作:島ハブ

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生への傷 終

 

 

 

 夜の底にある人里は人影がなく、それが却って人々の息吹を露骨にしていた。過不足のない営みは、里にきちんと共同体が形作られていることを如実に示している。

 長屋を出る瞬間までいろいろな方法を考えたが、結局最短を駆け抜けることに決めた。人里全体が敵ということはないはずだ。秩序自体もその執行者も、博麗と八雲に集中しているのが幻想郷だった。慧音などは人里に影響力を持っているが、それが幻想郷全体を考えて振るわれることはそうないだろう。

 大通りの真ん中をひた駆けた。そこを過ぎ、戸を閉めた青物屋を過ぎ、小さい裏店を過ぎた。ぽつぽつと人影が現れ始めた。隣は猥雑な通りで、公にできない商売もいくらか行われているはずだ。延広はできるだけ端に寄った。絡まれている暇はない。そこの客にも、巡回する自警団にもだ。ただ、巡邏隊を称する有志の自警団が、今日は少ないように見えた。霧雨あたりがまだおせっかいを焼いているのかもしれない。

 とにかく、紅魔館に行かなければならなかった。大将と合流しないことにはなんの意味もない。

 人里を抜けた。最短距離を抜けられる正門側を行ったので塀をよじ登る必要があると思っていたが、なぜか門は開いていた。おせっかいな人間がやたらと多い。

 息が弾み始めた。余力の計算は困難だった。走るだけなら多分持つだろう。ただ、そんな楽観をできる要素はほとんどない。妖怪を払い、大将を連れ、山を登り、下手をすれば霊夢と向かい合うことになる。いや、そうなるべきではない。その前に走り抜けるほうがずっと容易だろう。雲は分厚いままで、月明かりもあてにはならなかった。延広は足の回転を一段階上げた。

 湖が見えてきた。昼と比べると霧がなく、位置さえわかれば駆けるのは難しくなかった。妖怪らしい点滅する光が遠目に見えるが、近づいてはこない。

 決して大きい湖ではなかった。普段から漂わせている冷気が、冬の夜風と合わさって延広の肌を打った。ちょうどいい塩梅だ、と思った。汗はもう、うっすらと言える状態ではなくなっている。

 紅魔館の門に、誰かが立っていた。美鈴かと思ったが、近づくうちにそうではないと気付いた。大将だ。

 

「よお、延。忙しいじゃねえか」

 

「お陰様でな」

 

 止まることはせず、ゆっくりと歩きながら息を整える。なんと言うべきか、延広は迷っていた。大将本人の預かり知らぬところで物事が動きすぎた。罪人の処遇と言ってしまえばそれまでだが、延広がやろうとしているのはその罪人を逃がすことなのだ。一方的に連れて行くことなどできず、かといって時間はなかった。

 

「それじゃ、行くか」

 

「え?」

 

「なんだ、連れてってくれるんじゃねえのかい」

 

 呆気にとられて、それから頭が回りだした。大将に事情を説明した人間がいるのか。しかし、事を把握しているのは延広と八雲紫だけで、後は文と慧音がいくらか通じているぐらいのはずだ。

 

「誰に因果を含めてもらったかは知らんが、変な誤解があっちゃ困るぜ」

 

「お前は偶に周到なとこを見せるよな。心配すんな、吸血鬼の嬢ちゃんだよ」

 

 その言葉だけで延広は納得した。レミリアの能力についてはもう深く考えず、あるがままを受け止めようと決めていた。そのレミリアが説明したのであれば、事実から遠い認識ということはないだろう。あるいは、延広の知りえないことまで話しているかもしれない。

 

「レミリア嬢はなにか言ってたか?つまり、こうやって逃げるってこと以外にだ」

 

「お前のために逃げろとよ。俺がどんな意地張ったって大橋延広は止めはしないから、お前のためにも逃げろと」

 

「大将」

 

「なんだ?」

 

「今少しだけ、美鈴のやつが羨ましくなったよ」

 

「まだ、間に合うぜ」

 

「届かないから羨ましいのさ」

 

「そりゃそうだ」

 

 大将が漏らすように口の端で笑った。延広は大将の姿を一度見回した。傷自体は塞がっていそうだ。体力がどれほど戻っているのかは、走りださないことにはわかりようがない。

 

「念を押しておくが、確約なんてどこにもないぜ。中でも外でもな」

 

「誰を逃がすのかわかってねえようだな、延。教えてやる。お前の荷はな、命の預け方を知った男さ」

 

「わかった。外のことは外に出てから話そう」

 

 延広は時間を考えた。四時間はある。ただ、暗闇の中の山道だった。それも、守矢神社のある山から一里ほど離れた場所で、参道は役に立たない。道なき道を、獣や妖怪を避けながら進むことになる。

 

「いくつか、抑えておいて貰うことがある。走りながらで大丈夫かい?」

 

「お前が勝手に話せば、それを頭に入れる。走りながらだろうと関係ねえさ」

 

「よし。とりあえず妖怪の山だ。ひとつ向こうの山頂になる。なかなか、険しいぜ」

 

「行ったことがあんのか?」

 

「夕嫌いって花を採りにな」

 

「お前が、花だって?」

 

「おかしいかい?溝に咲いても、花は花らしいぜ」

 

 紅魔館から妖怪の山へは、大して時間はかからない。とにかく、山に入ってしまうことだった。開けた場所にいるよりはずっとマシだろう。

 

「いいのか、延」

 

 背中に声がかかった。美鈴のことだというのはわかったが、振り向きはせず駆け始めた。ちょっと遅れて、足音が続いた。

 

 

 

 

 

 

 走れた時間は僅かだった。山に入るとすぐに勾配が乱れ、灌木や木の根が足の踏み場所をなくした。延広はまだ駆けることができると思ったが、大将のペースは明らかに落ちている。体力というより、不慣れな足場と闇が妨げになっているのだ。

 延広は棒を抜き、袋の先を丸く結んだ。とりわけ足場の悪い場所では、この袋を綱代わりとして垂らした。大将が結び目を掴むと、延広がゆっくり引き上げる。すぐに、汗が噴き出した。

 緩い道がしばらく続き、それから上りがきた。傾斜はきつくなかったが、岩がいくつも突き出していて、その横で土が段を作るようになっている。腿ほどの高さがあるその段は、酷薄に体力を奪った。一段一段、這うように手を突きながら登った。虫のさざめきや木々の戦ぎの中で、自分の息遣いは耳障りに響いた。段。乗り越えると、また平坦な地面になった。

 袋を垂らして大将を引き上げる。登りきった大将が、一度激しく咳き込んだ。それでも足を止めようとはしなかった。決して力強くはないが、一歩一歩先に進む。遠くからは幽鬼のように見えるかもしれない。しかし目の前の大将の姿には、じっと絡みつくほどの生の鼓動があった。

 

「まだ遠いだろうな?」

 

「ああ」

 

「老いさらばえたもんよ。引っ張って貰わにゃ山にも登れんとはな」

 

「悲観するもんでもない。俺は、担ぎ上げて運ぶことになると思ってたぜ」

 

「そこまで行きゃ俺もお終いさ。くたばっちまったほうがいい」

 

「あんたの命を俺が預かってる。それは忘れてくれるなよ」

 

「忘れやしねえよ、俺がくたばるとしたらお前の後さ」

 

 自棄というのとは違う、自然体の覚悟を大将は決めているようだった。口を開きかけて、やめた。もし俺が死んでも。言いかけた言葉を、大将は受け取らないだろう。

 岩肌が露出していた。延広は左右を見回して、それから岩肌の凹凸に手を掛けた。見える範囲では同じような岩肌が続いていて、迂回をしている余裕はなさそうだったのだ。

 大人二人以上の高さがあった。体重をかける場所は慎重に選んだ。一か所、岩に見えたものがただの土の塊で、少し触れるとボロボロ崩れていった。月も遮られた夜の中で、崩れた土くれはすぐに闇に飲まれ見えなくなった。音だけが広く、軽やかに広がっていく。

 

「おい、大丈夫なのか?」

 

「表面に土がこびりついてるところがある。そこさえ避ければいけるな」

 

 自分の目が闇を捉え始めたのを延広は感じていた。夜光のない山の中を、なんでもないことのように見通している。一度見えるようになると、今まで何故見えなかったのか疑問に思うほどに、視界は情報に溢れだした。右手で出っ張りを掴む。確認するまでもなく、それは岩だった。

 登りきると、延広は袋を垂らした。一度軽く引く。大将も引き返してくる。それから、腰を落として袋をゆっくりと引き上げた。腕にかかってくる重みが、ほんの一瞬軽くなる。それからまた重くなり、軽くなった。次の一引きで、大将の手が淵にかかった。右手は袋を掴んでいる。延広は左手に袋を巻きつけながら、右手で大将を引き上げた。

 大将が楓の幹に背を凭せた。座ったりはせず、ほんの数秒呼吸を整えてまた歩きだす。一徹という感じは、紅魔館を出てからずっとある。

 もうかなり進んでいる筈だった。ただ、時間も経っている。急峻な登りを、延広が先に立って抜けた。右側が逆巻くような岨になり、片手を壁につきながら歩いた。風向きが変わり、下からの吹き上げがきた。全身に緊張が走った。

 

「疲れたなぁ、延」

 

 作業でくたびれた老人のような声を大将が出した。誘い。後方の灌木の奥から、獣染みた臭気が風に乗って漂っている。延広は少し歩みを緩め、大将と並んだ。

 

「なんだと思う?」

 

「魔獣とか呼ばれるやつだろう。知性ってほどのもんはねえ」

 

「数が多いと不味いぜ。地形が悪すぎる」

 

「その程度の胆でよく博麗に喧嘩売ったもんだ」

 

「売っちゃいない。それに、俺が心配してるのはあんたのことだぜ」

 

「どっちみちやらにゃなるめぇよ。仕損じるな」

 

「大将もな」

 

 大将が窪みに躓いた。それを介抱する素振りを見せてから、延広は横に跳んだ。四匹。鼬だが、大きさは人の腰ほどもある。一匹が大将の方へ飛び掛かるのと、大将が起き上がりざまにヤッパを抜くのがほぼ同時だった。白い光が跳ね上がる。暗闇の中、鮮血は墨汁のように見えた。突きあげる動きは、五年前からまるで衰えていない。

 延広は棒を振り上げて、しかし振り下ろさずに右足で蹴りを見舞った。一匹の鼬が左方向へ転がっていく。残った二匹と正対した。固着はしなかった。腰だめの構えから突き、横に薙いだ。突いた鼬は闇の中へ消えゆき、薙いだ方は木にぶつかって落ちた。

 視界の隅で、墨汁が飛んだ。延広は慌てて大将の元へ駆け寄った。墨汁が、二方向へ飛んだのである。

 

「見誤ったっ、くそ」

 

 大将の右太ももから血が流れていた。その下には、首を掻き切られた鼬の死骸が転がっている。

 

「止血しよう。あまり深くはない」

 

「一匹だけ鎌鼬だった。そうとわかってりゃ」

 

「言っても、どうしようもない。晒は?」

 

「ある。どうせ、血は大して出やしねえだろうが」

 

 消毒をする余裕はなかった。鎌鼬の傷というのは、深く裂ける割には出血しないと聞いたことがある。晒をきつく巻いた。点々と朱が滲んだが、それ以上に広がりはしなかった。出血死の心配はないだろう。ただ、今までのように進む訳にはいかなくなった。本当なら、山登りができるような傷ではない。

 

「とにかく、行こう。血の匂いがしすぎる」

 

 立ち上がった大将が、ぐらりと傾いた。延広は右側にまわって肩を組んだ。それでなんとか、歩くことはできた。険しい道は抱えて登るしかないだろう。

 

「延」

 

「命を預けると約束したはずだぜ、大将」

 

「俺はヤクザ者だ。横車ぐらい押す」

 

「あんたは堅気さ」

 

「堅気はお前だ。俺なんざどうしようもない半端者だ」

 

「実は俺も半端者でね。ここは一つ、肩でも寄せあって歩くとしよう」

 

「今、一番して欲しくねえことだなそれは」

 

「俺が、あんたの為だけに歩いてると思ってるな」

 

「違うのか」

 

「誰にだって事情はある」

 

 それきり、大将は俯いて口を開かなかった。足は止めていなかったので、延広もそれ以上はなにも言わなかった。

 事情はある。心の中で繰り返した。八雲紫は、延広のことを同類のように感じていたのかもしれない。友達を助けることになにがしかの想いがないとは言わない。ただ、自分の中に蟠っているそれが八雲紫の屈託とは別物であることを、延広はなぜかはっきりと自覚した。

 生ききる。約束をしたわけでも返事をしたわけでもない。それでも、生ききろうとしている自分が間違いなくここにある。生ききるということの具体的なあり方はわからない。ただ、今山を登ることが、延広にとって狂おしいほどに生の発露だった。

 誰のためでもない、生ききるために俺は歩いているんだ。音にはせず、唇だけを動かした。土が、足元で弛まぬうなりをあげていた。木々のさざめき。大将の呼吸。

 不意に、音が混じった。それは決して強い音ではないが、妖怪の山のすべてを包んだ。

 

「雨か」

 

 いつの間にか、大将が顔をあげていた。黒雲は、遂に自身の重さに耐えきれなくなって、その腸をこぼしたらしい。ただの雲になった、と思った。

 霧のような小雨が、躰を濡らした。体温が凍えていくほど、吐く息は熱量をもつ気がする。登りを越えると、下りがひとつ来て、また緩やかな登りになった。それから足場の悪い坂。ほとんど抱えるようにして、大将と二人で登っていく。歩くより、這い蹲って進む時間が長くなった。千切れた雑草と泥が躰のいたるところに擦りついている。大将を下から押し上げ、それから自分も一歩進む。その繰り返しだった。

 抜けた。延広が促すより先に、大将は立ちあがって歩き始めていた。小走りで並んだ。肩を貸すと、素直に腕を回してきた。多分、体力的には限界に近いだろう。

 

「昔、舎弟がいた」

 

 大将がポツリと言った。延広は何も言わなかった。

 

「たわけた野郎でよ。兄弟だってのに、親父さん親父さんと言いやがる。歳の差はあったし、俺も二裂の親分なんて呼ばれてたもんだから、あんまり強くは言わなかったがな」

 

「上白沢先生から、多少は聞いたよ」

 

「そうか。確かに先生なら、あいつのことも覚えていてくださるだろうな」

 

 遠くに頂上が見え始めた。なにか、黒い光とでも言うべきものが見える。八雲紫の作った道というやつが、恐らくあれだろう。

 

「まだひよっこだってのに、引退(あが)った後の話なんかしやがるんだ。雑巾掛けでもしてこいって、蹴っ飛ばしてやったよ」

 

 高木が増え、頂上は木の向こうへと消えた。一本一本が高いからか、それとも広がった枝がぶつかり合うからか、あまり密集はしていない。登りが緩やかなのもあり、小休憩をいれるなら、という場所だった。これが、普通の登山ならばだ。

 

「BARをやってみたいと、事あるごとにほざいてた。ところが、BARってのはどんな店なんだと訊くと、居酒屋みたいなもんじゃないですか、と返してきやがる。まったく、たわけた奴だったよ」

 

 強い風が、吹き上げてきた。目を閉じた。闇がどうとかは、もう考えなかった。生ききるために必要なことが、当然のように起こっただけだ。足を止めた。

 

「大将。悪いが、なんとか一人で行ってくれないか」

 

 横目で延広を見ていた大将が、小さく頷いた。

 

「俺は、一人じゃ飛ばねえぞ。外の世界ってのにも案内人は要るんだ」

 

「わかってる」

 

「俺のために死のうなんてするなよ、大橋延広」

 

「俺は、俺のために生きようとしてる。不思議だが、今はほんとにそうなんだ」

 

「それでいいんだ。傷でもなんでも、好きなだけこさえて。そして、好きなだけ生きな」

 

 背を向けた。わずかの静寂の後、足音が遠ざかっていった。普通の足音、それから引きずるような音。延広は手で覆い隠すように雨を避けて、煙草に火を点けた。一度煙を吐いた時には、もう紅白は目の前に迫っていた。

 降り立った博麗霊夢が、大儀そうに首を回した後、いつもの茫洋とした目を延広に向けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 延広が煙草を喫っている間、霊夢はただ腕組みをして立っていた。火が消えかけたので、またライターを使った。燃えすぎて、あっという間に煙草は短くなった。踏みつぶした吸殻を、迷わずにポケットに突っ込んだ、

 

「捨て方は結局上手くならなかったようね、大橋さん」

 

「自分じゃなんとも言えんな。上手い下手の話ではない、という気もする」

 

「やっぱり、そうなのかな。上達なんてなくて、性分は一生変わらないってことか」

 

「不変なんてないさ」

 

「人間である大橋さんですら、変わらないように見えるわ」

 

「得意の勘を働かせろよ」

 

 雨が霊夢の髪を濡らしていた。小さな束のようになった髪を、霊夢が鬱陶しそうに掻き上げた。

 

「しかし遅かったな。もっと早く追いつかれると思ってた」

 

「よく言うわ。こちとら、ちょっとした異変より大変だったんだから」

 

「異変?」

 

「女を誑かすのが得意なのね、大橋さん。慧音ぐらいは予想してたけど、ミスティアに輝夜に、まさか幽香とはね。湖と山ではよくわからない妖精やら妖魔やらがわんさか出るし」

 

「俺を助けるため、と言ったのか?」

 

「片思いらしいわよ。私を恋敵と勘違いして、弾幕ごっこを仕掛けたんですって」

 

「恋か。そりゃあいい。誰だって、恋を否定はできんな」

 

 思わず笑った。風見幽香まで同じ口上を使ったとしたら、酷い絵面だったに違いない。慧音が言っていた意味はよくわかった。馬鹿な女の方が都合が良いことも、時にはあるらしい。

 一頻り笑ってから、延広は棒を構えて一度振った。霊夢の手にも以前と同じく祓い棒が握られている。

 

「俺を殺すと言ったな」

 

「なんでかしらね。自分でも納得のいく説明はできないけど、もしかしたら大橋さんの言う傷っていうのが見てみたかったのかも」

 

「似た二人だ。他人に勝手に誰かを投影するところなんか特にな」

 

「なぜか紫が見えてしまった。それも、殺すと言った理由になるかしら」

 

「お前たちの勘違いだということは、今のうちに言っておこう」

 

 構えは崩した。霊夢の間合いを捉えるには、延広の武術は付け焼刃が過ぎる。自若を破って間合いを見定めるまでは、構えなどない方がいい。ただ、構えを崩すのは自分の防御を崩すことと同義だった。

 

「長引くことはなさそうね。楽でいいわ」

 

「粘るだけ粘って、大将を先に行かせちまうかもしれんぜ?」

 

「ありえない。大橋さんを置いていけるような人じゃない、という気がする。勘だけどね」

 

「一度、外れるところを見てみたかったよ」

 

「もう機会はないわね」

 

「ああ」

 

 雨が俄かに強まった。頭上の木々がいくらかは遮るが、それでも頬を雨水が一筋伝った。もうお互いに口を開かなかった。沈黙の中の固着。霊夢も構えなどなく、自然体で立っている。

 どこまでも遠い気がした。実際にはほんの数舜で棒の届く範囲に入るだろう。それでも、霊夢の躰は地平のようだった。寄れば寄るほど、振れば振るほど棒から遠ざかっていくような気がする。

 横に動いた。霊夢との間に木が入る。一歩、前に出た。霊夢が無造作に詰めてくるのがほぼ同時だった。跳んだ。転がり起きた時、霊夢はまた自然体に戻っていた。じくじくとした痛みが左肩にある。墨汁が、延広が跳んだ辺りに見えた。それは雨に紛れ、血でもなんでもないものとなって土に染みていった。

 また固着だった。延広は棒を右手にぶら下げた。

 当たったはずだった。棒が触れる瞬間、霊夢の躰がぶれた。それで棒は、幽体でもすり抜けるかのように空を切ったのだ。結界の類は棒に作用しない。つまりあれが、霊夢の天賦の間合いというわけだ。こちらの攻めを、躱すともなく躱している。

 延広は気を抜いた。そのまま踏み出す。飛び込みながら身を沈めて、突きあげた。当たっていない。祓い棒。左右に避けながら退がった。棒の距離に入るのを嫌ったのか、霊夢も一歩退いた。

 

「殺気に反応してるわけではなさそうだな」

 

 何も言わず、霊夢は立ち尽くしていた。なにも捉えない茫洋とした眼は、やはり少女の形をしたなにか別のものと相対しているような印象を抱かせた。この眼が鋭く細まれば、その印象は恐怖まで伴ってくるかもしれない。

 待った。まだ、間合いは見えない。潮合もない。

 霊夢の姿が、不意に霞んだ。出掛かった棒をなんとか止めた。誘い。見抜いたわけではなく、自分にそう言い聞かせただけだった。左腕を動かした。肩から首へ走った痛みが延広の軽挙を止めた。霊夢が首を傾げた。

 固着。霞み。また固着。霞み。意識的でないことは、見ていてわかった。博麗霊夢という存在が、なにかの拍子に虚空へと飛ぶ(うく)。その残滓が真空となって、安直な一撃を招いているのだ。棒を低く、煙のようにくゆらせた。霞みが晴れ、固着する。地摺りから駆けた。浮遊して並んできた霊夢に、横薙ぎを飛ばした。虚空。それから祓い棒が突き出されてくる。躰を回した。灼けるような痛みが、背中を深々と走り抜けた。棒を振り上げながら地面を蹴った。霊夢が一度空中で回転しながら、距離を取っていった。延広は追い足を止めた。また、霞みになっている。

 相対。雨とは違う水音を、延広は自分の下から聞いた。もはや紛れようがないぐらいに出血している。視界全体が一瞬、上下を失ったように大きく揺れ、それから振り子が弱まるようにゆっくりと定まった。明らかな隙だったが、霊夢の位置は変わっていなかった。

 

「意味は満ちてきたかしら?大橋さん」

 

 霊夢の声。深く沈んだそれは、挑発ではなく純粋な疑問らしかった。血の抜けた傷跡に意味ができる。以前した会話を、霊夢はそう捉えていたはずだ。そして、恐らくは八雲紫の生を嘆き、延広のことを殺すと言った。

 苦しみの根底を、血と一緒に流してしまう。多分それが霊夢の考えている紫への救いだろう。血はただ血だった。苦しみを洗い流す水禊になどなりはしない。

 意味はある。ただ、それは傷自体に宿っているのではなかった。

 

「苦しいな、やはり」

 

「生きていることが?」

 

「生きようとすることがさ。リハビリみたいなもんだ」

 

「楽に生きようとしないからでしょう」

 

「そうかもな」

 

 棒を構えた。正眼。霊夢の眼が、瞬間鋭くなった。

 生の実感を。記憶の中で誰かがそう言っていた。美鈴か、紫か、文か。あるいは、全員かもしれない。思い出から呼びかけてくる声は混線して入り乱れ、ノイズが掛かっている。それが不意に、男たちの声にもなった。躰を張った少年も、自分を取り戻そうと足掻いた老人も、こだわりを忘れきれなかった男もいた。自分という一心を磨き続けた男もいた。資格を問い、ともに殴り込みに行った男がいた。そのすべての声を延広は聞き、そして、断ち切った。

 踏み出していた。霞み。その真空へ、延広は棒を突きいれた。手応えはない。棒と馳せ違うように、祓い棒がきた。それが自分の胸元へ吸い込まれていくのを、延広は間違いなく見ていた。霊夢の眼が見開かれ、虚空が空ではなくなった。その時にはもう、棒を上段に振り上げていた。

 すべてが、過去と重なっていた。ここは廃屋で、延広は鉄パイプを振り上げていた。目が霞み、像が乱れた。友人が居、チンピラがいて、そして霊夢の場所には刃物を構えたヤクザ者がいた。死まで連綿と続くはずだった生の、まさに途切れた瞬間。終わりと始まりの境界が乱れ消えたその場所。大橋延広のあるべきだった場所。

 跳び退ろうとした霊夢が、祓い棒を引き抜いた。血が傷から噴き出している。それが、途切れたはずの生へとか細く続いている。

 生ききる。振り下ろせた。それは、今の延広にもはっきりとわかった。

 

 

 

 

 

 

 

 雨が頬を打った。それは空からではなく、一度地面に当たって跳ねた水だった。

 すぐ目の前に、泥に汚れた足袋と草鞋の爪先が見えた。

 

「言い遺すことは?」

 

 声は遥か空から降ってきたような気がした。躰は冷え切っていて、腹部の辺りにだけ不快な温かさがある。それはちょっとずつ広がり、次第に延広の半身を包んだ。視界が一瞬白み、それから黒く点滅した。

 声を出そうとしたが、上手く出なかった。喉の奥に何かが痞えている。誰かの手が延広の背中を擦った。延広は三度咳をした。三度目で、腹部と同じ温かさを帯びた痞えが吐き出された。身動ぎの音。

 

「や、くも、に」

 

「紫にね。何を言えばいいの?」

 

「振り、下ろした、ぜ」

 

「わかった。大橋さんは、見事に一撃を振り下ろしたわ。他には?」

 

 不意に、視界がはっきりとした。泥にも構わず、四つん這いで耳を寄せている霊夢の横顔が見えた。濡れ羽色の、肩口辺りまで伸びた髪も見えた。

 足先から、なにかがせりあがってきていた。多分、死だろう。ただそれは、もっと懐かしい知人のように、延広にじゃれついていた。冷え切ったという感覚が、少しずつ消えていく。足はもう、自分のものではないなにかになっていた。

 声が掠れた。より一層霊夢が耳を近づけた。

 

「もう一度。大橋さん、もう一度お願い」

 

 いつのまにか肩まで死に浸かっていた。それに飲み込まれる前に、首の傷跡がほんの一瞬熱を持った。

 なにひとつ聞き漏らすまいと、霊夢が耳を寄せていた。ほとんど、口に触れんばかりになっている。その必要はない、と教えてやりたかった。今夜は、絶えることなく風が吹いている。

 

「生き、きった。生ききったよ、」

 

 木の葉が舞った。目を閉じた。最後まで音になったのか、よくわからなかった。もどかしいような寂寥が、延広の頭まで包んだ。

 死は、優しさに似ている、となんとなく思った。

 

 

 

 

 






本編完結です
残りは本当に蛇足といっていいものですので、こちらの方でいったんお礼を述べさせていただきます。
拙作にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。お気に入りや感想、評価をいただいたからこそなんとか辿り着いたような完結でした。自分一人ではまずできない経験をさせていただいたと思っています。
本当にありがとうございました。

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