待つ時間は、確実に減っていた。
心肺機能が強化された、ということはないだろう。年齢的にもトレーニング期間的にも、効果がそう簡単に出る筈がなかった。
腕の振り方や呼吸の間隔、それに歩幅。要は、躰の使い方がようやくわかってきたのだ。今までの老人の動きも間違いではなかったが、それは三十代の人間の動き方だった。昔身につけた動きと今の自身の身体能力のギャップが、トレーニングを通じて埋まりつつあるのだ。
そこで生まれた余裕を、老人は決して持って帰らなかった。最初から一貫して、長屋に着くと疲労でへたりこむことを繰り返している。それは、大したものだった。
「自分が老いていることをまざまざと思い知らされるよ」
筋力トレーニングを終え、汗を拭きながら老人がそう言った。
「躰もそうだが、なにより心だな。若い頃は、とね。それこそ若い頃は思わなかったものだろうに」
延広は曖昧に笑っただけだった。衰えたとは思っても、若い頃ならという感情が湧いたことは確かにない。それは、今ある力でも充分に動けるからだ。今の自分に出来ない依頼は、若い頃の自分も出来ないに違いないと思える。そう思える内は、老人の言葉には曖昧に笑うだけが精一杯だった。
外から訪いを入れる声がした。老人がにやりと笑った。
「この声は、女性だな」
「友人です。なんなら、今日のところは帰らせますが」
「美人かね、その友人は?」
「一般的に見れば」
「ほう。これは、私はお邪魔かな」
訪いに延広が応えると、戸が開き文が入ってきた。文は老人に目をやると小さく会釈した。それを返す老人の顔はもう穏やかだった。いたずらっ気を見せる程度には、親しくなった、ということだろうか。
「今日はここまでにしよう、大橋君。若人の邪魔をするのは、私も本意ではない。明日は昼からで良いかね?」
まさに大いなるお節介というやつだったが、延広はなにも言わずに頷いた。なにを言っても相手を喜ばせるだけだろうし、元々明日は昼からのつもりだった。
出ていく老人を、文は特に見送りはしなかった。まだ夕方にも早いくらいで、つまり友人のようなものだ。もっとも、夜が更けたからといって人前で女房面をするわけでもない。友人でなくなるのでもなくて、要は様々な顔が入り交じってくるのだった。
延広は寝転び、文は文机に向かいながら、他愛ないことを喋った。妖怪の山の天気、他の天狗の書いた新聞への批評。主に文が話し、延広は思い出したように相槌をうった。
メモと原稿用紙に交互に目をやっていた文が、顔を上げた。そのまま竈に向かう。文が料理をしている間に、延広は甚兵衛に着替えた。
食事は、やはり質素だった。米、味噌汁、お浸し、鶏肉に、薄く味をつけたもの。ぬる燗を一口飲んで、箸を取った。
「珍しいこと、してるみたいね」
「なんでもさ」
「名前はね。本当になんでもやるぐらい貪欲なら、ここに刺し身がつくわ」
「選り好みはしてないさ。客に好まれないだけでな」
「どんな客でも、きたら働くってこと?」
「報酬次第だがな」
「へえ」
文がお浸しを口に運び、米に箸をつけた。延広はいつも味噌汁から食べ終わる。食べ物は逃げないというが、熱はうまさで、それは時間と共に消えていくものだと思っていた。
「そんなあんたに伝言があるんだけどね、ノブ」
最後に鶏を食べ終え、冷めた日本酒を飲みながら文が言った。
「言っとくが、今は依頼を受けてる途中だ」
「老人の、リハビリか」
「リハビリ。そうかもしれん。得るのではなく、取り戻すって意味でな」
文が延広の依頼をいつのまにか把握していることは、今までも度々あった。どうやっているのか、訊いたことはない。風の噂。そう言われるのがわかっているからだ。
「まあ、それはいいわ。伝言ってのは、今すぐにって話じゃないのよ」
「ほう」
「あの子の力になってあげて、報酬は借りひとつ、だそうよ」
伝言の主が、すぐに思い浮かんだ。貸し借りだけで人を動かすのが、癖みたいなものなのだ。尊大さではなく、大きすぎる力を扱いかねているということと、それとはもっと別のなにかが、彼女にそうさせる。
「貸しをひとつ作れる。それだけで働けってか」
「充分でしょう」
文がまたお猪口を呷った。
延広は畳に目をやった。縁は黒く、いぐさは黄色い。住んでいるうちにこうなったのではなく、ここに入ってきた時点でもうこの色だった。
五年近くになるが、ここを自分の家だと思ったことはなかった。ホテルの一室を長期間押さえたような気分で、対外的には自宅だと言ったりするが、心の中ではいつもただの長屋だった。
縁に手をやった。黒ずんでいるが、元は緑であったこともなんとなく読み取れる。いぐさも、もっと鮮やかな緑だっただろう。
「自分を縛る気分なのかな」
「なにが」
「貸しと借り。こんなもの、鎖みたいなもんだろう」
「絡めとられたくて、貸し借りにしてるってこと?じゃ、返ってはこないわね」
「返せるなら返すだろうさ。棒の時もそうだった。もしもいつか、返せない鎖ができたら、それがはっきりさせてくれる」
「なにを?」
「さあな」
境界。それは推測で、やはり他人などわかるわけはないのだ。
◇
明らかに変わった。
雑木林の足跡を、延広は追っていた。老人は今頃、いつものように長屋で寝転がっているだろう。老人の回復を待つ間にランニングコースをもう一周してくるのが、ルーティンのようになっている。
雑木林に入ってしばらくしたところで、違和感に包まれた。景色や気配におかしなものはない。慎重に辺りを見回して、違和感の元が老人の足跡であることに延広は気付いた。
出鱈目だった。少なくとも、延広の目にはそう見えた。平坦な道ではないので歩幅が安定しないのは当然だが、それがあまりにも極端なのだ。親指程度の間隔で四歩踏んだかと思えば、足場を二段飛ばしにしたようなものもある。右足の足跡が連続しているだけのところがあって、よく見ると左側の若木に薄く蹴ったような跡があったりするのだ。
林の深くに向かうほどそれは特徴的になって、外に向かううちに段々と延広の足跡と老人の足跡は重なり始めた。
林を抜けた。畑に挟まれた道を長屋へ走りながら、考えていた。足跡がどこにあったかなどではない。老人が、なにかを取り戻したのかもしれない、ということだ。
長屋に戻ると、老人はやはり正座で延広を出迎えた。挑むような目。延広は、老人に気を叩きつけた。それはぶつかったが、渦を巻くこともなく流れた。
言葉にしかけた問いを、延広は飲み込んだ。
「水は取られましたか、ご隠居」
「頂いたよ。染み渡るとは、全くあれのことを言うのだな。どんな名酒よりも、躰を喜ばせる」
頷いて、筋力トレーニングを始めた。
本当は拳を使った、所謂拳立てと呼ばれたりするものを延広はやるが、老人の前では普通の腕立て伏せをしていた。あれは拳を硬くする目的で行うもので、年配のトレーニングとしては不適切だったからだ。例えそれを説明しても、延広がやるのと全く同じメニューをこなすと言い出しそうなところが、老人にはあった。腕立て伏せや腹筋背筋、スクワットといった運動をするときは、出来る限り浅めにしてくれ、という頼みを了承させるのに、初日四半刻は使った。
メニューを終えると、共用の井戸へ行き水を被った。もう夜と言ってもいい時間になっている。昼の暑さが嘘のように、過ごしやすい気温でそよ風が吹いていた。
躰を拭き終えた時、老人が長屋から出てきた。汗を拭い、着物も変えたようだ。
「大橋君、一杯、いかんかね。私の奢りだ」
依頼を受けてから初めての誘いだった。少し待ってくれと頼み、長屋に入って着替えた。汗はもう引いている。
出てきた延広を見てから、老人が歩き出した。延広は老人を追った。
人里の中心付近の店で、この前の大衆酒場や大将の店と比べると、遥かに高級感が漂っていた。赤提灯が店先にぶら下がり、中も確かに居酒屋だが、座敷が多く仕切りもしっかりとした襖だった。カウンター席を無くし、立派な門と庭でも構えれば、どこぞの料亭といったところだ。
「お座敷ですか?」
にこやかな女性の店員の問いかけに、延広は老人を見た。紛れ込んだような気分で、どうしても気後れを感じてしまう。
老人が頷くと、店員が先導してひとつの座敷の襖を開けた。履き物を脱ぎ、老人が上がっていく。そういったところも、やはり延広には馴染まなかった。
「とりあえず、秋刀魚の塩焼きと冷酒にしようか。米なんかは私はいらんが、どうするかね?」
「玉子焼きと冷奴、それに熱燗」
店員が頭を下げ、ゆっくり襖を閉めて出ていった。その仕草も、洗礼されているような気がする。
「遠慮することはない。好きに頼みたまえ」
「いえ、これで。元々、飲む時はあまり食べない口です」
しばらくして、料理とお銚子が運ばれてきた。延広は老人に酌をして、老人から返しも受けて乾杯した。
ぽつぽつと喋りながら飲んだ。老人は自分が猟師であったと言い、山で兎を食ったときの話をした。老人が猟師であったことに延広が大した反応を返さないのにも、特に驚いた風ではなかった。延広は今まで受けた中で面倒だった依頼について、当たり障りのない程度のことを喋った。
「過去の話だな、大橋君」
二本目のお銚子を注文してから、老人が言った。延広は、既に二本目を半分ほど飲んでいる。
「こうして、語れる過去がある。それは、人に必要なことなのだと思う」
「誰にだって過去はありますよ、ご隠居」
「生きているからだ。生きようとするから、語れる過去になるのだ」
「死人に口はありません」
「全くだ。そういう意味で、私は三十年近く死んでいた」
お銚子が運ばれてきた。老人のお猪口に、延広は酒を注いだ。
「なにかが、変わりましたか」
「そう見えるかね」
束の間、迷った。
「雑木林。足跡が変わりました。それも、ちょっと尋常ではないような変わり様です」
「そうか、いつもあれを見に行っていたのか。いや、そうではないかと思っていた。そうだ、私は踏み方を変えた」
「なにかが、見えたんですね?」
老人がお猪口を口に運んだ。延広は玉子焼きに手をつけた。玉子の中で、仄かに顔を覗かせる出汁の風味が心地良い。
「生き返った。そう思ったね。最初、林が生き返ったように感じたが、あれはやはり私の蘇生だったのだろう。なにかが囁きかけてくる。今まで聞こえなかったものだ。その通りに、私は足を動かしたのだ。それだけで、今までの速さが歩みに思えるほどに、私は林を駆けることができた」
猟師の勘。それが戻ったということか。しかし、この老人が取り戻したいものはそれだけだったのか。
「君には感謝しなければならんな」
「依頼でした、私は」
「そうだが、君は私の思う以上に適任だった」
そこで言葉を切って、老人が下を向いた。笑いを噛み殺しているようだ。
「君は、けものだな。足跡を追っている時、はっきりと感じたよ。見たこともないような、けものを追っていた。こちらが喰い殺されかねないようなけものをね。感じたのは恐怖だった。思い出したよ。一人で山に入り、いつも恐怖と闘っていた。それが、幻想郷の猟師の、生きるということだったんだ」
「失くしかけたものを思い出せる。それも、生者の特権です」
「そうだな。思い出すのも、そして生きることも」
「間違いなく、生きています」
老人は、ただ微笑んだだけだった。延広もそれ以上言葉を続けはしなかった。白々しさだけが、溢れそうだったからだ。
老人が秋刀魚を口に運んだ。骨に身を残さない、上品な食べ方だ。
「子猫が」
「うん?」
「子猫が、気にしていましたよ。相当懐いているみたいだ」
「そうか」
老人はもう一度呟くようにそうかと繰り返し、お猪口を呷った。頬の皺が僅かに深くなった。
一瞬、今までと違うなにかが老人の表情に浮かんだ。それがどういった感情だったのかは、やはり読み取れなかった。
「芽が、出るのか」
言葉の響きは、もう平静になっていた。
「朽ちかけた古木にも、出る芽はあるのか。それだけを、私は知りたいのだ、大橋君」
溢れるのではなく、絞り出すような声だった。吹けば飛びそうなその掠れ声に、圧倒されかけたことを、延広は恥ずかしいとは思わなかった。なにかとぶつかったのだ。それはきっと、老人が三十年もいたずらに集めていたなにかだ。それを押し返すことを、延広は諦めた。それは同時に、紫の依頼を諦めたこととほぼ同義だった。
自分の皿とお銚子を空けた老人が立ち上がった。釣られて立とうとした延広に、押し止めるような仕草を老人はした。
「君はゆっくりしていきなさい。会計は済ませておくよ。綺麗に食べて、煙草を喫ってから出てくると良い。そうすれば、けものの匂いもいくらか紛れるだろう」
「次は、夕方からやってみましょう」
言ってみただけだった。それでも、後悔に似たものが込み上げてきた。
老人は目を丸くし、次いで微笑むと、微かに頷いた。憂鬱さの中で、延広も頷き返した。
老人が帰った後、玉子と豆腐を一欠片も残さずに食べ、お銚子は振るようにして最後の一滴まで出しきり、それから一服した。
店を出ようとしたところで、店員に呼び止められた。お釣りは連れの者にと頼まれた、と店員が言った。困惑したような店員から、差し出された金を延広は受け取った。
店を出て、夜の通りを歩きながら計算した。日当と、今までの依頼の日数。ぴたりと、はまった。
◇
日差しが強い。通りの道を、延広はわざと外れた。
足が重い。肉体的な話ではなく、つまり気分の問題だった。依頼をはっきりと受けた訳ではなかったが、しかしその心算ではあったのだ。曖昧さが、かえって責任感を煽っているようだった。
一本の木を見つけて、影に入るようにして背を預けた。煙草に火を点けたが、喫わずに指で挟むだけだった。吐き出すものは、別にある。
橙が来た。場所も同じで、昼と夜という違いを除けば、この前の焼き増しのような構図になった。
「あの人が、いなくなりました」
ある程度予想していたことだった。老人は生き方を取り戻した。それは、今までの自分が死んでいたことを突きつけられるのと同じだろう。後は受け入れるか受け入れないかの問題で、老人がどちらなのかは、延広にもわかることだった。
橙が空を見上げ、眩しそうに目を細めた。
「俺のことを、恨んでるのかい」
「いいえ。むしろ、自分を。わからないことをわからないままにしちゃった。藍さまに、怒られるかな」
「まだ、間に合うかもしれんぞ。俺の見立てだと、今のご隠居なら二日は持つね。二日なら、山にも篭れる」
言いながら、虚しくなった。ただ篭ることと狩りをすることは全く違う。まして、妖怪の蔓延る山だ。それに、連れ戻したところでなにか意味がある訳でもなかった。
橙が寂しそうに首を振り、また空に顔を向けた。知識以外で、初めて外見の年齢らしくないところを見た、と思った。今までは頭と行儀が良い以外は、童子のような部分が強かった。
「妖怪だな、やはり」
「式神です」
「そういうことじゃないさ。年上だと、思っただけだ」
「当然じゃないですか」
「数字ならな」
話しながら、タイミングを測っていた。しかしそんなものは必要ないことも、話していてわかった。子どもだが大人でもある。それが見えたからだ。
「朽ちかけた木に芽は出るのかな」
いきなり言って、煙草を咥えた。深く喫い、煙を吐いた。ようやく喫えた、という気がした。
「なんです、それ」
「なんでもない、ただの疑問さ」
「変なの」
「そうかな」
風が吹き、青々とした葉が揺れた。煙が躰の方に流れてくるのを、延広は特に気にしなかった。敢えて、避けなかったのかもしれないとも思った。
「昨日、お話ししたんです」
「ほう」
「珍しくお酒を飲んでて、色々あった筈なのに、結局昔話だけして終わっちゃいました。それでもなんとなく、止めちゃいけないんだなって思いました」
「止められやしないさ」
「帰ってこないんだろうな、きっと」
そもそも帰るという意識がないだろう。あの老人にとっては、あちらが生きる場所でこちらは黄泉の国だ。本人は全てを清算して旅立ったつもりだろう。受け取った依頼料は、そういうことにしか思えなかった。
「日差しが強いですね、今日は」
そう言いながら、橙は決して木陰には入らなかった。それは待っているようであり、失くしたようでもあった。
延広は笑った。老人が子どもで、橙が大人のような気がして、それがなにか可笑しかった。
「色々考えさせられました。得たものもあったと思います」
「そいつはいい。八雲紫にも、是非その話をしてくれ」
「紫さまに?」
「五分五分だが、もしかしたら納得してくれるかもしれん。まあ、それだけだ」
煙草を咥えたまま、延広は歩き出した。影を出ると、日差しは突き刺さるようだった。橙は動かず、まだ空を見ているようだ。
大通りに戻り、長屋への道を行く。
古木は、立っているだけでもいい。そんな言葉が頭に浮かんだが、言わなくてよかったとも思った。口にしてしまえば、哀れみと陳腐さが鼻につくだけだろう。
雑踏の中を歩きながら、スケジュールを思い浮かべた。夕方だけがぽっかりと空いている。
依頼などもうなかった。それでも、依頼のために空けているのだ、と思った。
老人の家族構成とか猟師引退の理由とか橙との馴れ初め?なんかも考えてあったんですが、常に延広視点なので延広が知らない限り話に出てこない罠。『情』の少年なんかも無駄に設定だけはあります。
以上、ちょっとした裏話でした。