アルブレヒトは酒場の扉に手をかけ、深呼吸した。隣に立つルディガーを見やる。
「心の準備はいいか? もう引き返せないぞ」
ルディガーは口を真一文字に引き締めたまま頷いた。
「いいだ。ありがとう、アルブレヒト」
「礼は、無事に帰れてから言ってくれ」
アルブレヒトは扉を開け放った。酒場の熱気と喧騒がムワッとした蒸気となって二人を襲う。
暗い室内を、ガヤガヤと騒がしい酔客たちの間を縫って二人はカウンターへと向かった。無愛想な亭主が二人を迎えた。
「注文は?」
アルブレヒトは息を吸い、一息に口上を述べた。
「エール酒二杯。それと、教えて欲しいことがある。────」
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「うわあぁぁぁぁぁぁぁ!!! 」
陶器が粉々に砕けたかのような叫び声が狭い室内にこだました。アルブレヒトとイムラクが、即座に反応した。
「なっ、なんだ!?」
叫んだのはルディガーだった。頭を抱えて震えている。
「……なっ、ないだ……」
「ない? なにがだ?」
訳が分からないアルブレヒトが尋ねた。
「手紙……手紙が……」
ルディガーはうわごとのように繰り返すと、ヨロヨロと扉の方へと歩いた。
「おい! どこに行く」
アルブレヒトはルディガーを抱き止めた。ルディガーはアルブレヒトの腕の中でしばしジタバタともがいていたが、やがてグッタリと首を落とした。
「……気を失った」
アルブレヒトはルディガーを寝台まで運んでやると、ベルトルドに向き直った。
「さっき、なにか言いかけたみたいだったが」
「そのことなんだ。ルディガーに見てもらわないと確かなことは分からないけど、まずはちょっとこれを見てくれ」
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明くる朝、ルディガーは一同を前に頭を下げた。
「取り乱したりしてすまなかっただ」
「気にするな。誰にでもあることじゃ」
アルブレヒトは、イムラクにだけはそういうことはない、と思った。
「ヴュッペルタルに持っていく筈の手紙がなくなった。違うか?」
ルディガーはコクンと頷いた。顔の前で手を組み、うなだれる。
「なんとしても、探して取り戻さないといけないだ。こんなときに迷惑をかけてすまないけんども」
「いい。気にするな。お互い様だ。それより……」と、アルブレヒトは傍の羊皮紙の束を取り、「もっと面倒なことが舞い込んできやがった」
「……それは?」
「昨日のドワーフがお前に渡したものだが、ベルトルドが読んだら大変なことが書いてあったそうだ。急いで、読んでみてくれないか」
アルブレヒトは不思議そうな顔のルディガーに羊皮紙を渡した。彼自身もその内容だとベルトルドが話した言葉を信じているわけではない。悪質な冗談──そうだとしても最も悪質な部類に属するが──だと思いたかった。しかし本当ならば大変なことだ。それこそ、この街全体がひっくり返るほどの。
ルディガーは読み進める内に、みるみる顔が青ざめていった。ただ目だけが左右に動き、顔のそれ以外の部分は微動だにしない。頬の肉がピクピクと震えた。
一枚目を読み終わったルディガーが真っ青の顔を上げた。
「こ……これ、一体なんなんだか?」
「そこに書いてあるのは本当なのか?」
「そんなこと……分からない……分からないだよ」
ルディガーは一枚目をめくった。
なにが書いてあるか、アルブレヒトには分からない。知りたくもなかった。知らなかった方が幸せなことなど、この世界には幾らでもある。彼の故郷の一件もその一つだ。長く仕える家を裏切る執事、旧友の敵の下で働いていた戦士、兄を怨み死してなお現世に留まる亡霊、これまで関わってきた幾つかの事件全てが残酷な真実によって引き起こされたものだった。
そして今回のコレは明らかにそれらを遥かに凌ぐ事案だった。
ルディガーは読み終わり、顔を上げた。
「これは……」
絶句し、後が続かない。唇がピクピクと痙攣した。声を絞りだそうと口が動くも、息が喉を通らないようだ。
その表情からして、ベルトルドの話した内容の通り書かれているのは明らかだった。
「なぜあのドワーフがそれを持っていたのかは分からん。だが、それが現実に今ここにあるのは確かだ。教えてくれ、ルディガー。俺たちはどうすればいい?」
彼は一瞬、酷く苦しげな表情を見せた。だが、口を開いたとき、その声にははっきりとした決意がこもっていた。
「おらは……おらだけの話をするなら……これを見過ごすことは、できないだ。少なくとも、調べて誰かに伝えるだけのことはしないといけないだ。でもその前に、ヨナス師に預かった手紙を探さないと……」
アルブレヒトはため息をついた。
「そういうだろうと思っていた」
イムラクが一歩前に踏み出した。
「その文書の裏をとるのは、わしとベルトルドがやろう! お主は師から委ねられた手紙を取り戻すがよい」
「そのことなんだがなあ、ルディガー。確か財布に手紙も入れてたよな。お前、昨日、市から帰る途中で眼鏡を掛けた男とぶつかっただろ? あの時にスラれたんじゃあないか?」
ルディガーはハッと思い当たった表情になった。ベルトルドに言われなければガムシャラに聞いて回るつもりだったのだろうか。アルブレヒトは、ルディガーの思慮深く知識の多い反面、酷く鈍感で察する能力に欠ける点を心配した。
「じゃあ俺とルディガーがスラれた財布をなんとかして取り戻す。イムラクとベルトルドで、昨日のドワーフのことを調べてくれないか。おそらくこの街に住んでいる筈だ。何者か調べてから、どうするかを決めよう。いいな?」
全員が頷いた。
アルブレヒトは、これが長い長い面倒事の始まりになると、当然ながら未だ気づいてはいなかった。彼らは逃げ出す機会を逃したのだ。その時──ドワーフから渡された書簡を手に取ったその時、それが最後の機会だったというのに。伯爵夫人の依頼も何もかもを捨てて、一目散に都市から逃げるべきだったのだ。身の安全を考えるなら。
とにかく、運命の賽は投げられた。ひとまず、出た目を確かめるべきだろう。
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「教えて欲しいことがある」
一拍置き、アルブレヒトは亭主が話を聞いているのを確認して、続けた。
「この街の、スリの元締めに会いたい。友人の大事な財布がスラれてしまったんでな」
亭主は鼻で笑った。周囲の卓につく男たちの中からも嘲笑が漏れる。
「馬鹿言うな。余所者がノコノコ行っていい場所じゃねえ。村に帰って糞して寝な」
「悪いが退けない訳がある。場所だけでいい。後はこっちでやる」
「脳味噌に象虫でも湧いてんのか。こっちゃ、親切で言ってやってるんだよ。目ん玉くり抜かれて道に転がりたくはねえだろ。違うか? アン?」
「これでその文句は収まるのか?」
アルブレヒトは亭主の前の卓に銀貨を一枚置いた。これで足りなければ、もっと出さなくてはならないだろうが、足元を見られるのは嫌だった。
亭主はチッと舌打ちをし、銀貨に手をのばした。
「馬鹿につける薬はねえってか。教えてや──」
「待ちな」
女の声が亭主の言葉を遮った。
「聞いてたが、度胸があるねェ。若いの。"スリ横丁"に行きたいンなら、アタイが案内してやンよ。その代わり、その銀貨はアタイのモンだよ。どうだい?」
アルブレヒトは声の主を探して辺りを見回した。
「チョット、どこ見てンだい。唐変木。アタイはここにいるだろう」
女の声のした方を見ても、誰もいないテーブルに、荷物の置かれた椅子があるだけだ。
「ここだよ、ここ」
椅子の上の荷物から手がヒュッと生えた。今の今まで、背負い袋にクロスボウが添えられているだけだと思っていたものが、椅子を下りて向き直った。
「よろしく。アタイはグレタ。しがない雇われの兵隊稼業さ」
それはハーフリングの女だった。身長4フィートもないだろう。背負ったクロスボウとの比がおかしい。髪を幾本かの三つ編みにまとめていた。太鼓腹で有名なハーフリングにしては、比較的腹の脂肪は少ない方だろう。その分、余った脂肪は上と下に向けられているようではあった。
「ケッ、余所から来たヤクザもんが調子に乗りやがって」
別のテーブルにつく男の一人が毒づいた。グレタと名乗ったハーフリングはそれを無視して、亭主に「さっさと注文のエール酒を出してやンな。それと、その銀はもうアタイのモンだ。指一本触れるンじゃないよ」
亭主は肩をすくめると、のばした手を引っ込め、奥のエール酒の樽に近づき木のジョッキに淡色の酒を注いだ。
「ゲヘヘ。ハーフリングは人間の男のアレがイイのかァ? 下の穴もチビッコイんだもんなァ」
グレタが返答しないことに調子づいた男の一人が下卑た声をあげた。グレタはジロリと振り向くと、ニィィと口角を上げた。
「そうだねェ──」
背後に挿してあるクロスボウを引き抜き。
「アタイはどっちかって言うと──」
クロスボウの先の金具に足を引っ掛け、背を目一杯反らして弦を引き。
「差されるよりかは──」
ツカツカと、青ざめた男に近づき。
「ブッ刺す方が好みだけどネ」
腹にドスッとクロスボウの先端を押し当てた。
「こ、ここでやり合う気じゃねェよな? 手前ェもただじゃ済まねえぜ。ソイツを引いたらオシマイだぜ。そんぐらいは手前ェのチビッコイ脳味噌でも分かるよな。そ、そうだろ?」
慌ててベラベラと喋る男を冷ややかな目で見下ろし、グレタは一言。
「怨むなら、アンタのガバガバの口を怨みな」
「オ、オイ! 本気か!? チョッ、待──」
バシンッと、弦が弾かれる音。
「ハイ、お待ち」
亭主がアルブレヒトとルディガーの前に、ドンとエール酒の入ったジョッキを置いた。
「……ボルトは装填してないンだけどねェ。……ありゃりゃ」
男は死の恐怖のあまり、失禁して下半身を水浸しにしていた。亭主が、糞、と毒づき、傍の用心棒らしき男に目配せした。逞しい男は筋肉をいからせ、"垂れ流し野郎"に歩み寄ると、音をたてて頬を張った。
「ヒデブッ」
椅子から転げ落ちた男を用心棒は踏みつけ、「おら! 手前で汚した分は手前で拭きな!」と、相手の手に雑巾を叩きつけ足で踏みにじる。
「ホラ、アンタら。それ飲んだらさっさと行くよ」
グレタがどこ吹く風という風にアルブレヒトたちに向けて言った。床に這いつくばってせっせと後始末に励む男をチラリと見て。
「一発やるにせよ、玉なしの男じゃアね」
━━━━
「さっきみたいなことは多いのか?」
「この辺じゃ、ね。ガラも悪いし」
女ハーフリングは銀貨を指で弾くと、空中でパシンと握った。
三人は石畳の街路を歩いていた。先程の店を出て、埃にまみれた路地を進んでいる。
「商店の並んでいる通りがあったろ?」
「そうだな」
「アソコが"ハントリッヒ通り"さ。ハントリッヒってのは、アヴァー川を辿ってナルンから伝わった商人の神様。ンでもって、今から行くのが"ラナルド通り"。屑と盗人の掃き溜め、通称"スリ横丁"さ」
一行は、家の軒先にうずくまり腐敗臭を放つ男の横を通り過ぎた。男は酒瓶をわが子のように抱きしめ微動だにしない。
「ハントリッヒなんてこすっ辛い神様より、ラナルドの方がアタイは好きだけどね。アンタはどう?」
「悪いが俺はタールを信じているんでな」
ハッハッとグレタは笑う。
「田舎モンだね。でも、嫌いじゃアないよ。そっちのアンタは? さっきから黙ってるけど」
「…………おらは女神リアを」
「女神様ね。ハーフリングも、エスメラルダって女神様を信仰してるんだよ。知ってた?」
グレタはスイスイと曲がりくねる道を先導する。段々と両脇の建物がみすぼらしく、老朽化したものが増えていく。崩れ落ちた廃墟の中に、ボロを着た六歳ほどの少女とその兄らしき少年が立って一行を眺めている。グレタは手をふると、寄ってきた二人に真鍮貨を一枚ずつやった。
「いや。お前もその神を?」
グレタは自分と大して背丈の変わらない少女の頭を背伸びして撫でていた。
「うン。アタイはそれに加えて、ミュルミディアも信じてるけどね」
「ミュルミディア?」
「知らないのかい? 戦術と戦争を司る女神様さ。ティリアとかエスタリアの方じゃあめっぽう信仰されてるみたいだけど、帝国じゃシグマーとかウルリックがいるもンね。同じ傭兵団にティリア人が多くてさア」
ティリアとは、帝国の南方に位置する都市国家の総称である。アルブレヒトの住んでいたウィッセンランドは帝国最南端の選帝侯領であるため、しばしばティリアからの旅人を見かけることもあった。傭兵で名高い土地柄で、帝国にもティリア人からなる旅団が多いと聞く。
エスタリアは、帝国の西方、騎士道を重んじる国ブレトニアの更に西に位置する国家だ。アルブレヒトはエスタリアに関してはあまり知識を持たなかった。
「ンじゃ、アンタら。なにかあったら、すぐアタイに知らせるンだよ」
二人の子供は貰った銭でその日のパンを買うために走り去っていった。 グレタは二人に向き直った。
「チビな方が、情報を集めるには役に立つモンさね」
更に何度か曲がり角を過ぎると、幾分大きな通りに出た。市の外周部に程近い貧民窟だ。一見して安物を通り越した不良品と分かる服や、腐った肉を熱い汁で誤魔化したスープ、偽物と明らかな護符等々を売るボロボロの露店が軒を列ねていた。
「普通、盗品はココで売られるンだけど、お友達の財布が盗られたンはいつだい?」
「昨日の夕方だ」
「じゃあ、まだ"仕分け"の最中だアね。運がいいよ。アタイがあの店で飲んでるときに来るとはね」
グレタはきびすを返し、露店の群れとは別の方向に歩き出した。別の路地に入ると、人一人が通るのが精一杯の道へと踏み込む。
アルブレヒトは気づいていた。さきほどから、ガラの悪そうなのが何人か一行に目をつけては、グレタを確認して道を開けるのに。どうやら、酒場の店主の言っていたことと、グレタの言っていたこと、両方が正しかったようだ。
「ここさア」
グレタは一軒の石造りの建物の前で止まった。周囲の建造物より、一回りか二回りは大きく、格段に頑丈そうだ。そして、
「いわゆる、アレさね。"盗賊ギルド"。ま、そんな大したモンじゃアないが。アタイらは"会館"って呼んでるけどね。言ってみれば"スリ横丁"の本拠地ってトコかな。さ」
グレタは二人を促した。
「……お前、一体何者なんだ?」
「言ったろ。しがない雇われ兵隊さ。アンタらには期待してるンだからさ。幻滅させないどくれ」
アルブレヒトは自分の三分の二にも満たない小人族の女を見下ろした。周囲をグルリと見て、既にその建物から延びる道は屈強な男たちで塞がれているのを確かめた。
「ね? アンタらに逃げ場はないンだよ。早く勇気を見せてみな」
アルブレヒトはルディガーと目を合わせて肩をすくめた。そして目前に聳える三階建ての悪徳の巣に向けて、一歩を踏み出した。
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「そンなにビクビクしなさんな。採って食いやしないンだからさア」
グレタは建物の中に入ると、先程までとは変わりアルブレヒトたちに先頭を歩かせた。いつの間にか、クロスボウを手に抱えている。廊下は外壁伝いの一本道で迷う心配はなかったが、どこに連れていかれるか分からない不安はあった。
「……目的はなんだ」
「さっきも言っただろ。案内してやるって」
「……どこに向かってる」
「そりゃア、"親方"のトコへさ」
ここがいわゆる"盗賊ギルド"なのだとしたら、その頭目は当然(ギルドの長なのだから)"親方"ということになるだろう。グレタがそういう意味で言っているのなら。
「アンタら、いつこの街に来たんだい?」
「つい昨日さ」
グレタはヒューと口笛を鳴らした。
「ギリギリ
"太陽動かず"とは夏至の祭りのことである。
「知らなかったな。いつもあんなものなのかと思っていた」
ずっと旅を続けていたので、暦の感覚が抜け落ちていた。
「最近はね。なにかと物騒だし。……なんだ。昨日今日着いたばっかりなのかい。だからアンタら、こんな無謀なことができたンかい?」
「いや。どちらにせよ、あんたに頼むことになっただろうな」
グレタはアルブレヒトの言った意味を誤解したようだった。
「アンタ、金で命は買えないよ。覚えときな」
目の前に、厚い鉄の扉が現れた。両脇に控える帯剣した男二人が、行く手に立ち塞がった。
「何の用だ」
「"親方"に会いに来た客人を連れてきたのさ」
「武器を預かろう」
三人はそれぞれ自分の得物を、ダガーも含めて見張りに手渡した。アルブレヒトが素直に従ったのは、いざとなればルディガーの魔術があると考えてのことだった。
見張りが鉄の扉の鍵穴に鍵を差し込み、ガチャリと回した。もう片方が重い鉄扉を両腕で押し開けた。鍵を持った方が、ニヤリと笑った。
「怖いか。ここは蛇の巣だぜ」
アルブレヒトは額の汗を拭った。
「知っている。俺たちはその蛇に用があるのさ」
部屋の中は朦朧として、定かでなかった。白や青の煙が充溢している。強い煙草の匂いがした。
「そっちさ」
グレタが指で二人を促す。暗い中をゆっくりと歩いていった。
部屋は広いホールとなっていて、テーブルと肘掛け椅子が幾セットも並んでいた。高級品であることは、雰囲気で分かった。
ホールの中心では、長い衣をまとった踊り子が身をくねらせる様が、灯りに照らされ、そこだけは部屋のどこにいてもはっきりと見られる様になっていた。脚を露出した、スラリとした肢体に思わず見惚れる。
「中々のものだろう」
椅子の肘掛けの向こうから声が響いた。しゃがれた中年の男の声だ。だが、なにげない調子の中にも威厳がこもっていた。
「わざわざナルンから呼び寄せたのさ。金もかかったが、必要経費ってやつだな。北の出身だそうだが、北国の女は雪に磨かれて肌が白いと聞いてね」
グレタが、正面に回れ、と合図した。アルブレヒトは従って、円卓を挟んで椅子に座る男の向かいに立った。
「座れ」
気がつけば、周囲は幾人かの男に取り巻かれていた。アルブレヒトとルディガーは観念して、円卓の前の椅子に座った。目の前の男の顔は、厚い煙に邪魔されてよく見えない。
「ようこそ。シュトライッセンへ」
男が両手を広げた。大分肉付きがいい。財布は充分に(少なくともナルンから踊り子を呼べるほどには)潤っているのだろう。
「どこの街にも、盗賊はいるもんだ。スリ、かっぱらい、屋根跳び泥棒、巾着切り、押し込み強盗……。この街も同じさ。自治が為されていようと、いまいとな。俺はそういう無法者どもに秩序を与える男だ。"親方"と呼ばれている。あんたらもそう呼んでくれて構わない」
フーッと男は煙を口から吐いた。周囲に漂う煙がアルブレヒトまで流れてくる。アルブレヒトは手でそれを払いのけた。
「俺の友人の財布がスラれた。あんたの手下の仕業だろう。大事なものだ。返して貰いたい」
"親方"はまた煙を吐いた。思案げに沈黙する。アルブレヒトが少し焦れだした頃に、また声が聞こえた。
「対価が要るな。こっちは商品を渡し、そっちは金を払う。商売の基本だ」
流石のアルブレヒトも、それは話がおかしいと指摘することはしなかった。相手の牙城でそれをするのは愚か者だけだ。
「財布に入っていた金の半分でどうだ?」
ルディガーには前もって、手紙さえ取り返せば金が戻ってこなくても構わないと言われていた。いきなり金を全部渡そうと言わなかったのは、足元を見られないようにするというアルブレヒトなりの用心だ。
「そいつが本当に盗まれたのだとすれば、それはもうこちらの懐に入ったものだ。あんたらの交渉の材料には、ならない」
こう、返されるだろうともアルブレヒトには分かっていた。
「なら、その財布の、金以外の中身丸ごとを、金6枚で買おう」
"親方"の煙を吐く音だけが聞こえた。
「……なにが入っていたのか、聞かせて貰おうか」
アルブレヒトはルディガーを見た。
「……手紙、だよ。大事な人への手紙だ。言えるのはそれだけだ」
「中身を確認してから、どうするか決めよう」
それが、最終的な通告だった。
ルディガーのまとう雰囲気が変わった。
「それはさせられないだ」
アルブレヒトが制止する暇もなく、立ち上がると、指を煙の向こうの"親方"に突きつけた。
「おらは魔術師だ。"翡翠の学府"の名に於いて命じる。速やかに盗品を返却してもらおう」
周囲の男たちが一歩下がるのが分かった。空気が一気に険しくなる。そんな中に笑い声が響いた。
「ハッハッ。面白いやつだ。初めからそう言えばいいものを」
"親方"は煙を吐いた。
「若いの。名は?」
「……ルディガー」
「どんな男にスラれた?」
「眼鏡を掛けた、茶髪で青い瞳の男だよ」
「そんじゃあ、ラルフだな」
矢継ぎ早に尋ねた"親方"はそう合点すると、傍にいた男にラルフを連れてくるように命じた。男が走り去ると、再びルディガーの方を向く。
「若いの。読み書きは出来るんだろ。当然だな?」
「……う、うん。出来るけども」
相手の勢いに呑まれたルディガーは、既に名乗りをあげたときの威勢を失っていた。
「呼びましたか」
眼鏡を掛けた昨日の男が、先ほどの側近に連れられて横に立った。ルディガーを見て、一瞬ギョッとする。
「ラルフ。こいつからスった財布ってのは持ってるのか?」
「え、ええ。ありますよ」
ラルフは懐から大きな財布を取り出すと、ドサリと机の上に投げ出した。こんなものを盗むのも盗むのだが、スラれて気づかないルディガーもどうかしていると、アルブレヒトはため息をつく。
「そいつに返してやんな」
「いいんですかい」
「ああ」
ラルフは財布を拾うと、ルディガーに手渡した。
「ほらよ。街じゃ懐に気をつけるこったな」
ルディガーは"親方"に向き直った。礼を言いかけようとするのを、"親方"は押し止める。
「いいのさ。どっちにしろ、そのラルフのシノギじゃねえんだ」
"親方"は煙を吐いて続けた。
「潜入さ。……あんたもな」
ルディガーとアルブレヒトに緊張が走った。
「どういうことだ」
「言葉通りさ。その財布はもう、そっちのルディガーのもんだ。だが、その代わり……俺たちのために働いてもらう。字が読めて、学のあるやつが欲しいのさ。魔術師ってのはうってつけだろ? 胡散臭い巷のまじない師とは違うってのを期待してるぜ」
アルブレヒトはゴクリと唾を飲んだ。
「断ったら?」
「断らないさ。その時は、その財布をもう一度頂戴するだけだからな。よっぽど大事なものらしいが、こっちだって魔術師の旦那の秘密のブツなんて欲しかないやね」
黙っていたルディガーが口を開いた。
「……潜入ってどこへだか?」
煙の隙間から、"親方"のニィと笑う口元が見えた。
「シュトライッセン市立医学大学校。……あんたには、学生になってもらう」
━━━━
「じゃあ、グレタ。こいつらを"スリ横丁"の外まで送ってやんな」
「了解。旦那」
立ち去ろうとするルディガーに、"親方"が声をかけた。
「見逃すのは、一回だけだ。次はないぞ。覚えておくことだ」
音をたてて閉まった鉄扉の外で、グレタとラルフが楽しそうに二人に話しかけた。
「アンタら度胸もあるが、本当運がイイねェ。親方の機嫌が良くてツイてるよ」
「魔術師ねえ。ホントに魔術なんて使えんのかい? 奇術やるイカサマ師ならその辺にいるけどさ。……ま、なんにせよ。これからは同輩だな。ヨロシク」
ルディガーは手を出して、ラルフと握手した。アルブレヒトの見たところ、このラルフという男は相当開けた(あるいは自身の興味に忠実な)性格の持ち主らしい。普通の人間なら、魔術師だなどと名乗る男を前に平常ではいられないし、ましてや信用など微塵もしないだろう。
「じゃ、行くか」
ラルフはスタスタと歩き出した。
「どこへ?」
「決まってるだろ。大学へさ」
時事ネタで「大学に行こう」ということで。