回も噛むことなく、相手が聞き取りやすいように、わかりやすく話す。女は苦笑いを隠せない。
出し尽くしたところで、
「なるほどね。そんなにダメ男クンのことが気になるんだ」
フーにとって気落ちする一言が返ってきた。
「も、もういいです! ご婦人は分からず屋です!」
「そうね。多分、世界中を見渡しても、ダメ男クンのことをわかってるのは、フーちゃんだけ……」
「それは、」
「あの幸せ者はフーちゃんのことをどう思ってるのかしらね」
ちょっとした恋バナの花を咲かせている一方で、
「痛いぞ、ガキども!」
「だめだめ~!」
ダメ男はふぅっとため息をついた。そこへ酔っ払っている男が来た。
「パパ、またのんでる! おさけくさい!」
「それは仕方ないヨ。飲めばなぁ」
「あの、キャラ変わってるけど……?」
「お互い様サ。久々のお客さんだからネ、話を聞こうと思ってネ~、ツクネ、クオウネ、オイシイネ~?」
「なるほど」
とりあえず死ぬ気で聞き流した。
男は子供たちを寝付かせるために、どこかへ行った。しばらくして戻ってきた。
「お客さんが来るのは何年ぶりだろう……」
「そうなんだ。突然の土砂降りで助かったよ」
「いやいや。子供たちも喜んでたし、興味津々みたいだ。お互いに運がいい。……ところで、ダメ男君はまだ若いみたいだが、なぜ旅をしてるんだい?」
もう酔いが冷めていた。その間に何が起こったのか気になったが、ダメ男はあえて聞かないことにした。
男は酒ではなく、麦茶とコップ二つを持ってきてくれた。そして注いでくれた。泡は出ない。
「はっきりと目的はないけど、いろんなところを見に行きたくて」
「命がけの観光ってことか。てっきり自分探しの旅かと思ったよ。最近流行ってるんだろ?」
「そんな大層な」
ダメ男はあどけなく笑っていた。
「ところで、どうしてこんな崖っぷちに家を?」
「あぁ~それか。ここに寄って来る人たちは一番最初にそれを聞くよ」
ごくりと一気に飲み干し、すぐに注ぎ直す。
「それを聞かれたら、いつもこう答えるんだ。“ここから見る海の景色が最高でね。朝焼けと夕焼けの時なんか、毎回見るたびに感動に打ち震えるよ”ってね」
「……“いつも”は?」
「そう」
にっこりと笑った。
「君は特別扱いさ。いいことを教えよう」
すると男はまたどこかへ行った。そして戻ってくると、
「金の延べ棒?」
ごとりとテーブルに置いた。
「そう。金だ。ここの海では金が大量に採れるんだ。正確には砂金だけどね」
「……そういえば……」
ダメ男は家中を見渡した。金色の装飾品や額縁が壁にかけられている。この生活空間にはあまり似合わなかった。
「ここらへんじゃ取れるところはなさそうだけど……」
「この家に、下へ行く階段がある。地面を切り崩したものだがね。今は雨だからちょっと見せられないのが残念だ。崩れやすくなってるからね」
「それにしても、一家総出でここに住むのは危ないのに、勇気あるなぁ」
「確実に
「どうして?」
「やっぱりこの景色がいいんじゃないかな?」
翌日。
「ありがとう。助かったよ」
「また機会があったらいらっしゃい」
玄関より少し離れたところで、女とダメ男はいた。ダメ男は黒のジャケットに黒のパンツ、黒のインナーを着ている。靴も黒という全身黒尽くめの格好だった。リュックもポーチもすっかり乾き、中身も万全だった。いつの間に……、とダメ男は思ったが、どことなく懐かしい気分だった。
「ダメ男君!」
そこへ男がやって来た。ダメ男の服一式と布に包まれた何かを持ってきてくれた。ずっしりとしている。
「これは?」
「金」
「え?」
間の抜けた声で返事した。開いてみると、太陽の光を受けてまぶしく輝く金の延べ棒があった。
「旅人は何かと大変だろう? いいんだ、いい話が聞けたからね。それはそのお礼だ」
「そこまでお世話になるわけには……」
「ほら、早く行って! 子供たち起きちゃたら、ダメ男クンの旅立ちを引き止めてしまうわ」
「ダメ男、ありがたくいただきましょう」
フーの一言で、受け取った。ぎゅっと握ると、手の跡が少し付いている。
「次はオレがお礼しに来るよ」
「それは楽しみにしてるわ」
頭を下げると、ゆっくりと歩いていった。夫婦二人はにこやかに、ダメ男がいなくなるまで見届けたのだった。
「さて、いつものように洗濯物を干しましょっか」
「俺も仕事に行ってこよう」
ちょうど起きてきた子供たちは、男の足に飛びついた。
「あれ、だめおは?」
「行ったわ。旅人さんだからね」
「え~、そんなぁ……」
「い~や~だぁ~!」
男の子はへたり込んで泣いてしまった。それを男が抱き上げる。
「いいか? 出会いがあったらいつか別れはくるんだよ。時には永遠に会えなくなるかもしれない。でもお前たちはこれからもそれを経験していくんだ」
「……うん」
「その度に人は成長する。それが人生の財産になっていく。だからどんどん巡り合って人生の財産を増やすんだ」
「うん!」
家族は家に戻り、各自で支度をする。男は仕事に、女は庭で洗濯物を干していく。子供たちは外でじゃれあっていた。そんな時、身体がふわりと浮かんだ。
水気を十分吸った緑の床は太陽の光を受けて、
光源から、青空から逃げるように、どんより雲が流れていく。そこから舞い降りてくるかのようなちょっぴり肌寒く、澄み切った空気。ダメ男は大きく息を吸って、身体に馴染ませていく。
「……重い」
「金の延べ棒ですね?」
「あぁ。見た目以上に、な」
昨日の大雨で、緑一色の大地は予想以上に
「よかったですね。筋肉トレーニングになりますよ」
「ほぼ毎日歩いてるから、太ることはきっとない」
「それにしても、本当に綺麗ですね」
「……オレが?」
「ダメ男はゴキブリ並みの汚さとしぶとさがあります。昨日の大雨が嘘のように晴れていますね」
「そうだな。このくらいがちょうどいい」
靴底に付く泥を振り払いながら、さらに歩いていく。途中、小さな湖にわざと靴を浸し、泥を洗い落としたりもした。
「そういえば、嘘みたいに疲れが抜けたよ。……何で?」
「お風呂の入浴剤ではないですか? 特製だと聞きました」
「確かに白っぽかった。
「匂いがしませんでしたか? だからダメ男なのですよ」
「なんだと? 風呂にぶち込んでシャンプーしてやろうか? ショートすんぞ」
「防水加工がしてありますので。それでも限界はありますが、困るのは果たして誰なのでしょうね? 独り寂しく放浪生活を送るのか、それとも話し相手のいる楽しい旅を続けるのかは判断に任せますけど」
「うぐぐ……頑張れオレ……。頑張って我慢するんだ。二の舞を演じちゃいかん……」
悔しい顔をしている割に、顔が
「どうしたのです? 虐められるのが好きになったのですか?」
「バカか、お前は。そんなわけあるか」
「では、何かあったのですか?」
「ん、いや。フーがさっき言っただろ? 独り寂しくってさ……」
「それがどうしたのですか?」
「今思うと、フーがいなきゃ、本当につまらないかもな、ってな」
「え?」
背負っていたリュックをひとまず下ろして、ジャケットを着なおした。そして再び背負い、
「それはどういう、」
「ほら、行くよ」
走り出した。
と、思いきや、
「ん?」
何かに気づいて、後ろを見た。
「どうしたのですか?」
歩いていた軌跡はまっすぐあそこに伸びていた、
「あれ?」
はずだった。
「ないですね」
「家がない?」
もう豆粒に見えるくらいに遠いが、確かに跡形もなく、綺麗さっぱりなくなっていた。
「あれはまさか、桃源郷……?」
「でも、確かに現物はありますし、それはないと思います」
「でもないじゃん。家」
「地滑りでも起こしたのではありませんか? 大雨で
「そんな音は聞こえなかった。絶対に桃源郷だ!」
と、凄んではみたものの、考えるのが面倒になってきて、まぁいいか、と投げ出してしまった。
身体を伸ばして気を取り直し、再び歩き始めた。