特別なことはなにもなかった。心がけてそうしたわけではなく、自然体のまま時間が過ぎるに任せていたのだ。多少、部屋が閑散とした。変化があったとしたら、それぐらいだろう。
夕方になってから銭湯に行った。冬の夜ははやく、日が沈む様の見えない幻想郷では、まるでそれが当たり前であるかのように泰然とした闇が方々を包み込んだ。雲はますます厚く黒ずんでいたが、未だに雨は降らせていない。その重苦しさは実際に雨が降るよりもなお明瞭に人里を脅かしている。
銭湯からいくつか軒を超えると肉屋があった。隣の開けた敷地では、炭火が火花を飛ばしている。どうやら、肉屋で買った肉をそのまま焼いてもらえるらしい。普段目にしたことはない形態だったので、恐らく臨時で行っているのだろう。重苦しさを、あるがままに受け止めない。自然と付き合う幻想郷の人間は、自然のあしらい方というのもよく心得ているらしい。
一塊を丸々買った。コンロを担当していた従業員が目を見開いている。店の方で、薄く切って持ってくるように頼んだ。
「お客さん、見た目に寄らないね。こりゃ力士が食う量だ」
「俺だけで食うんじゃないよ」
「え?」
「ちょっと、あぶく銭があってね。人を呼びな。みんなで食べようじゃないか」
「こりゃたまげた。おい安兵衛、御大尽さんからの振舞いだ。人集めな」
下働きらしい男が声を挙げて駆けだした。甲高いが腹の底から出ている声で、近隣までよく響いた。
宴会沙汰になった。騒ぎ立てる住民のほとんどは、誰の奢りかもよくわかっていないだろう。それでよかった。延広は何切れか口に運んだだけで、あとは空を見ていた。不吉な重量は、ただそこにあるだけになっていた。
わっと場が沸いた。どうやら、酒まで出てきたらしい。
「店主、いったいどうしたんだこれは」
「ああ旦那。いや、なんでも霧雨様が振舞い酒を届けてくだすったそうで。あっしももうなにがなにやら」
「良かったじゃないか。食い足りない連中は、おたくで肉を買っていくだろうさ」
「はあ。そりゃまあ、ありがたい話ですがね」
激励のようなものか。それとも、手切れ金だろうか。もはや事態が霧雨の手を離れたことは、どうやら伝わっているらしい。
酒を口にした。心のささくれを撫でるような辛さがあった。宥めようという撫で方ではない。激励の方らしい、と思った。
宴が
長屋に戻ると布団を敷いた。卓袱台を側に寄せ、お猪口の方に塩を用意した。延広は横になると、幻想郷のあらゆることを思い出そうとした。重要なこともつまらないことも、何一つ浮かびはしなかった。酒を飲み塩を舐める。また思索に耽る。何も出ず、また酒を飲んだ。混濁がやってきた。しかし、それを延広が意識すると、たちまちに明瞭さが駆け戻ってくる。無我になろうとした。混濁。明瞭。目を閉じる。視界がなくても、すぐ横の徳利から酒を飲むくらい造作もなかった。闇は、ただ暗いだけになっているだろうか。酒。唐突に、明瞭と混濁が同時にやってくるようになった。
◇
明瞭な意識が、戸が開いたことを知覚させた。混濁が、尋ね人の認識を噛み合わなくした。どちらに身を委ねるわけでもなかった。子の刻を知らせる鐘をただ待っていた。
「寝てるわね」
土間で砂利が擦れる音。それから、床の軋み。あの下駄のような履物ではないのだろうか、と思った。余韻を残さないあの短音が、延広はなぜか好きだった。ただ、それを口にしたことはない。
確認というよりは断言するような口調だった。そうなのか、と他人事のように考えた。眠っているのか。乾いた足袋の、滑るような足音。結局、雨雲はまだ人々を解放しなかったらしい。最も、肉と酒はもっと鮮明に重苦しさを遠ざけただろう。押しつぶされそうな圧迫は、ただ重いだけになった。
覆い被さってきた。躰が、酷く凍えている。自分の躰も凍えている筈だと、明瞭な部分で考えた。布団は敷いただけで被ってはいないのだ。躰の熱が奪われていくのを、延広はなぜか明瞭な部分で捉えた。混濁で捉えれば陶酔があったかもしれないが、しかしいくら省みてもそこはなぜか明瞭だったのだ。布擦れの音がした。互いの躰の間で服が皺を滲ませている。それは愛撫からは程遠く、もがきのような身動ぎが延広の上にあるのだった。
時間がたった。短い時のような気がしたが、どこかで無自覚の微睡みがあったかもしれない。頬と頬が触れ、耳には結露しそうなほどに濡れた吐息がかかった。わき腹付近を彷徨っていた手が、だんだんと昇って肩を掴んだ。混濁の中で、あまり負荷が掛からないことに気付いた。明瞭さは膝を立てていることを考えたが、混濁はもっと朧朧とした意味の所在があるように感じていた。そのために密着は、わずかの隙間もないようでしかし肉感に乏しく、取り巻く風のようだった。
「行かないで」
声がした。風鳴りだと、一瞬本気で考えた。
「朝まででいいから、ここで私と寝ていて。ちょっと早く起きてお米を炊くから、朝はご飯と味噌汁でいいでしょう?新聞も売れたから、ちょっと里に飛んで鮭でも買ってこようか」
外の風が止んでいるらしいことに延広は気付いた。古びた長屋の外壁は、そよ風ですら音を立てる。軋みすらない静寂は、世界をやたらと狭くした。
「どこかの馬鹿が大盤振る舞いしたから、里は変に活気づいてるわ。明日は、広場の方で人形劇をやってもらうそうよ。商魂逞しい連中が出店もやるみたいだし、ちょっと見に行かない?そういう華やかな記事は私と相性がいいらしいから、いつもより売れる記事が書けると思う。失礼な話よね、まったく」
澄んだ声はよく弾んでいた。音が反響して、部屋の中を満たした。
「帰りに小料理屋でも寄っていきましょう。手間のかかりそうな料理をちょくちょくつまんで、お酒も飲んで。あんた好みの塩辛いのは、ここに着いてから私が作るわ。それから、布団を敷いて、あんたが先に入って、あとから私がそっと入って。そうやって、そういう風に」
そこで、声も止んだ。途切れたとは思わなかった。その次の言葉は、恐らく出てこないだろう。禁忌や諦念ではなく、ただ無いということが、言葉を止めたのだ。
沈黙は長くなかった。肩を掴んでいる手に、あるかなきかの力が加わった。それはすぐに消え、それから横にあった顔が首の辺りへと動いた。腕が肩を越え首にまわる。混濁が、自分の首に残っているであろう傷跡を、奇妙に歪で生々しい形で思い起こさせた。枝垂れかかる腕から力が抜け、壊れかけの椅子でも気遣うように、ゆっくりと心地よい重みがかかってきた。部分部分が、もどかしげに触れ合う。それぞれが何らかの傷跡の残っている部分だった。なぞるような動きは、いつも荒事の後の長屋で感じていたものだった。
「行って」
聞こえた言葉は、先ほどとは真逆の意味を表した。
「どうせ、楽には生きられないのよ。あんたが生きて、そして死ぬために必要なものが。過去が必要なんでしょう」
一度だけ、外の世界での最後を話したことがあった。大将にすら言ったことがないその話を、なぜか数回出会っただけの時に喋ってしまったのだ。記者としてではない顔も、その時初めて見た。
「なにもいらない。どうにでも、思う様にやればいいわ。奪われた時でも場所でも、存分に取り戻してくればいい。でも、一つだけ」
混濁が強くなってきた。首の傷に、柔らかいなにかが触れた。
「生ききって」
風が、建て付けの衰えた戸を揺らす音が聞こえた。二人だけだった世界はその音で認識を広げ、長屋はただの部屋になった。その逆に、自分の知覚は白磁と乳白が点滅するさまに染め上げられ、その内側から無が湧き出てきた。混濁が酷い。
女の言いそうなことを言ったのだろうか。自分を置いて去る男を引き留めたり鼓舞したりするのは、女の言いそうなことだろうか。それとも。
それとも、疑心も失望も捨てて、言葉というやつに縋ったのだろうか。見限ったはずの言葉の力を、この夢現の一瞬だけ、拠り所にしたのだろうか。
隈なく全身が触れあったような気がした。混濁と眠気の見分けがつかなくなった。意識がその中へ落ちていくことだけは、なんとなくわかった。
◇
目を覚ました。明かりのない中でも、部屋は辛うじて見渡せた。すべて酒を飲んでいた時のままで、違いといえば濡れていたはずの徳利の口元が乾いている程度だ。
躰は冷えていた。お猪口に残っていた塩を舐めて、延広は立ち上がった。布団を仕舞うとお猪口の持ち手側を徳利に被せた。簡易的ではあるが、蓋代わりになる造りだ。
甕の水で顔を洗い、手拭いで拭った。ふと、甕の水面を覗き込んだ。首を映す。見えるような光量でないのはわかっていたが、それでも首の傷を見てみたい気がした。なにも見えはしなかった。甕に蓋を被せる。少し悩んだが、手拭いもそのまま甕の上にかけた。拭い去ることは、今の自分に必要なことではなかった。
唐突に、以前依頼を受けた老人のことを思い出した。今から山に登るからだと、自分に言い聞かせた。獣のように山を駆けなければならない。その駆け方は、老人が何かを取り戻す傍らで延広が得たものだった。
棒を袋に入れて背負った。夢を見なかったなと、ただ暗い部屋を見ながら思った。
鐘の音。幻想郷は、子の刻に入っていた。