天界――それは、地上より遥か上空に浮かぶ天の国。
そこに住む人の姿をした生き物たちは、皆、背中に翼を持って生まれてくる。
『天使』と呼ばれるその姿になれる者は、生前に数多くの善行を成すなど、
様々な条件を満たした者だけと伝えられている。
……
大きな屋敷の、
クッションを抱えながらソファーに寝転ぶ1人の少女の姿がある。
まだ幼い彼女にとって、勉強というものは面倒以外の何ものでもないらしい。
静かに部屋の扉が開き、黒いスーツを着た白髪の老人が姿を現す。
ソファーで熟睡するその少女の姿を見て、彼は小さく溜め息を洩らした。
しかしすぐに気を取り直すと、ツカツカと少女の元へと歩み寄る。
「お嬢様! まだご休憩の時間ではございませんぞ!」
肩を掴んで揺さぶりながら、スーツの男はしゃがれた声で呼びかける。
しばらくは無反応な彼女であったが、やがてその態度が
「んにゅ…じいや?」
一瞬で眠りから
コバルトブルーのその瞳をスーツの男に向ける。
2人の間に数瞬、沈黙が流れた。
「お目覚めになりましたか、お嬢様。 では、お勉強の続きを…」
「ちょっと聞いてよ! じいや!」
スーツの男の言葉を
その只ならぬ雰囲気を察してか、スーツの男はひとまず聞き役に徹する。
「あたし、今からちょっと出かけてくる」
「はい…?」
「だから、地上への門を開いてよ!」
少女の話を聞いたスーツの男の顔には、明確な戸惑いの色が浮かんでいた。
それもその筈である。
今は大事な、お勉強の時間の途中。
しかも何故か、地上への門を開けとまで申し立てているのだ。
「お嬢様、お気を確かに。 今は、大事なお勉強の時間…」
「聞こえたんだよ! 鈴の音が!」
冷静さを取り戻しかけた彼の精神に、再び戸惑いが生じる。
少女が発したその言葉は、彼にとって決して聞き逃せないものであった。
「鈴の音…ですか?」
「そうだよ! 今も、ほら…聞こえてる。 あたしを呼んでる!」
「お嬢様…」
かつて耳にした
この屋敷の使用人――そして少女の教育係である自分は、
この場合、どんな選択をするべきなのか。
……
「分かりました、お嬢様。 お庭の方に参りましょう」
「よ~っし! それでこそ、じいやだよ!」
しばらくの
それは彼にとって、決して無難な選択とは言えないものであった。
下手をすれば、今の自分の地位が呆気なく失われてしまう可能性もある。
そして何より、少女に万が一のことがあっては…と
必死に抑え込んでの決断であった。
「あら、コリン様にケルブ様。 今は、お勉強の時間では…?」
部屋を出てすぐの所で、2人はメイド服姿の若い女性と
ケルブと呼ばれたスーツの男は、如何なる対応をするべきかにしばし迷う。
「それどころじゃないんだよ! 実は…むぐぐっ」
余計なことを口にしそうな、コリンと呼ばれた少女の口を彼は慌てて塞ぐ。
ここで事情を知られてしまっては、色々と不都合が生じる。
そんなケルブの思惑を知ることもなく、若いメイドはキョトンと首を傾げた。
「実は今、植物に関する勉強をしてましてな。 だから、ちょっとお庭の方へ…
実際に植物を前にして学習するのもいいかと思いまして」
「そうなんですか…。 珍しいですね」
「あまり部屋にばかり
温和そうに微笑むケルブの言葉に、とりあえずは納得した様子のメイド。
ケルブにとっては、雇われてまだ日が浅い、若いメイドであることが幸いだった。
「よく言うよ。 毎度毎度、部屋に鍵掛けて缶詰状態にするくせに…」
「では、そういうことで…失礼します」
「あっ、ちょっと待ってください」
コリンが口にした
しかし若いメイドに呼び止められ、仕方なく足を止める。
「先程、アロネンデ様が屋敷に戻られたんですよ。 せっかくですから、
顔を見せてあげてはどうですか?」
メイドのその言葉を聞いた2人は、揃ってビクリと肩を震わせる。
『アロネンデ』と呼ばれるその人物は、2人にとって非常に大きな存在であった。
その人物は、この屋敷の主人であり、そして――
「そ、そっか…ママがね。 分かった! 後で顔見せにいくね」
「…これは、急いだ方が良さそうですな」
中央には大きな噴水。
その周囲に広がる、色とりどりの花の
「見たところ、誰の姿もありませんな…。 お嬢様、どうぞこちらへ」
しかし、今ここを訪れた2人には、その景観を楽しんでいる余裕など無かった。
ケルブに
「ここに地上への門を開きましょう。 しかし、お嬢様…本当によろしいのですか?」
「何度も言わせないで。 行かなくちゃならないんだよ――絶対」
ケルブが最後の確認のためにと発した言葉に、コリンはきっぱりと答える。
幼き少女のその
「分かりました。 では、お手を…」
ケルブが差し出した右手を、コリンの左手が掴む。
彼女はイメージする。
自分が行くべき場所を。
……
コリンが思い描くイメージが、やがてケルブの脳裏にも浮かび始める。
『
それも特定の性質を持つ者同士でなければ成り立たない。
「
ケルブは静かに目を閉じると、左手で自分の胸の辺りに十字を切る。
周囲にある木々のざわめきが、ほんの少し強まったような気がした。
「
繋がれた手を通して伝わる『その場所』のイメージを強く心に思い描きながら、
彼は左手を突き出し、その魔法を唱えた。
その途端、虚空に出現する青い激流の渦。
「――よ~っし! それじゃじいや、行ってくるね!」
「お、お待ちくだされ…! 私も、お供致します!」
現れた渦にすぐさま飛び込もうとするコリンを制し、ケルブが呼びかける。
コリンは自分の腕を掴む彼の手をゆっくりと
「じいやは駄目だよ。 誰かが間違ってここに入っちゃったら、どうするの?」
「そ、それは…」
「大丈夫。 絶対に戻って来るからさ。 ここで待っててね」
柔らかく微笑みながら言葉を紡ぐ彼女に対し、ケルブは何も言い返せなかった。
やがて彼女の姿は、完全に渦の中へと吸い込まれた。
……
「立派になられましたな、お嬢様。 どうか、ご無事で…」
少女の
その目には、微かに光るものが溢れていた。
――こうして舞台は繋がり、新たな物語が紡がれ始めることとなる。
「…何だか、負のオーラが凄いなぁ」
目的の場所に到着した途端、コリンは強烈な違和感に襲われていた。
その
死の臭い――
「この霧も、普通のものじゃないみたいだし。 用心して進まないと…」
その
コリンはひとまずそこを目指し、翼を広げた。
あの鈴の音は、相も変わらず頭の中で鳴り響いたままだ。
……
立ち並ぶ木々の間を
この様な障害物の多い場所での飛行はまだ経験の浅い彼女であったが、
経験の少なさを才能でカバーしているようである。
「――どっから聞こえてるんだろ? 近いようで、遠いような…」
頭に鳴り響く鈴の音に意識をやりながら、彼女は呟いた。
その音が示す先こそ、彼女が行き着かねばならぬ場所である。
しかし、そこに何が待ち受けているかということまでは、まだ想像も付かない現状。
理屈では説明出来ない使命感が、彼女の胸中を満たしていた。
……
「っと…早速、お出迎えか」
その気配を充分に察知していた彼女は、動揺を見せることもなく
自分の置かれている状況を把握した。
右手に持ったロッドの柄をしっかりと握り締め、緊張を高める。
土の中から這い出るように現れたのは、4体の骸骨。
更にその後方からは、7羽のカラスに似た魔鳥がこちらに向かってきている。
いずれも死の臭いを漂わせる、生気無き存在である。
「
魂の浄化、あるいは成仏といったものを行う技法は、
古来から天使が得意とする分野である。
よって不死族にとって、彼らは天敵――もしくは、救世主と呼べる存在と云える。
「
コリンは迫り来る死者の群れを見据えながら、右手に魔力を集中させる。
魔力は手の平を通し、ロッドへと伝わり、その先端に取り付けられた
青色の宝玉が、
「
宝玉から淡い黄色の光が放射線状に広がり、たちまちに
死者の群れの体を包み込んでいく。
彼らは少しの間、戸惑うような動向を見せていたが、
やがてその動きはピタリと止まった。
……
鳥たちは次々に地面へと落下し、骸骨たちはその場に膝から崩れ落ち、倒れ込む。
魂を抜かれた彼らにもはや、生ける
「お疲れ様。 …ゆっくり休んで」
コリンは胸に十字を切ると、しばしの間、彼らに対しての
何者かに汚され、操られていたであろうその魂。
それを成仏させることは、確かに善行と呼べるものかもしれない。
しかし、何者かによって促される強制的な成仏は、自然に現世を去る
成仏よりも、魂にとって負担が大きいのもまた事実である。
そのことを知るコリンの胸中には、少なからず罪悪感に似た感情があった。
“これはまた…面白い客が現れたものだ”
木を組み合わせて作られた十字架が地面を埋め尽くす、その場所。
そこへ辿り着いたコリンを待ち受けていたのは、
その身を包んだ、1体のミイラであった。
「……」
頭に鳴り響くあの鈴の音が、僅かに変化する。
それはまるで、眼前にいる『それ』を討ち滅ぼせと言っているようにコリンは感じた。
そうすれば、答えは出るだろう――と。
“法と秩序という網に
全く…実に目障り極まりない”
「あなた…ただの
先程に対峙したあの亡者の群れとは明らかに違う、その黒く
コリンは顔を強張らせ、相手を目一杯に睨み付ける。
“我が名は、ファナディン…。 奈落に住まわれし、さる方の従者なり…”
奈落――それは天界と相反する、遥か地の底に築かれし世界。
そこは澱んだ空気と
(こいつは、
だが、そこを住処とし、そこで地位や社会を築く者もいる。
『
時には自らの従者や臣下として引き入れる。
彼らに力を与えられし魂は、自らもまた、獄卒と成り得ることが出来る。
「――
コリンが詠唱を終えた次の瞬間、彼女の持つロッドの宝玉から、
青白い光が両刃の剣のような形を創り出す。
武器を手にした少女は、上空から
標的へとその刃を振り下ろした。
……
“その程度か…”
刃はローブの布を切り裂くことは出来たが、そこから先にまでは達していない。
何かブヨブヨとした軟質の物体に阻まれているような、そんな感触。
「くッ…! ていッ!」
続けざまに、コリンは2発の斬撃を敵にお見舞いする。
だがその攻撃も、効果的なダメージを与えるには至らない。
コリンは滞空状態のままひとまず後ろへ下がり、対策を練ろうとした。
……
だが、引き下がる彼女へ向けて、ファナディンと名乗るそのミイラは
猛然と接近し、手に持った鎌を振り上げた。
そこから放たれる横払いの一撃を、コリンは急降下することによって避ける。
「…ハッ!」
隙が出た相手の背後に回り込み、再び光の刃による攻撃を試みる。
だが、やはりその刃が本体にまで達している感触はない。
“
ゆっくりと背後を振り向きながら、ファナディンは魔法の詠唱に入った。
コリンは慌てて距離を取り、身構える。
“――
次の瞬間、ファナディンの周りに無数の黒い針が出現する。
針とは言ってもその長さは1本1本がそれぞれ1メートル近くはあり、
その両の先端は、標的を貫けるよう、鋭く尖っている。
……
針は僅かの間、空中で停止していたが、その刹那――何かの合図を
受けたかのように、全ての針が一斉に標的へ向けて動き出した。
その数は、
「
初めて目の当たりにするその異様な光景に目を奪われたコリンは、
焦りながらもその魔法を唱えた。
彼女の体を中心にたちまち白い光が広がり、その全身を
すっぽりと覆うサイズの光の球が出来上がる。
……
「痛ッ…!」
ほとんどの針は、その球状の光の壁に弾かれ、彼女の身を
傷付けることは出来なかった。
だが、防壁が完成するまでにあった僅かな時間差が、彼女の背中に生える
その翼に、幾つかの傷を負わせる結果となた。
「――ッ!」
翼が負傷したせいか、思うように飛行が出来ない。
そんな彼女に、鎌を振り上げた死神は目前まで迫る。
このままでは、避けられない。
そう思った彼女は、その身に残る体力と魔力を振り絞り、1つの賭けに出た。
「