レンガ色の渇いた大地に枯れ木林が広がっています。周りだけじゃなく、ねずみ色の空もその枝に絡み付かれていました。
そんなところに青年が歩いていました。
「はぁ」
裾の長い黒いジャケット、藍色のジーンズに赤土のついた黒いスニーカーという格好です。安定した足取りで、立派に太った黒いリュックが背中でがしゃがしゃと揺れています。
青年の足跡は軌跡として背後からずっと見えなくなるまで伸びていました。
“見えた……”と呟いた前方に、枯れ木林の端がありました。と同時に、大きな壁が立ちはだかっています。近付いてみると、背の高い青年が手を伸ばした高さの三倍はありそうです。大地の色と同じ色で、鋭く細かい突起がびっしり敷き詰められていました。試しに拳で小突くと、
「いた」
ちょっとした痛みが拳に滲みます。
青年は痛くないくらいに指で突っつきながら、右手を壁にして歩いていきます。ずっと歩いても左側は枯れ木林でちっとも変わらない景色でした。しかし、
「ん?」
途中で抜け道を見つけました。ちょうど枯れ木林がその道を避けるようになっています。道脇には木で拵えた古びた看板があり、
[海]
と書かれていました。しばらく歩いてみると今度は、
[にんぎょの海]
とありました。
「人魚?」
「おい、あんた」
「!」
青年は無意識に左手を服の中に突っ込み、身構えました。しかし、そこには、
「……なんだ、門番か」
門がありました。左手側の景色に集中してしまい、見落としていたようです。
門は壁と同じくらいに高く、分厚そうな鉄の塊のようです。その傍らに門番らしき青年が二人います。腰に剣とホルスターが携えられています。
「旅人か?」
「そうだよ」
「お疲れ様。中に入るか?」
「入れるならぜひ」
「分かった」
青年が門を数回叩くと、左右に開いていきます。しかし、人一人がやっと通れるくらいの幅でした。青年は荷物を何回か分けて街の中に入れて、最後に自分が入りました。
入った途端に、
「うぅ」
ヘドロのような酷い汚臭。目にくるほどに強烈でした。薄く
青年は、
「う、うぅ……」
顔が真っ青になっていました。
「なんだろ、この臭い……」
そう吐き捨てて、歩き出しました。
人々の服装はキラキラと輝いていました。おしゃれで高級そうで、まるでセレブのようです。そのせいか、青年の格好が目立っていました。それでも、人々は気にも留めず、きりきり歩いていきます。
気分が優れないまま何とか宿を借りて、逃げるように部屋に入りました。しかし、必要最低限の荷物と部屋の鍵を持って、
「出るのか? いくらでも出入りはできるが……ここら辺は何もないぞ」
「ひとまず出るよ」
国の外へ逃げるように出ました。
「“にんぎょの海”かぁ」
“にんぎょの海”への道を通っている途中、家がありました。木の板を張り合わせただけの家モドキで、軽く押しただけで崩れ落ちそうなくらいに朽ちています。
青年はドアと思しき木板に
「だ、だれ……」
ぎぎっと擦れながらドアが開きます。声と共に少女が顔だけ現しました。しかし、
「!」
開ききると、彼女の脚がちらりと見えました。車椅子に座っているようです。
少女は息を呑む青年の顔を見て、
「ご、ごめんなさい。気分を害してしまって……!」
慌てて閉めようとしました。
「い、いや、こっちこそごめん」
そこに青年は手で遮りました。
「気分が悪いのは近くの国にいたからなんだ。ちょっと臭いがきつくて」
「嘘なんかつかないで結構です。もう……帰ってください」
無理矢理閉め出されてしまいました。
青年はその場で静かに話し出します。
「オレは旅人なんだ。近くに他の国はあるのかな? 知ってたら教えてほしい」
「……」
少女はゆっくりとドアを開けました。
少女が膝下をきゅっと握り締めます。そこから先がありません。
「旅人さん……?」
「うん、そうだよ」
「あの、もしよかったら、旅の話を聞かせてくれませんか? その後でしたら、知っている国を教えます」
「教えてくれなくても、たくさん話するよ」
「私、こんなのだから外に出たことがあまりないんです……。気持ち悪がれるし……」
「そんなことないと思うけどなぁ。オレがびっくりしたのはそこじゃないし」
「?」
少し赤くした青年を招き入れました。
「見ての通り、ボロ家ですが……」
「オキニセズニ」
「あはは」
彼女はテーブルに放置されていたカップやティーポットを太ももに載せて、外に行きました。
その間に見渡しています。歪んだテーブルと椅子に木の箱をいくつも裏返して組み立てたベッド、それらがあるのに台所がありませんでした。周りの壁には設計不良なのか隙間があります。
「……」
青年は言葉を失いました。
「どうかしましたか?」
「!」
背後からの声。青年の背後に影のように
「あ……いや、何でもない」
「そうですか」
からからと車椅子を進ませ、青年と向き合いました。
カップとポットを覚束ない手付きで置きます。震えているようにも見えます。
「さて、どんな話がいい? 楽しいのかスリルなのか」
「……えぇと……、そういえば名前がまだでしたね」
「そういえば。オレは、」
「?」
がすがす、と荒々しいノックがしました。
「今日は騒々しいみたいだ」
青年が少女を見やると、
「そ、そうですね」
また俯いてしまいます。沈鬱な面持ちを隠し切れていませんでした。良からぬ雰囲気を感じ取った青年は黙ることにしました。
しかし、
「よぉ、久しぶりだなぁ」
「元気だった?」
ずかずかと二人入ってきました。頭にバンダナを巻いた男といかがわしい格好の女です。
けらけら笑っていた二人が青年を見た瞬間、表情が険しくなりました。しかし、青年は彼らに目もくれずに少女に話しかけます。
「知り合い?」
「……」
少女はさらに俯いて黙り込んでいました。ため息を軽くついて、仕方なさ気に二人に顔を向けます。
「お前、誰だ?」
「たまたま通りすがった旅人で、お邪魔してるとこなんだ。そちらは?」
「ワタシたちはこの子のお~や。ね?」
「……はい」
「親……」
少女は頑なに目を合わせようとしません。
「それで悪いんだけど、今から大事な話をしたいんで、帰ってくれないか?」
「彼女、まだオレに用があるから、帰るのは難しいかな」
「だったら外で待っててちょうだい。すぐに終わるから」
「……分かった」
青年は一旦家から出ました。近くの壁にもたれ掛かります。正直なところ、この家の状態では、小声でも丸聞こえです。
中で、三人の会話が始まりました。
「なぁ、五つほどウロコをくれよ」
「必要なのよ、いいわよね?」
やはり、はっきりと聞こえます。壁があってもなくてもほぼ同じです。
鱗……? 青年は味気なさげに呟きました。
「前、たくさんあげたじゃないですか。なのにまだ欲しがるんですか……?」
「何度も言ってんだろ? お前のウロコは高級品なんだよ。需要が途絶えることがないんだよ」
「もう駄目です、嫌です。痛い思いはしたくないんです」
「……っ」
「お引取りください。そしてもうここに立ち寄らないでくだ、」
話を遮るように、物音がしました。食器が割れる音、木が
「てめぇ、アタシたちをなめてんの?」
何かを叩く音が聞こえます。三発鳴りました。
「てめぇのことなんか知ったこっちゃねぇんだよ!」
女が少女を組み伏せて、平手打ちをしていました。少女の両腕が両膝で押さえつけられています。
か弱い声で、
「や、やめてっください……やめて……」
訴え、顔を腫らしています。
「だったらさっさとよこせっ!」
綺麗な髪を引っ張り上げ、怒鳴り散らしました。
横から男が寄ってきました。
「ウロコをくれないとなると、××するか?」
「……」
「脚がないお前ができることなんざ、それかウロコくらいしかないぞ。逆に言えば、役立たずなお前には他の女にはできないことがあるってことだ。なあ頼むぜ? 国長のツレが欲しがってるようなんだよ」
「そうやって言葉巧みに騙して、私の両脚を……ぅっ、うぅっ……」
「騙しちゃいないだろ? お前がそう決めたんだ」
真っ赤に顔を腫らし、大粒の涙を落とします。
自称親たちは困り果てていました。ただし、女の方は暢気に煙草を吹かしています。
ギロリと睨みました。
「いけ好かねえその目、潰すか。アンタ、押さえな」
がっしりと男がのしかかり、少女の頭を担ぎ上げました。もちろん、全力で抵抗します。
「いやっ! やめてぇっ! たすけてぇっ!」
「もうウロコくれても遅えからな。その目、焼き潰してやる」
煙草の火を右目に近づけます。
「や、やめて……お願いします……いや、いや……」
あと十センチ、
「あ、あぁ……」
「?」
少女の視線が女の遥か後ろにいきました。
「……たすけて……」
「……あ?」
ぽろぽろ、と涙を落として、
「旅人さん、助けてええぇっ!」
叫びました。
「お安い御用だよ」
「!」
既に二人の背後に青年がいました。粘りつくような何かを感じ、二人は
慌てて落とした煙草をぎりぎりと踏み消す青年。
女が刃物を出して脅してきました。
「てめぇ、突っ込んでくんじゃねえっ! ぶち殺すぞっ!」
「よっと。大きい怪我はなくて良かった。でもほっぺが腫れてるな……」
「聞いてんのかっ!」
まるで無視して、青年は少女を抱き上げます。
「それじゃさいなら」
「え?」
そのまま、逃げ出しました。
「このやろお! 待ちやがれ!」
女が家の外に出た瞬間、
「っぴ」
横っ腹に強烈な蹴りが突き刺さりました。ゴキゴキと嫌な音を立て、吹っ飛んで、ごろごろ転がって、
「がっは……」
女は見上げる間もなく、頭を蹴り上げられました。いわゆる“サッカーボールキック”です。あらぬ方向に首がへし折れます。二度と戻ることなく、倒れて死にました。ぴくぴく動いていますが、問題ありません。
「……気分は大丈夫?」
ニコリと青年が笑いかけます。ずっと少女を抱きかかえたままでした。
「……は、はい……」
呆然としています。
「じゃ、話の続きをしよっか」
何事もなかったようにそのまま家に戻ると、自称親の片割れが残っていました。殺すことに躊躇いがなかったことに、腰が抜けているようです。無理もありません。そのシーンを見せつけられていたのですから。
「は、ひっひぃ」
「あれ、まだいたんだ。てっきり逃げていったかと思ったのに」
眼中に無いことに腹を立てたいところですが、膝が笑って立ち上がりません。
男を睨むこともなく、かと言って助ける素振りもありません。石ころを見るように、興味なさげに眺めていました。
「どうする? 君が決めていいよ」
尋ねられた少女は睨みつけて、
「殺してください」
即答でした。
男はやっと動き出し、土下座でおでこが赤く滲むほどに頭を打ち付けます。
「あ、はわわっ、申し訳ありませんでしたっ! 俺が全て悪かったですっ! 許してくださいっ。一生ここに近寄りません、あなたに関わりませんっ! どうか、どうかお許しをっ!」
「こう言ってるけどどうする?」
「殺してください。こんなことしたって私の両脚は一生戻りません……」
「……」
青年は新しくティーカップを借りて、お湯と何かの薬を入れました。
「これ飲んだら許してあげるよ」
「えっ? たっ旅人さん?」
「ほ、本当ですかっ」
「きちんと飲み干してくれたらな」
男は喜んで一気飲みしました。火傷になろうがなんだろうが死ぬよりマシ、と必死になりながらも、すとーんと眠ってしまいました。
「さて、君に提案があるんだ」
「?」
翌朝。青年は荷物を全て少女の家に持ち帰りました。そして、
「後悔はない? 今の内ならやり直せるよ」
「ありません」
きりりと凛々しく言い切りました。
「そっか。そう選んだことを絶対に後悔させないよ」
青年が車椅子を押しながら、家を出ました。少女の太ももには青年の物と思われるポーチが二つ置いてありました。
辺りは異臭が立ち込めていました。家は水っ気があるのか湿っており、中まで水浸しです。その中に女の死体とぐるぐる巻きの男がいました。男は今もすやすやと眠っています。
紙に火をつけました。
「さよなら。私の……全て……」
投げ捨てました。
一気に燃え盛ります。朝なのに煌々としています。それが何だか眩しく、真っ直ぐ見ることができませんでした。
火は中まで侵食し、中の中まで焼き尽くしていきます。その頃には二人は出立していました。断末魔の声も一緒に焼かれていきましたが、振り返りませんでした。
「目的地までは少しかかるけど、食べ物も余裕だから大丈夫かな」
「ありがとうございます」
「これから目指す国はオレの知り合いがいて、その人に君を頼もうかと思ってる。信用できる人だよ」
「本当に……ありがとうございます」
二人は無理しないペースで休憩を挟み、目標の国へ確実に距離を詰めていきます。そして、夜は早めに床に就きます。
「君はテントに入ってて」
「でっでも、寒いですよ? 外……」
「さすがに女の子を外にほっぽり出せないよ。それに一人用だし、そのテント」
「ふふっ。私、女の子って年でもないんですよ」
「え? そうなの? すごく若く見える」
「おだてても何も無いですよ」
「いやーなんか出るかと思ったわーうん。めっちゃ期待したなー」
「あっはは」
そんな生活を繰り返して、ニ日目の夜のことでした。
「どうしたんだ? 眠れない?」
「……」
少女は深夜でも眠ろうとしませんでした。いつものようにテントを準備して、日頃の疲れを抜くだけです。しかし青年から離れようとしません。車椅子から降りて、木の幹にもたれ掛かる青年に寄り添っています。
青年はずっと空を見ていました。満天の星が三日月と共に輝いています。
「私がどうしてあんな家に住んでいたのか、聞かないんですか?」
「もう少し落ち着いてから聞こうかなって」
「……」
青年は“少女”を見て、ぼそりと呟きました。きれい……。
「皮膚の病気か分かりませんが、こういう体質なんです」
青年の手をそこへ引っ張って、触れさせました。
「少し硬い」
「物好きな人間が貴重品として扱ってから、前みたいにせがむようになりました」
「それならもっと大切にしようとするけどなぁ」
「……あくまで“これ”が珍しいのであって、私自身は化け物扱いです」
「あんなとこで暮らしてたのは住民に追いやられてか。ひどいもんだ」
滑らかで温かい……、青年はそっと手を戻しました。ところが、その手を、
「え?」
またつかんで、放しませんでした。ぎゅっと握りしめています。
「た、旅人さん……」
じっと見つめます。
「私、まだお礼をしてないですよね」
「あっあぁ、お礼はいいよ。それ欲しさに助けたわけじゃないんだ」
「でも何か欲しがってませんでした?」
「あれは冗談だっ」
「いえ、それでは踏ん切りがつきません。だから……」
握っていた手を、指まで絡めました。
「あ、あの? そのちょっと待って」
「やっぱり私みたいなのはいやですか……? 両脚もないし、化け物だし……」
「そんなことないっ! すごく、きれいだ……しさ……」
言いながら恥ずかしくなってしまいました。
思わず力が入りました。少女は真っ直ぐ瞳を見て、握り返します。しっとりと湿っています。
「でもえーっと、んーっと……そう! ヘタレなのっ。こういうことに臆病なの緊張症なの、だから待って、」
「もう待ちません、待てませんよ……」
たどり着いた国は少女の国のように、城壁に囲まれ、いかにも発展していそうな国でした。ただ、入口は木で造られた簡素なドアでした。
青年がその入口で門番と小話をした後、
「じゃあ行こうか」
門番が少女と目を合わせた途端、顔を赤くして
中に入ると、
「うわぁ……」
所狭しと並び立つ露店、そこに飛び交う言葉と溢れ出んばかりの人々、出入り口から一直線に続いていました。
「商工業が盛んで、活気ある国なんだ。住民たちはこの大通りの奥に住んでて、昼間になるとここで店を開けるんだ。……行こうか」
「だ、大丈夫でしょうか?」
「ここ以外に道がなくてね。しばらく進んでいけば知り合いの店に着くから、それまで皆の視線を感じたらいい」
「え、えぇっ! ちょ、ちょっとま、」
青年は少女の言葉を遮って、車椅子を押していきます。通るよ、ちょっと通してくれ、青年は軽い口調で人混みを突き進みます。
「……」
「どう? 誰も変な目で見ないでしょ?」
「は、はい」
「でも、気をつけないと、」
青年の肩を何かが掴んできました。
「おぉ、あんちゃんの妹さんかっ? 両足が不自由してると見たんだが、うちで妹さんの義足を作らんかっ?」
捩じり鉢巻きをしたごつい男が呼び止めます。
「悪い。もうアテがあるんだ」
「そうかいそうかい。次はうちのところに寄ってきなよ!」
「楽しみにしてるよ」
がしっと握手して、
「い、今のは……?」
「義肢さんだ。身体の一部を失った人にその代替品を作ってくれる職人さん」
「へぇ」
「君みたいに両脚を失っても、立ったり歩いたりできるんだ。ほら、あの子の義足がそう」
青年が見る方向に、右脚が義足の女の子がいました。短パンから出ている鉄製の脚が女の子を支えています。
「私も義足があれば……もう一度立ち上がれるんですか?」
「たくさん訓練しなきゃだけどね。……着いたよ」
青年たちが着いた所はとある店の前でした。しかし、ここだけ誰も立ち寄っていません。出入り口のドアには“CLOSE”と札が掛かっています。
「もうやってないみたいですけど……」
「中に入ろうか」
コツコツと軽くノックをして、すぐに入りました。
目の前にテーブルとキッチンがあります。使われている形跡がなく、
青年がここに留まるように話し、二階に向かいました。そこに広がるのは、
「おぉ」
まさに工場でした。真正面には
ちょうどその窯に立ち向かう男が一人だけいました。ハンマーと鋏を使って持っています。どうやら鉄板のような物を挟んでいるみたいで、窯の中にぶち込んでいます。それを取り出した瞬間、
「はぁ!」
素早く力強く叩き込みます。煌々と輝く鉄板から黒い不純物が剥がれ落ちていきます。まるで、チョコレートを包む銀紙を剥がすように。
「ふぅ……」
熱の込もったため息。鉄板を水につけて、
「お、小僧か!」
ようやく青年が目に入りました。足元を見ながら、慎重に男がやってきました。
「久しぶり、ダンじいさん。相変わらず打ち込んでる」
「一週間くらいしか経っとらんだろっ」
スキンヘッドに不精髭、ごつい体型です。首に巻いているタオルや顔、作業服が真っ黒でした。
既に黒いタオルで汗まみれの黒い顔を拭います。
「……でも、どうした? もう刃が折れたか?」
「まだ大丈夫。念のために見てもらうけど」
「じゃあなんだ?」
「下に来れば分かる」
「?」
二人は下に降りていくと、
「あ、お二人とも待っていました。お水、どうぞ」
「あ、ありがとう」
「……」
ピッカピカの部屋と車椅子の少女が出迎えてくれました。埃だらけだったのが嘘のように、まさに埃一つないくらいに掃除されています。
ダンは、
「ちょ、ちょっと待ってな嬢ちゃん」
青年を無理矢理外へ連れ出しました。
「むりむりむりむりぃぃ! 絶対無理だから!」
「ば、ばか! 聞こえたらどうするんだよ……!」
「馬鹿はお前! あんなベッピンさんを預かるなんてできるか!」
「でもじいさん、深い事情があるんだよ。じいさんしか頼れるアテがないんだ」
「ぉ、俺はバツイチだぞ……? 女房と別れた原因知ってるだろ?」
「鉄に打ち込みたい、立派な男じゃないか」
「仕事に立派すぎる男ってのは、女が逃げていくもんなんだよ……!」
「とにかく頼むよ! 何も結婚しろなんてわけじゃないんだ」
「話をぶっ飛ばすなっ!」
「あ、あの……」
ドアから少しだけ顔を出す少女。表情を曇らせていました。
「わ、私、炊事洗濯何でもしますから……お願いします」
「で、でも……」
「やはり、迷惑ですか……?」
「う」
今にも泣きだしそうです。
「それでも男なのかよ! じいさん!」
「だっだが、しかし……」
悶々とするダンに青年は耳元でひそひそと何かを話しました。
「な、なんということじゃ……!」
その直後、ダンが泣き出しました。
「もう一度聞くけど、じいさん頼める?」
「もうむしろウチに来い! 絶対大切にしてやっからなぁぁぁ! うおおぉぉぉぉん!」
こうして少女は老人に引き取られることになりました。
「めでたしめでたし」
翌日、
「本当に行くのか?」
「あぁ。ちょっと忘れ物を取りに行くよ」
「気をつけてくださいね」
「うん」
青年はリュックを置いて、少女のいた国へ向かっていました。
天気は最悪の大荒れで、土砂降りで視界が薄暗く悪くなっています。青年の着ている黒いレインコートがばちばちと打ち鳴らされ、地面が
枯れ木たちが涙を流します。
「こんな雨じゃ……」
青年は枯れ木を伝いながら歩きます。その途中で、
「……あ」
“元”少女の家に着いてしまいました。焼け跡しか残っていません。物色することもありませんでした。
青年の表情は何も表していませんでした。
「よし」
他の場所を目指します。
もはやレインコートが意味を成さず、服がびしょ濡れです。全身が
「うおっ」
何とか枯れ木に掴まる、そんな状況でした。
「……!」
青年は急に足を止めました。
「はぁ、はぁ……はぁ……か、わ?」
枯れ木林の隙間からかすかに見えました。そちらに近づくと、
「……いや、海?」
足元から水平線の彼方まで広がっていました。しかし、土砂などですっかり汚れ、何も見えません。視線を落とすと、陸に溢れ出そうな泥水が青年のレインブーツにひたひたと迫ります。
数歩だけ下がりました。
「“にんぎょの海”の看板先にあの家があって、さらに先がここ……。“にんぎょの海”はここで間違いない。でも……」
泥水を指に浸けて、舐めました。塩味は全くありません。
「ぺ。……“海”の看板は確か……あっちか」
真っ直ぐ反対方向に向かって歩き出します。やはり、と看板を見つけました。さらに進み、
「おお」
青年の足元から海辺が、その奥に海が広がっています。大波をうねらせて、水飛沫をあげていました。
青年は海の荒れ様を見ながら、考えに耽り始めました。二つの海に囲まれた国。恐ろしい悪臭のする国。そんな国から追いやられた化け物扱いの少女、脚の皮膚を除いては普通の少女。
結局何も思い浮かばず、背中を伸ばして気を取り直しました。
急いで帰ろうとした矢先でした。
「! あれは……まずいっ!」
海の彼方が盛り上がっています。それを見た途端、一目散に退散していきました。しかし、
「はやっ」
当然、そちらの方が断然速いのです。そう、津波です。猛風によって大きく成長した津波が押し寄せていたのでした。
間に合わない、間に合わない、飲み込まれたら死ぬ。青年の頭はそれしかありませんでした。目の前に迫っていないものの、地響きのような轟音に絶望感を覚えます。それでも必死に重たい身体に鞭を打って全力で動かします。
が、
「遅いですね」
「こんな天気で忘れ物を取りに行くなんて、命知らずもいいとこだ!」
「もう三日も経っていますよ……」
「まぁ、今は小振りになってきたから大丈夫だろうけど……。それにしても、随分と長い雨だなぁ」
「……」
車椅子の少女とダンはコーヒーを啜ります。
「さて、仕事に戻るか。嬢ちゃんは身体を休めた方がいい。小僧のことは俺に任せな。ほとんど寝とらんだろ?」
「で、でも……」
ダンは車椅子を押します。
「嬢ちゃんに何かあったら俺が怒られちまう」
「……分かりました」
一階に強引に作られた部屋、少女の部屋に行きます。階段脇にあって、中はベッドや机、本棚が置いてありました。
「このお部屋も……ありがとうございました」
「ここに来る度に言わんでも。女の子が小汚い俺と同じ部屋にするわけにはいかんしな」
「ダンさんのお部屋は……?」
「二階の工場だな。鉄に囲まれて寝たいんさ。だから男子の部屋に出入りしちゃいかんぞ」
「あははっ、分かりました。気をつけますね」
「……ん?」
「どうしました?」
「小僧が帰ってきたな」
「どうして分かるんですか?」
「勘」
にこりと微笑みます。
少女をベッドに寝かして、ダンは戻りました。そこには、
「こ、小僧!」
全身ずぶ濡れの青年がいました。
「ど、どうした!」
肩から腕にかけて綺麗な裂け目がありました。そこだけ赤く滲んでいます。
「はぁ……はぁ……」
「ばかやろぉ! 早く医者んとこ行くぞ! 嬢ちゃんは留守を頼む!」
慌ただしく家を飛び出して行きました。少女は、
「はっ……はい」
言葉を返すだけで精一杯でした。
青年は医者の迅速な処置のおかげで生きながらえました。しかし、意識が戻らず、
「まったく、血だらけにずぶ濡れとはどうなっとるんじゃ……? 何があったのか……」
「……ふは」
「! ダンさん……ダンさぁん!」
「どうしたっ? お、おぉ小僧! やっと目が覚めたかっ!」
青年の意識が戻ったのは二日後でした。
「心配かけおって! このバカタレがっ!」
青年にヘッドロックをかまします。本当にオチそうになるのを少女が必死で止めました。
病院に入院していたのですが、青年の強い要望でダンの家で養生することに決まりました。なぜそんな無茶な要望が通るのか、少女には分かりませんでした。
それからも養生生活を続けていました。日に日に元気になっていき、余裕が出てきたある日のことでした。
「……謝りたいことがあるんだ」
「はい?」
少女がリンゴを
「前いた国が水没してしまった」
「えっ?」
「救えなくて、その……ごめん」
太ももの上の皿に皮を戻しました。
「あなたは何も悪くないです。謝ることなんて……。むしろどうしてあんな国を助けようとしたのか、そっちに驚きましたよ」
「旅人の本能ってやつかな。すごく気になってね。もう一回調べ直そうと思ったんだけど、悪天候で津波に巻き込まれちゃって……」
剥きかけのリンゴとナイフ。静かに皿に戻しました。直後、乾いた破裂音が響き渡りました。
「……えっ」
キョトンとする他ありませんでした。
「そんなことのためですかっ? 死ぬかもしれなかったんですよっ!」
じんじんと頬が痛み、赤くなっていきました。
「ダンさんも私もどれだけ心配したか……!」
「……」
震える手で擦っています。しかしなぜか優しく笑みを浮かべています。
とても怪訝そうに見ました。
「まずは落ち着いてほしい。いいかな?」
「……ごめんなさい。ちょっと冷静には……」
青年は少女をベッドに呼び寄せて、そっと手を握りました。青年の手がふるふると震えています。
すぐに悟りました。恐怖や緊張ではなく、必死で意識を繋ぎ止めているためだと。平然そうに話していますが、この状態ですらいっぱいいっぱいだったのです。しかも今の張り手で追い打ちをしてしまいました。
両手を添えた後、改めてゆっくり頷きました。バツが悪そうに。
「あ、あの国はどういう国だったんだろう?」
「家や工場の排水を綺麗にして、川や海に流す。それを一手に請け負っていた国でした」
「……そんなすごいこと、できるんだ」
「でもその仕事を他の国に奪われてしまって……」
少女の手も一緒に震えます。
「それしかできない国でしたから、一気に荒れました。私のことをアテにし始めた原因もそうだと思います」
「“にんぎょの海”は?」
「ただの案内板です。珍しい国だったようで、見学に来る人も少なくなかったみたいです」
「なるほど」
青年はリンゴを取ってもらい、しゃくしゃくと食べます。
「もう、跡形もなくなったんですか?」
「全てを押しぁ、流したよ」
「綺麗になったんですね。昔みたいに……」
傍らで泣きじゃくるのを、静かに見つめているのみでした。
青年はぐんぐんと調子を戻していき、気付けば何週間も過ぎていました。もう完全回復と言っていいほど体調が良くなりました。
天気が良い昼下がり、青年は外にいました。ダンの家の前で見つめ、
「……はは」
「ちょ、ちょっと待ってください」
「おねえちゃん、もうちょっとだよ」
車椅子の、いえ、少女は二本の脚でぎこちなく歩いています。その前方に義足の女の子が笑いながら、
「ほらほら」
「うあぅ」
手を差し伸べています。少女は歩く練習をしていました。
「小僧」
「じいさん?」
ダンが家から出てきました。
「またお前のおかげだな。すっきりした顔つきじゃないか」
「あの年で辛すぎるメにあったんだ。これから取り戻していかないと」
あのボロボロの家にいた時が嘘のようです。それを
「言うてあの
「……ほんと? 来る途中でも聞いたけど、いやどう見たって……まぁ大人びてるなぁと思ったけど嘘でしょ?」
「聞いたら四つ五つ上らしい」
「……お姉さんじゃねえかっ」
なんだかこっ恥ずかしくなりました。
それを見越して、何かを手渡します。
「これは?」
「新作」
それは仕込み式のナイフでした。格子状に入り組まれた黒い骨組の柄に厚いナイフが収納されています。柄の隙間に薄い膜が貼られています。刃元に小さなボタンが付いていて、そこを押すと、
「わっ」
勢い良く刃が飛び出します。全体として拳六つほどの長さです。
「大事にしろよ。嬢ちゃんが作ったんだからな」
「へぇ」
思わず彼女に見向きました。
「どういう風の吹き回し? じいさん、誰にも任せたことないのに」
「小僧の役に立ちたいと必死にせがんできてな。それにちょうど考案してたのがあったから、嬢ちゃんに頼んだ。それだけのことじゃい」
「いいもんだな」
「そいつは滅多に折れないが、あげるわけじゃないからな!」
「わかったよ。“借りておく”よ」
ボタンを押しながら、地面に押し込んで刃を納めました。
「意外に器用だから後継者に、と思ったんだがなぁ。金槌持たせんのもこれで最後にしよう」
「嫁入り前には困る仕事だもんな」
「人一倍幸せになってもらわにゃならん。小僧もな、ほれ」
今度は青年の頭に何かを被せました。
「な、なんだよ! びっくりした!」
「手編みじゃぞ?」
「? セーター?」
手繰り寄せると、黒いセーターでした。首元まで上げられるファスナーに、もこもこしたファー付きのフードが付いています。ダンがにやついて催促するので、
「へぇ。中にまでポケットあるなんて機能的」
仕方なく着替えました。
「この色男っ! がははははっはははは!」
「ははっ」
青年はため息をつきつつも、照れていました。
じゃあな、とダンは家に戻っていきました。
義足の彼女と女の子が楽しそうに遊んでいます。青年はのほほんと眺めながら、
「幸せだよ。もったいないくらい」
言葉が漏れました。
「もう行くか?」
「うん、休みすぎた」
「またこちらにいらしてくださいね」
「うん」
「荷物は玄関にある。新作ぶっ壊すなよ」
「分かった。……とそうだった。ついでにこれを渡すよ」
「? なんですかこれ?」
「オレも持ってるんだけど、これさえあれば遠く離れていても話ができるし、レンズを通じて風景を見ることができるんだ。しかもいろんな知識が詰め込まれてるから、勉強にもなる」
「便利ですね」
「あんまり遠くに行ったことないって言ってたでしょ? かと言って旅をするのは危険だし。だからこれを使って一緒に見に行くんだ。世界中の景色をさ」
「世界中の、景色? ……こんな私にたくさん見せてくれるんですか?」
「任せろっ! 旅をしてれば、面白い国楽しい国、たっくさん見つかるんだよ。一緒に旅して楽しもう! 観光気分……、いや散歩気分でさ!」
「……ぜひ、よろしくお願いします! それに、少しでも手助けできれば……!」
「あぁ、その時は頼むな。……っと、そういえばずっと名前聞いてなかった」
「そうですね」
「聞いてなかったんかい! けっこう可愛らしい名前だぞ?」
「じゃあ、改めてまして……オレは×××。君は?」
「あはは。私の名前は……」