少女が身を起こす。
少女の身体に掛かっていた白い毛布がハラリと床に墜ちた。
白く、痩せた裸体が外気に曝される。
少女の黒い瞳と目があった。
自分の唾を飲む音がやけに大きく聞こえた。
少女の黒い瞳と、彼自身の薄灰色の瞳とが、なんらかの神秘的な力によって結びつき、縺れ合い、溶け合い、彼は少女と一体になったかのように感じた。
そのとき、彼はなんとしても目の前の少女を助けなければいけないと思った。
それは、とてもとても不穏な一瞬の出来事だった。
「あわわわ! すっすいません!」
頭を猛烈な勢いで下げるイリスに対し、バルバラと呼ばれた入信者の女性は鷹揚に笑って、「いいのいいの。そう呼ばれてることは事実なんだから」
彼女の態度とは裏腹に、ヨハンナ修道院長は苦虫を噛み潰したような表情だ。
「極めて不名誉な渾名です。貴女に似つかわしくもない」
「どうして、そんな名で呼ばれているんだ?」
尋ねたアルブレヒトをジロリと
「彼女の治療技術のためです。先の"混沌の嵐"の大火の中、シュトライッセン市も部隊の派遣を致しました。その従軍司祭として、本来ならばわたしが赴くべきところを、このバルバラ含め三人が代わりにと名乗りを上げてくれたのです。彼らは北で戦場の第一線での応急処置を学び、それを傷ついた兵士たちに施しました。傷口から毒素が回るのを防ぐために脚を切断する治療などです。それを口さがない者たちが、そのような破廉恥な二つ名を考えつき……」
嗚咽したヨハンナ院長の肩を、白くゆったりとした服を着込んだバルバラが掻き抱いた。
「わたくし、気にしていませんことよ、院長。わたくしが鋸を曳いて患者が助かるのでしたら、甘んじてお受けしますわ」
「しかし、お前がよくともマリアやヘレーナは嫌がるだろう」
「二人とも分かってくれますわ。同じ北へ行った仲ですもの」
ウンザリしたといった様子でアルブレヒトが口を挟んだ。
「あー……そろそろいいか?」
バルバラは不思議そうに見つめた。
「院長、こちらの方たちは?」
「バーレンホルツ家から来た方々だ。"鉄仮面"を捕まえる任務を帯びているそうだよ」
若きシャリア信者の顔は晴れ上がった。
「まあ! あなた方があの恐ろしい"鉄仮面"を! 頑張って下さいね。あの奥様の人選ならばきっと間違いは御座いませんもの」
「そんなに、あの貴族家は高名なのか?」
アルブレヒトの疑問にバルバラは深く頷いた。
「ええ。バーレンホルツ家の威光はシュトライッセンの隅々にまで行き渡っておりますことですよ」
そのとき傍らの院長がゴホンと咳払いをした。
「それで、ネッティに会いたいそうだ。案内しておやり」
バルバラの表情が心なしか曇った。
「そうですか……。ネッティに」
バルバラは立ち上がると、一行を部屋の出口へと導いた。
「分かりました。こちらへ」
一同は石造りの神殿兼病院の中を歩いた。幾つもの病室の前を通りすぎた。一つの部屋の中には幾つもの寝台が置かれ、何人もの病人が横になっている。中には床に毛布を敷いて寝ている者もいた。よほど場所が足りないのだろう。
足りないのは場所だけではないらしく、一行は廊下で忙しそうに行き来する何人ものシャリア信者や修道女と擦れ違った。当然、皆女性だ。世間と隔絶された別世界と言っても、あながち外れではあるまい。
患者は貧しい者が多いようだ。それも当然か。シャリア神殿の治療や配給は無料だ。金持ちが来てはならないという決まりがあるわけではないが、資産家は自ずと正規の教育を受けた医者の下へと向かう。金を持つ者ほど、金貨を払ったときの効果のほどを知っているからだ。
ゆえにシャリア神殿にはどこでも、食いつめた流浪人や助かるあてのない末期の病人が流れ着く。金の払えない者たちが、せめて神の慈悲を求めて。
廊下の奥、突き当たりの部屋の前でバルバラは立ち止まった。
「ここが、ネッティの病室です。くれぐれも興奮させないでください。峠は越えましたが、依然重体であることに変わりはないのです。今のところ彼女は、"鉄仮面"に繋がるたった一本の糸です。それと面会は短時間でお願い致します。これが、わたしが言える全てのことです。あとは彼女の姿を見て、ご判断ください」
病室の前には、革鎧と制服を着用し、帯剣した女の警備兵が二人、両開きの扉の左右の椅子に座っていた。女性なのは、神殿側に配慮してのことだろう。
片方が剣の柄に手をかけ、立ち上がりかけると、バルバラは、「バーレンホルツ家の方々です。"鉄仮面"捕縛の助力のためということでしたので、面会を許可致しました。お通しください」と言った。
警備兵は無表情のまま、再び座る。バルバラは両開きの扉の左右に手を置き、扉を押し開けた。
そこは以前は物置だったのだろう。狭い部屋には窓がなかった。部屋の調度品は寝台に、小さな机が一脚、棚が一つ。それぞれ、人、水の入った盆と手拭い、毛布と衣服に医薬品が置かれていた。
そしてルディガーは
寝台の上で横たわる少女が体を起こすと、その拍子にかかった毛布が床にハラリと墜ちた。
少女はなにも身に纏っていなかった。治療のためだろう。しかし床の毛布を拾おうともせず、少女は闖入者を大きな瞳で見つめた。先頭のバルバラではなく、それに続いて入ったルディガーを。
少女の薄い胸が、少女の吐く荒い息に合わせてリズミカルに上下した。息が荒いのは、疲労のためと、突然の訪問者に対する恐怖のためだろう。
まだ十代の中頃といったところか、肌と唇はカサカサに乾き、ボサボサの黒髪はこれも治療のためだろうか、女性にしては異様なほど短く切られていた。頬はこけ、顔色も青黒かった。それでも、瞳には確かに生命の意志を放つ光があった。
そして、少女には左腕と右脚が無かった。左腕は二の腕で、右脚は太ももで途切れ、何重にも巻かれた血の滲んだ白い包帯が、何があったのかを示していた。
ルディガーは少女の瞳を見つめて思った。この娘は絶対に生かさなければいけない、と。
初めての邂逅から数秒後、少女は唇を一回舐めると声を出した。
「だ……いや、分かるわ。"鉄仮面"のことを訊きに来たのね」
「そうだ」と、アルブレヒトが答えた。
修道女のバルバラが走り寄ると、毛布を拾って肩からかけてやった。
「ネッティ、無理しては駄目よ。辛くなったら言いなさいね」
「分かってるわ、シスター。……でも、でも、あの憎い"鉄仮面"がッ、わたしの腕と脚をこんなにしたアイツが死ぬなら、シグマーの裁きが下るのならッ、わたしはッ……死んでも、いい!」
俯いた少女は毛布を残った左手で指が白くなるほど強く握りしめると、顔を上げた。
「入って。全部話すわ」
アルブレヒトが口を開いた。
「まずは、そいつの特徴を聞こうか」
少女の答えに迷いはなかった。事前にどう答えるのか考えていたのだろう。時折荒く息をつくことはあったが、その声は重傷にしては随分としっかりとしていた。
「身長は5フィート5インチくらい。細身の男よ。黒いコートを着て、目と口に穴の開いた仮面を着けてたわ。得物は刃渡り10インチくらいの刃の厚い肉切り包丁だったわ」
確かな答えだったが、アルブレヒトは不満そうだ。
「それだけじゃあ、なにも分からんな。川で砂金でもすくった方が早い」
途端に少女の目が血走った。
「なんだって!? それを探すのがアンタらの仕事じゃないの!? 分からないからってケツまくるのかッ!?」
興奮して身を起こしかけた少女をバルバラが押さえ、横たえた。スッとアルブレヒトへ非難の目を向ける。アルブレヒトは鼻を鳴らした。
「分からんものは分からん。他に気づいたことはないのか?」
「なんだとッ」
ルディガーが割って入った。ネッティという名の少女に語りかける。
「始めからでいいだよ。ゆっくり、全部話すだ。落ち着いて思い出すだよ」
少女は薄汚れた天井を眺め、荒く息をつきながら答えた。
「ええ。……ええ、分かった。あの日、わたしは──」
そうして、少女は語り出した。
──その日、ネッティは父の顧客である料理店に鋳造した鍋や釜や食器類を届けて家へ帰るところだった。
ネッティは石畳の街路の上を早足で急いでいた。少し前から噂で"鉄仮面"のことを聞いていたからだった。言葉では言い表せぬ惨劇、貴族家の子女を惨殺するという常識では考えられぬ事態、それは下町では格好のビッグニュースだった。どれだけ市当局の警備隊が情報を隠蔽しようとも、市民の口までは塞げない。ネッティも例に違わず近所の噂で"鉄仮面"を聞き知っていた。父親は貴族家の子女が殺されることで、また過去の繰り返しが起こるのではないかと心配していたが、
少女は市の南部の料理店から裏道を通って市西部の家へと向かっていた。石畳に靴の革が擦れる音が狭い路地に響く。周囲は墨を溶かしたような暗闇で、気をつけていなければすぐに壁に頭をぶつけたり、迷って自分の居場所も分からなくなってしまうだろう。
慣れた足取りで道を急ぐ少女は、大通りの街灯を目前にして振り返った。ふと、誰かにつけられているような気がしたのだ。背後の暗闇に目を凝らす。物音一つしない闇が広がっていただけだった。自分の勘違いだったのだろうと思い、正面へと向き直った。
街灯の下に人影があった。
思わず口から漏れそうになった悲鳴を抑え、その人物を注視する。背を向けていて、顔が見えない。背丈は少女と同じくらいだろうか。黒く長いコートを着込み、フードを被っていた。
ゆっくりとその人影は振り返った。フードの下には黒い鉄の仮面。目と口には円い穴が開き、湾曲した数本の鉄棒がその上で交差し、ドーム状の覆いを形作っていた。
ゴトリと音がすると、コートの間から大きな肉切り包丁が見えた。街灯の明かりに照らされ、ギラリと刃が光った。
ネッティは踵を返し、闇の中へと逃げ込もうとした。数歩走り、こけた。足下を見れば、噴出した血が街路に扇模様をつくっていた。肝心の左脚は2、3ヤード彼方へと吹っ飛んでいた。コートの人物は刃を振った。刃にこびりついた血がピッピッと石畳の上で跳ねた。"鉄仮面"はネッティへと二三歩歩み寄った。少女は恐怖と痛みから、喉も限りと絶叫した。
"鉄仮面"は肉切り包丁を掲げた。そのとき、大通りから呼子の笛の甲高い音が聞こえた。巡回していた警備兵が聞きつけたらしい。黒コートの殺人鬼は肉切り包丁を振り下ろした。ネッティの右腕の感覚がなくなった。
痛みのあまり遠くなる意識の中で、彼女は走り去る"鉄仮面"の足音を聞いた。
「──これで終わり。次に目が覚めたときはここに寝ていた。偶然現場がシャリア神殿に近くて、運び込まれたのが早かったのが幸いだってシスターが」
「……ネッティ、もう疲れたんじゃない? 切り上げましょう」
容体を慮って言うバルバラの発言を流し、少女はアルブレヒトに向かって、「これでどう? どうなの? 捕まえてくれるの?」
アルブレヒトはしばし考えている様子だったが、「まあ、それで全部なら仕方がない。捕まえてやるから安心しな」
少女は必死だ。
「ホントよ! 絶対だからね! ……ここにいても感じるの。アイツの仮面の下から見えた冷酷な目が。扉の隙間から覗いてるのッ。わたしを狙ってるのよ! いつトドメを刺してやろうかってね」
毛布を掴みブルブルと震える少女の残った左手を、ルディガーはそっと握った。
「大丈夫だよ。おらたちが必ず捕まえてくるだ。だから、それまでに傷を癒すだよ」
「う、うん……」
呆気にとられる少女を残し、一同は部屋を出た。バルバラの手によって扉が閉められた。
先ほどの部屋だ。
「院長。お連れ致しました」
「ご苦労、バルバラ。では皆さんこれで宜しかったのですね?」
「え、ええ! それはもう。し、修道院長様の格別のご配慮に、奥様もお喜びのことと存じ上げ」
「それはいいが、他にここで聞けることはないんだな?」
「さあ、わたくしでは。他に"鉄仮面"に遭遇して生き延びた者はおりませんし……」
「それにしても、この街って人口どのくらいなんですか?」
「だいたい5500人くらいかと存じておりますが」
「うへっ。聞いたかよお、イムラク。その中から犯人を見つけるのは骨だぜ?」
「それでもやるしかあるまい! なに我らならどんな難事件も即座に解決できるじゃろう!」
「イムラクさん凄いです!」
「その自信は一体どこから湧いてくるんだ」
「それでは、わたくしたちはこれで」
修道院長と修道女が退室し、部屋には五人が残された。アルブレヒトはイリスに視線を向けた。
「このあとはなにか予定があるのか?」
「ありますとも!」と、イリスは鼻をフンスと鳴らして意気込んだ。
「お買い物です!!」
市場は大変な喧騒に包まれていた。
場所はシュトライッセン市南部の"ハントリッヒ通り"である。ハントリッヒとは最近巷で流行っている商業の神のことだ。商人がよく崇めているらしいが、都市でしか見られないのでベルトルドはあまり詳しくなかった。
「で、買い物ってのは要するにあんたの家の夕食の材料の買い出しなわけね」
そう言うと、目の前のイリスはエヘヘと頭を掻いた。
「まあそうなんですけど、一応皆さんの間借りする部屋も探しておきますから、その間アヴァーランド第二の都市の市場を眺めて戴けたらなって」
アルブレヒトがため息をついた。
「構わないが、いつまでだ?」
「じゃあ次の鐘が鳴るまでってことで」
そういう訳で一行はイリスと別れ、市場を巡っている。
各々探したいものを挙げる。
「結局"鉄仮面"ってやつとやり合うんだろ? 装備は調えておくべきじゃないのか?」
「で、なにを探す?」
「わしは盾じゃな!」
「うーん。おれは鎧が欲しいかな。脚の部分の。ルディガーは?」
「……薬」
「? 薬がどうした、ルディガー」
「……えっ。あ、ああ、おら今さっきのあの娘に効く薬のこと考えてただ。でも薬があれば怪我しても安心だと思うだよ」
と、いう訳でまずはルディガーの案を受け薬屋を探すこととなった。
人に聞くとあっさりと見つかった薬屋だったが、露店に色とりどりのガラス瓶を並べた頭の禿げた中年の店主は明らかに怪しかった。
「エッヘッヘ。荒事に向く薬だってえ? ま、傷全般にはこれだろうね」
欠けた歯を見せながら笑って、青いガラスの小瓶を出す。
「"癒しのドラフト"さ。うちの店の専属の調合師が調合した、天下の名品。言っておくがうちの調合師はシュトライッセン一だからね。よそのとは効きが違うよ」
おそらく話の半分は眉唾だろう。客商売で大きくでることは咎められるようなことではない。勿論ベルトルドもやる。
ベルトルドは店主が揺らす、小瓶の中身を見ながら訊いた。
「いくら」
店主はニヤァ~~ッと笑った。
「当然いいものなんだから、それなりの値は張るわな。5
金貨五枚!? この小瓶で?
「高いよお。まけてよ」
「馬鹿言っちゃあいけねぇや。こちとらその辺の紛い物と違って薬効だってあるんだぜ。安いのがお好みなら、こっちの"ママメルキン"にするんだな」
店主は黒い小瓶を出して見せた。こっちはベルトルドも分かる。庶民層にまで幅広く用いられる万能薬(という触れ込みの薬)だ。飲んでみないと効くかは分からないが、それは他の薬でも同じだということで、好む者と嫌う者が二分されたりもする。好む者の半分は、他人に飲ませてその人間が屁をこくのを眺めるのが好きな連中だが。
「なんだ。いい店だと思ったのに。ルディガー、帰ろうぜ」
ベルトルドがそう言うと、ルディガーは懐から財布を出した。
「買うだよ」
「え、買うのぉ!?」
ベルトルドが驚いている間に、ルディガーはさっさと大きな財布の紐を引いて、中からキラキラと輝く金貨を五枚掴み出し店主に握らせた。
「とりあえず、一瓶」
「ヘッヘッ。そっちの兄ちゃんと違って見る目があるんだな。ほらよ。落とすなよ」
「ありがとうだ。……この薬があれば"鉄仮面"に襲われたって人も助かっただかね?」
「ん? おいおい、お前そんな大声で言うことじゃねえだろう。……ありゃあ無理だろう。全員ソーセージの詰め物みたいになったって話じゃねえか。薬飲む暇もねえだろうよ」
「そうだかね。ありがとうだ」
「また来なよ」
ベルトルドはルディガーに近づき囁いた。
「お、おい。本当に良かったのか?」
ルディガーは少し戸惑った様子だな。そういった事柄を説明するのに慣れていないのだろう。
「え、う、うん。あれでも足元を見られてるわけではないと思うだ。別に吹っ掛けられてはいなかっただよ」
「へえ。そうなんだあ」
ベルトルドは感心した。身近にないものの値段の相場はなにかと分かりにくいものだ。
「にしても、色々とモノが入った財布だなあ」
ベルトルドはルディガーの手元の大きな布袋を見て言った。ズッシリとして硬貨も多く入っているようだが、手紙やら鍵やらが沢山詰め込まれている。
「あ、うん。おら、貴重なものは全部財布に入れておくから……」
「まあ、なくさないからいいんじゃあないか? 次はなんだっけ?」
次に探したのは鎧を売っている店だった。やはり防具の備えは必要だ。
最初に訪ねた店は鎧は鎧でも
「あ、あの~、革鎧を商っている店はどこですかね?」
座って帳簿をつけていた男はブスッと黙って指を肩越しに指した。
「……六軒先だ」
礼を言うと、店を出た。人混みの中を掻き分けて、一行はようやっと言われた店に辿り着く。行き交う人々は皆思い思いの買い物をし、その荷物を両手に抱えている。自然ぶつかったりもするわけで、一々咎めていてはキリがない。
その店には様々な革鎧が飾ってあった。革鎧だけでなく、馬具なども売っているようだ。鋲で革を補強してある鎧もある。興味はあるが、買う金はない。
革の寸法を測っている主人のところへ行き、声をかけた。
「ちょっといいかい? 革のすね当てが欲しいんだけど」
「ああ、いいぜ」
店の主人はニッと笑った。あばたの目立つ男だ。
ベルトルドの脚の採寸をすると、主人は手を打ち鳴らした。
「おっ、こりゃいいぞ。丁度いいサイズのがあるんだ」
そう言うと、主人は店の奥に引っ込み、いそいそと一足の革のすね当てを持ってきた。黄色と黒の縦縞に染められている。アヴァーランド州を示す色の組合せだ。
「へへ。こいつは州軍から、
脚に回して着けるが、主人の言う通りなかなかピッタリと密着している。紐の締め具合もキツすぎない。
「んー、なかなかいいなあ。これで安かったら文句ないんだけど」
「勿論。一足で金貨10枚だ。どうだ?」
うう。思ってはいたが、やはり防具は高い。手持ちからいえば買えることは買えるが、半分以上持っていかれてしまう。
「もうちょっとまからない?」
主人は笑いながら首を横に振った。
「いーや、だめだね。こいつは州軍の兵隊が使うのと同じものなんだぜ。そんじょそこらの安物と比べたらあかんよ。いい買い物だと思うけどなぁ」
「分かった。払うよ」
根負けしてベルトルドは財布を取り出した。金貨10枚を相手に渡すと、途端に財布は軽くなった。
「これがあれば、"鉄仮面"も怖くないかねえ? どう思う?」
「いやはっは。どうだかね。手練れって噂だからねえ。しっかし、本当に"鉄仮面"なんているのかね? 誰かが噂に尾ひれ着けただけじゃないのかな」
「そうかね。あんがとさん」
入れ替わりにアルブレヒトが尋ねた。
「革の頭巾は扱ってないか?」
「いんや。うちにはないよ。向かいの通りの五軒先の帽子屋をあたりな」
「そうか。分かった」
教えられた帽子屋には、ありとあらゆる革製の帽子や頭巾が氾濫していた。ベルトルドは目が回りそうになりながら、その中の一つを手に取った。
「こんなのどうよ?」
「……どうして真っ赤なのを選ぶんだ。無地のやつでいいさ」
染めていない革の頭巾を店主に見せる。頭巾とはいえど、厚手の革で頭部を保護するものだ。額から後頭部までをすっぽりと覆う形になっている。
「これ、いいか?」
店主の老人は指を三本立てた。
「
ベルトルドがズイっと身を乗り出した。
「おいおい。そりゃないぜ。染めてあるのもあるのに、無地だぜ。1ゴールド半が妥当だろ」
「まけて2マークと10
「金二枚。駄目なら他の店をあたるよ」
老人は音をたてて舌打ちした。
「2マークと2シリングだ。これ以上1
ベルトルドはアルブレヒトの肩を叩いた。
「儲けもんだぜ」
「頼んだ覚えはないがな」
そう言いながらも、アルブレヒトは出費が少なく済んで満足のようだ。金貨と銀貨を2枚ずつ渡しながら、店主に質問する。
「通り魔がいるらしいな。なにか知ってるか?」
店主の老人は顔をしかめた。
「こんなとこで、訊くな、馬鹿もん。ありゃ、人間じゃない。この街にとり憑いた怨霊さ。殺したり捕まえたりなんてできっこないよ。なんだ、おめえ賞金稼ぎか?」
「違う。興味があっただけだ」
「要らん興味は破滅の元だぜ、若いの」
「覚えておく」
店の外でいそいそと革の頭巾をかぶるアルブレヒトに尋ねた。
「けっこう事件の内容を皆知らないんだな」
「そんなものだ。噂で判断し、憶測を膨らませる。それに文句を言っても始まらない。っと、こんなもんか。少し蒸れるかな」
そのとき、走ってきた若い男がルディガーにぶつかった。眼鏡を掛けて、本を手に持っていた。高級品を二つも身に付けているということは、金持ちの学生か。
「あっ、すみません。お怪我はありませんか?」
ルディガーの体に触れながら、男は心配そうに声をかけた。
「あ、ああ……。大丈夫だっただよ」
「そうですか! それは良かったです。では」
男は走り去っていった。余程急いでいるようだ。流石大学のある街は違う。
「次はなんだっけ?」
「わしの盾じゃ!」
イムラクががなった。
武具屋に入り、盾を物色する。色鮮やかな盾が並ぶ。丸いもの、四角いもの、楕円のもの、三角形のもの……。
イムラクが選んだのは、縦に長く、下の辺が湾曲したU字型の盾だった。黒と青の二色で染め抜かれている。中心部を境に左右に分かれた色の上には、黒の上に白い大砲が、青の上に黄色の獅子が描かれていた。上部には、二本の蝋燭が描かれている。イムラクらしい勇猛果敢な一品だった。
亭主が言うには、「縦に二色で縁取られているのは南北の婚姻を表すんだ。青はノードランドの色、黒はナルンの色だな。獅子と大砲もそれぞれ、ノードランドとナルンを象徴するシンボルだ。上に描かれている蝋燭は、モール神の下へと続く道を表している。ま、ナルンの貴族家か商家の出身でノードランド人と結婚して戦場に行った誰かの持ち物だったんだろうな」
「ふーん。由来に詳しいなあ。にしては出どころが不確かじゃないか? 本当に売られたもんなの?」
武具屋の店主は顔色を少し変えた。
「おいおい。疑うのか。確かな出どころの代物だぜ。シグマーに誓ってもいい」
イムラクも口を挟んだ。
「ベルトルド。この盾はわしの見立てじゃ、充分しっかりしたつくりじゃ。ケチをつけるのはよくないぞ」
「いやいや。俺はこの盾がどうやってこの店に入ったかなんて知りたかないのさ。ただ、少しでも安くしてもらえれば、
店主はハンと鼻を鳴らした。
「上手いこと言うじゃねえか。いいぜ。金貨二枚はまけてやるよ。盾一丁を金貨八枚で買えりゃあ充分だろ?」
店から出たところで、丁度鐘が鳴った。シグマー神殿が時刻を知らせるために鳴らしているものだろう。
夕暮れの中、若干人通りの減った"ハントリッヒ通り"を歩いて待ち合わせ場所に向かうと、既にイリスは待っていた。
「もー、遅いですよ」
「すまんの」
イムラクが謝ると、すぐにイリスは相好を崩した。
「いえ、怒ってはいませんよ。じゃあ宿に向かいましょうか」
夕暮れの日が、市の外壁へと沈もうとしていた。
日が沈めば、街は急速に夜へと向かっていく。先ほどまで明るかった通りも、どんどん暗闇に飲み込まれていく。
「あと、どれくらいなんだ?」
「そんなに遠くはありませんよ。半マイルってとこですか」
アルブレヒトの答えにイリスは笑って答えた。明るい娘だ。ベルトルドは嫌いではなかった。
大通りから細い通りへと入り、家々は少しずつ小さなものになっていた。街灯が所々で灯っていた。
小さな公園(という名の空き地)の横で、ベルトルドは前方から走って向かってくる小さい影を認めた。
それはドワーフだった。全力疾走をし続けていたのだろう、全身から汗を吹き出している。着ている服はボロボロでみすぼらしかった。目が血走り、あらぬ方向を向いている。一見してマトモではないと分かる。
ドワーフは一行の中に駆け込むと、先頭から二三番目にいたルディガーに当たった。ルディガーにとっては、通行人によくぶつかる日だ。
ドワーフはルディガーの胸を両手で掴むと、大声で叫んだ。
「急げ! 時間がない! 犬が赤い月に向かって吠え、アヴァーランドの熊には尻尾がないのだ! 急いでこれを持って行け!」
そう言ってルディガーの胸元に羊皮紙の束を押しつけると、ヨロヨロと離れ、二三歩よろめき、深呼吸してまた走り出していった。
「……アレなドワーフさんでしょうか」
「そうみたいだな」
一行は見送ることしかできない。ルディガーは胸元に羊皮紙をしまい込んだ。興味があるわけではなく、羊皮紙が貴重だからだろう。
狂人は珍しい存在ではない。前の村で会った狂人を"治療"しようとする医者の存在の方がよほど稀だ。ベルトルドの出身の村にも、シグマーが見えると騒いでいた婆さんが一人いた。運が悪ければ魔狩人や司祭に見つかり罰せられるが、そうでなければ特に見咎められる存在でもない。
一行は特に気にもせずに、歩き出した。
すると、今度は二人組の制服を着た男たちが走ってくる。今度は一見して分かる。市の警備兵だ。シャリア神殿で見た女と着ている服が同じである。
警備兵はルディガーに(また)詰め寄ると、威圧的に尋ねた。
「おいっ! 怪しいドワーフが来なかったか?」
ビクッとするルディガーを尻目に、イリスが先ほどのドワーフが消えた方向を指差す。
「あっちに行きましたけど……」
二人の警備兵は礼も言わずに走り去った。
「なんなんじゃ、一体」
「さあ……」
一行は顔を見合わせることしかできなかった。
「ここです! どうですか?」
イリスが一行に尋ねた。石造りの三階建ての建物。その二階の一部屋を間借りさせてもらうことになったらしい。一人一週間で10ペニー。悪くない値段だろう。少し汚いが、もっとごみ溜めに近いところに住む者もいる。言い出してはキリがないだろう。
「いいんじゃあないかな」
「うむ! 礼を言うぞ。イリス」
イリスは顔を赤らめた。
「あっ、ありがとうございます! じゃあわたしは帰りますが、なにかご用がありましたら、バーレンホルツ家に裏口を鳴らしてわたしをお呼びください。では、バーレンホルツ家を代表してお願い致します。頑張ってください」
頭を下げて、イリスは帰っていった。
「ルディガー、さっきの羊皮紙見せてくれよ。読んでみたい」
「いいだよ」
ルディガーが差し出した羊皮紙はドワーフの汗でべたついていた。気持ち悪さを感じながら、興味も抱く。一体どんな内容なのか。
ゆっくりとたどたどしく読み進める内にベルトルドの顔が青くなっていく。途中まで読み終えたときに、彼は他の者を大声で呼んだ。
「ルディガー!! アルブレヒト!! イムラク!! これを見てくれ!!」
そのとき。
「うわあぁぁぁぁぁぁぁ!!!」