「我らが主の父たる神は、多くの人々から讃えられ賛美されるかの如くその世を照らし、我らが背負う業を見定める。神が流した豊潤の涙によって、我らが主の新生を守り通される。死の中より我らが主の再生は、人々の心に鮮烈たる希望の灯を与え給うた―――――」
朝日が照らす、少し寂びれた町外れの孤児院を兼ねたカトリック系教会の礼拝堂内で、黒いカソックを着こんだロシア系の初老の男性ドナート・ポルポラ神父と里親を待ち、預けられた子供達が祈りを捧げ、集まっていた。
ポルポラ神父は、明かりの灯った礼拝堂の祭壇上で子供達に聖書の朗読を朝食後の五分から十分、特別な用事でもない限り毎日続けている。日の光を透かすステンドグラスに描かれた聖母と主の降臨の一面が、神父と彼自身が手に持つ聖書を照らす。
日本人とは異なる彫りの深い顔は、色白く、やや痩せ気味であったが、その外国人然とした風貌に反して流暢な日本語で聖書に書かれた一文を読み上げていた。
孤児院を経営していると言っても、それほど大きなものでなく、あくまで里親が見つかるまで預かるための施設としているためか、現在礼拝堂に集まっている子供達は、教会内の広さに対して少なく十人に満たない。皆、バラバラに座って、語られる聖書の内容を聞いている。当然、全員その意味合いを八割方理解しておらず、教会では静かにしていれば後でお菓子が貰えると兄代わりである、一番年長に言われて大人しく座り続けていた。
「―――――日々我らの糧を与える主に感謝を……。さあさあ、皆よく最後まで聞いて居られたな。もう外へ出て遊んできなさい」
聖書を閉じてポルポラ神父は、十分間の朗読を終えて大人しくしていた子供たちを労う。遊び盛りの小さな子供にとっては、その僅かな時間であっても大分堪えたのか、ウトウトと微睡んでいた目を開かせ歓声を上げながら礼拝堂の出口へと走り去って行く。
「鋼太郎」
ポルポラ神父が件の年長の子供、
「何、父さん?」
その呼び方は、両親を亡くしてから十歳を過ぎても長年里親に出されずに、施設で育てられた鋼太郎だけの呼称。ほかの子供たちには、「院長」や「先生」と呼ばせている。
以前そのことに疑問を持った鋼太郎が、ポルポラ神父に聞くと、里親が見つかり施設を出るときに出来るだけこの場所に未練を残さないようにするためだと説明され、少し考えた後、鋼太郎は、二人同時にここに預けられて、別々の里親に預けられる時に泣いて別れを惜しんでいた
「明日、また新しい弟が此処に入ってくることが決まった」
「そうなんだ」
「少し込み入った事情を抱えている子で、まだ五歳にもなっていないらしくてな。同室ではなく、私の部屋から一番近い空き部屋の一つを使うことにしている」
そこまで言われ、鋼太郎は父が言わんとしていることを察する。二カ月前に施設を出た子が使っていた部屋は物置代わりにされており、埃も大分溜まっている。
「分かった。カズキ達と後で掃除をしておくね」
「ああ、すまないな」
聞き分けよく、自分の頼みを聞いてくれる鋼太郎の頭を軽く撫で、
神父は新しい食材を待ち遠しそうに、子供たちが開け放った礼拝堂の扉を見た。
「角沢、空暖(Adan)……。か、フフッフフフフ」
「どうかしましたか?」
「いや、失礼。こういった教会に何とも縁のある名だと思ってね」
翌日の昼前、施設の前を通る道路に一見普通の乗用車に見える、一台の覆面パトカーが止まっていた。車内には、ニット帽を目深に被った子供が、何かに怯えるように膝を抱えながら隅で縮こまって顔を上げずに塞ぎ込んでおり、時折囁く「ありえない」と掠れた声が痛ましい。
施設の応接室では、空暖を保護した警官と神父が詳しい経緯と、彼のこれからの生活についた話し合っていた。
「はあ、そうなのですか」
「気にするような事ではない。普通とどれだけ異なる事柄があろうと、余所の教会ならともかく、私がいるこの施設に問題は無い。息子も生真面目で面倒見が良いから、その子とも上手くやっていけるだろう」
「それを聞いて安心しました……。ご結婚なされているので?」
普段の交番内での制服ではなく、社会人のような白シャツにグレーの背広を着た警官が、神父の息子と聞き、興味深げに訪ねる。
「いやいや、生憎とこの年になっても独り身のままだ。だがら、後継ぎの一人か二人遺しておこうと一人だけ里親に出さず、私が親代わりに育てているというだけのこと」
神父は笑顔のまま、気楽に見方によっては誇らしく受け答えた。
「不躾な質問でした」
「疑問は尤もだ。別段隠すような事でもないし、こちらでは珍しいことではない」
気を悪くしたような様子は見えないが、警官は自分の問いに礼節が欠けていた非を悔いて、謝罪をする。神父は自分の言いだしたことである上に、似たような会話を何度もしたことがあるのか、慣熟していた。
「ではそろそろ、その子と顔合わせといこうか」
「……そうですね。では」
空気が重くなっている中、取り直すように神父が書類と写真でしか知らない子供に会おうと、応接間のソファから立ち上がる。
二人が施設の敷地外へと目指し、警官が先に子供を連れてくると先行し、道路に停めてある車から、小柄な幼児を抱き上げて地面に降ろす。子供は、神父の外国人特有の彫の深い顔を見ると、緊張か人見知りからか、警官の裾を掴みながら後ろへ隠れてしまう。
警官が、宥めながら手を繋ぎ自身の元へと近づいてくる幼児、空暖の容姿を見て眉をひそめた。
貫頭衣からフード付きの橙色のパーカーに黄土色の半ズボン、そのまでは普通の子供と何ら変わりないが、そこから上端の部位に明らかな異質な部位が上げられる。
アジア系の顔立ちながらも、これまで外に出されたことのないためか皮膚は蒲公英の綿毛のように色白で、その瞳は、先月啜った■のように赤く、目深に被っているためほんの僅かにしか拝見できないが、髪の色も同様である。
ただ、残念なことに、その幼児の顔には何かで殴られたか、ぶつけたような青痣が残っており、目測でも分かるほど痩せこけていた。
警官に、挨拶をするように促された空暖は、暫く神父を穴が開くほど睨みつけたまま動かずに裾を強く握る。
神父は、彼の視線が自分の頭部に集中していることに気づき、自分から空暖に歩み寄った。
後三歩といったところで立ち止まり、神父も書類と話で知った空暖の頭部に興味を持ち、十秒ほど互いに頭部を見つめ合っていると、空暖が警官の後ろから出て裾から手を放し、前へ出る。
「は、初めまして。角沢空暖です」
最初の頃の怯えようが嘘のように、口籠りながらも背筋を伸ばしながら空暖はポルポラ神父に自己紹介をした。神父は、それに応えるために人の好い笑みと評判の微笑を向けながら、しゃがみ込むと右手を前に出す。
「良い挨拶だ。私はこの施設を経営する。ドナート・ポルポラ、見ての通り神父……神に仕えている身だ。ここに預けられている子供たちには院長や先生と呼ばせている。我が家へようこそ、空暖」
空暖も同じように右手を出して、神父の手を掴むとそのまま握手をした。
二人の様子を見守っていた警官が安心したように、息を吐き車のトランクから、小さなリュックサックを出して空暖に渡す。これが、彼の私物のようだ。中を見ていいか空暖に聞いて了承を得た神父は、まるで彼の痩せた体のように軽い荷物の中身を見ると、中身は空暖が今着ている服の色違いのを一揃いと下着、そして一番奥にあった切断された鎖手錠だけであった。
「荷物を持って付いて来なさい。お前の部屋へ案内する」
「はい」
ポルポラ神父は、リュックの中身を見ても対して驚かず、無関心に元に戻すと、教会の奥にある孤児院側の施設へ歩く。
その後ろを、施設を訪れた二人が付いて行った。
子供たちだけで掃除をした所為か、天井付近は大雑把に拭かれていた個室に空暖の荷物を置くと、三人は再び応接間に集まり、正式に空暖がこの施設に預けられる手続きの書類に名前を書き終わると、再び施設の敷地外へと出て車の傍に集まる。
空暖を保護した警官と遂に別れるのだ。
「じゃあ、僕。元気でな」
「おじさん、海から助けてくれてありがとう。さようなら」
「ポルポラさん。この子をお願いします」
多くを語らずに別れを言う二人を見届ける神父は、警官に向かい笑顔のまま語る。
「安心すると良い。私は決して子供を見捨てはしない」
神のご加護を。神父の言葉を聞いた警官は、車に乗り込みエンジンをかけて、手を振る空暖を時折振り返り見ながら走り去っていった。
警官との別れを済ませた空暖は、再びポルポラ神父に連れられ、施設と教会の中を案内された。施設の子供たちは今、皆学校に行っており出会うことはなかったが、子供たちがよく使う遊び場や風呂や洗濯機の使い方を大間かに教えられ、一人の時には絶対に触れてはならないと、きつく言いつけられた。
「疲れた……」
ある程度、施設内全ての場所を案内された後、空暖は昼飯が出来るまで部屋で休んでいるように言われ、神父から発せられる
11区と呼ばれた東京都の交番で巨大なプライヤーを使って切断されたその金属片は、今餞別に貰ったリュックに入れており。一応、ボロボロの貫頭衣以外で持っていた唯一の私物財産であったため、捨てずに記念にとそのまま残しているのだ。
何故、空暖が昼前からこれ程疲労に襲われているのか、それはディクロニウスが持つ第六感が原因であった。
ディクロニウスは、ホモサピエンスと異なる点が幾つか上げられるが、その中に
それと、とてもよく似たモノが、この東京に起きたのだ。
最初は、お世話になる児童養護施設が決まって、覆面パトカーに乗って、市街へ高速道路へと走っている時に感じた、不快な感情の波。一定の言葉を永遠と出し続けるような、機械的な意思に気分が悪くなった。運転をしていた警官には乗り物酔いかと間違われたが、今回はそう捉えられたほうが都合が良いため、空暖は訂正をせずにそのまま、目的地へと向かった。時折、殺意にも似た闘争心が感じられたが、それは有り得ないことだと、自分に言い聞かせる。
そこに待ち受けていたのが、目的地である養護施設で待っていた院長兼神父の存在であった。
気のせいでは、片付けられないはっきりした感覚が、目的地へと近付く度に強くなっていく。
車を降りて気配のする教会の中に入って行った警官を見た空暖は、彼は助からないと思っていたが、予想は外れて彼は無傷で戻って来たのだ。嘗て、研究所の中で幽閉されていた射程11m、保有本数26本以上の
恐る恐るその気配の発信先を見ると、優しそうな顔をした外国人の神父が笑顔で、此方を見ていた。
角も無く。
目も赤くない。
女性でもない。
見る限り、普通の神父がそこにいた。
そのまま、この施設に預けられる手続きを済ませて、警官と別れた後も、最低限の警戒を解かずにこの施設の中を案内されて、気疲れが酷い。
暫くして、昼食にコンビニの弁当を持った神父が現れ、食事を済ませる。2時か3時を回ったころに子供の声が聞こえ始めて、やっとここが普通の孤児院であることを納得する。
軽い自己紹介を終えて、4年振りの外を子供達とそれなりに楽しく過ごし、ベクターを使っている様子を見られないように木登りをしたりして有意義に遊べた。
夕飯前に、神父に体を洗われ湯に体を浸けたのも久しく、小さな体を最大限に利用した温水遊泳をして叱られるのも、何もかもが懐かしかった。
ベットに入ると神父が隣で絵本を読み出し始めたのには、流石に苦笑を隠せずに遠慮すると、断られれ哀愁漂う神父の後ろ姿を見た空暖は完全に警戒を解き、こうしてまた人間として、生きて行ける幸せを噛みしめる。神父には、ディクロニウスに近い気配が発せられるも普通の人と何ら変わらないことが分かり一安心していた。
それが大きな間違いだということも知らずに。
※聖書の句は、新約聖書「マタイの福音書」の完全に自己解釈です。ご注意ください。