作:島ハブ

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大体、6000文字で区切ってます。6000越えて、しかもあと4000は続きそうだったんで、今回前後編です。






芽(前)

 

 

 

 囁きかけてくる物が、間違いなくある。

 それを依頼主に喋ったことはなかった。培ってきた勘というやつが生み出す物で、到底論理的な説明などできないからだ。

 後付けの理由はいくらでも作ることはできた。しかし、もっともらしい理由を喋っているといつの間にか自分の中でもそれが正当化されてしまう。つまり、思い込みという罠に陥る。そのリスクを犯してまで依頼主を安心させてやるほど、延広はお人好しではなかった。もっとも、喋ることで安心するか焦りを掻き立てるかは、半々といったところだ。

 言われたことをただただこなす。そういう職であることも、また確かだ。

 汗を拭った。明け方に、特急電車でも通りすぎるように雨が降った。止むやいなや、突き抜けるような青空と、突き刺すような陽射しだった。温度と湿度の二重苦で、なにをしていても滲み出すような汗が止まらない。もうすぐ日は中天に差し掛かろうとしているが、蒸し暑さが治まる気配もなかった。

 この建物も良くなかった。いや、部屋というべきか。構造の関係か風があまり入らず、通気性がすこぶる悪い。その籠った熱気が汗を流させるのは、しかし延広だけだった。

 

「いや、お見苦しい姿で申し訳ない。暑がりではないんですがね、流石に今日のは堪えます」

 

「構うことはないよ。この部屋はどうもね。建てた頃は悪くなかったんだが、隣にでかいのが建ってしまってこの有り様だ。汗ぐらい掻くだろう」

 

 男がかすかに微笑んだ。そうすると、目元の皺がいっそう深くなった。口元も同様で、植物の枯れる過程を早送りにしたようだった。

 

「私などは歳でね。もう、汗も出ない。汗を掻くという煩わしさを、時々羨むような気持ちにさえなる。実際に汗を掻けば、やっぱり煩わしさだけを感じるのだろうがね」

 

「失礼ですが、おいくつに?」

 

「どうだろうな。四十から先をしっかりとは数えてこなかった。齢を重ねることに恐怖を感じるようになったんだな。曖昧だが、七十前後だろうとは思う。知人にでも訊けばはっきりとした数字もわかるかもしれんが」

 

 頭脳の方には、衰えを感じるようなことはなかった。佇まいも中々のもので、延広はいくらか好感を覚えていた。話の長さだけが、歳相応の老いであり延広から見た時の欠点だ。

 やってみてもいいか、という気分に延広はなっていた。なんでも屋などと名乗ってはいるが、探偵崩れぐらいの使われ方をすることが多かった。だから、経験のないことへの不安と共に、ちょっとした冒険心もある。囁きかけてくる物がいったいなんなのかという好奇心もだ。

 部屋の隅には灰皿があった。ただ、埃を被っていて日頃使われているような気配はない。延広も煙草を出すことはしなかった。老人の前だし、なによりこの部屋で煙草を喫えば匂いを落とすのは苦労しそうだ。

 

「確認をしておきましょうか。珍しい依頼なもので、不手際があっちゃいけない」

 

「なにも、難しく考えてもらわなくともいいんだよ。君は普段通り運動してくれればいい。その横を、いい歳した隠居爺がついて回っていくというだけでね。私が付いていけなかったからといってなにか配慮をする必要もない。目障りかもしれんが、そこはご容赦願うとしよう」

 

「資産家ご隠居の戯れ。そんなところですか。そりゃいい。しかし、あなたは依頼として持ってこられた」

 

「払うものは、もちろん払うよ。君の言う通り、私はちょっとした小金持ちという奴でね。別に、商才があったとかそういうことではない。生業が、少しばかり上手くいった。それでやっていく内に、大店なんてものを構えてる人と縁ができた。そこの娘さんがウチの伜とくっつくというのも、まあよくある話だろう」

 

「羨ましい限りです」

 

「私が羨ましいか。それも、若さだな」

 

 老人が、茶を啜った。もう熱くはないだろうが、それでもゆっくりとした飲み方だった。延広は手をつけていない。飲んだそばから、汗として出ていきそうだ。

 

「内容の方は、わかりました。期間はどうされます?」

 

「私がいいと言うまで」

 

「それは」

 

「無茶を言っているのは承知だ。しかし、譲れん。私が、私に納得できるまで。この老骨に付き合って欲しいのだ、大橋君」

 

 初めて、老人が躰を前のめりにした。長々と喋っている時よりもずっと強く、圧してくるものがあった。言葉に乗った熱も、先ほどの比ではない。

 目がはっきりと合う。光。厚ぼったい目蓋でも隠しきれない鋭さが、剥き出しになっていた。

 圧されはしなかった。見つめ返す。部屋の熱気が渦を巻いた。部屋の中で、汗だけが動いている。

 不意に視線が外れた。どちらともなく、茶に手を伸ばす。先に向き直ったのは延広で、老人はやはりゆっくりと啜っていた。

 

「沢庵でも出そう。汗を掻くとき、水分だけではいけない。少し待っていてくれ」

 

「いえ、もうこれで。ご依頼はお受けします。ただ、ひとつだけ聞かせていただきたい。ご隠居さんはこの依頼で、いったいなにを得られるおつもりです?」

 

 立ち上がりかけた老人が、こちらにひとつ頷いて、また腰を降ろした。猫背気味にあぐらを掻く座り方は、さっきよりも老人を小さく見せた。貫くような光だけが、それ以外が与えてくる印象とちぐはぐだ。

 

「微妙な質問だな。得るか。歳を取ると、得るものなどないよ。いや、得る力がないのかな。過去だけが、輝くようでね」

 

 それきり、老人はなにも言わなかった。別れの言葉と、三日後から依頼を開始することを伝えて延広は老人の家を出た。

 いつの間にか正午も過ぎていた。蒸し暑さは、治まるどころか強さを増しているようだ。陽射しに束の間目を細めた。

 視線。視界の端を、なにかが走り去った。

 歩きながら煙草に火を点けた。吸い込み、吐いた時には、少女の姿はどこにもなかった。

 もう一度吸った。暑さの中で、口内だけがどこか間違えたように涼しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 目を覚まし、茶碗一杯の米と梅干しを食べ終えた頃、老人は延広の長屋へやって来た。

 今日は朝だ。朝、昼、夜で躰に掛かってくる負担は思った以上に変わる、だから毎日時間をずらしてトレーニングをした方が良い。そう延広は老人に言ったが、実際の理由はただ飽きがくるというだけのことだった。終わりが見えないことが、普段以上に辟易させるかもしれないのだ。

 この前はいかにもご隠居といった感じの焦げ茶の着流しだった老人は、今日は足首付近で締めた細袴で運動をするにはほど良さそうだった。つまり、お遊び程度に流す気ではないということだ。草履を、キツく縛っている。

 トレーナーに着替えて、外に出た。陽射しは、三日前よりも強いくらいだ。

 一度ランニングコースを歩いて説明するべきかと思ったが、それは止めた。老人は延広に付いてくるつもりのようだった。少なくとも、気持ちの上ではそうだ。ランニングコースを下見するのは、どうせ付いてこれる筈がないと言うのと同じだった。

 柔軟は念入りにやった。老人も、延広の動きを真似て躰を伸ばし始める。

 柔軟に時間を掛けるのは初めてだった。当然といえば当然で、延広は仕事のためにトレーニングを行っているのだ。躰を動かす前にきっちり柔軟の時間を取れる依頼など、そうあるものではなかった。

 口で出来るだけコースを説明して、走り出した。

 普段ならばランニングとダッシュを交互に行う、いわゆるインターバルトレーニングを挟むが、延広はただ一定のペースで走った。心肺に強い負荷が掛かるインターバルトレーニングをいきなり組み込めば、老体がどうなるか多少の予想はつく。

 民家の多いところを抜けて、田園風景に出た。その頃にはもう、老人は荒く呼吸をしていた。顔が上を向いている。腕がしっかり振れているだけ、まだ上等だろう。

 老人が一瞬バランスを崩した。倒れはしなかったが、姿勢を戻した時には十歩近く距離が空いた。それは気力を折るのに充分な距離だった。延広はもう後ろを見なかった。気配が少しずつ、しかし確実に離れていく。

 今回のコースに指定していた雑木林に入った。軽く傾斜があり、登りになっている。道だといえるものはなく、どこを足場とするかが重要だった。なんでも屋を初めてから、幾度となく走った場所だ。このコースでなら、トップクラスのマラソン選手相手でも後れを取りはしない。

 呼吸を測った。踏むべきところでは、呼吸を止めて力強く地面を蹴る。ペースも力の込め方も場所により様々だ。当然、呼吸も一定とはいかない。

 登りと下りをそれぞれ二回ずつ越えると、雑木林を抜けた。また田園風景を抜け、建物の並ぶ道を通る。出た道とは別で、遠回りにこの地区を一周してきたことになる。

 老人は、実に一刻ほど遅れて戻ってきた。歳の割りには充分速いと思ったが、口には出さなかった。自分が自分に納得できるまで。依頼の時、老人はそう言った。それならば、他人がどう声を掛けても仕方のないことだった。

 

「少し休まれた方が良いでしょう。躰は苛めればいいというもんじゃない。少々出かけてくるので、ウチは好きに使ってください」

 

 老人は返事をするのも辛そうだった。右手をかすかに挙げただけだ。杯で瓶から水を掬って老人の前に置くと、延広は自宅である長屋を出て走り出した。

 往来には人の数が増えていた。真ん中よりいくらか左寄りの道を走り、町中を抜けた。

 朝のコースをもう一度走っていた。畑に挟まれた道の土は固く、足跡などは残っていない。途中に吐瀉物でもないかと思ったが、それも見ることはなかった。

 雑木林に入ってしばらくすると、ようやく二人分の足跡を確認できた。延広の足跡よりも、老人の足跡は歩幅が小さい。

 足跡を辿った。老人の足跡はかなり正確に走るべき道を見つけ出していた。歩幅から考えて延広の一歩の間に老人は三歩は踏むことになるので、どうしても延広の踏んでいない土を踏むことになる。その選択も見事だった。生業というのが自然に密接なものであろうことは、それで易く察せられる。

 そんなことを考えている自分を思って苦笑した。機械的に進めようという意識はいつもあるが、どこかでなにかを捨てきれない。それが、人間という奴だろう。

 長屋に戻ると、出る時には息も絶え絶えだった老人が、正座で延広を出迎えた。挑むような目は変わらない。走っている時の気力は折れても、その根本の心には揺らぎもないようだ。どうみても好好爺の老人が、圧するほどの迫力でトレーニングを頼む。思えば、奇妙な依頼だった。

 

「午後からは筋力トレーニングに入りますよ、ご隠居。腕立て、腹筋、背筋。器具がないので、出来てもまあそんなところですが」

 

 老人が頷いた。延広は外に出て、井戸水を頭から被った。もう一度水を引き上げて、たっぷりと飲んだ。これから、更に暑くなるだろう。

 あの老人が、なんとなく嫌いではない。こんな依頼を引き受けた理由は、言ってしまえばそれだけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 更に三日が経っていた。

 朝昼はいいが、夕方や夜にトレーニングという思い付きはすぐに捨てた。延広がやる行程を、何倍もの時間を掛けて老人はようやく完了するのだ。夜に始めれば、そのまま泊まりになりそうだ。今日も昼過ぎに始めて、夜の帳が降りてようやく解放されたのだった。

 二日目のランニングは、初日よりも時間が掛かった。初めと終わりの柔軟は執拗にやっている。マッサージもだ。だから筋肉痛ということはない筈だった。単純に疲労が抜け切らなかったのだろう。

 そもそも、オーバーワークなのだ。延広の肉体的な強さは既に全盛期を大きく過ぎたが、だからといって衰えきった訳でもない。そこらの若者には負けないし、鍛えている相手にも頭を使えば勝てる。そんな人間のトレーニングに付いてくるには、老人の躰は老いすぎていた。そしてそれを老人も自覚している。

 結局のところ、老人の内面の勝負なのだということは、この三日間でわかっていた。躰をどれだけ強くできるかというのは、この依頼の本質ではないのだ。

 老人の中でのせめぎあい。そこが鍵だが、まだ見えてはいない。

 文が長屋にやって来るのは週に二、三というところで、次は恐らく明後日以降だろう。依頼には今のところ棘がなく、だから文も興味がない。

 延広が肉体か心に傷を負った時には、文は必ずといっていいほど会いにくる。それも、慰めなどではなく、傷を見て、なぞりにくる、という感じだった。とんでもない女だという呆れと、いい女だという感傷が交互に、時には同時に延広の中に現れる。

 ふらっと入った大衆酒場で、突きだしだけで酔いが多少回るくらいまで飲んだ。文が来ない日は外で飲むか長屋で飲むかというぐらいで、まともに飯は食わない。大抵は行きつけである大将の居酒屋だが、毎日ひとつのところに通いつめるような柄でもなかった。

 長屋へと通じる道を、途中で延広は逸れた。

 尾行(つけ)てくる、というほど悪意のあるものではなかった。どこか、きっかけが掴めないという感じがある。

 通りから外れたところのちょっと開けた場所で、木に凭れながら煙草を取り出した。

 

「少し、いいでしょうか」

 

 二本目を喫い終わり、次で来なければ撒いて戻ろう、と思いながら三本目に火を点けたあたりで、ようやく声が掛かった。

 少女。やはり、一週間前に老人の家から出た時に見た顔だった。

 

「客引きかい。それにしちゃ若すぎるな。若けれりゃ若いほど良いって人種も、まあいくらかいるがね」

 

 延広の言葉に、橙は顔を赤らめた。意味は通じたらしい。見た目が童女でも、中身は長い歳月を越えた妖怪である。ただ、それは数字の上での話だ。

 

「貴方様が、引き受けた依頼についてのことなんです」

 

「依頼か。さて、どの依頼のことだろうな。ついこの前には、刀を持った少女と斬り合いなんてのもしたが」

 

 延広の言葉にも、橙は首を傾げただけだった。

 斬り合いというのは、慧音からの依頼のことだった。人里の政治に絡んだ部分があり、結果的に延広は八雲紫の顔を潰した形になった。橙の反応を見る限り、今回の尾行はどうやら八雲紫とは関係がなさそうだ。

 それは同時に、橙の登場は老人絡みということでもある。

 

「思い違いみたいだ、忘れてくれ。それで橙、君の話ってのは、あのご隠居のことかな」

 

「私の名前」

 

「一度、会ったことがある。といっても五年前だし、本当に一度きりだ。忘れていても仕方ないだろうな」

 

 橙が少し顔を伏せた。やはり、なにか悪意あっての尾行ではないのだろう。

 

「すみません、あの、私」

 

「いいさ。俺が今気になるのは、君がどんな話を持ってきたかだ」

 

 橙は視線を逸らし、数瞬迷った後、真っ直ぐ延広を見た。

 

「あの人の依頼、やめて欲しいんです」

 

「あの人ってのは、ご隠居さんだね?」

 

「はい」

 

「知り合いかい?」

 

「ずっと昔から。妖怪の山で、あの人は猟師で、鹿を追ってるところに会ったんです。あの人、まだお酒も飲めませんでした」

 

「筋金入りだな。少なくとも、人間の感覚ではそうだ」

 

「何を依頼されているのか、詳しいことは、私、知りません。でも、必要のないことをやっていると、そう思います」

 

「そりゃまた、なぜ」

 

「だってそうじゃないですか。あなたがあの人の家から出てくるところを見ました。それから、とても無理なトレーニングをするところも。結婚して、子どもがいて、お金にも困ってない。どこに、あんなに苦しむ必要があるんですか」

 

 橙の言葉には、同意できることも多かった。なぜ、苦行にしかならないトレーニングを行うのか。あの老人に、今更なにか為さねばならぬことなどない筈だ。それでも、あの老体を耐えさせるだけのなにかが、老人の中にはあるというのか。それは、いったいなんなのか。

 そこが橙との違いだった。橙は、常識的に考えて、老人が苦しむ意味はないと思っている。齢七十。確かに、ただ死を待つだけでもおかしくはない歳だ。

 男には、無意味にしか思えないなにかが大きな意味を持つことがある。いや、意味などはないのか。ただ、譲れないというだけのことだろう。それが常識を越えることが、往々にしてあるのだ。それは延広の勘と同じで、説明してもどうしようもないことだった。

 

「俺の方から依頼を断るってのは、ないね。やめて欲しけりゃご隠居を説得するんだな」

 

「わかりません、私。あの人もあなたも。いったい、なにになるんですか」

 

 拘り。それもまた、言ってもしょうがないことだった。延広が傷を負うように、あの老人にもなにか生を感じる瞬間があるのだ。それが他人には理解されないものだというのも、なんとなくわかる。老人も、それはわかっているのだろう。理由について、誰にも話していないようだ。

 

「わからないさ。お前がどれだけ生きて、いくつの生を見てきたかは知らんが、他人ってのはどこまでいってもわかりはしない」

 

 言い捨てるように、延広は背を向けた。わかったようなことを言っても、延広にも全てが理解できる訳ではない。せめぎあい。そのすべては、あの老人の内側だった。

 月に雲がかかっていた。ただ、大きな雲ではない。明日はまた晴れそうだ。

 三本目の煙草を、延広は踏み潰した。

 

 

 

 

 

 





後編まで、少し空きそうです。お酒と感傷的になれる小説があれば、すぐにできるかもですが。
ちょっと思い直して編集等するかもしれませんが、その時はごめんなさい。

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