グラスを磨いていた。この一か月で上手くなったのは、グラス磨きと水割りぐらいだ。
内装を少し変え、グラスクロスは河童のところで上質のものを拵えさせた。それ以外には、手を入れていない。以前からそうだったように、BARという名の居酒屋になっている。
最も、大将と呼ばれる人が切り盛りしていた頃のこの店に、来たことがあるわけではなかった。なんどか嫌味を言ってはみたが結局、ここに連れていってはくれなかったのだ。
扉が開いた。今日は土曜日だったかと、文は思った。今のところ、毎週土曜日の昼に美鈴はやってきて、少量の酒と他愛無い話をして帰っていく。
「やあ、射命丸さん。景気はどうですか?」
入店して最初の言葉もいつも通りだった。
「一応、夜の店なんですけどね」
「ところが、私は夜勤でして」
「里の方ならお昼からやってる店もありますよ」
「お邪魔はしませんから、ね?それと、喋り方は普段通りでいいですよ」
文は肩を竦めた。多少文言が変わるが、ここまでが毎回お決まりのやり取りだ。
「なににするの?」
「そうだなぁ。私、スコッチって入れてましたっけ?」
「貴女は大体ボトルを取ってるじゃない」
「ピュアがいいな」
「はいはい」
木棚の下の段から、一本のボトルを掴んでカウンターに置いた。あの段はすべて美鈴のボトルになっている。
好きなように飲んでください、と言われていた。当然、手はつけていない。
「もうそろそろ一か月になるんじゃないですか?」
「一昨日ね」
「しまった。お嬢様に言って花束でも買ってくればよかった」
「いやよ、紅魔館名義の花は。貴女が買ってきなさい」
「お休みを増やしてもらいましたので。厳しいんですよ」
飲み歩いてるという噂は聞いていた。ニコニコと明るく、そして気前よく奢るのだという。破滅的な傾向だと思ったが、文が口を出す問題でもなかった。そのうち、レミリアが手を打つだろう。彼女が部下想いなことは、あの事件の時からよくわかっている。
「そっか。射命丸さんがここで店を始めて、もう一か月になったのか」
あの時の号外が飛ぶように売れた。それと以前からの貯金で、持ち主のいなくなったこの建物を買ったのだ。人里の端にあるこの店は、ほぼ投げ売りのような値段だった。それでも、文にとっては精いっぱいの額だった。スムーズに店を開けたのは、香典という形で霧雨が支援してくれたからだ。
店の名前だけは変えないでほしいと言われた。もとより、そんなつもりはなかった。
「水割り、お願いしていいですか」
カウンターに並べてあるグラスを一つ取り、ウイスキーを注いだ。それから水。配分を、文はこの一月でほとんど試していた。最初の頃は目盛り付きの容器で細かく計り、マドラーの回転も数えた。味の整うタイミングを見つけると、それを道具なしで再現できるよう反復した。ほとんど、酒漬けだったといっていい。
「やっぱり、違うな。お屋敷の方でもやるんですけど上手くいかなくって」
「自分でやったって無駄でしょうね。貴女のお酒は、そういうものじゃないから」
「そうなんでしょうね。最近、一人で飲むと良し悪しもわからなくなっちゃって」
「気を付けなさい」
また、扉が開いた。美鈴が一瞬硬直した。気配でわかっていたはずだが、それでも反応してしまうところがあるのだろう。
「いらっしゃい、霊夢。もっとも、営業時間外なんだけど」
「ま、ま。そう硬いことは言わないでよ。邪魔するわよ、文」
霊夢の姿を見て、文は思わず言った。
「包帯、取れたのね」
延広との闘いで、霊夢は額に傷を負っていた。火葬の時は、その傷を包帯で覆っていたのだ。
「当たり前でしょう。どんだけ経ったと思ってるのよ」
カウンターに腰かけた霊夢が、棚にある一本のボトルを指さした。種類などはよくわからないらしい。
「お金、あるんでしょうね」
「そこまで開き直ってないわよ。春の前の祈祷なんかがあったから」
「意外と巫女らしいことしてるんですね」
「うるさいわよ、門番。昼から酒を嗜んでる方が、門番としてはどうなのよ」
「夜勤ですから」
流石に妖怪で、美鈴は流暢に喋った。霊夢の方は相応のぎこちなさを残している。
注いだブランデーを舐めて、霊夢が渋い顔をした。それでも二口三口と続けるのはいかにも酒飲みらしい。酒がある以上、飲むのを止める選択肢がないのだ。
美鈴にもう一杯水割りを作った頃には、すっかり強さに慣れたらしくグラスを差し出してきた。さっきよりも少し濃い目に作ってやった。霊夢の頬がちょっと朱に染まった。
「あんた、風吹かせたでしょ」
切り出してきたのは三杯目を飲み、次を注いでいる時だった。
「なにが?」
「大将っていう人、結界の裂け目に落としたでしょ。待ってると思ったのに」
「確かに、待ってたわよ」
「どうすんのよ外の世界で。法度とか、いろいろあるんでしょう?」
「大丈夫よ。サポートしてくれる人がいるから」
霊夢はしばらく虚空を睨み、それから酒臭い息を吐いた。
「紫か」
「借りがある、と言っていたわ」
「大橋さんにでしょう」
美鈴の肩がぴくりと動いた。霊夢も少し、破滅的な気分になっているらしい、と思った。文や美鈴の前で霊夢が延広の名を口にするというのは、自罰的な行動だろう。
「最後、曲がったのよね」
「なんの話かわからないわ、霊夢」
「避けきれないって思った。いつもなら勝手に外れるんだけど、最後の、あの振り下ろしは当たると思ったのよ。でも外れた」
「それがどうしたんですか?」
「曲がった、と思う。額に触れるところであの棒が曲がった。あの棒って、紫からの貰いものでしょう?」
沈黙が降りた。文は、美鈴の肩に手を置いた。立ち上がりそうな気配があったのだ。
「もういいわ、霊夢。あなたも八雲紫も、複雑な立場と責がある。悪いけれど、罰を与えてあげることはできないわ」
「そう」
霊夢が顔の熱を逃がすように髪を掻き上げた。冷水を出した。一息で煽った霊夢が、スツールから立ち上がった。扉へ向かうその背へ、文は声をかけた。
「永遠亭に行きなさい、霊夢」
「もう傷は治ったってば」
「痕が残ってるわよ。輝夜に会わないよう、気を付けていきなさい。あれで寂しがりやだから、その傷を永遠にされるわよ」
「それは嫌ね」
「女が、見えるところに傷なんて持つものじゃないわ」
一瞬振り向きそうな気配を滲ませて、しかし霊夢はそのまま店を出た。美鈴がカウンターに突っ伏し、それから伸びをした。視線は、カウンターの木目かなにかを見ている。
晴れていた。グラスにグラスクロスを当てた。澄んだ音と光沢が、店の中で縦横に哭いた。
これにて全て投稿いたしました。
拙作にお付き合い頂いた皆様に感謝しています。ありがとうございました。