あんまり難しく考えず、一昔前の極道映画チックなノリでどうぞ
金色は、常に視界の端にいた。
ほとんど飽きるような気持ちで、延広は金髪を
二人が人里へやってきたのは昼になろうかという時分だったが、延広の張り込みは早朝からだった。どちらも住居が人里にはない上に、依頼主は二人の予定について細かい時間を把握していなかった。非効率なのはわかりきっていたが、魔法の森へと続く出入り口の中で一番大きなやつを張り込むしかなかったのだ。
魔理沙に引っ張られるだけだった霖之助が、先導し始めた。延広は横目に注視したが、古物屋に入った辺りで落胆とともに視線を外した。そういう人物であることは、事前の調査ではっきりしていた。
つまり、関係というやつを探るのが今回の仕事だった。気ままな異性の友人か、それとも男と女なのか。下種の勘繰りに近かったが、それは延広にとって慣れ親しんだ飯の種であった。親や子、時には片想いを募らせた赤の他人だったりするが、とにかく特定の人物の恋愛事情を知りたいと考えている人間は幻想郷でさえうんざりするほどいた。理由も様々で、納得できるものから狂気としか思えないものまである。それらと比べれば、今回の依頼主などはかなり常識的な部類だった。
魔理沙が手を牽く形で、二人は古物屋から出てきた。霖之助は後ろ髪を引かれるような表情をしていたが、諦めたように一つため息をついた。近くの喫茶店に入るまで、魔理沙は手を離さなかった。延広は周囲を見渡し、喫茶店の入り口が見える場所にある茶屋に入った。
魔理沙の方だな、というのは見ていてすぐにわかった。霖之助の態度はせいぜい兄といったところだが、魔理沙の貌には女の色が見え隠れしていた。ただ、そこの部分に関しても魔理沙は年相応で、妖しさのようなものはない。少女漫画にでも出てきそうな、シンプルな甘酸っぱさだった。幼い頃から知っている年上の男というのも、いかにもだ。
二人が喫茶店に入ってからそれなりに時間が経っていた。奥の席に座ったらしく、外から見える範囲にはその姿はない。堪えきれずに、延広は茶屋の会計を済ませて喫茶店に向かった。もちろん、領収書はジーンズのポケットに突っ込んでだ。
中に入ると、店員がやって来て席を訊いた。どうやら、幻想郷にも禁煙席があるらしい。さりげなく店内を見回して延広は舌打ちした。煙草にバツマークを描いたプレートの真下が、二人のテーブルだった。
三つテーブルを挟んで、霖之助の背中側の席に延広は座った。魔理沙はやはり浮わついていて、ためつすがめつ見たとしても気付かないだろう。どちらか選ぶなら、当然魔理沙の視界に入った方が安全だ。
「まったく強引だな、君は」
「さっきも聞いたぜ、その台詞。ボケ始めるにはちょっと早いんじゃないか」
「同じ言葉を繰り返すことと、何度言われても聞かないこと、どちらがボケの症状に見えるかな」
「そっちだね。うら若き乙女と、出歩いて、顔色一つも変えないんじゃあ立派にボケ老人だ」
聞こえてきた会話の、出歩いて、の辺りで延広は吹き出しそうになった。デートと言おうとして、羞恥心に抗えなかったのがわかったからだ。もしここに文がいれば、ペンの動きはひっきりなしだったに違いない。自分の立場の醜さに目を瞑ることができれば、他人の恋愛はなかなか質の良いエンターテイメントだった。探偵にでも頼めば直接手を汚すこともない訳で、金を払うことで罪悪感も減らせる。まったく、お誂えむきな話だった。
「そろそろ行こうぜ」
「まだ回るのかい?」
「いんや、帰るだけさ。どっかのじいさんが、古物屋ではしゃぎまわったからな。自分のとこと何が違うってんだ」
「僕の店とじゃ、何もかもが違うよ」
「盆栽なんかは絶対にやるなよ、こーりん。連中、一度嵌まると枝の一本で何時間もうんうん言い出すんだ。お前、そのタイプだぜ」
「心の奥底の片隅にでも置いておくよ」
「そこが、私の場所なのかな」
霖之助が伝票を掴みながら立ち上がり、魔理沙と連れだって店を出ていった。延広はコーヒーを飲み、一息ついた。
後はあの二人が里を出るのを見届けて終わりだろう。途中から想像はついていたが、それでも
霖之助の姿が店内から見えなくなったのを確認して、延広は立った。
不意に、おかしなことが起きた。延広以外にも、三人の男がほぼ同時に立ち上がったのだ。しかも、全員ばらばらの席に座っていた男達だ。視線が交錯した。ヤクザ者。右の二人の視線が、残った一人に注がれた。それが指示を仰ぐ風だったので、延広もそちらを見た。
まだ若い。せいぜいが、二十五、六といったところだろうか。目元はいかにも凡庸そうな男だったが、身のこなしに隙がなかった。
男が一度爪先で床を叩いて店を出た。二人は動こうとしない。挟み込んで逃がさないようにする気らしい。悪くない、と思った。娘さんを追ってヤクザに出会したというのは、方向性は変わるもののショッキングには違いない。
店を出ると、男は何も言わずに歩き出した。延広も、ただ着いていく。後ろの男達はいかにもな強面で、つまりただのチンピラだった。逃げようと思えばいつでも逃げれるだろう。それでも、延広はそうしなかった。
路地裏に入った。前と横を建物に囲まれた行き止まりだ。後ろを封鎖すれば檻といっていいだろう。二人いるが、この二人では封鎖されてないことと同じだ。
男が振り返り、小さく笑った。笑うと、凡庸さの中に下卑たものが入り交じる。その辺りは、やはりヤクザ者だった。
「こりゃ、おっかねえのを連れてきちまったかな。この状況でこっちを観察たぁ胆のふてぇ旦那だ」
「さて、俺はどうしたら帰してもらえるのかな」
「ひっひ、怖えなぁ。どっちがヤクザかわかりゃしねぇ。なに、旦那にちっと訊きたいことがありましてね」
「訊いてもいいが、俺も仕事でね。答えられないことの方が多い」
「仕事ってのは?」
「なんでも屋」
延広が答えると、男は笑みを深めた。
「やっぱり、素っ堅気って訳じゃあねえんですね。霧雨店の娘を
霧雨魔理沙ではなく、霧雨店の娘。目的はある程度知れたようなものだった。絶縁していても、血の繋がりはなくならない。縁を切ったつもりでも、躰に流れる同じ血がどこかで情を呼び起こすのはよくある話だ。大商人の血筋ならば、その血は金のようなものだろう。ヤクザにしろ他の商人にしろ、使い道はいくらでもある筈だ。
「答えられんね」
「依頼主は霧雨の?」
「それも答えられん」
「兄貴、時間の無駄だ。一発喰らわしてから訊こう」
「黙ってな」
男の目が細まった。男の言葉を聞いて、荒事はなさそうだと後ろの男達は気を抜いたようだ。男と目が合った。一瞬閉じ、開いた。
踏み込み。風。白い光を、仰け反るように躱した。ドスの一撃から間髪入れずに蹴りがきた。その時、延広も一歩前に出ていた。交錯した。腹への衝撃が重い。しかし、相手も右のパンチを喰らっていた。ドスを撥ね飛ばそうとしたが、その前に男が後ろに跳んだ。詰めるには、逆手に構えられたドスが危険すぎた。
後ろの男達が騒ぎ始めた。今のうちに片付けたかったが、目の前の男に背を見せるのは自殺行為だろう。
「困ったな、本当にとんでもねぇのに出会したらしい。旦那、一旦納めませんか」
「仕掛けてきて言うには、都合が良すぎるな、その言葉は」
「三対一ですぜ」
「だから?」
「あっしも困るんですよ。旦那を
「そうじゃなく、ヤクザには落とし前ってのがあるだろう。言っておくが、指なんざいらんぞ」
「潰れかかった呉服屋の奴でね。霧雨の娘を取り込んで再起を図ろうってところであの白髪の
「殺す気か?」
「それをするほどの金は受け取っちゃいないみたいでさあ。正直、あっしが来てるのも割りにあっちゃいねぇ。話して退いてもらえればそれが一番上等で」
「話だけにしちゃ腕が立ちすぎるな」
「いざとなったら横車ってのもヤクザ者の務めでして」
男が肩を竦めた。少し考えて、構えを解いた。不意打ちの対価に出させられるのはこの程度だろう。あまり突っ込めばこの場でやり合うことになりかねない。後ろに二人置きながらやるには、この男は強すぎた。
延広を見て、ひとつ頷いてから男もドスを着物の内に仕舞った。喫茶店からここに来るまで男の歩き姿を見ていたが、ドスを感じさせるような所作はひとつもなかった。隠していたというよりは、馴染み過ぎて躰の一部になっているようだ。三本の腕がある男。そう思っておいた方がいいかもしれない。
男が自分の袖口に手を入れて何かを探し始めた。
「いけねぇ、忘れちまった。旦那、煙草ありやせんかい?」
箱から一本取り出して男に渡した。咥えただけで、男は動こうとしなかった。延広が黙って火を差し出すと、咥えたまま顔を近づけて着火した。男が大きく吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。下卑た色が消えて、凡庸な印象が戻ってきた。
「悪くないな、こりゃあ。旦那、これは?」
「メンソールだよ。マルボロの安物だ」
「安物か、そりゃあいい。上手くいかねぇ日は、安物と相場が決まってるもんだ」
「上手くいってないのか」
「まったく、厄日でさあ。霧雨のお嬢さんはあの
「商売ね」
「商売ですよ。義理人情だなんて言葉は、極道の名と共に忘れちまった。今じゃ、ヤクザ者って名前しか似合わないようになっちまいましてね」
「忘れた奴の台詞ではない、という気もするな」
男が目を閉じた。そうすると、更に幼く見えた。壁に凭れるようにしながら、延広も煙草に火を点けた。
後ろにいた男達が、困惑したような表情をしていた。
「兄貴、あの、どうするんですかい?」
男が薄く目を開けると、億劫そうに手を振った。
「おめえら、今日はもう上がりな。俺ぁこの旦那とちっとばかし話をしていく。
男の言葉に二回頷くと、二人は足早に去っていった。あの二人はどう見ても三十代に見えた。それが兄と弟ということは、この男はそれなりの出世株ということになるのか。
「弟分か」
「腐ってた連中が、成り行きのままヤクザ者になったってやつでしてね。弟分をつけてやるなんて、言葉だけ見りゃ名誉でしょうが体のいい厄介払いですよ。貧乏くじってなもんだ」
「そんなもんを引かされても組にいるってのが俺にはよくわからんよ」
「今日、旦那には勝ちの目がなくてあっしにはあった。まあ、ほとんど痛み分けみたいな勝ちならですがね。それは、あっしと旦那の差じゃねぇ。人は、数ですよ」
「そうだな」
人の数。利。そこまで考えて言った訳ではなかった。ただ、煩わしいと思っただけだ。
太陽が夕方の色に染まり始めていた。男が煙草を地面に擦り付けて消した。ただ、動こうとはしない。延広は煙草の灰を落とした。
霖之助と魔理沙がどうなったか少し考えた。魔理沙が頑張れば面白いことの一つぐらいは起きそうな気もする。観客として面白いのではなく、延広の財布にとって面白いことだ。こいつのせいで、いくらか金を稼ぎ損ねた。そんな気分になった。
煙草を踏み潰した。大通りに向かって歩き始めると、男も後を着いてきた。二回曲がり角を曲がってもなにもいわない。男が口を開いたのは、もう大通りと合流しようかというところでだった。
「たぶん、力ずくになりますぜ、旦那」
何も返さなかった。特に気にした風でもなく、男は続けた。
「一回請け負っちまったんでね、なにもせずにとはいきませんや。白髪の
「それで?」
「あっしはこれでも、組じゃなかなかなつもりです。それが一対一で負けたなら、諦めもつくでしょうよ」
「金じゃないだろうな」
「見くびっちゃいけませんや。勝てる相手に負けてやるほど、人間できちゃいません」
男の言葉に心動かされる部分はあった。しかし、延広が受けた依頼は関係を探るだけだ。今のまま戦ったとしても、金を出してくれる相手はいない。無給はお断りだった。ただでさえ稼ぎ損ねた気分なのだ。
「俺も使われの身さ。まあ、一応覚えておこう」
「明後日ですぜ、旦那」
男の声が背中から聞こえてきた。振り返らず、夕陽へと歩いた。
◇
霧雨は、ほとんど瞬きもせずに報告書をめくった。
微に入り細を穿つ、という言葉が形を持ったような男だった。依頼を受ける際に報告書のサンプルを作らされ、おまけに駄目だしまでされたのだ。僅かでも自分の想像から外れることが嫌なのだろうか。それなりに横幅もある男で、事前に知らなければ誰も魔理沙の父親とは思うまい。
「ヤクザ者か」
読み終えたらしい霧雨が、報告書を横に置きながら言った。
霧雨店に隣接している屋敷だった。屋敷内だけでも、恐らく丁稚であろう若い男を五人は見た。品だしや力仕事に従事している者はもっといる筈で、人里一の大店というのは伊達ではない。ここまで財力があれば女ぐらい囲っていそうなものだが、霧雨は愛妻家で有名だった。勘当したとはいえ、四十手前でようやく出来た一人娘のことを気にするのは当然といえば当然だろう。そのやり方が人を雇って調べるというのは、いかにも仕事に生きた不器用な男という感じだ。
「娘さんや森近さんになにか問題がある訳ではないんですがね。強いて言えば、危機意識の不足でしょうか」
「それこそヤクザ者の言い分だ。自分たちを正当化するための下らん理屈を捏ねることだけには、連中も頭を使うものだ」
「まったくです。しかし現実として、彼らは危険の中にいて、しかもそれを把握していない」
「引っ掛かる物言いだな」
まさしく、延広は霧雨の微妙なところを突っついているのだった。本人たちが把握していないのなら、こちらの思い通りに事態を動かすことも不可能ではない。上手く利用すれば魔理沙と霖之助に距離を作ることもできる。それを、遠回しに言っているのだ。
「この報告書」
霧雨が、横に置いていた報告書を持ち上げパラパラとはためかせた。
「試しに作らせたやつよりはマシになった。しかし、まだ気になる部分があるな」
「なんです?」
「このヤクザどもについて、君は具体的な危険度を書いていない。ただ危険というだけでは、報告書としては不足と言わざるを得んな」
「なるほど」
実に商人らしい考え方だった。この世の全てを数字に、もっと言えば金に換算して考えている。
「二人はただのチンピラですが、一人手強そうなのがいましてね。これが怖い」
「手強いか。それはいったいどの程度のものかね?」
「測れるものを、怖いとは言わないんですよ。少なくとも、私らの手合いでは言いません。測りきれず、ただ強いことだけがわかるような相手。それも勝敗を揺蕩わせてくるようだと、もう願い下げといった感じで」
「見通しの利かない取引は、明確に不利な取引よりも怖い。そういうことか。念のために訊こう。ウチには、少々の荒事なら臆さないような若い衆が二十人はいる。どうだね?」
「さて。五人で倒せるかもしれないし、三十人でも無理かもしれない」
「君は?」
延広はただ笑った。霧雨が、皺を深くしながら腕を組んだ。
「そもそも、大人数で叩けば泥沼ですよ。連中にも面子ってのがありますんでね。一人を複数で叩けばあちらも動かない訳にはいかなくなる。
「もういい。君の言いたいことはわかった。どうやら、君に一任するしかないようだ」
霧雨が鼻を鳴らしながら言った。延広は頭を下げた。
「調べたところだと、明日に襲撃があるようです。娘さんまで狙ってくるかは見えませんね。森近さんへはまず間違いなく」
「なにが言いたい」
「いえ」
もう一度鼻を鳴らし、霧雨が報酬の話に移った。大商人からの依頼、それもヤクザ者との荒事となると流石に驚くような額の話になった。普通にやれば二ヶ月、もし危険手当まで貰えば実に一年の三分の一を暮らせる額である。
話を聞いて一も二もなく頷いた。百戦錬磨の商人と交渉などすれば、増額どころか減らされかねない。
屋敷を辞するために腰を上げた延広を、霧雨は止めなかった。念のためもう一度霧雨の顔を覗くと、苦笑を浮かべられた。
「君がどう思っているかはしらんが、霖之助は私の下にいた男だ。奴のことはよく知っている。腕っぷしはからきしだが、だからといって奴を折るのは並大抵ではない」
「これは、失礼しました」
今度こそ、延広は霧雨に背を向けた。丁稚に先導されて外へ出る。
自分の考えはどうやら大きなお世話だったようだと、一人自嘲した。霧雨と霖之助の間にはある程度の信頼関係が出来上がっているのだろう。それを知らず、罠に嵌めるかどうかというような話を持ちかけていたのだ。
どうにも、思考が卑しくなっているらしい。
父と娘、それに付く悪い虫。商人という大金を前にして、型にはめたようにそれぞれの関係を見ていなかったか。
あのヤクザと自分。考えてみると、その性質に大した違いを見出だせなかった。
◇
夕陽が、開いた頭上から射し込んでいた。
魔法の森の僅か外にある広場。人里とを繋ぐ道から大きく外れてはいないが、間に小さな木立を挟んでいるので通行人からは見えないだろう。奥には、障気こそないものの森といっていい木々の密集がある。空から見下ろせば、森と木立の間でぽっかりと丸く空間が空いているように見えるに違いない。
延広は口臭を気にした。まったく、いい女だった。普段は米に味噌汁なんて質素なものしか作らないのに、戦いの前の日には大量の肉ときた。
文の料理の腕はかなりのものだった。つまり、日頃地味なものしか作らないのは技術の問題ではない、ということだ。文の微妙な想いを、延広は汲み取らないと決めていた。
「旦那なら一人だろうと、あっしはなんとなく、しかし確信してましたぜ」
平べったい石に座っていた男が、立ちながら言った。
「変な男だな、お前。まるで、俺を待っていたように聞こえるぜ」
「否定はしやせん。あっしは確かに、旦那を待っていた」
「商売敵みたいなもんだろう、俺たちは」
「不思議なもんでさあ。ガキの頃の、正月を待っているような気分でね。あっしもまだまだ若い」
「いくつだ?」
「二十五」
二十五。その頃の延広は、なにも考えず走り回っていた。会社が新製品を作ると、パンフレットを鞄に詰めて営業にいったものだ。意欲があった訳ではなく、ただの惰性だったと今なら思う。いや、もっと別のものか。抑えられないものを、まだ抑えていた頃。そんな気がする。
「その歳で敵を待つか。やっぱりお前、組を抜けた方がいいな」
「なぜ」
「味方が糞すぎる。そうすると、敵さえも恋しくなっちまうのさ」
「そいつは違ぇねえや」
男が笑う。凡庸さと下卑、そこに狂暴性に似たものまで混じり始めた。
延広は片足を引いた。間合い。しかし、本当の間合いはお互いにまだ見せていない。
「合図はいりやすかい?」
「お上品だな。それが、お前の喧嘩のやり方か?」
「まったく、いちいち耳に痛い旦那だ」
男が腰を低くした。無手だ。延広も棒を持ってはこなかった。素手同士の戦いということになるが、男の最後の腕は見抜けるものでもない。
睨み合い。空気が重くなった。気が、しかしまだ肌を刺してはこない。
延広は上体を微かに前のめりにした。同時に、気を発した。気のぶつかり合い。右足の親指を土に押し付けた。
不意に、横に跳んでいた。男の左手が、耳をかすった。転がり、立った。
右手。左側へ躱し、肩から突っ込んだ。絡み合う。回転し、離れた。離れ際、お互いに二発ずつ打ち合っていた。
男の拳が飛んできた。左が三回。四回目の引きに合わせて踏み込んだ。
総毛立った。腰だめからの右。抉るように打ち上げてきた。延広は咄嗟に後ろに跳んでいた。きわどく躱した。それでも、ひりつくような感じが肌に残った。男が追ってきた。左を敢えて受けた。受けながら、払うように蹴りを飛ばす。それでようやく距離が取れた。
固着した。延広は二度、肩で息をした。男の顔にはようやく汗が浮かんだところだ。
右が問題だ。呼吸を整えながら考えていた。腰だめからの右が、半端ではない。膝から腰、腰から肘へと力を伝えるのが上手いのだ。それで、尋常じゃない打ち込みになっている。姿勢の低さは溜めを作るためだろう。
滴ってきた汗を拭った。男は動かない。移動しながら溜めを作ることができない、と延広は読んだ。もし動きながら瞬間で溜めを作れるのならば、汗を拭う隙に踏み込んだ筈だからだ。というより、もし動きながら溜められるとなれば勝ち目が薄い。
摺り足。地面を擦りながら間合いを詰めた。互いの間合いが重なった。それでも男は動かない。
呼吸を測った。躰が重く感じる。男の息も荒くなった。延広は男を見た。左手。腰だめの右。僅かに引いた右足。指。汗の一筋。
瞬間、軽くなった。延広は無造作に踏み込んでいた。
男の右足。跳ねた。それも見えていた。
躰を先に前に倒した。男の拳が突き刺さった。しかし、伸びる前に打たせた。
躰におっつけるように、右を振り下ろした。
男の左手が懐に入るのが見えた。止められない。左手。だが、そこに光はなかった。延広の拳が、男の米神に刺さった。
◇
「持ってなかったのか」
起きた男に向かって、延広は言った。男は辺りを見回し、納得したように息を吐いた。
「負けか。一対一で負けってのも久しぶりだ」
「ぶちのめしてくれる奴もいないのか。ますます、抜けた方がいいな」
「打ちのめされちゃあいますよ。しきたりだとか、組織だとか金だとかにね」
「そんなものか」
男が指を二本立てた。何も言わず、火を点けた煙草をその指に挟ませた。男が喫い、気持ち悪そうな表情をした。ゆっくりと煙を吐いていく。
「最後のは重かったな。中身の詰まった鉢を振り下ろされた気分だった」
「たかが鉢とは、舐められたもんだ」
「ひっひ。やっぱり、とんでもねぇ旦那だ」
笑いながら、男が胡座をくんだ。男が最初乗っていた石を持ってきて、延広も座った。
夕陽ももう沈みかけている。煙草の煙がオレンジ色にきらめいた。
「なぜ、ドスを持ってこなかった」
夕陽を見たまま、延広は尋ねた。男も夕陽に顔を向けたまま答えた。
「忘れちまいやしたよ。ご丁寧に布団の横に置いといたってのにね」
「そうか」
「旦那こそ、なぜ素手で?あっしがドス遣うのはわかってたでしょう?」
「武器を遣うほどじゃなかったのさ」
本当は、そうではなかった。昨日の夜、延広は確かに棒を掴んだ。その時、なぜか美鈴と闘り合った時のことを思い出した。それで、棒を持ってくる気を無くしたのだ。
男が煙草を擦るように消したのを見て、延広は立ち上がった。この男とは、一服ぐらいがちょうどいい。
「言うことが二つある。霧雨云々じゃないぞ」
「もちろん、霧雨からは手を引きますよ。あの
「どうでもいいさ、俺にはな」
「それじゃ、なんです?」
「鬱憤が溜まったからといって、人を巻き込むなよ」
「お見通しですかい」
どこか、似ていた。外の世界にいた時の、まだ社会に納まっていた頃の自分にだ。
歩き出した。半分の夕陽。
「二つ目ってのは?旦那」
振り向いた。逆光で、延広の姿は男には影にしか見えないだろう。
「忘れちまえよ、ドスと一緒にな。ヤクザとか極道とか、そんなことは忘れちまえ。お前は、お前一匹で生きる方がお似合いだ」
歩いた。男は追ってきはしない。
霧雨からの依頼で、一組の男女を守った。しかし、いくら考えても、一人の男にドスを忘れさせたという思いしか沸いてこなかった。
躰が痛んだ。それでも、二ヶ月分だけにしよう、と思った。自分の中の卑しさを、それでいくらか忘れられそうだった。
地の文は長いようならどこかで一行空けた方が見やすいのはわかってるんですが、この小説では今まで空けないできたのでとりあえずそのままいきます。あんまり見辛かったら教えてください
NBAとかプレミア12とかで更新ちょっと遅くなるかもしれません。元々不定期ですが