かれこれ一時間ほどは飲んでいた。
人里の片隅の居酒屋だ。居酒屋だ、と延広は今でも思っていた。看板には『BAR』と書いてある。木造一階建ての古い建物に暖簾と赤提灯を掲げておきながらBARもなにもないだろう。一度大将にそう言ったことがあるが相手にはされなかった。BARといったら、BARだ。仏頂面でそう返されただけだ。それ以来、延広はその話題を出していない。
「てめぇは、嫌がらせに来たのか?」
お代わりのお湯割りを出しながら大将が言った。六十になるが、ガタイが良く髪は短く切り揃えられている。なにより、左手の小指の第一間接から先が欠けていた。気の小さい男は、中を覗きこんだだけで胆を潰して帰っていく。
「大将の店に、嫌がらせか。いいな、それは」
「なにがいいってんだ」
「人を
大将が薄く笑った。冗談だと思われたらしい。本音だった。人を尾行ることに遣り甲斐を感じたことはない。幻想郷に尾行を警戒するような発想ができる人間は少ない。仕事は簡単だった。そのことが、より一層延広を惨めな気持ちにさせるのだった。
「酒、変えてやろうか?」
「いや、いい。それよりなにか肴をくれ。そうだな、揚げ物がいい」
「あいよ」
大将が店の奥に消えた。延広は、カウンターに指を這わせた。木でできたカウンターには大小様々な傷痕があった。浅く細長い傷痕に指をやった。上から下まで、割れ物にでも触っているかのようにゆっくりと撫でる。木目を真ん中から断ち割るような、そんな傷。終端に着くと、また上に指を持っていって同じ動きを繰り返した。下から上に撫でることはしなかった。それをすると、どこか残酷な気分になりかねない。
「海老と蓮根があった。天ぷらでいいな?」
延広が頷くと、大将はこちらに背を向けて調理に入った。延広はまた、傷痕に指を這わせた。昔は無かったはずのところにも、いつのまにか新しい傷ができていたりする。
初めてこの店に来たのは、もう五年も前のことだった。なんでも屋などと呼ばれることもなかった頃だ。幻想入りをしてから三、四ヶ月というところで、どうやって生計をたてるのかも決まっていなかった。偶然店の前を通ったところを、大将に引っ張られた。ツケだから、飲め。そういって差し出された酒を、延広は飲んだのだ。ツケというのが良かったと、後から思った。憐れみで恵まれる酒など、絶対にごめんだ。延広のそういう意地を、大将は見抜いていたのだろう。ツケの代金も、次に来たときにしっかりと回収していった。そこで初めて幻想郷の住人になった実感というのが、延広を包んだのだった。
「いらっしゃい」
扉の開く音と、僅かに遅れて大将の声が店の中に響いた。延広は顔を上げず、次の傷痕に指を移した。親指ほどの大きさだが、中々の深さがある。第二間接ぐらいまでは飲み込んでしまいそうだ。
「ボトルを」
女の声だった。柔らかさのなかに、どこか通ったものがある。知った声だった。
「おう、美鈴ちゃんかい。ちょいと待ってなよ」
「はい」
大将が店の奥に消える。美鈴は延広の二つ右の席に座った。延広は一番左奥、入り口から最も遠い席だ。
「コニャックだったね。水かい?」
「ロックでお願いします」
「つまみは?」
「チョコ、ありますか。苦いやつがいいな」
「もちろんだよ。うちは、BARさ」
大将がこちらをみてニヤリとした。美鈴が、大将の視線を追うように顔を動かした。
「あら、延広さんじゃないですか。お一人で?」
さも今気付いたという風な声に、延広はちょっと肩を竦めた。白々しさが、今日はどこか鼻につく。気配を消している訳ではないのだ。美鈴なら、店に入るはるか前から延広のことに気が付いていただろう。
そういった気分を美鈴は素早く察したようだった。ひとつ頷いただけで、言葉を続けてはこなかった。
「仕事終わりか?」
「門番に、終わりってことはありませんよ。今は休憩ってとこかな」
「今日は終わりだろうが」
「変事が起きればすぐに飛んでいきますよ」
紅魔館の状態を常に把握している、つまりはそういうことだろう。ここから紅魔館の気配を感じ取るなど馬鹿馬鹿しいことだった。それは人間にはということで、そういうことができてしまう輩も世の中にはいる。妖怪にとってどれほどの難易度なのかはわからなかった。文や椛にはできて、にとりにはできない。延広にわかるのはその程度のことだ。
美鈴がコニャックを舐めた。普段の素朴な人柄からはあまり想像できない姿だが、意外なほど様になっていた。濡れた唇に添えた指がいかにも婀娜っぽい。スリットから覗く太ももがやたらと白く見えた。そのままでも、そういった店で働けそうだ。
「あまり見ると、怒られますよ」
美鈴が冗談めかして言った。怒る、と言わないところに、慣れた女の狡さがあった。
「酒の飲み方が上手いのは知っていたが、誘い方まで上手いとは知らなかったな」
「妖怪だって女ですよ。それも、長いこと生きてる」
一瞬、文が頭によぎった。ただ、それだけだ。
「あいにくだが、安酒飲ます金すらねえよ。まして、コニャックとはね」
「おいおい。てめぇ、目の前のグラスの中身をなんだと思ってやがる。水だとでも言うんじゃあるまいな」
「こいつで終いさ。だから大将、天ぷらはやくしてくれよ」
扉が開き、若い男が二人入ってきてテーブル席に座った。何か言いかけた大将が、諦めたようにため息をついて注文を取りに行った。
また、カウンターの傷に目を落とした。ランプの明かりが、斜めに走った傷痕を赤く見せた。グラスの水滴を落とす。染み込むように、入り込んでいった。傷痕に入りきらずに溢れた水が、まるで血を流しているようだ。不意に、カウンターが別のものに見えた。血を流しながら横たわった獣。そうすると、無数の傷痕はこいつの生そのものなのか。
一瞬、暗くなった。天井から提げられたランプの前を、大将が横切ったようだ。それだけで、獣はただのカウンターになった。赤い水滴も、ただランプの色を反射しているだけだった。
「お仕事、ダメだったんですか?」
美鈴が言った。延広は椅子に凭れかけながら煙草に火を点けた。
二回、似たような依頼が続いた。片方は若い男からで、交際中の女の交遊関係を調べて欲しいということだった。それまで特に気にすることもなく順調な交際だったのに、結婚という言葉が現実味を帯びてきたことで急に気になり出したというのだ。ちょっとした食事所の看板娘で愛想がよく、交遊は広かった。一人、怪しげな男がいた。それは邪推すればという程度で、特に報告する必要もないと思えたが、依頼人の強い希望で延広はその男について調べまわり、報告書を作成し渡した。結局白か黒かは判然としなかったが、その報告書が依頼人とその恋人の間に不和を生み破局した。
もう一つは中年の女性で、息子の交際相手についてだった。二日間交際相手と思われる少女を尾行けてまわり、報告書を出した。こちらがどうなったのかは知らないままだ。
二つの依頼を完了させ、仕事に見合っただけの報酬を受け取った。一言で言ってしまえばそうなる。荒事もなく、冷や汗を垂らすような場面もなかった。傷一つなく、金を手にしたのだ。ただ、それは躰の話だ。
「金は、家に置いてきたってだけだ。仕事がうまくいかなかった訳じゃない」
「お金がどうとかで言ってるんじゃありませんよ」
「それじゃ、なんだっていうんだ」
「不味そうな飲み方をしてますよ、お酒」
「そういう日もある」
「そういう日っていうのは、つまり心のどこかがダメな日なんですよ。お酒の味が変わる訳はないんだから」
「やけに、突っ込んでくるな」
「傷心中って、チャンスじゃないですか」
言った美鈴が、流し目をよこした。延広はグラスを覗いていた。お湯の中で、焼酎が揺蕩っているのが見える。そんなに不味そうな顔をしていただろうか。自覚はなかったが、大将の小言もそういうことだったのだろうか。
少し深く、考え込んでいたようだ。気付いたら、灰皿に置いた煙草が燃え尽きていた。天ぷらも出されている。新しく、煙草に火を点けた。
「ピッタリな仕事を持ってきましょうか」
「なんだそりゃ」
「うちの妹様の遊び相手とか」
「うちのっていうと、あのお嬢様の妹か。それじゃ、吸血鬼じゃないか。命がいくつあっても足りんよ」
「けど、そういう仕事の方が延広さんには似合いますよ」
「見透かしたような言い方をするじゃないか」
「わかりますよ。言ったじゃないですか、長いこと生きてるって。延広さんみたいな人もたまにはいましたよ」
煙草の灰を落とした。美鈴は自分の言葉に考えるような仕草をしている。
「なんていうのかな、生の実感ってやつを、普通にしてたら得られない人。そういう人がいるんですよ」
煙草を思いっきり吸い込んで、天井に向かって、ゆっくりと煙を吐いた。肺に入れずに吹かしたので、かなりの時間煙を吐き続けた。
同じ言葉を聞いたことがあった。幻想入りした直後だ。その言葉が正しいのかということを延広は考えたことがなかった。見えるものであれば、いずれ勝手に見えてくるだろう。そう思っただけだ。
カウンターを見た。やはり、ただのカウンターだ。木でできている。使い続けてるうちに、いろいろと痕が付いたのだろう。それだけだ。獣ではない。ましてや、血なんて流してはいない。あれはなんだったのか。
「おっさん、煙、やめてくれねぇか」
テーブル席の男たちだった。酔いのせいか、いくらか軽薄そうな笑みを浮かべている。
「煙いんだよさっきから。ぷくぷくーって、まるで魚みたいだ」
そう言って、彼らの一人が上を向き唇を付きだした。そのまま吸ったり吐いたりしている。先ほどまでの延広の真似ということだろうが、それはどうみても息継ぎをする魚だった。連れの男が大きな笑い声をあげた。
「そうかい、すまんね」
灰皿に煙草を押し付けて火を消した。男たちは、当てが外れたというような、つまらなそうな顔をした。それは一瞬で、すぐに彼らに喜色が広がった。どうやら美鈴に、というよりその美しさに今気付いたようだった。
「お姉さん、そんなとこよりこっちで飲まねぇか?」
「そうそう。俺たち、今結構持ってるよ。お姉さんになら奢ってもいいな」
美鈴が笑顔で手を振った。誰でもわかるような緩やかな拒絶だったが、彼らには通じなかったらしい。立ち上がって美鈴の近くに寄ってきた。
「ここじゃ嫌?こいつん家、近くなんだ。そこで飲みなおすってのもいいけど」
腰に回されそうになった腕を、美鈴がはたき落とした。それから、延広に意味深な笑みを送ってきた。憤然としかけた男が、それを見てにやにやといやらしい笑みを浮かべた。
もう一人の男が延広の背後に立った。
「おっさん、ちょっと
手が、肩に掛かった。立ち上がりざま、肘を男の腹に叩きつけた。力の入る体勢ではなかったが、男は前のめりになり腹を押さえてたたらを踏んだ。顎が下がっている。爪先で蹴りあげた。机を巻き込み血を吹き出しながら壁まで吹っ飛び、動かなくなった。
「てめぇ」
残った男はしばらく呆然としていたが、状況を理解すると荒い声をあげた。延広が男を睨んだ。それだけで男は後ずさった。表情に恐怖が見えている。男に向かって、一歩踏み出した。腰が砕けたように、男が背中から倒れた。
「殺してやる。ぶち殺してやる」
怒声。後ろからだった。気絶したと思った男が、いつの間にか壁に背を預けながらも立ち上がっていた。鈍い光。どうやら刃物を呑んでいたらしい。ちっぽけな果物ナイフだが、それでも刃物だった。切りつければ、人を傷つけることもできる。
男が勢いをつけて飛びかかってきた。しかし、遅い。楽に避けられる。
突然、延広の躰が重くなった。なにもされてはいない。しかし、重くなったとしか思えなかった。光が視界を通った。ナイフ。迫っている。首筋を狙われていた。きわどい。潜るように、男の横をすり抜けた。首が熱を帯びている。切られていた。薄皮一枚といったところで、一筋の血が垂れていくのが延広にもわかった。
不意に、熱くなった。躰は重いままだ。躰ではない。心。小さな火だが、確かに燃えている。なにかが、心の中に火を起こしている。
男が向き直った。来い。心の中で叫んだ。俺に、そいつを突き立てにこい。男が、雄叫びをあげた。獣になっているのだ。つまらない男でも、どこか一つ壊れるだけで獣になれる。男が姿勢を低くした。延広も構えた。
いきなり、男が倒れた。完全に気を失っている。美鈴だった。なにをしたのかはわからない。美鈴が男の背中に手をあてた瞬間、男は棒のように倒れたのだ。
「お兄さん」
残った男に美鈴が声をかけた。
「この人、持って帰ってくださいよ。家、近いんでしょう?」
男は、金縛りが解けたように動き出した。倒れた男を抱き抱えると、こちらには目もくれずに店から出ていった。水を打ったように、店が静けさに包まれた。
最初に動いたのは延広だった。倒れた机と椅子を立てる。連中の使っていた食器を積み上げて、カウンターまで持っていった。
「わるいな、大将。暴れちまった。それに、客も追い帰しちまったしな」
「気にするこたねえ。どうってことないチンピラだ。むしろ、面倒をさせちまったな。一杯奢ってやる」
「そりゃいいね、頂くよ」
いつの間にか、美鈴は元の席に座っていた。延広も少し悩んでから、元の席に座った。
「遊びにしても、いい趣味とはいえませんよ」
美鈴はこちらを見てはいなかった。どこか遠くを見ながら喋っているという気がする。
「けしかけさせておいて、言う台詞じゃないな」
延広の言葉も、美鈴の意識にはあまり届いていないようだった。睨むように、なにかを考え込んでいる。
「そういうことなんでしょうね」
大将が新しくお湯割りを持ってきた。美鈴の声を、延広はもう聞いていなかった。
「傷を負うことでしか得られない。つまり、そういうことなんでしょ」
お湯割りに口をつけた。熱とともに、焼酎の風味が広がった。
旨い。今日初めて、そう思った。どこか癪だという気分が、延広を襲った。
美鈴はもっと中性的な感じにするつもりでしたが気付くと色っぽさばかりだす感じに…
別の話で格好よさをだしてバランス取りたいです