痛みで目が覚めた。
「ぐ、ぐ、イダダ……」
声が漏れた。
よほど身体を硬直させていたのだろう。少し動いただけで節々が痛む。
窓から朝の光が射し込んでいた。ルディガーはベッドから上半身を起こし、大きく伸びをした。
向かいのベッドには、アルブレヒトとベルトルドが毛布をかぶって寝ていた。ルディガーは、フと微笑した。
──出ていけ!!
背中に電撃が走った。思い出した。昨夜の男を。数々の奇怪な現象、その最後に出現した男の述べた一言。
──出ていけ!!
ルディガーは身体をブルッと震わせて、毛布を掻き抱いた。寒かった。ただただ寒かった。彼は、ブルブルと震え続けた。
「大丈夫か?」
顔を上げると、アルブレヒトが心配そうに見下ろしていた。
「う、うん。大丈夫だよ」
ルディガーは心配をかけまいと答えた。アルブレヒトは、
今ならルディガーにも分かる。アレは
そして、ルディガーの勘は外れてはいなかった。
彼が昨晩感じた既視感、それは彼の故郷スターランドでよくあること。よそ者との最大の、感性の違い。
例えば、こうだ。
モールスリーブが満月の夜、酒場に旅人が来る。扉を叩くが、誰も開けない。不運な旅人を嘲笑うばかりである。その内、馬鹿笑いが最高潮に達し、
その瞬間、酒場の誰も
陰鬱に酒の杯を傾けるのみだ。誰も何も言わない。扉に近いものは身を小さくして、心なしか遠ざかる。なにもいない風を装うのだ。なにもない。なにも起こっていない。そう、自らに言い聞かせるのだ。扉の外から、悲鳴、続いて肉の咀嚼音が聞こえてきても。
他にも、よそ者の無思慮な発言がスターランド人の沈黙を誘うことは多い。それで、よその州の人間はスターランド人を陰気な田舎者だと評するのだ。それは、間違いではないが、真実の一面でしかない。別の側面から見れば、スターランド人と他の領邦の人間は感性が違うだけなのだ。
幽霊も、言ってしまえば
どのみち、もう出発だ。幽霊は気になるが、ただ物音や姿で驚かすだけなら大して害はあるまい。
……怖かったが。とても怖かったが。
この宿屋が繁盛していないわけも分かった。亭主は気の毒だが、酒場で稼いでいるようだし、生活に支障はさほどないのだろう。死んだ者の霊魂が、"風"が集まりやすい"場"に囚われて"モールの庭園"に行けなくなることはしばしばあると教わった。霊魂が満足して、昇天するのを待つしかあるまい。
「じゃあ、下りるか」
アルブレヒトが言った。
「分かっただ。荷物まとめてしまうだよ」
アルブレヒトたちには、幽霊のことは言わないことにしよう。ルディガーはそう考えた。要らぬ心配や恐怖を抱かせることはない。魔術に関しても、ルディガーは同じ意見だった。魔術は、"魔女の目"を持たない者が知るには、深すぎる闇だ。自分たちが生きている世界と皮一枚隔てて、恐ろしい別世界が広がっていることを教えることは、害悪にこそなれど、益になることはないであろう。
ルディガーは手早く荷物をひとまとめにして、毛布をしまい込むと、袋を担いだ。いつの間にか準備を整えていたベルトルドやイムラクも部屋の戸口近くに立って待っていた。ベルトルドはイムラクに、昨夜の怪異を話して聞かせている。頑固なイムラクはなかなか信じようとしないようだ。
「じゃ、行くぞ」
アルブレヒトが言い、戸をくぐって部屋を出た。イムラク、ベルトルドも後に続く。最後尾のルディガーは、戸口で振り返り、部屋の天井を見た。天井は何の変哲もない、ただの板だった。
隣の部屋からはなにかゴソゴソと物音が聞こえていた。こちらも、旅立ちの準備をしているのだろう。
階段を下りる内にルディガーは違和感を覚えた。変だ。"
それは通常はあり得ない事態。
"ダハール"とは"魔力の風"が混じり澱んだ状態。そもそも"魔女の目"とは本来真性の"キュアイシュ"として存在する魔力を無理矢理八色に分けて視覚で捉える能力。本来的には分かれているそれを、人が無理に使おうとし、その産物として生まれたのが"ダハール"だ。暗黒の魔術や死霊術などの禁術では、積極的に"ダハール"の荒々しい力を利用して大きな力を引き出している。北方では"混沌"の力が非常に大きい地点が自然に存在するということもあると聞くが、帝国内であれば"ダハール"はほとんど人為によるものだろう。
その"ダハール"がやけに多い。ムールフェルトの悪夢が脳裡に蘇る。あの時は間一髪で生き残れたが、同じことがまた起きて無事でいられる保証はない。
「少し待つだ」
ルディガーが3人に声をかける。
「どうした?」
アルブレヒトは察して、すぐに立ち止まる。ベルトルドは始めなにか分からない顔をしたが、次第に過去を思い出して顔がひきつった。
「…………おらが、先に下りるだ」
ここで立ち止まっていても埒があかない。ルディガーは慎重にアルブレヒトたちの横を通って、一段、一段、下りていった。"魔女の目"で見る限り、"ダハール"以外の異変はない。少し安心するも、気を抜かずに階段を下った。
一階の酒場では、客が1人だけ、座って食事をしていた。その男の周囲にも"ダハール"が漂っている。
「あんた、何者だ?」
ルディガーは近づくと男に尋ねた。男はモグモグと口の中の食物を咀嚼すると、笑って答えた。
「ただの通りすがりの薬師さ」
「あんたがこの異変の原因だか?」
男は笑いを消すと答えた。
「いや。なんのことか分からんが。やはり、なにかおかしなことが起こっているのか?」
不自然なところはない。ルディガーは外に目をやった。
「じゃあ、一体なにが……」
「おいおい。わしにも分かるように教えてくれよ」
沈黙したルディガーを男がせかした。ルディガーは慌てて答える。
「あ、ああ、少し待ってもらっていいだか?」
戸口へ近づき、恐る恐る開けて外を覗く。普段と変わらぬ曇り空だ。しかし、村の中にもまごうかたなき"ダハール"が流れている。
酒場の中に戻ると、階段に駆け寄り、3人に「取り敢えず下りても大丈夫だと思うだ」と声をかけた。
「そうか。分かった」
ホッと安心した一同はぞろぞろと連れだって、男と同じテーブルにつく。
「それで、あんたは何者だか?」
「さっきも言っただろう。わしは、ただの薬師さ」
男は笑って答えた。ルディガーたち4人を興味深げに眺める。
「人々を治療しながら、方々を回って暮らしている男さ。それより、わしとしては、あんたらの方が気になるね」
「なぜだ?」
アルブレヒトが怪しんで尋ねた。なにか事情を知っている者かと疑ってのことだろう。
「一見して旅人らしいが、装備も服装もばらばらだ。疑いを持たない方が変じゃないかね?」
「あんたの知ったことじゃないだろう」
「それはそうだね。失敬」
男は額をぺしりと叩いた。
ルディガーは目の前の男をじろじろと眺めた。軽く禿げ上がった頭に、ハネた黒い口髭が対照的だ。薄汚れて真っ黒になったローブ──なにかの作業着だろうか──を着て、腰を革のベルトで留めている。床には膨らんだ鞄を置いていた。
そして、微かに"ダハール"を漂わせていた。
「もっと詳しい話を訊いてもいいだかね?」
男は少し目を開いて、「詳しい話ってわしのかね?」
「ダメだか?」
「いや、ちっとも構わんよ。わしはハーマン。金額次第で切り傷の手当てから奔馬性下痢の"応急処置"までなんでもござれの薬師の端くれさ。自前の研究もしてるがね。貧乏人相手の商売じゃ儲からんが、わしはこの職につけとることを誇りに思っとるよ」
「"応急処置"って?」
ベルトルドが口を挟んだ。
「うむ。下痢は酷い病気だ。アレに罹ると、水分を失って衰弱死してしまう。それを防ぐためにコルクと蝋で"穴"に"栓"をするのだよ」
「うげっ」
ベルトルドが訊かなきゃよかった、という顔をした。ハーマンは素知らぬ顔で自分の皿の上のソーセージを頬張る。
「研究は、なにしてるだ?」
ルディガーが尋ね、ハーマンは目をあげる。
「それはな──」
同時に、階段の上から声が聞こえた。
「せんせぇー! 荷物まとめ終わったから、おいらも降りるぜ」
「おお。早く来い、ゲッツ」
そう答えたハーマンの視線が、イムラクを捉え、くぎ付けになった。
一瞬の沈黙のあと、ハーマンが叫ぶ。
「ダメだっ! 来るなっ! ドワーフがいるぞ!」
「ゲェェェェーッ!!」
人のものとは思えない声と、駆け去る男の足音。よほど慌てているようだ。
「なんじゃ、なんじゃ」
イムラクが心外そうな顔をした。汚物か化け物のように言われたのが、よほど気に触ったのだろう。額には青筋が立っている。
ハーマンはとても申し訳なさそうな顔をした。
「すまない。今の男──ゲッツという名なのだが──は昔、よほど嫌な目に会ったそうで、それからドワーフを酷く恐れるようになってしまったのだ。ドワーフを見れば、取り乱す、ところ構わず逃げ回る、暴れる、といった具合で周囲もほとほと手を焼いていたのを、わしが引き取ってな。一緒に旅をしておる。
つまり、それがわしの研究なのだよ。"狂気"の治療だ」
ルディガーたちはポカンとした顔で、ハーマンを見つめた。ハーマンは髭を手でしごきながら続けた。
「もちろん、皆そういう反応をする。"狂気"を治療可能な症例と、いやそもそもある種の疾患の症状と捉える人間がほとんどおらんのだからな。こんな田舎ではさらにそうだ。しかし、事実として、悩ましき狂気の淵から帰還するものはいる。わしは、"狂気"が平癒する病であるという立場から研究を重ね、その治療のためにそのような症状を持つ者と旅をしているのだ」
「はぁ……」
ルディガーはため息をついた。あまりに予想外の男の返答に毒気を抜かれたといってもいい。
「今、様々な"狂気"に冒された患者たちが、各地でどのように扱われているか、知っておるかね? 獣のように鎖で繋がれ、囚人のように檻に入れられる者、神からの啓示だのという世迷い言に釣り込まれ、鞭打ち苦行者となって街から街へと徘徊し、終いには戦場で前線へと放り込まれ砲弾の露払いとされる者、なんの根拠もなく、愚昧な者どもに崇められ、教祖へと祭り上げられた挙げ句、儀式の供物として神に命を奉られる者、酷い有り様よ。誰も本当に"患者"を救おうという意志を持つ者などおらん。一部のシャリア教徒は"狂気"を治療しようとしているようだが、それすら全体からすれば異端扱いよ。どう思うね?」
「は、はぁ……」
4人の中で、唯一話に付いていけていたルディガーも、ただただため息を漏らすしかなかった。それほど男の話はルディガーの常識を越えた、壮大なものだったからだ。正直に言って、ルディガーは男に感服していた。
見た目こそ、禿面、髭面で怪しいことこの上ないが、話せば物分かりは良さそうで、何より優れた知性の薫りがルディガーを魅惑した。
ハーマンはイムラクに目をやると、頭を下げた。窓から入る光が禿に当たって、頭が光った。
「そういうことだ。すまない、ドワーフ君。彼自身は悪い男ではないのだが、全ては不幸な彼の過去と精神に巣くった病魔の仕業なのだ。許してやってくれないかね?」
「ふむ。そういうことなら仕方あるまい」
腕を組んだイムラクはしたり顔で頷いた。
「どうせさあ、この前みたいにドワーフが襲ってきたんじゃないのお?」
ベルトルドが笑いながら茶々を入れた。イムラクの顔がパッと赤くなり、髭と見分けがつかなくなる。
「なっ、なにを言うか! そもそもこの前のも──」
ルディガーはイムラクとベルトルドの言い争いを聞き流し、別のことを考えていた。漂う"ダハール"のことだ。
ハーマンの言を信じるなら、ハーマンが原因ではないのだろう。本当に彼は知らないようだ。なにより彼は薬師で医者だ。魔術の素養はないだろう。
"ダハール"が彼に付着しているのは、彼の医学の技量ゆえか。そういう場合は往々にしてある。司祭の起こす「奇跡」の多くは、司祭の信仰心に引き寄せられた"魔力の風"が──あるいは、無意識に"魔力の風"を引き寄せた司祭が──引き起こした「現象」なのだから。彼の教わった範疇では、だが。優れた医者に"風"が吹きだまるのも、無いこととは思えなかった。
つまり、この怪異の原因はどこか他にある。それを見つけなければ。
いつの間にか、宿の亭主が彼らの横に立っていた。
「あんたら、何事もなかったのか」
「知ってたんだな?」
アルブレヒトが問い返す。語気の荒い旅人の発言に、亭主は少し恐れをなして、「わ、悪かった。だが、あそこで教えてもあんたらは信じなかっただろう?」
「
亭主は、ツ、と目をそらした。
「し、知らん。あいつが現れるようになってから、商売あがったりだ。宿屋の主人が自分の宿の部屋にも入れん。こんな情けない話があるか」
亭主は話題を変え、「あんたら、朝飯はいるのか? 大したもんはつくれねえが」
「いや、構わない、もらおう」
「もう出るんだろ?」
「いや、今晩も泊まらせてもらうだよ」
ルディガーは、有無を言わさず、会話に割って入った。亭主の眼が見開かれる。
「な!? おまえら、本気か!?」
アルブレヒトやイムラクも驚いているようだ。ベルトルドがアルブレヒトに、「ああ言ってるけど、い、いいのか?」
ベルトルドがこう言うのは、昨晩の悪夢のせいもあるのだろう。アルブレヒトは答えずに、ルディガーを注視している。
ルディガーは亭主の問いには耳を貸さずに繰り返した。
「今晩も、泊まるだよ。金は払うだ。幾らだか?」
亭主はまるで狂人でも見るかのようだ。
「し、正気とは思えねえ。あんたら、
「……知ってるだか?」
亭主は震えながらあとずさった。
「し、知らねえ。おれはなにも知らねえ」
そのまま急ぎ足でカウンター向こうの部屋へと入ると、音を立てて戸を閉めてしまった。
ルディガーはバツが悪そうに、他の仲間を見た。
「すまないだ。多分……朝飯は出してもらえないだよ」
「聞かせてもらえるか?」
4人は村の中の一軒の家の戸を叩き、食料を調達した。都合よく、牛のモモ肉と少量の野菜を手に入れることができた。代金は真鍮銭10枚、ほどほどといったところか。
それを、イムラクが包丁で叩き切り、鍋の上で焼く。もはや調理などと言えるものではない気もするが、そこにこだわっても仕方ないだろう。腹に入れば全部同じだ。
熱い肉にかぶりつきながらの、アルブレヒトの発言。ルディガーは同じく肉汁のしたたる肉を頬張りながら答えた。
「今はまだ、確かなことは言えないだ」
木の食器の上の炒められた野菜を掻き込む。
「でも、悪いことが起こってるのは事実だと、思うだよ」
「
「……違うかもしれないけど、ひょっとしたらそうかもしれないだ」
「うむ! まだよく分からないということだな!」
食い終わったアルブレヒトが、歯に挟まった肉の筋を取りながら言った。
「ま、いいんじゃないのか。もう何晩か居ても。昨夜みたいなことが続くようならなんだが、結局、
「……そうだと、思うだよ」
「げえ。俺は、
「お主ら、あれだのそれだのじゃなく言葉で説明せんかい!」
「一人だけ寝ていたやつが、なに言ってる」
ルディガーはしばし考え込んだ。
さっきはああ言ったものの、状況からすると幾つか分かることもある。
時系列で整理してみよう。
昨晩、宿に訪れたときは"ダハール"は存在しなかった。少なくとも、自分はそれに気づかなかった。
夜更け、散々怪異が起こったあとの、
朝、"ダハール"を視認。
ここまでで分かること。
・亭主は嘘をついている。「知らない」というのは、幾らなんでも信じられない。
・"ダハール"の原因は、四通り考えられる。自然なのは、旅人二組の内どちらかに関わっていると考えることだ。すなわち、ハーマンたちか、自分たちか。自分らが誰かに狙われている可能性──例えば、ムールフェルトでハンス=ザテリートの言っていた"きゅうしょく"──も捨てきれない。ハーマン自身は好人物といえど、彼に関わる者全てがシロかと問われれば、それも不明だ。これらの考えなら、昨晩は存在しなかった"ダハール"が不意に現れることにも説明がつく。あとは村や宿屋そのものに原因がある場合、あるいはそれ以外の第三者が黒魔術師であった場合などだ。
ルディガーが一番恐れている可能性。それはハンスの死に際の一言、"きゅうしょく"。高位の魔術師が混沌に寝返っているという最悪の可能性。ムールフェルトの二の舞だけは、絶対に避けねばならない。
ハンスの発言からして、"きゅうしょく"とは明らかに"
ムールフェルト村の惨状からして、あの規模の魔術を発動できるのは、魔法学府でも一握りの上級魔術師だろう。それが、混沌の黒魔術を使った。他の三人には教えていないが、事実であるとすれば帝国を揺るがす醜聞の筈だ。
それを仲間に言わない理由、ましてやあの魔術師ハンス=ザテリートは一介の駆け出しの魔術師に過ぎず、とてもあの怪異の根本の原因とは考えられないということを伝えない理由、それは恐れていたからだ。彼らが、それを帝国の国家機関や学府、魔狩人に伝えることで、彼自身が表に出てしまうことを。
師匠の命を果たすには、それはなんとしてでも避けねばならないことだった。
もし、その"九色"の一人──"九色"と言うからには、最低でも9人はいるのだろうが──が秘密を知る者を消すために追ってきたとして、自分は勝てるだろうか?
答えは明らかだ。
──
自分と学府の高位魔術師では雲泥の差もいいところだ。学府に所属すらしていない今の自分の実力では、一対一では中堅魔術師のハンスにすら勝てないだろう。当たり前だ。自分はまだ、見習いなのだから。
ルディガーはひそかに唇を噛んだ。
今は力が欲しかった。独りで不安に苛まれる生活は、もうまっぴらだったのに。力さえあれば、姿の見えない敵に恐れを抱くこともないだろうに。
仲間になにもかも言えたら、どんなに楽なことか。しかし、それはできない。魔術のことは、魔術師の領分だ。"眼"を持たない者に、彼らの視えない世界を教えることは残酷なことだ。
ルディガーは立ち上がった。
「とりあえず、村人にあの宿屋のことを聞いてみるだ」
今は、とにかく動いてみるしか方法はない。考えるのは後回しだ。
まずは、先ほど食料を調達した家のおかみさんだ。
「ああ、あんたらかい。どうだった? 旨い肉に野菜だったろう? そうだろ、そうだろ。そう言えば、さっきうちの旦那が農園の厩舎の飼葉の影で、ヴィクトルんとこのローザが震えて隠れてたって言ってたけど、どうしたんだろね? なんかなに尋ねても答えなかったって。え? なんだって? 『麦と羊亭』? そうだよ。ヴィクトルんとこの酒場だろ。それがどうかしたのかい?
「タールの胃袋」、分かったのはそれだけだった。他の何軒かの家々にも当たってみたが、宿屋「麦と羊亭」の
「タールの胃袋」は雑貨屋だった。汚れた戸を押し開けると、鼠が一匹、壁の隅に走って逃げた。
「なんだい? 客かい?」
埃の積もった小物が山と積まれた机の背後に陣取った、四十がらみの女が声をかけた。昔は美人であったろうと推測のつく、豊かな金の巻き毛をしていた。もっとも現在では宝の持ち腐れといったところだが。
女は骨ばった指を組み合わせると、ひじをついて言った。
「見ない顔だね。旅人かい? だったらこの薬なんか……」
そう言うと、がらくたの山に手を突っ込んで、薄汚れた瓶を取り出すと机の上に並べだした。
ルディガーは汚れで、ラベルも見えなくなった薬瓶──それが古くなった菜種油でないなら、の話だが──から眼をそらすと、急いで言った。
「ああ、買いにきたんじゃないんだ。聞きたいことがあるだよ」
女はジロッとルディガーを上目使いで見ると、胡散臭そうに口を開いた。
「なんだい?」
「『麦と羊亭』に出る
女はみなまで聞かない内にチッと舌打ちをして、あのお喋りどもめ、とかなんとか悪態をついた。
「で? それがどうかしたの?」
無理に開き直って逆に問い返す。
ルディガーは怯まなかった。
「
「理由? 理由なんか聞いてどうしようってんだい? 酒のつまみにでもするのかい?」
ルディガーは商品の並んだ机に手をつくと、女に顔を近づけた。
「どうしても、知らなくちゃいけないだ」
女は再びチッと舌打ちをすると、がらくたの山にこれも再び手を突っ込んだ。なにかを探しながら、ルディガーの目を凝視して話す。
「理由ね。理由なんか知ったって1ペニーの得にもなりゃしないよ。それでも、あんたらが、どうしても、あの宿屋のゴタゴタに首突っ込んで解決したいって言って、それを実行するだけの度胸と甲斐性のある、お人好しだってんなら……」
目当てのものを見つけたようで、がらくたの中から、手を引っこ抜く。その拳には、錆びた平凡な銅の鍵が握られていた。
その鍵をルディガーに投げる。ルディガーは胸元で受け取った。
「『書類』を探しな。『権利書』とか『遺書』の類いさ。それが見つかったなら、もう一度ここへ来な。話はそれからだよ。あんたらの実力のほど、確かめさせてもらおうじゃないの」
そう言うと、帰れという仕草をした。
「あ、ありがとうだ」
ルディガーが礼を言うと、女は腕を突き出した。
「なに言ってんだい。あたしはあんたらにそれを売っただけさ。お代は3ペニーだよ」
ルディガーは苦笑しながら、代金を手渡しした。少なくとも、女にとっては"理由"が金を産んだわけだ。
「で、どうすんだい?」
雑貨屋の外で、ベルトルドが問いかけた。
「……一旦、宿へ戻った方がいいと思うだ。そこに『書類』もあると思うだよ」
宿屋の前に戻ってくると、ちょうど二頭立ての四輪荷馬車が一行の前で止まった。
「おい! 邪魔だ! どけ!」
手綱をとる男が横柄に怒鳴りつけた。
「なんじゃと! お主の運転が悪いのじゃろうが!」
「なんだとお? てめえ、ドワーフの癖に俺様に口答えすんのか!?」
ズイと一歩詰め寄ったイムラクを、アルブレヒトが押し止めた。無用な争いは、お尋ね者の彼らには命取りになりかねない。
そのとき、馬車の中から叫び声が聞こえた。
「アドルフ! おい、アドルフ! 今『ドワーフ』って言ったか!? おい!」
聞き覚えのある声。今朝のゲッツとかいう男のものだろう。4人が顔を見合わせている間に、御者の男は答えて、「うるせえぞ! ゲッツ! てめえのそれはなんとかなんねえのか!」
「お、おいらだけじゃねえ! お、お前さんだって『先生』がいなきゃ、生きていけねえだろうがよ」
「うるせえ、うるせえ!」
ルディガーは罵り合いに割って入って、「ハーマンさんの馬車だか?」
御者の男──痩せぎすで妙に飛び出た眼が神経質そうにギョロギョロと動いている──は首を回すと、ルディガーに焦点を合わせた。
「そうだよ! なんだ? 先生に診て欲しいのか? 金が無きゃダメだよ! 貧乏人め!」
「……そうじゃないだよ」
一々、人の気持ちを逆なでするような言動をする男だ。ルディガーは多少ムッとするも、この男も恐らくハーマンの「患者」なのだろうと当たりをつけ、怒りを押さえ込んだ。
「じゃあどきな! ハイヨーーッ!」
男は馬に鞭をくれると、無理矢理4人を押しのけて走り去っていった。一行は土埃にしばしむせる。
「あの医者たちは帰ったってことか」
馬車の消えた方向を見ながら、アルブレヒトが呟いた。
「……そうみたいだな」
これで容疑者は一組減った。ルディガーは宿屋へと眼を転じた。"ダハール"は朝より濃くなっていた。宿屋全体を薄黒く覆っている。ルディガーは一瞬身震いをした。
一階部分の酒場には、誰ひとり客はいなかった。まだ日が沈んでいないからだろうか。亭主の姿もない。
彼らは埃まみれの階段を上がり、再び因縁の部屋へと戻った。荷物を降ろし、ベッドに座り込む。木の板が軋んだ。
ルディガーは考えに耽った。
「書類」とはなんのことだ? 「権利書」あるいは「遺書」だと言っていたな。誰の書いた書類なのだろうか?
あの幽霊の? あの恐ろしい姿の男のものなのだろうか?
なんにせよ、あの幽霊の出現する目的を知らねば、解決はないだろう。"ダハール"の源と直接関係しているかは分からない。しかし今は、答えに辿り着く糸がこれしかないのも事実だ。
ルディガーの頭に一つの条文が浮かんだ。
帝国魔術規約 第15条
いかなる魔導師も、前述のごとき破壊的かつ反帝国的な策謀、行為、人民、
ムールフェルトでも、ここでも。
ルディガーに、逃げるという選択肢は無かった。そうするくらいなら、彼は死を選んだだろう。なぜそこまでするのか。彼自身にも、その答えはまだ分からなかった。
ベルトルドが座ったまま顔をあげた。いやに青ざめている。ゆっくりと、恐る恐る、不安げに、口を開いた。
「なあ。俺たち、仲間だよな?」