第零話「救出」
もし、「運命」なるなにものかがあったとして、それはいかなる理由により動いているのだろうか。なぜある特定の人物のそれだけが揺れ動き、はたまた数奇なる巡り合わせを生むのだろうか。
ある種の人物──彼らは様々な名で呼ばれる。英雄、大悪人、聖人、覇者etc. ──は明らかに他人と違う人生を歩んでいる。生まれの貴賤ではない。最上級の伯爵家の子女でもスラム街の物乞いの子供でもいい。才覚のあるなしでもない。頭がよくとも、他人の奴隷として一生を終える者もいる。力があっても、戦場で使い捨ての兵士として死ぬこともある。
違いは彼らの持つ「運命」なのだ。自覚している者も、していない者もいる。幼い頃から他人とは自ずと隔絶している者も、ある日突然「運命」の流転に巻き込まれる者もいる。共通しているのは、彼らの人生が一筋縄ではいかない、というただその一点だけだ。
そんな「運命」を持つ男が、ここにも一人。
彼の肩には女が一人。彼は名前を知らない。肩を貸しているのは、女の脚が痛めつけられ使い物にならないからだ。
暗い館の中。彼ら3人は息を潜めて、廊下を進んでいる。油断は文字通り命取りになるということを、全員がよく知っているからだ。
「ねぇ」
女が小声で囁いた。
「なんだ?」
彼は同じく小声で聞き返した。
「運んでもらってこう言うのもなんなんだけど、物凄く居心地が悪いわ」
「分かってる」
女の左側は彼──身長6フィート2インチ──が支えており、反対の右側は彼の友人のドワーフ──身長4フィート6インチ──が持っている。自然それなりの段差が出来ることになる。女の体はほとんど横向きになり、体重は全て彼の肩にかかっている。
「分かってるじゃないわ。わたしの肩が外れそうなのよ」
「もうしばらく我慢してくれ」
女は黙った。しばらくして、もう一度口を開く。
「あとどのくらい?」
外まで、という意味だと男は解釈した。
「もう少しで裏口だ」
今、そこの角を曲がって、後は一直線の廊下を過ぎれば、使用人用の勝手口だ。この時間なら誰も使う者はいないだろう。起きている人間もいない筈だ。
そこで、角の向こうから明かりが灯されるのが目に入った。人の影が、曲がった先の廊下から伸びている。物音に気づいた召使いの誰かか。
彼は心の中で舌打ちした。こうなったら使用人用の勝手口は諦め、一階のどこかの窓から出るか。叩き割らなければいけない場合は気づかれてしまうが、この際しょうがないだろう。
彼は女を抱えたまま、右手のドワーフに合図して左側の部屋を指差した。向きを変えて、扉の前に立つ。ノブを握った。中に誰かいるかもしれない。ふいにそんな考えが浮かぶも、勇気を振り絞って、ノブに力を籠めた。
扉には鍵が掛かっていた。
男の「くそっ」という声と、廊下を召使いが曲がってくるのが同時だった。
「あっっ! 誰だ! 泥棒ーーっ!」
召使いの叫びを聞きながら、男は覚悟を決めた。女をドワーフから引き寄せると、ドワーフに向かって叫ぶ。
「頼む!」
「合点!」
ドワーフは背に差した肉斬り包丁を抜くと、走って向かってくる召使いの前に立ちはだかった。召使いの手にはクラブが握られている。そのクラブと、盗人を捕まえた時に主人から戴ける賞金が彼の気を大きくしているのだろう。
召使いはクラブを振りかぶった。勢いよく降り下ろす。
──ドスッ。
鋭い音とともに倒れたのは、召使いの方だった。倒れ伏した召使いの体の下から、のそのそとドワーフが這い出した。
ドワーフは気絶した召使いを見下ろし一言。
「安心せい。峰打ちじゃ」
男は女を背負うと、一目散に手近な階段目掛けて走り出した。こうなればこそこそ動き回る必要はない。
女がギュッと彼にしがみついた。裸の上に彼の古着を一枚着ただけの女の体の一部が、彼の背中に密着した。
「……あまり押し付けないでくれ」
「少しは感謝しなさいよ」
階段を見つけ、急いで駆け上がる。下からドワーフも走ってくるのが分かった。短足のドワーフが逃げ切れるか少し心配する。
「いたぞ!」
階段の上から叫び声。男は悪態をついた。
一人の召使いが彼の前に立ち塞がった。彼は階段をそのままの速さで駆け上った。勢いを保ち、青ざめた召使いの体の中心目掛けてぶつかる。
衝撃と、転倒音。彼と女と召使いは折り重なって倒れた。彼は直ぐに立ち上がり、女を引きずって肩に抱える。召使いが頭を押さえながら起き上がった。
「に、逃がさんぞ」
「逃げんさ」
男は召使いにそう言った。既に男と召使いの位置関係は逆転している。召し使いは男の言った意味を体で理解した。
「うっ、ワアアーーーッッ」
言葉の半分より後ろは階段を転げ落ちる轟音に吸い込まれた。男は脚を下ろして、女に言った。
「急ぐぞ」
階下でドワーフの叫び声が聞こえた気もしたが、それは無視した。
「ちょっと待ってよ。ここは二階よ! どこへ逃げるっていうのよ!」
「もう一階の出入り口は棍棒を持った召使いどもで固められてるさ。下に逃げるのは上策じゃない」
「じゃ、どこへ!」
男は女を再び背負うと、後ろの階段からドワーフが這い上がったのを確認して、廊下を走り出した。
「こっちだ!」
廊下を走り、角を曲がる。一応家の間取りは頭に入っている筈だが、間違っていればそれまでだ。
ある部屋の扉の前で止まった。鍵が掛かっているのを確認する。ドワーフと視線を合わせ、頷いた。
ドワーフが体ごと扉にぶつかるのと同時に、力任せに蹴りつける。扉はミシミシと軋むも、持ちこたえた。二回目。ピシッという音とともに扉の板に亀裂が入った。三回目。バキッと音を立て、扉が割れた。
残骸を蹴り飛ばし、男とドワーフは部屋に突入した。
豪勢な絨毯を敷いた部屋、暖炉には赤々と火が燃えている。ベッドの傍にはでっぷりと太った男が一人、剣を握って立っていた。
「お、お、お前たち! 誰に許しを得た!? ええッ?」
あまりに激昂しているため顔が真っ赤となって、体型のせいもあり、豚そっくりだ。
「誰に許しを得ればよかったんだ?」
男が嘲った。目の前の代官が部屋にいるのは分かっていた。そもそも今日決行したのは、女の夜伽──それは伽などではなく、ただの責め苦であったが──の日を避けた結果だ。盛るためにはそれ以外の日は休まねばならないだろう。
「おっ、お前ーーッ、知ってるぞ! お前、小作人の一人だろーッ、こんなことしてただで済むと思ってんのかッ!?」
男は女を下ろした。暖炉に立てかけてある火掻き棒を手に取った。トントンと二三度重さを確かめる。
「その言葉、そっくりそのまま貴様に返してやるよ。こんなことして、ただで済むと思ってたのか?」
代官は口から泡を飛ばしてがなった。
「なっ、なっ、なんだとォーッ? てっテメェらなんぞ、一山幾らの家畜だろうが! 働かせてもらえるだけ有り難いと思わねぇのかーーッ!? わしは代官だぞ! 貴族に管理を任されてるんだぞ! テメェらみたいなクズとは違うんだぞーーッ!」
男はため息をついた。
「言っても分からないみたいだな」
背後でなにかが粉砕する音がした。振り返れば、筋骨隆々の男がクラブを肩に担いで立っている。扉の最後の残骸がその足元に散らばっていた。代官の用心棒だろう。事前の調べでは一階に寝泊まりしているようだったが、この騒ぎで上がってきたというところか。
ドワーフがその前に立ちはだかり、男を守ろうと肉斬り包丁を構えた。
その隙を狙って、代官が剣を振り上げて突進してきた。男は火掻き棒を前に構えて、代官の動きを見定める。
──ガキィィン。
剣を受け流すも、火掻き棒は衝撃で歪んでしまった。代官は滅茶苦茶な剣法で怒りに任せて斬りかかる。
「テメェらはッ、わしのためにッ、働いてッ、ボロクズみたいになってッ、死ぬのがッ、役目だろうがぁーッ! なに反抗してやがんだ、エエーッ?」
──バキンッ。
男の火掻き棒が真っ二つに割れた。先端がクルクルと舞って飛んでいく。代官の剣は勢い余って絨毯を引き裂いて床に刺さった。
男は、剣を靴で押さえつけた。深々と刺さった剣は代官の力程度では容易に抜けない。
「あ、あれ?」
代官は呆気にとられた。目の前の男を見つめた。男はニヤリと笑った。
「少し、折檻が必要だな」
──ボスッ。
男の拳が代官の腹にめり込んだ。代官は空気と唾と胃液を吐き出す。目を白黒させて喘いだ代官の胸元をつかんで、男は無理矢理立たせた。
──バキッ。
代官の頬に男の拳が入る。黒ずんだ歯が一本飛んだ。その人生で久しぶりに殴られ鼻水と涎を絨毯に垂れ流す代官を、男は再度引き寄せる。
──グシャッッ。
渾身の一撃が、代官の顔の中心を打ち抜いた。鼻血を出し、仰向けになってぶっ倒れた代官の傍らに立ち、男は声をかけた。
「なんか言いたいことでもあるか?」
代官は痰を吐いた。
「ブフッ、グプッ、……ぐそっ、デメェ、女の股程度で息巻いてんじゃネェぞ、若僧。手足引っこ抜いてから、はらわた引き裂いて、道に晒してやっから覚悟してろよ」
「いい根性してるな。お前」
──ボスッ。
「グボッ、グボホォォーーッ」
男は代官の腹を勢いよく踏みつけた。代官の口から吐瀉物が噴水のように吹き出した。その内容から察するに、夕食はマッシュルームのクリームスープにエビだったらしい。特に焼いたエビはニンニクが使われており……なかなかに酷い臭いだった。
男は後々のことを考え、床に脚をかけて剣を引っこ抜き、そばに落ちていた鞘に収める。そのままそれを片手に持つと、女をひっ掴んで、窓に向かって走り出した。女が叫んだ。
「ちょっ、なにすんの!」
男は両開きの窓を開けると、問答無用で女を放り投げた。
「人でなしーーー」
女の叫びは、夜の闇に吸われて消えた。男も一度深呼吸すると、窓に脚をかけた。そのまま一息に飛び降りる。彼の記憶が正しければ、この下は──
────バキッ、ドサッ。
厩舎の屋根を突き破った男は、かいばの上へと着地した。そばに女も突っ伏している。
「生きてるか?」
「死ぬかと思ったわ」
男は女を起こすと、付いた草を払ってやった。そうしながら尋ねる。
「あの程度でよかったか?」
女は憮然として答えた。
「全然足りないわよ」
「そうか。すまん」
男が謝ると、女は微笑んだ。
「でも、少し爽快だったわ」
「そうか」
上から、また人間が降ってきた。代官の用心棒だ。額から血を流している。その次にドワーフも飛び降りてきた。
「う、うう」
用心棒は呻いた。まだ意識があるようだ。男は手に持った鞘に収めた剣で用心棒を力任せに叩きつけた。二回三回と降り下ろす内に、用心棒はグッタリとして力尽きた。
「よし、行くか」
男は一頭の馬を引っ張ってくると、女を乗せてやった。その後ろにまたがる。ドワーフも、女の前に座った。
「正直、上手くいくなんて思ってなかったわ」
女が言った。男が苦笑いした。
「まだこれからさ。俺たちは北に逃げる。あんたは?」
「手近な街に行って、チョバッた金貨で故郷までの馬車を雇うわ」
「それがいい。もう人攫いには捕まるなよ」
「アハハ。気をつけるわ」
男は馬に脚を当て、走らせた。厩舎の扉を突き破る。松明を掲げた召使いを尻目に、代官の屋敷の前を走り抜けた。
女が振り向いた。
「わたし、ドーリス。あんたは?」
男は答えた。
「アルブレヒトだ」