なんとか、一万文字以内です
喋ってしまったことを、延広は後悔し始めていた。
大将の居酒屋だった。正式にはBARということになっているが、そう呼んでいるのは大将だけだ。
別に、酒を過ごした訳でもなかった。本当に、溢した、という感じだった。つまらない仕事があり、そしてまた、つまらない仕事が来そうな気配だった。独り言にも愚痴にも似たものが口を衝き、それは以前の依頼にまで広がった。大将に言葉を拾われたのは、迂闊という他ない。
「腐っても、守らにゃならんもんがあんだろ、え?」
口調は流れるようだった。普段とは少し違う言葉遣いに、風格と年季が滲み出している。
「酒場の店主だぜ、大将」
「そうさ。俺ぁ辺鄙な酒場の一大将さ。だがな、過去ってやつぁ誰にだってあるんだぜ」
「折り合いってのもあるだろう」
「そんなに上手くは生きらんねぇよ」
「上手くね。大侠客と呼ばれていたのが忘れられないってかい?」
「聞かねぇことにしてやる。一度だけだ」
「言いやしないさ」
「頭じゃねえ。立場でもねえんだ。だから、
そう言われてしまえば、延広にもどうしようもなかった。他人の言葉で、易々と心を動かすような男ではない。
まだマシだろう、と思うことにした。声を張り上げ、怒鳴り散らしてるうちはだ。本当に逆鱗に触れれば、黙ってヤッパを持ち出すぐらいはしかねない。
ブランデーを口に含んだ。銘柄もよくわからないような奴で、安っぽい味がする。しかも、かなり薄く作られた水割りだ。
面会の予定が入っていた。仕事の依頼だ。焼酎のお湯割りなど飲めば、匂いは消しきれない。気を遣うような相手ではないが、それなりのマナーはある。冷やされたブランデーはあまり香りが強くならない。どこかでそんなことを聞いた覚えがあったので、冷えた水で薄く作ってくれ、と頼んだのだ。確かにあまり香りはしない。それが温度のせいか、それとも薄まりすぎただけかは悩みどころだった。
「それで?」
「なにがだよ」
「はぐらかすんじゃあねえ。さっきのガキの話だ。袋にされたんだろうが、それもヤクザ
「ヤクザ者の方が、ああいうのはうまいだろう。死なせちまったり、手足を駄目にするような痛めつけ方はしない。慣れだな」
「下手くそだっていらぁ。子ども囲むような腰抜けどもには特にな」
「永遠亭に連れてったよ。残るような怪我は無いとさ。治療代って名の、俺の財布の怪我以外はな」
そうかとだけ言って、大将は黙りこんだ。お手上げだった。そもそも、人を宥めることがあまり得意ではない。挑発してみたり、ちょっと冗談を言ったりするのが思い付く精々だった。
大将の怒りに触れたのは、少し前の屋台を守る依頼のことだった。妖怪のやっている屋台で、反妖怪の団体がヤクザを使って潰そうとしていた。ヤクザの暴力的な姿と、反妖怪団体とヤクザどもが接触している場面、その二つの写真を一面にでかでかと載せた新聞をばらまくことで、連中の動きはひとまず治まった。
表立って動くことはできなかった。チンピラ四人。やり合って勝てない訳ではなかったが、それをした時敵にまわるのは一つの組織だった。延広にできたのは隠れて写真を撮るだけで、新聞も、文のやっているものだけではなく他の天狗も使った。カメラマンの正体など、探りようもないはずだ。
「あっちゃならねえことだ、それは」
自分に言い聞かせるように、大将が呟いた。
大将の怒りは、ヤクザ者が無抵抗の堅気の少年を一方的に痛めつけたという一点にだけ向かっていた。誰にだって一線があり、大将の場合は堅気に手を出すことがそれなのだろう。
「もうやめないか、大将。終わった話だ。ガキの方もぐだぐだ言っちゃいない。経験がどうとか言って、大人の階段登りましたって面してるよ」
「そうか。そりゃあいいんだが」
納得などできはしないだろう。そして、納得できないことが世の中にはいくらでもあるということも、当然知っている。当事者でもない限り、飲み込んで終わりにするしかない。
「作らせといてなんだがね、こいつはダメだな。そりゃ飲めるが、わざわざ飲もうってもんじゃない」
グラスを揺らしながら延広が言うと、少し間が空いてから、てめぇの注文だろうが、とぎこちない笑みを浮かべた。それで、この話は終わりだった。
「まあ、そうなんだが。酒臭い息って訳にもな」
「誰かと会うのか?」
「ここでね」
なにか煮物を、とだけ注文して、煙草に火を点けた。やはり、メンソールはどこか甘い気がする。その甘さが嫌いではない。
女が入ってきたのは、アジの煮物を食べ終えた頃だった。
蝙蝠羽を背負った少女がいる幻想郷だから、頭に兎の耳ぐらいではもはや驚きはしないが、居酒屋にブレザーの制服姿はどうしても奇妙な絵面に映った。着ている女の外見年齢が相応だからコスプレにも見えない。
隣に座った女に延広の方から話しかけた。
「三度目ですかね。二度目の時は、まさかこんなにはやくお会いするとは思いませんでしたが」
「一昨日はどうも」
「今日も受ければ二度続けてということになる。実は、同じ相手から連続で、というのは初めてでしてね」
「受けてくださらないと?」
「それは、これからの話で決まることです」
鈴仙は、延広のグラスを見て微かに笑ったあと、ブランデーをストレートで頼んだ。水割りはアルコールに弱い女性のすることだ、というのもどこかで聞いた気がする。
紅い瞳の中に、常に暗さを携えた女だった。それさえなければ、男をとっかえひっかえできる程には美少女だ。
「話とおっしゃいましたが、私に言えるのは指示されたことだけです。手紙が来た、とでも思ってください」
「文面を変えることはできないと。なるほど、わかりました」
「では」
「その前に。手紙の差出人を教えていただけますか」
「蓬莱山輝夜から、大橋延広様へ」
つまり、面倒な依頼ということか。他人を暇潰しの道具程度に扱うことを、躊躇しないのが輝夜だ。
「近頃、まとわりついてくる男がいます。今のところ実害はありませんが、怖気が走って夜も眠れません。大橋様、何卒お助けを」
「これは、蓬莱山さんの言葉をそのまま?」
「一字一句、違いません」
「ほう。まるで軍人ですな」
鈴仙の表情に、一瞬苦みが走った。佇まいから、軍人もしくはそれに近い職の経験者だと思ったが、どうやら当たりらしい。
その苦みを、延広は見なかったことにした。軍経験者の一線は、予想もつかないところにあることが多い。
「受けていただけますか?」
「まだ、聞けてないことがあります」
「依頼料は、一昨日の三倍」
一昨日の依頼はただの雑用で、依頼主は八意永琳という輝夜の従者だった。輝夜名義になっているが、永琳からの依頼であるとはっきり聞かされた。
定期的に受けられるのならば是非に、と思うぐらいには割りの良い仕事で、その三倍となれば報酬面での不満はない。蓬莱山輝夜の男問題ということだけが、延広が頷き辛い点だ。
「失礼ですが、鈴仙さんと呼んでも?」
「構いません」
「私の見る限り、鈴仙さんは大層な腕利きのようですが」
「患者の大半は人間です。不埒者とはいえ、ほぼ人外である私たちが無力な人間を叩きのめすのはよくない、とのことです」
そこまで人に気を遣う連中ではないだろう。ただ、理由としては真っ当な部類ではある。
断りにくい依頼になった。低い治療費で患者を診る永遠亭は人里でも人気がある。信頼も得ていて、そこからの依頼を無下にするのは得策ではなかった。内容自体には、依頼を断るような要素はないのだ。
鈴仙は一口でブランデーを半分ほど空け、居酒屋の内装をしばらく眺めた後、二口目にはグラスを空にした。
その間に、延広の答えも決まった。
「このブランデーは、経費で構いませんね?」
◇
「受けていただけると、確信しておりましたわ」
無邪気さをも漂わせた笑顔で、輝夜は延広を迎えた。今の輝夜を見て毒婦だと予想するのは、女に対して屈折した疑いを抱いている男だけだろう。そういった表情ができるからこそ、毒婦足り得るとも言えた。
「生きるってのは、どうにも金が掛かりましてね」
「大橋様は、情に厚い方ですもの。難儀な道を行かれているのでございましょう」
「自分では、淡白な方だと思っているんですがね」
「綺麗に線引きをされている。そう感じますわ」
依頼主としての輝夜の特徴は、やたらとこちらを持ち上げてくることだった。初めて会ったのはある依頼の元凶を探して聞き込みに来た時で、その場ではさん付けで呼ばれていた。雑用の依頼を受けて来た時は、いきなり大橋様だ。
「依頼について、いくつか話し合いたいことがあるんですが」
「これは、大変失礼をしました。イナバ、お茶でも淹れてきてちょうだいな。大橋様、どうぞ中へ」
歩きだした輝夜に従い玄関を潜る。永遠亭に入るのは三回目だが、前回は入ってすぐのところにある診療スペースでの仕事だったので、奥まで行くのは初めて来た時以来だ。
廊下が長い。縁側から見える光景が全く変わらないのもどこか延広の感覚を狂わせている。外は竹林が続いているだけである。和洋の違いがあるが、なんとなく紅魔館にいるような気分だ。あそこも、まともな感覚では歩けない。
部屋に通され座布団に腰をおろした時に、急須と茶碗を盆に乗せた鈴仙が入ってきた。やはり空間が弄られている、と延広は確信した。茶を淹れてからきた鈴仙が、歩き続けた延広たちとほぼ同時に着く筈がなかった。
「粗茶ですが」
「ありがたく頂きます」
茶に口をつけて一呼吸置いた。輝夜から切り出すつもりはなさそうだった。
「いいお茶ですな」
「安物で、心苦しい限りです。もう少し時間があれば、買いに走らせたのですが」
「ご迷惑でしたかね」
「とんでもございません。一週間は待つかと思っていました。それが、一日で来てくださいました」
「他の仕事がなかった。お恥ずかしい話ですが」
「そのようなこと。大橋様がその気になれば、人がこぞって訪れるでしょう」
輝夜と話すのが、だんだんと苦痛になってきていた。なにもかもを好意的に解釈されるのは重圧でしかない。もちろん、輝夜もそれをわかってやっている。輝夜がわかっていることを延広も知っているので重圧を感じることはないが、息苦しさはあるのだ。
「仕事の話をしましょうか。まとわりついてくる男がいるとか」
「最近は、心穏やかに眠ることができず困ります」
「それはつまり、永遠亭の近くまで来れると?」
「竹林も、以前ほどの迷宮ではないのでございます。永遠亭と人里で人が行き交うことも増えました。危険ではありますが、常人には絶対に通れぬ、ということはないのですよ」
「男に心当たりは」
「さあ。永遠亭にはそれなりに患者が来て、私が表に出たときには姿を見られることがあります。その中の誰かだとは思いますが」
「では、なぜまとわりつかれていると?」
「縁側にいると、たまに視線を感じます。湯浴みなどしている時に外に気配を感じることも」
存在しているのはわかるが、情報も手がかりもない、ということか。となると手段は一つで、現行犯を捕まえることになる。そのための方法も明確で、輝夜を囮にして誘き出すしかない。既に決まっていたことを再確認させられたようにしか思えなかった。それでも、他に手もない。
「蓬莱山さん」
「輝夜とお呼びください。さんさんだなんて響きは、ただただくどいだけですわ」
「輝夜さん。少し、案内して欲しいんですがね」
「どこへなりとも」
「庭へ。それも、浴室周辺の」
一つ頷いて、輝夜が笑みを深めた。
「湯浴みはいつから?」
「いつもは戌の初刻から半刻ほど」
「では、いつも通りにお願いします」
他に訊くことはなかった。特に手助けは必要ないことを輝夜に告げると、妖しく笑みを浮かかべたまま輝夜は来た道を戻っていった。
浴室は、建物から突き出したようなところにあった。延広は外観を確かめた後、すぐ側の竹林に踏み込んだ。
浴室は永遠亭の東側に面している。浴室を中心とした北側の竹には、枝が折れているものが多かった。延広は南側の竹に向かい、いくつかの竹と竹を糸で結んだ。糸の高さは、人の脛程度だ。日がある今はまだいいが、夜になれば吸血鬼でもない限り見えないだろう。妖怪と言っても、人間よりは夜目が利く程度の連中は多い。
使わなければ、それでよかった。たかがストーカー一人を相手取る分には必要はないものだ。
縁側沿いに竹林の中を歩いた。縁側を見通せる範囲が、どれぐらいあるのか。外から見るよりは内に入って確かめた方が確実だった。
視線を感じた。永遠亭からだ。延広は竹林から出て、庭へ入った。
「忠告しておくことがあります」
「ほう」
無表情のまま、鈴仙が言った。
「男は、捕らえてください」
「男がいなくなるのであれば方法は問わず。そういう依頼でした」
「捕らえなくとも、お支払いはします。しかし、捕らえていただきたい、と姫様はお望みです」
「おっしゃることが、よく飲み込めませんが」
「この件の一切は、大橋様の判断に任せます。ただ、姫様が望んでいること、そして私の役目は姫様の望みを叶えることであるのを、覚えておいていただきたい」
「捕らえると、どうなります?」
「それは私の知ることではありません」
そら来た、と思った。依頼のどこかに漂っていた怪しい匂いが、いきなり形をもった。そしてそれは、やはり輝夜の方からやって来たのだ。今のところ、延広と鈴仙はその中にいる。
「大変ですな、お互い」
延広の言葉になにか返すこともなく、鈴仙は庭に背を向けた。
◇
浴室に明かりが灯ってから、大して待つこともなかった。
竹の葉が揺れる音のなかに、足音と荒い息遣いが混じりだした。三十を少し過ぎたという感じで、大体延広と同じぐらいの歳だろう。自分と近い歳の男が、十代にしか見えない輝夜の裸体を覗くことに息を荒げている。不思議には思わなかった。そんなものだろう、というだけである。
小石を手に取り、適当な方向に投げた。男が音に反応した瞬間には、延広は間合いまで踏み込んでいた。左のフック。そのまま、上に滑らせて腕を取った。反らす。叫びをあげようとした男の口を地面に押し付けて塞いだ。僅かに暴れる気配を見せたが、すぐに大人しくなった。無闇に動けば動くほど、反らされた腕には痛みが走る。
「暴れるな。叫んでもいいが、自分がどういう立場なのかは考えた方がいい」
「違う。違うんだ」
土が口に入るのも気にせず、男が言った。
「弁明からか。ということは、自分のしていることはわかっているようだな。お盛んなのはいいが、限度があるぜ」
「違うんだ」
急に男の腕が動きだした。暴れるというより、震えているようだ。
「おい、なんだ。下手に動くと本当に折れるぞ」
「折ってくれ」
「なんだって?」
「折ってくれ。俺がもうここに来たくなくなるぐらいに、めちゃくちゃにやってくれ」
思わず、延広は男の腕を離した。しかし、男は逃げるようなそぶりも見せない。震えだけが、少しずつ大きくなっていく。
「嫁がいる。子どももいるんだ。なのに、わからないんだ。昔から、気は多かった。けど、こんなのは初めてだ。目を閉じるとあの女の躰が浮かぶ。夢で、あの女と繋がっている自分を見る。日毎に、嫁と子どもを愛しているのかわからなくなってくる。なのに、躰が毎日」
男が言い終わる前に、延広は蹴りを放っていた。男が横に転がり、竹に背中をぶつけて止まった。追った。鳩尾に爪先を飛ばす。体重をかけて、深く抉り込んだ。男の口から、胃の内容物が噴き出した。蹴り続けた。男の目を見た。なにか、現実から乖離した目。蹴り続けるしかなかった。鳩尾を、ひたすらに蹴った。息遣いがゆっくりと弱くなっていく。焦りを、しかし表には出さなかった。無表情のまま蹴る。
不意に、焦点が合った。男の表情が恐怖に染まった。死が近付いていることを、はっきりと認識できたようだ。本能が、僅かに理性を取り戻させた。延広は男の襟元を掴み、強引に躰を引き起こした。
「次は殺す。腹に負荷をかけ続ける。少しずつ、重さを増やす。内臓がゆっくりと潰される。お前は血尿と激痛に苛まれながら死ぬことになる。わかったか」
男が、激しく頷いた。
「今日から数日は血尿が出る。動けば痛むだろう。本当に死ぬ時は、その比じゃない。いいな。二度と、ここに来るな」
男の腕が震えた。膝で突き上げた。血の気の引いた顔で、男がまた頷いた。
「よし。行け」
手を離しても、男はすぐには動けなかった。内臓にも少なくないダメージを負っている。迷いの竹林を抜けられるかは、かなり期待の低い賭だろう。それでも、やるしかなかった。ここで延広が手を貸せば、男はいずれまた永遠亭に現れてしまう。自分の力だけで越えるしかないのだ。
延広は竹林を出て、庭から浴室の方へ向かった。煙草を取りだし火を点ける。むせ混みそうになるぐらいに、吸い込み、吐いた。それで、頭の熱はいくらか引いた。
見えてきた。延広は少し竹林側に寄った。浴室の壁に背を預けるように、鈴仙は立っていた。
「忠告はしました」
「もちろん聞いたさ」
「最初に覗いたのはあちらです。その結果狂ったとしても、自業自得でしょう」
「手遅れかどうかは、まだわからんとこだ。それに、無抵抗の相手を殺すのは趣味じゃない」
「なぜ」
「嫌われたくないと思えるような男が、身近にいるんでね」
「良かった。青臭い正義を聞かされるかと思いました」
「ブランデーの方が、まだ酔えるさ」
「水割りじゃ無理でしょう」
「正義、酒。それで駄目なら女しかないな」
煙草を、上に弾いた。鈴仙が構えるのと、延広が竹林に飛び込むのはほぼ同時だった。
◇
弾速は速かった。頬に一筋、傷が走った。あと少し遅れれば顔の真ん中を撃ち抜かれていた。竹が、どれほど盾になるのか。威力の方はまだわからない。
鈴仙が追ってきた。一先ず、安心した。遮蔽物なしでは勝負にもならない。見てから躱すのは不可能だろう。
横に走った。走りながら、少しずつ鈴仙と距離を取る。三十歩の距離で、鈴仙が動きだした。つまりそこが、延広の動きを捕らえられる射程ということになる。ただ、こちらにはまともな遠距離での武器はない。どこかで、距離を詰める。そこにしか勝機はない。
寒気がした。竹を掴んで、一気に方向を変える。踏み込もうとしていたところで、竹が二本倒れた。人を貫くぐらいの威力は充分ありそうだ。
銃弾ほどの速さはないが、音もなかった。ただ、鈴仙の動きはシンプルな軍人に見えた。音がないのを利用するといった奇策には出ていない。
転がった。頭の上を弾が通った。起き上がり際、石を掴んでいた。呼吸。二つ数えた。投げる。撃つ構えだった鈴仙が倒れ込んだ。躱されるのはわかっていた。低く跳躍した。竹を使い、微妙に角度を変える。蹴り飛ばした、というよりは鈴仙が自ら後ろに跳んだようだった。鈴仙が三発撃ち、一発は延広の手前に着弾した。それで、追えなくなった。
棒があれば、とは思わなかった。竹林の中では、無用の長物だ。
「思ったより動けますね」
「ただのおっさんだと思ったかい?」
「フェミニストかとは思ってました。そういうことはなさそうですね」
「女性は大事にするさ。か弱けりゃな」
「結構です」
踏み込んできた。手が、銃を形取っている。それがいつ動くのか。
いきなり腹に来た。ソバット。追撃の弾を躱せたのは、ほとんど奇跡といってよかった。倒れながら周りを見た。浴室をいくらか過ぎている。慎重に跨いだ。
思い切って真後ろに跳んだ。脇腹を弾が掠めた。しかし浅い。
更に踏み込もうとした鈴仙が、不意に足を止めた。糸をはっきり認識される前に、延広は突っ込んでいた。構える鈴仙に砂を投げた。目を庇おうとして、右が空いた。フック。二発続けて、ショートアッパー。膝が来た。更に前蹴り。踏ん張った。もうここにしか勝機はない。
ヘッドバットから肘。受けた反動で離れようとするのを、延広は許さなかった。詰めながらショートのコンビネーション。ステップは常に踏んだ。連打を止めない。鈴仙の紅い目に、怯えが過った。勝った。そう思った。
捉えた筈の拳が、空を切った。次のアッパーもだ。なにかずれている。右肩を何かが貫いた。それから左肩。一瞬遅れて、焼けたような痛みが走った。気付いた時には倒れていた。撃たれたのだと気付いたのは、膝に同じような痛みが走った時だ。立ち上がろうとしたが、躰の動きはちぐはぐだった。
「もういいわ、イナバ」
「姫様」
頭上で声がした。輝夜か。声になったかわからなかった。意識が酷く朦朧としている。
「あの男は、竹林の深くへと消えていった。抜け出せるかはわからないけれど、一先ず大橋さんの勝ちよ」
「しかし」
「いいのよ。初めからそういうつもりだったの。戻っていいわ。永琳に、患者が一人と伝えておいてちょうだい」
足音がひとつ、遠ざかっていった。
いきなり、延広の意識が覚醒した。先ほどまでが嘘のようだ。輝夜はまだ傍にいる。いなくなったのは鈴仙だ。鈴仙の能力だったのは明らかだった。
つまり、完璧に負けたということか。追い詰めた気になっていた自分が滑稽で、笑いが漏れた。
「そんな顔をする必要はないわ。私の予想した以上に、大橋さんはイナバとやりあった。もっと速く終わると思っていたわ」
「それが素か」
「さあ。どっちが自分か、たまに考えたりするわ。よそ行きの服と部屋着。そんなものだと思っているけど」
「部屋に上げてもらったと、喜ぶべきなのかな」
ポケットを漁った。煙草。潰れているが、喫えないことはない。煙を吸うと、僅かに気持ち悪くなった。躰がまだ少し混乱している。
「ああなっちまうもんなのか?」
穴だらけの延広の言葉を、輝夜はしっかり理解したようだった。
「いつもじゃないわ。イナバが言うには、波長というのが合ってしまってるんだって。そういう時に強烈な体験をすると、壊れちゃうのよ。あの人の場合は覗きだから、自業自得とも思うけど」
他の人間、例えば竹取物語に出てくるような男たちは、自業自得には思えない、ということか。
「戻れるのか?」
「戻れた人はいるわ。ただ、偶然の産物って感じで、適切な方法がある訳じゃない」
「そうか」
「だから色々試すのよ。失望されるようなことをしたり、無理矢理止めたり。なんでも屋を雇うのも、その一つね」
戻れなかった人間について、延広は訊かなかった。輝夜も話そうとはしない。魔性の被害者というしかないだろう。男たちも、輝夜もだ。
「あんたのことが、嫌いじゃなくなってきた。少しだけな」
「私を好きになるような男を、私は好きじゃないわ」
「子どもを誘惑したりして、遊んでたろうが」
口にしながら、そうじゃないんだろうな、と思っていた。誘惑を耐えきられる。振られることで、心を安定させているのかもしれない。それは延広の想像で、本当のところは誰にもわからない。輝夜本人でさえ、知らないのだろう。
「治療費はもらうぞ。おかげで、大怪我だ」
「言わないでちょうだいな。永琳を納得させるのに必要だったのよ。もちろん、治療費はウチで持つわ」
煙草の灰が、ぽとりと落ちた。風を受けて、少しずつ崩れていく。土で埋めようかと、ふと思った。埋まってしまえば、風を受けることもない。
「もう一つだけ、訊かせてくれ。なぜ、俺を雇った」
「言ったでしょう。色々試すって」
「それだけか?」
輝夜は一度横を向いてから、ゆっくりと延広の方へ向き直った。
「はじめて会った時、あなたの目が私を蔑んでいたから」
「人聞きが悪いな。蔑んでなんていないさ」
「同じことよ。話してる最中に、別の女のことを想う。そんなの、蔑まれたのと変わらないわ」
確かに、そうだったかもしれない。そもそも輝夜に聞き込みに行ったこと自体、文のためのようなものだった。問われたからとはいえ、文との関係に思いを巡らせて、輝夜のことなど頭から飛んでいた時間もあった。
立ち上がった。輝夜が肩を貸そうとしたが、断った。冗談ではない。竹に掴まれば、一人でも立てる。立てるのならば、一人で立つべきなのだ。生きるとは、そういうことだった。
「あの人、竹林を抜けられるかしら」
漏らすように、輝夜が呟いた。
「抜けられるさ。あの男が本当に生きているなら、抜けられる」
「そう。きっと、そうね」
輝夜が笑った。どこか、崩れるような笑顔だった。
初めて、輝夜が笑うのを見た、と思った。
いつも書く前にぼんやりとサブタイをつけます
サブタイと内容にあまり関連が見られない場合、途中で路線変更しまくったなこいつ、と思っといてください