「アヴァーランド、アイニング村の酒場『麦と羊亭』にて」
既に夜は明けていた。夜明けのまどろみの中で、騒がしい酔客も家へと帰り、酒場の中には不思議な静寂が満ちていた。
酒場には二人の人物がいた。カウンターを挟んで、酒場の亭主と女の客が一人、向かい合わせに酒の杯を酌み交わしていた。お互いに言葉はない。言葉の要らない関係だった。
「長かったな」
亭主がぽつりと呟いた。女が杯に口をつけた。
「5年、いやもっとか」
「あいつらには、感謝するんだね」
女の言葉に、男は頷いた。
「ああ。そうだな」
亭主は杯に酒を注ぎ足すと、女の前に掲げた。
「弟の魂の安息に」
女も唱和した。
「眠りを得た幸いなりし亡者に」
「
男と女の声が酒場に響き、続いて陶器の杯が打ち合わされる音が鳴った。
酒場の扉が勢いよく開くのと、亭主が杯をカウンターに置くのが同時だった。
「大変だ。……大変だよ!」
駆け込んできた女は二三歩よろめくと、糸が切れたように床に倒れ込んだ。
「ローザが! ローザが!」
亭主が相手の顔を認め、駆け寄った。
「肉屋のおかみさんじゃねえか。ローザがどうしたい。あいつ、一昨日から帰って来やしねえんだ」
入ってきた女は床に倒れたまま、頭を抱えて震えていた。その手を離し、顔を上げたとき、そばにいた二人はギョッとした。指には抜けた髪が何十本も絡みつき、顔は深い皺で十年は老けたように見えたから。
「イヒ。イヒヒヒ」
女は甲高い裏声で叫んだ。二人は思わず後ずさった。
「ローザはねぇ、"お肉"になっちまったよ。イヒヒ。早く店に並べなくっちゃあ。
二人は顔を見合わせた。目で合図して女に肉屋のおかみさんを任せると、亭主は奥の部屋へと向かった。
斧と松明を取りに行くために。
「同じくアヴァーランド、州都アヴァーヘイムの酒場『眠る牡牛亭』にて」
物音が鼓膜を震わした。本能的にそちらを向く。
黒髪の少女が一人、血濡れの酒場の中に立っていた。染めていないブラウスに、長いスカートを穿いている。まだ、七つか八つといったところだ。
スカートの色はほとんど分からなかった。血で真っ赤に染まっていたから。
「お姉ちゃんたち、助けてくれたの?」
少女は一歩足を踏み出した。木靴が血の中でピチョンと音をたてた。
「あ、ああ、連中に捕まってたのか? もう大丈夫だぜ。助けに来てやったからな」
雇った男の内、馬車の中で長口上を垂れていた男が、駆け寄ろうと脚を踏み出した。
甘すぎる。
「それ以上、そいつに近寄るな」
わたしは男にそう言うと、腰のクロスボウ・ピストルを抜いた。弦を引いて、引っ掛ける。
「どうして? お姉ちゃん。お姉ちゃんはわたしの味方じゃないの? 助けてくれたんでしょ。
わたしは背の矢筒からボルトを一本抜き出し、目の前の少女に向けたクロスボウ・ピストルに装填した。目線で狙いをつける。
「ねえ、止めてよ。どうして。ねえったら」
「お、おい! なにやってるんだよ! ただの女の子じゃあねェか!」
わたしは、一言だけ言って引き金を引いた。
「
ボルトは少女の胸に吸い込まれた。トスッと音がして、少女の体が一瞬浮き、直ぐに膝から前のめりに倒れた。
わたしは血だまりの中を歩いて、少女のもとへと向かった。その間に二射目を装填しておくことも忘れない。
少女は虫の息だった。乱れた黒髪の間から、案の定うなじに生えていた
口が動いた。
「へ、へへ。上手いこと言うねえ。口数が多い、ね。へへへ」
「
「口」は「口」を歪めて笑った。
「だってよ、宿主に喋らせたらボロが出るだろうがよ。宿主ったら、お前のことを憎んでも余りあるぐらい憎んでるんだぜ」
わたしはクロスボウ・ピストルの照準を、「口」に合わせた。
「おおっと。どうせ、そいつは無駄だぜ。おれは宿主と繋がってるからよ。こいつが死ねば、すぐにおれも道連れなのさ。見てみろよ」
血だまりの中に浸かった少女の本来の口が動いた。
「お……とう……さ…………」
少女の灰色の瞳が濁っていった。
わたしは引き金を引いた。弦がボルトを弾く乾いた音が鳴り、少女の首にボルトが突き立った。それで終わりだ。
血と肉の中を戻るわたしに、男が怯えと、それでいて僅かながら怒りも籠った視線を向けた。
「どうして、そんなことができんだ? お前ェには人の心が無いのか?」
目をそらし、わたしは答えた。
「慈悲を捨てろ。情けを捨てろ。迷いも逡巡も捨てろ。弱さを捨てろ。……それがこの世界で生き残る唯一の方法だ。覚えておけ」
男は重ねて尋ねた。
「お前、ずっとそうやって生きてきたのか?」
「ああ、そうだ。いつからかなんて忘れてしまうほど昔から……な」
わたしは上を見上げた。ふと、思い出したから。
違う。ずっと昔、ずっとずっと昔には、そうじゃない時もあった。あれはいつの頃だ? わたしが愛と悦びのために人生を生きていた時代は。
あの頃は、母さんも、姉さんもいて、わたしたちは三人で石畳の都市の中で助け合って生きていた。わたしが井戸で洗った洗濯物を抱えて帰ってくると、二人は優しく笑って迎えてくれたっけ。
どうしてこうなった?
気がつけば、わたしは血と肉と骸の中に一人立っていた。
「やはりアヴァーランド、都市シュトライッセンの酒場『折れた三本の矢亭』にて」
「アツアツだな、先生!」
「俺に草運びなんて、どうせ『汚れ果てて死ねばいい』なんて思っているんでしょうね」
酒場の扉が開くと、二人の男を引き連れた、黒衣の男が姿を現した。男の衣服は汚れと垢とで、すっかり真っ黒だ。
後ろの男二人の片方は、盆に載せた料理を持ち、もう片方は腕に山のように雑草を抱えている。
「まさか。お前たちはわしにとって宝のような存在だよ。『死ねばいい』なんて思うわけないじゃないか」
男は歩きながら、一人ごちた。
「しかし、あの村では、計画があんな連中に妨げられるとはね。
忌々しそうに続ける。寂れた道にはその言葉を他に聞く者もいなかった。
「あのドワーフもそうだ。貴重なワープストーンの粉末を使うことになるとは。
黒衣の男は自分の馬車に着くと、幌をくぐった。
「さあ。お前たち、食事だよ」
暗闇から声が答えた。
「ああ。待ちくたびれたよ、先生。新鮮な草かい?」
「やっと、やっと、食事にありつけるのね。やったわ」
黒衣の男は、男と女の声それぞれに返答した。
「おお、ケニス。お前は前の村で少し
呼びかけられたそれぞれが答えた。
「だって、一日中馬車の中なんて退屈で、退屈で。先生も一回やってみれば分かるよ!」
「ああ、やめて、先生。わたしは美しくなんてないの。この世で最も醜いのよ」
黒衣の男は女の声がする影に近づいた。
「"醜い"? "芸術的"の間違いだろう? お前はどんな彫像や、絵画の中の美女にも負けない美しさだよ」
影が蠢いた。
「ああ、やめて。やめて。やめて」
黒衣の男は囁いた。
「お前が一番美しいよ、エルフェンミーナ」