まだ朝の早い出勤ラッシュ前にその事件は起こった。
交番に直接、近所付き合いのある中年女性、佐藤さん(仮)が愛犬を連れて唐突にやって来た。
『小さな子供がテトラポッド(消波ブロック)に挟まっている』
日課である散歩をしていた佐藤さんが、近所のコースをいつも通りに歩いていると、偶然干潮時に波の引いた海浜公園でその子供を発見し、携帯よりも交番を訪れた方が早そうであったから直接伺ったのだそうだ。
早速、同僚と共に佐藤さんに連れられて現場へ向かって到着してみると、既に十数人の野次馬が人だかりを作っていた。
人だかりを掻き分けて進んだ先には、うつ伏せに消波ブロックの間に挟まった赤い髪が覗く四、五歳の子供が足を波に濡らしていた。
柵を乗り越えて、藻や苔の付いた消波ブロックを滑らないように注意しながら足場として、子供のいる波打ち際の近くまで移動すると声を掛けて意識の有無と生命活動の確認をした。
若干魘されている様だったが、ただ眠っているだけであり一安心した。いつまでもここに置いておく訳にもいかない為抱き上げてよくよく見直してみると、その状態は何かの事件を彷彿させた。
軽過ぎる身体と、手首に掛けられた鎖の付いた手錠、顔や体に複数の古傷と病院で支給される貫頭衣の姿が、気になった。しかし、今は少なくない人の目があるこの状況で起こして事情を聴く訳にも行かなかった。幸い、目立った外傷も無いため、現場検証と聞き込みを同僚に頼み一先ず、交番へ保護することにした。交番に着くと、来客用の長椅子へと寝かし付けて救急車を呼ぶかしようとすると、後ろから物音が聞こえた。
振り返ると、保護した子供が髪の色と合わせたような紅玉色の瞳をこちらに向け起き上がっていた。
「君はね、海浜公園の消波ブロックに挟まっているところを此処の近所のおばさんに見つけられたんだ、よ? なんだこりゃ」
取り敢えず、子供の着ていた貫頭衣を脱がせて自分の替えのシャツを着せて、海水でべた付いた頭を濡れタオルで拭きながら、珍しい髪と目の色から、ハーフか何かか? と考えていると、タオル越しに伝わる異物に疑問を持ち、取り払うと、べた付いて固まっていた髪に隠されていた角のような突起が見えて驚いた。
子供に、角について聞くと、不思議そうな顔をこちらに向け聞かれていることの理解が出来ないようだった。
「どうかしましたか?」
「その頭のはどうしたんだい?」
「ぼくの家族には、みんな角がありましたけど……何かヘンですか?」
角を弄りながら、子供は首を傾げながら此方を見上げる。
慌てて何でもないと取り繕って、もう一度髪を拭き直し始めてさり気無く、角の根元を探ると飾りなどではなく直接その子の頭から生えているのを確認して、その角が本物であることを知った。
珍しいと思った。世界には、様々な身体的な相違を持つ人々がいることは知っていたが、自分が実際に目の当たりにするとは……。
本人を前に、失礼とは分かっていながらも自分が奇異なものを見る目がしているのがわかってしまう。
出来るだけ、子供の容姿を気にしないようにするために、事情聴取を兼ねて子供の名前を聞いた。
「僕。お名前、おじさんに教えてくれるかな?」
「……
知らない相手に、氏名をしっかりと伝えられれば四歳児にしては上等だろう。立派な自己紹介だったが、どの様な漢字が使われているのか判れば身元の確認がし易いので、そのまま話続ける。
「角沢アダンくんだね。どんな字を書くのかな?」
「『空』が『暖かい』と書いて
名字のほうは、すぐに幾つか候補が上がって聞き取り用の手帳に漢字を見せて『角』と細い川の『沢』が使われているのが分かったが、名は流石に読み音だけではどのような字を使っているのか分からない。駄目元で聞いてみたが、子供でも覚えやすい方法で教え込まれていたのか、すんなりと答えられる。
「いい名前だね。お家はどこにあるのかな?」
肝心の住所について聞こうと、何気ない言葉だった。この後子供話とは思えない壮絶な家族話を聞かされることになるとは、夢にも思わなかった。
奥の部屋に置かれていた11区周辺の地図帳を広げながら、
「今僕は、おじさんと此処にいるんだよ」
と、交番の設置されている地区を指差した。
空暖と名乗った子供は、難しい顔をしながら、
「もっと、ずっと大きいのじゃないとわからない」
と言ってきた。最初は、『大きい』の意味が分からずに縮尺の違うページを見せたが、空暖は違う違うと首を可愛らしく横に振る。
何度か確かめていく内に、縮尺の小さい広い範囲を示す地図が欲しいのだということが分かり、どんどん尺度の分母が大きくなって行き、遂に日本地図にまでその捜索範囲を広げた。
「本当に、ここなのかい?」
「うん。多分、ここらへん」
大きく丸を描きながら指差すその場所は、日本地図に載ることすらない小さな島々が点在する太平洋のど真ん中であった。何度か、確認を取るも、指差す範囲は変わらない。この範囲の島、というより孤島に自分の家があると言いたいのだろうか?
からかわれているのか、それとも遊ばれているのかと、頭を押さえていると、空暖が思い出したように言葉を付け加えた。
「でも、お姉ちゃんが(研究所という名の)お
「は?」
唐突に理解できない突拍子なことを言われ、固まってしまう。
「お家がないって……じゃあ、お父さんとお母さんはどこにいるんだい?」
子供の作り話として、笑うこともできた。だが、地図を見ながら呟かれた子供の顔には、感情が無く、笑い話として切り捨てるには只ならぬ予感がして、両親の居場所を聞くと。
「お母さんは、ぼくたちが生まれた後に(自殺して)死んじゃって。お父さんは、お兄ちゃんと一緒に殺されちゃったから、もういないの」
「僕、おじさんに嘘をついちゃ駄目だよ。本当は、どうなんだい?」
子供の悪戯、性質の悪い冗談だと、そう断じて、諭すように頭を撫でながら諌める。あまりのことについ普通の子供なら知らない大人に迫られるだけで委縮してまい、泣き出すほどの低い声を出していたことに気付き、やり過ぎたかと頭を撫でられて俯きになった空暖の表情を覗く。
だが空暖は、真っ直ぐ警官を見つめ返し、最初と変えずに口調を震わすことなく語る。
「本当だよ、全部本当。ぼくは何一つ嘘をついていないよ」
その邪気のない、感情が欠落した血の色の瞳に空暖を疑った自分が逆に見透かされたような複雑な気持ちとなった。
「じゃあ、おじさんに全部話してくれるのかな」
疑問符の無い問いかけは、大人げなく肯定のみ確定を示す。その反面、この子供の話を聞くということに恐怖している自分がいたことに、まだ気付くことができなかった。
悍ましい、血に塗れた家族間の惨劇を。
「いいよ。全部話してあげる」
空暖と名乗った子供の話は、四歳児には到底想像できないような現実味を帯びた、生々しい体験談を交えて小さな口から語られていく。その話の内容は、誰も救われない。残された子供に酷い精神的苦痛を与え兼ねない悲しい話だった。
自分は、父親が正式に籍を入れていない女性である母親を無理強いに兄と生ませられて、何かの古い因習からか、双子の弟であるという理由で地下に監禁させられ、複数の使用人から日常的に暴力を振るわれていたと話したのだ。
毎日、毎日、広いだけの地下室に閉じ込められて、一度も外に出たこともなく。世界のことなど知らずに、ただ知識の中だけで理解していたようだ。
ところが、ある日。母方の異父姉に当たる女性が異母兄と姉を襲った後、父親と双子の兄を殺して角沢一家全員を屠り、家を吹き飛ばして行方を眩ませたらしい。
信じられない、というのが正直な感想だった。だが、空暖の語ったそれらは、まるで見てきたかのように的確で正確なものだった。四歳児の口から「首を切られて血がいっぱい出てきたの」と、とんでもないことを言われて走り書いていたペンを止め、聞いた内容を纏め上げていた手帳を置く。
とても悲しい。だが何より、その当事者である空暖自身が、それらの光景を臆することなく見慣れた常識として話し続ける姿に心を痛めた。
胸の奥から、こみ上げてくる熱が顔を熱して涙腺を刺激する。気付けば淡々と語る空暖の隣で涙を流しながら、きつく抱き締めていた。
「おじさん?」
話の途中での行き成り行動に、空暖が戸惑った声を上げる。
この子供は、自分が何故泣いているのか理解できないのだろう。愛情を知らない人間は、自分が悲しみの中にいるることすら気付くことができない。それが当たり前で日常となれば、当然のことだった。
涙と共に出てきた嗚咽を何とか飲み込み、もう一度、空暖に確認を意味を込めて聞いた。
「……つまり、君の家族は誰もいないってことなのかい?」
「うん。そうだよ」
その余りに空虚な答えに警官は、同僚が戻ってくるまで泣き続けていた。
夜になり保護した空暖を寝かしつけた警官は、昼間に聞いた話を同僚に話したが、当然信じて貰えなかった。
自分でも半信半疑であったのだから、疑われても特に何も思わなかった。
同僚は、角の生えた容姿の所為で虐待を受けた子供が、家に帰りたくない一心で咄嗟に作り上げた話だろうと言っていたが、あの目は見てきたことを語る目であった。
しかし、それが真実であれ、嘘であれ、空暖は家族の中では暮らせない。
話された話の真偽は後回しにして、本庁に子供の失踪者から『角沢空暖』という名があるかどうか確かめることが先決だと、自分に言い聞かせて連絡を取った。
数日後、11区の海浜公園近くの交番に保護された身元不明の幼児が孤児院を兼ねた教会の児童養護施設に預けられた。
大体あっている説明って罪深いよねww