待つという感覚はなかった。座っただけで、目を閉じたりもしなかった。乗ったのか、流されているのか。沁み抜くように時は過ぎる。乗った。呟いてみた。口にすると、どうでもいいことだった。流れ着く先が全てだ。
甕から手で水を掬い一口飲んだ。手を拭こうとして、布もなにも出していないことに気付いた。水を切り、シャツで拭った。そこまでやってから、なぜか延広は狼狽えた。浮足立ったまま棚に飛びつき、手拭きを掴みだすと左手に擦り付けた。指紋をなぞるようなつもりで、爪や指の間も残さずに手拭きを当てた。右も同様にした。皮膚が赤くなっている。滲む痛みで、唐突に延広は冷静になった。手に水気はなく、手拭きには曲線の皺が縦横に走っていた。延広はその皺を丁寧にのばしてから、四つ折りにして甕の蓋の上へ掛けた。
まだ、時間があった。なんとなく部屋の隅へ目を向け、すぐに逸らした。棒が立て掛けてある場所だ。
不安や恐怖ではない。しかし、今までのいかなる時とも違う心境ではある。棒は無視しよう、と決めた。自分自身の心境とは、徒手空拳で向かうべきものだろう。
鐘。越えたか。声にはしなかった。どこかで、鋭敏になっている。鈍になろうとしている部分もある。その均衡の破り方を見てやろう、という気になっていた。
もう一度水を飲んだ。喉の音が、やけに響くように感じた。
気配。感じた時には、戸の向こうに立っていた。目を閉じた。外の気配が消えた。消えた物が、部屋の隅にあった。わずかに迷い、目を開けた。想像した光景が、想像した形であった。
「やるせない、というのはこういう心境を言うのでしょうね」
「脱力感のようなものかい?」
「いえ。ただ、やるせないだけですわ」
「そう言われてしまえば、こっちは納得するしかない。それとも、共感でもすべきかな」
「納得も共感も結構ですわ。
「じゃ、慮る必要もないな」
「ご随意に」
三歩ほど間を空けて、八雲紫は腰を下ろした。珍しく、日傘を持っていない。もっとも、それが本当に珍しいことなのかは、判断できなかった。直接姿を見た回数は、決して多くない。
延広は立ちあがり部屋を出た。大家のところで燠を貰い、部屋に戻って湯を沸かした。
「とびきり、熱く。ゆっくりと冷ましながら頂きますので」
「人生観かなにかのように聞こえるな」
「意味深な女と思われてますのね、私のことを」
「こういう口を利いておいてなんだが、そっちからしたら俺なんか鼻垂れ小僧だろうからね」
「本当は、熱いものは熱いままに、と思ってますわ」
「熱けりゃ若いということもないだろうさ」
「冷ましながら飲める。そういう存在であることが、必要なんじゃありません?」
「ないな。俺には、ない」
靄のようだった湯気が少しずつ力強くなり、それから噴き出した。湯呑に注いで、紫の前に置いた。もうひとつ湯呑を取り出し、ほんの少しだけ湯を注ぐ。それを、ショットグラスの酒を飲むように、延広は口に放り込んだ。喉がかっとする。それから腹に至り、熱が全身に広がる。冬になるとよくやる飲み方で、文はこれを見る度に口を綻ばせたものだ。
一瞬、紫が目を細めてこちらを見た。それから自分の湯呑に息を吹きかけ始める。紅をつけていない。延広は観察するでもなく、呆っと紫を見ていた。湯呑を振る。当然、音はない。何に対してかもわからぬままに舌打ちしたくなり、それを堪えるように湯を注いだ。
放り込む。熱。躰は、暖まってきている。紫が口をつけた。こくんこくんと喉が鳴る。それからこちらを見、口の端で笑って、残りの湯を放り込むように飲んだ。
「般若湯を頂けます?」
「仏門かね、おい」
「まさか。つまり、憚られるということですわ」
「約束の時間より、少し遅れたな」
「やめましょう」
紫が湯呑みで軽く床を叩いた。中身は、ほんの一滴すらも残ってないように見える。
大将と酒を飲んだ時のことを思い出した。ほんの数日前の話だ。別れの酒とは、多分こうやって飲むものなのだろう。
交渉材料として考えていたいくつかのことを、頭から消した。里の役員との繋がり、橙を通じた貸し。遅刻も、恐らくそういう意図だ。駆け引きをしようという意思が、底抜けのバケツから漏れるように消えていった。延広だけでなく、紫もそうだろう。建前を欲していたが、それを口に出す必要がないことを今悟った。なぜなのか、と思った。謎だらけのこの女の、心情という部分だけが、時折わかりすぎるほどにわかる。そして、あるべき筈のものを無用に感じてしまう。やるせない、ということなのだろうか。
「一度、言ったことがありましたわね」
酒を出してやると、紫はほんの少し口先を湿らせただけだったが、まるで大酒を食らったように滑らかにしゃべり始めた。延広もわざと声量をあげた。泥酔したようなやり取りをしばらく続けた後、不意に擦れた声を紫が出した。
「なにかあったかな」
「生の実感を、普通には得られないようになるでしょうと。忘れてしまわれたかしら」
何でもないことのように紫は言った。はっきりと延広は覚えていたが、なんの反応も返さなかった。傷を負うことでしか得られない。以前美鈴は、延広のことをそう見たようだった。自分自身がどうなのかを延広は考えたことがなかったが、得る、という言葉はどこか違う気がした。
目を閉じた。カウンターの傷。隙間風に揺られるランプの赤い光。グラスから垂れた水滴。不規則に乱れた光線の陰影の中で、溢れだした血のような赤い水滴が、木でできたカウンターにわずかの瞬間だけ生々しい獣を映し出していた。血濡れに横たわった獣。大将が横切り、美鈴がなにかを言った。あれはもうどれほど前のことなのか。
「生と死、などというのは私に言わせれば対角からは逸脱した対比ですの。生から遠ざかった末端には、多分虚無があるのでしょう」
「俺は、どこに立っていると?」
「どこかに。人間としては薄暗いどこかに貴方は立っていて、時折狂おしいほどに生を覗き見る」
「自虐のように聴こえる」
「私は妖怪ですもの」
追及する言葉が出かけた。人と妖怪なんて。情念に差など。そのどれもが、胸のうちで死んでいった。言葉の音に、自分の意思のなにもかもが乗らない気がした。
ここにいる、確かなのはそれだけだ。それ以上でもそれ以下でもない。それ以上のなにかを八雲紫や博麗霊夢が望んでいたとしても、どうしてやることもできない。
「もういいだろう」
言外の全てを、紫ははっきりと理解したようだった。眦が微かに上下する。それは天を仰ぐようにも見えた。再び開かれた紫の目に、儚げな意味を滲ませた光芒がよぎった。
「恥ずべきことをしたのでしょうね。このような様を、カンニングと呼ぶのでしょうか」
「お前が未来を見ているならな」
「あらやだ。そのような素振りも見せなかったのに、本当はご存じでしたのね」
八雲紫が親友を亡くしたことがあると、聞くともなく聞いたことがあった。どこからともなく、風のように流れてきた情報だった。
「あり得たかもしれない過去を他人に映し見るのは、やはり悪趣味でしょうね」
「いや。ただ、後悔しか残らないという気がする」
「後悔を積み重ねていくのも、ある種の妖怪の糧ですわ」
「美食が過ぎれば醜く肥えるだろうが、なるほど妖怪に美形が多い訳だ」
「在り方の話と解釈しておきますわ」
「女という意味にとってもいいぜ」
「意思の籠らない口説き文句は、軽薄のようで淡白ですのね」
「酔ってきたな、どうも」
「そのままで。酔ったままで聞いて頂けるかしら」
「ああ」
紫が居住まいを正した。口を開くまでのほんの一瞬だけ、酒がやたらに味気なかった。
「妖怪の山の山頂から峰伝い東一里に、頭一つ低い頂がございますでしょう?明後日の子から卯、いえ、午前零時から午前六時頃まで」
「そこまででいい。もう言うな」
聞くだけのことは聞いた。それ以上を口にさせることに意味はないだろう。
「お優しいのね。それはそれは、残酷なほどに」
「貸し借りの分は貰ったということさ。これ以上を聞くと、なにか一つお前を幸せにしなきゃいけなくなる」
「それは、私にもできないほどの大事業ですわね」
「そうだ。ただそれだけだ」
「それでは、最後に言うだけのことを言っておきましょう」
紫が楚々として湯呑みを口に運んだ。その酒が喉を通る動作は、延広の目にはみだりに詳らかに見えた。
「先日、人狼が紅美鈴を襲った事件はご存知ですわね?」
「襲った、ね」
「それについてレミリア・スカーレットは声明を出しましたの。これは紅魔館への攻撃であり、紅美鈴が人狼を斃したのは紅魔館としての正当な反撃であると」
「声明とはまた、社会性のある話だ」
「載せたのは文々。新聞ですわ。今は有力者のところだけですが、明日には里中に撒くでしょう」
苦笑いするしかなかった。ほんの少し、面映ゆい気持ちもある。
「つまり紅魔館に所属する者が人狼を殺したとしても、あくまでも反撃として扱ってくれるということか」
「そういうことになりますわね」
美鈴は延広たちに知らせるための気弾こそ撃ったが、その後は人狼を追いかけることを優先したのだろう。そして、追ってきた美鈴を人狼が攻撃した。全体としてはともかく、その部分を切り取れば人狼側が先制したというのも間違いではない。その一面的な事実だけで主張を通せるというのは、紅魔館も大したものだった。
紅魔館に繋がっていろ。レミリアに一度だけそう言われたことがあった。あの後永遠亭などの依頼を受けることもあったが、紅魔館を優先するスタイルを延広は一応取っていた。さきほどの声明を通す力があるのなら、大橋延広は紅魔館所属であるという主張を通すことも不可能ではないだろう。犯罪幇助にも似た延広の行動が、大将の側から紅魔館に鞍替えするだけで、正当防衛になるというわけだ。
機会を与えられたのだった。多分、最後の機会だろう。考えることは、なにもなかった。
「いい主だよ、まったく」
「どなたの主なのでしょう?」
「紅美鈴の、さ。わかりきったことだろう」
「そう」
紫がまた湯呑みを口に運んだ。それを床に置くと、立ち上がって歩き始めた。扉へ向かうその背中には、やはりいささかの酔いもなかった。
「わかりきったことでしたわね、本当に」
「ああ」
「それでは、お暇するといたしましょう」
「世話になったと思ってるよ」
「床に就いていた貴方は、午前零時になにかを感じて目覚める。霊夢も、似たようなことになるでしょう」
対等な条件。八雲紫の中で起こったであろうせめぎあいは、対等という一言に妥協点を見つけたらしかった。
秩序と向かい合う以上、最後には逃亡しかなかった。五年の歳月を経た外の世界がどう変わっているのか、延広には想像もつかない。幻想入りのきっかけになったあの事件の帰趨次第では、死んでいることになっていてもおかしくなかった。大将は幻想郷の生まれで、当然外での戸籍などない。それらの要素を含めても、幻想郷からの脱出以外を思いつかなかった。そして、秩序である博麗の巫女が敵である以上、案内人足り得るのは延広の知る限り八雲紫だけだ。
明後日の午前零時から六時、妖怪の山で二番目の頂。そこに道がある。
八雲紫の裏切りという当然あるべき懸念は、なぜか全くといっていいほど真実味を帯びなかった。他に手のないことが視野を狭くしているのかもしれない。そう客観視したが、やはりなにか違和感を伴った。扉が開く。明かりのある室内から、闇の中へと紫の背中が染み込むように消えていく。
関門を一つ抜けた。別れを済ませたのだ、と思った。
◇
珍しく目覚めは良く、夢をみたりもしなかった。
共用井戸で顔を洗い寝汗を流すと、すぐにタオルを使った。風は途切れ途切れで、雲は今にも落ちてきそうなほど重たく見えた。今は止んでいるが、そのうちにまた小雨を降らせてきそうだ。
冷暗所を開けた。わずかな葉野菜と一合の米、皮の付いた鶏肉が一片あった。鍋に湯を沸かし、洗った順に手で裂きながら放り込んでいった。塩を振る。小松菜がしんなりとし始め、鶏皮から滲み出した脂が水面にぽつぽつ漂い始めた。米粒をひとつ口に入れる。まだ固く、米の味だけがしていた。塩をもうひと振りし、杓子で上下にゆっくりとかき混ぜ脂を行き渡らせてから、火を弱め蓋をした。
筋力トレーニングをした。いつも通りのメニューを、セット数を減らして流す。汗を掻くというほどもなく、かすかな隙間風だけで躰は乾いた。塩をひと舐めし、甕の水を口に運んだ。それから髭を当たった。剃刀を柔らかく遣う。鏡を見てみたいと思ったが、長屋には置いていなかった。鼻の下を撫で、それから頬を伝い首に触れた。ざらついた凹凸がある。首の傷は、多分まだ生々しいままだろう。
部屋の中を見回した。するべきことは、なにもない。今鍋の中に入ってるものを片付けたら、希薄な生活感の名残もほとんど消えるだろう。服や家具は、いかにも置き去りになった生の亡骸に見えた。なまじ小奇麗なだけに、時間すらもそれらを待ってくれない、写真に似た現実感の欠落がある。
いつでも、長屋だった。家であったことはない。
蓋を開けると、鶏の香りを纏った湯気が頭を広げて立ち昇った。冷ましたりはせずに、すぐに箸を差し込んだ。小さく裂いた野菜はとろけていたが米はほどほどに形を持ち、箸で掬い上げるとその上にも内にも出汁を溢れさせた。最初の一口だけ、味を確かめるようにゆっくりと咀嚼した。残りは無感動に口に運ぶ。さっきの筋力トレーニングよりもよっぽど汗が出た。額の汗を時たま拭いながら、延広は雑炊を完食した。
食器を洗い、長屋を出た。特に考えのあるわけではなかったが、足は自然に人里の中心に向いた。
喫茶店に行き、熱いコーヒーを頼んだ。どこの店もマスターが出てきたりはしなかった。自分の問題を解決しようという人間は、冬場はあまりいない。それに、人里では文々。新聞の話題が強かった。紅魔館周辺の動きにスリリングな娯楽性を見出した人々は、自分の悩みなど一旦どこかに投げ捨てているだろう。
立ち食い蕎麦で昼を摂り、また人里を流した。どこに行っても、なにかしら見覚えがある気がする。もちろん錯覚で、ほんとうは知らない路地を通っていたりするのだ。
「私も、どうやら嫌な星のもとにいるらしいな。このタイミングで君を見かけるとは」
後ろから声がした。
「これは上白沢先生。ご無沙汰しております」
「ご無沙汰なぐらいが、君との距離として適正だとたまに思うがね」
延広は建物の日陰へ入って、そこに慧音を促した。露骨に嫌そうな顔をしながら、慧音も日陰に入ってきた。日を避けたというよりは、ある種の逃走者としての動きだった。
「昨日、珍しいものを見たよ。だから嫌な予感はしていたんだが」
「何をご覧に?」
「愛想笑いも、まくしたてるような弁舌もない、物憂げで鎮静した射命丸文さ」
記者としての自分を、文は持っていた。乱雑に口を動かす姿は確かに描く記事に似たもので、言葉に対する諦念に近い疑心を塗りたくったその立ち振る舞いは延広にとってあまり馴染みのないものであったが、多くの住人にとっては射命丸文とはそういう女だった。
「私用だったということですか?」
「ところが新聞さ。私もどうやら、里の有力者と目されているらしい」
「なるほど、昨日のうちで新聞が届いたわけですか。レミリア嬢か文かはわからないが、見るべきところは見てるもんだ」
「私の地位も、紅魔館の保身もどうでもいい。おい、きちんと算段はついているんだろうな?」
「私が紅魔館の一員になるかどうかですか?」
慧音の爪先が二度地面を抉るように叩いた。延広は肩を竦めて先を促した。訊きたいことはわかっているが、いきなりすべてを口上としてしまうのは、八雲紫を想うと憚られた。六法全書があるわけではないが、なにがしかの禁忌に触れているのは考えるまでもない。
「無策というわけではなさそうだが、しかし秘か。抜け道だな」
流石に慧音は、延広の沈黙の意味を誤解しなかった。恐らく、核心からそう遠くないところに着地している。なにもかもを隠し通すのは無理があった。
「八雲紫か。しかし、君たちの間にそこまでの貸し借りがあるのかな」
「その辺りで勘弁してください。まったく敵わないな、先生には」
「物事を無闇に暴き立てる趣味はない。ただ、確実性ぐらいは確かめたいのさ」
「隅まで暴き立てたとしても確実なんて言葉はでてきませんよ」
「君の力量は疑ってないが、君には危うい傾向があるし、なによりことは大将の身に関わる。おまけに、博麗の巫女だ」
敵という言葉は避けたようだが、慧音は明らかにこちらに肩入れしていた。その理由が延広には見当も付かなかった。それなりの付き合いはしているが、昵懇というにはほど遠い。まさか大将と懇ろなわけでもないだろう。
疑問が顔に出ていたらしかった。慧音はちょっと横を向いて、それから建物に背を凭れた。
「十何年か前だがね、大将には弟分がいた。もっとも親子や、下手をすれば孫でもおかしくない年齢差だったが。その弟分を死なせたことが、あの大将が足を洗ったきっかけさ」
「ありそうな話だ」
「弟分を殺したのが人狼だったとしたら?」
「ますます、ありそうな話になりますね」
「里の外だった。自然の摂理といえばそれまでだが、しかし酷い有様だったよ。どうも、甚振ったとしか思えない仏だったんだな。やり場のない憤りが里中を覆っていた。それ以降は人狼どももあまり里に関わらなくなったよ。溝が深まりすぎて、なんなら影狼辺りまで排斥されかねない雰囲気があったのでね」
「その憤りも、十何年も経てば薄れてしまう。人狼どもはそう思ったわけだ」
「実際お仲間だったやくざ連中ですらあの猛りをなくしてしまっただろうさ。ただ一人を除けば、だがね」
摂理には従う。それはそれとして、目の前に現れれば通すべき筋を通す。極道らしい割り切り方だった。偶然の差配にすべてを委ねてただ牙を研ぎ続けることが、道を踏み外した先で辛うじて踏みとどまる、渡世人のあるべき歩み方なのだろう。
「彼が生きていれば、ちょうど君くらいの年齢だな」
厚い雲でも、太陽を背負っている雲は流石に光を消しえていなかった。通り抜けた光を手で遮りながら慧音が空を見上げた。釣られて、延広も空を見た。意外と光は強く、目を閉じると目蓋の裏で雲の形の孤影が明滅をした。延広が目を逸らしても、慧音はまだ視線を空に泳がせていた。
死んだ弟分というのは、寺子屋に通っていたのかもしれない、と慧音を見て思った。それもやはり、ありそうな話だろう。
「さあ、昔話は終わりだ。先のことを聞こうじゃないか」
向き直った慧音は、もう普段と変わらない表情と声音をしていた。
「ですから、なにも。先生を納得させるような材料はどこにもありませんよ」
「君は誓約書かなにかを想像しているだろう。いいか大橋君、覚えておきたまえ。相手を論破する時に必要なのが証拠で、それは誓約書のように意味の確定した形をしていなければいけないよ。しかし今、私と君は論争をしているわけではない。君自身の観察や心情であっても、それは立派な材料さ。口外できない要素があるならそれでいい。しかし、どういう感情から君が決断したのかぐらいは問題ではないと思うがね」
「まさか、寺子屋の子供達にまでそんな調子じゃないでしょうね先生」
「正しいことを諭すのに、大人も子供もない」
再び、延広は肩を竦めた。これでいて裏道を抜けるような強かさもあるのだから、上白沢慧音とはまったく手に負えた人物ではない。両手を挙げた。満足したように、慧音が一度深く頷いた。
「それでは聴かせてくれ。八雲紫を君はどう見たんだ?」
「友達を救う、ということについて拭い難い屈託がある。その屈託が多分、私に道を付ける気にさせたんでしょう」
「それは確かにあるだろう。しかし、そういった人情話は幻想郷にだっていくらでもある。それらの時に八雲紫が働きをしたとは聞かないが」
「私にとって、この手の話は二度目なんですよ。一度目は失敗した。いや、失敗するはずだった」
「成功したということか?」
「成功も失敗も見届けないまま、気付いたら
慧音が小さく唸った。
「幻想郷は、一定数の食料を必要としている。君に限って自殺はあるまいが、生から著しく遠ざかった、ということか。それなら、結界が機能を発揮してもおかしくはない」
その機能が行った機械的な働きが、八雲紫の心を重くしたのだろう。その感情は、責任などではない。色も持たないまま、直接屈託の上に圧し掛かったに違いなかった。
「私も、恐らくは八雲紫も、交渉をする腹積もりで会ったと思います。しかし、交渉にはならなかった。やるせない、などと言ってましたがね」
「それは君、最も重苦しい感情だよ。その感情と向き合うとき他人など気にしていられない」
「だから、大丈夫だと思ってるわけです。思慮から出たものではなく、八雲紫の根源的な部分から湧いた答えが道を付けたわけですから」
慧音は宙を睨んだまま、何事かを考えていた。延広は煙草に火を点け、それから灰皿もなにもないことを思い出した。喫う。先が焼け、一瞬、煙草の煙が静止したように見えた。わずかの間に人里の街並みが現れ、また煙に遮られた。薄く引き伸ばされる紫煙の向こうで、街並みは不意に立ち消えそうなほど儚げに見える。どこか、不思議な感覚だった。煙を吐く。煙草の煙と冬の白い吐息が合わさり、しかし一つになることはなく昇って行った。
「よし」
煙草をほぼ灰にした頃に、慧音が呟いた。
「乗ったぞ、大橋君。私の方でも、少し小細工をしてみよう」
「私と八雲紫の間でのことなんですよ、先生」
「わかっている。水面をかき乱せば、さざ波がどのような働きをするかも読めなくなるだろう。だから真っ直ぐに、一つのことを止める」
「先生」
博麗霊夢。止めなければならない要素があるとしたらそれだけだ。
「言うな大橋君。少し馬鹿な女になるつもりだ。馬鹿な方がやりやすいこともあるのでね。ただ、あまり期待はしてくれるなよ。弾幕ごっこという手法で彼女を止めていられる時間は、そうないだろう」
「しかしですね」
「くどい」
厳しい表情で断ち切った慧音が、なぜか破顔した。思い当って、延広は横を向いた。
「最初からその気でしたね、先生。なにが、嫌な星のもとにいる、ですか」
「大将が人狼関係でというと何とかしてやりたかったが、皆目筋道が読めなくてね。君ならあるいはと思っていたよ」
「これは、何を言っても無駄か」
「諦めがいいのは見方によっては美点だぞ大橋君。人間が最も不幸になる時とは、得てして諦めがつかなかった時だったりするものさ」
抑えきれないように笑っていた慧音が、やがて表情を引き締めた。
「急げよ、大橋君。八雲紫の有機的な面が君を救おうとしても、彼女にはそうでない面もある。幻想郷と博麗の巫女に対して、ある種本能的反射で守る面があるのだよ。瀬戸際になれば、彼女は霊夢を取るぞ」
延広は、フィルターまで燃えた煙草を地面に擦り付けた。そこで少し悩んだが、どうしようもなかった。ポケットへと吸殻をしまい込む。捨て方が上手くなることは、当面ないだろう。
「目的地だけは教えておいてくれよ。あとはこちらで合わせよう」
「山ですよ」
酒屋に寄り、小さな徳利入りの酒を買った。お猪口がついてきた。幻想郷と書かれたあとに、屋号が続いている。俄かに風が吹き、雲の切れ間から日が差した。照らし出された人里の道を、延広は長屋へ向けて歩いた。淡く光った風景は、また雲が日を閉ざしたことで、物悲し気な暗さを取り戻している。もしまた風が吹けば、と思った。その時は、道すがらにでも一口、酒を飲んでしまおう。
風は、思い出したように瞬間だけ吹いて、酒を注ぐ前には止んでしまった。上着が揺れて、吸殻の入ったポケットごとぱたぱたと音を立てた。