ルディガーには視えていた。
この村に入ったときから、"ウルグの風"だけでなく、八色全ての風が混ざり成された混沌、"ダハール"が存在するのを。
アルブレヒトが獣人がフリッツである可能性を指摘した時、すぐさま混沌の黒魔術師がいる可能性を述べることができたのはそのためである。ルディガーといえど、人間を獣人に変える魔術そのものを知っている訳ではない。ただ、人をその暗黒面を剥き出す形に変化させる混沌の魔術の本質を知っていたに過ぎない。
そしてルディガーが知っていた事実はもう一つある。"ダハール"を使う者には二通りしかいない。混沌の黒魔術師か死者を蘇らせる死霊術師である。
混沌の魔術は強力だが、危険も大きい。使う者にとっては危険だが、それによって得られる力も莫大ということになる。道を踏み誤る者は後を絶たない。
それでもルディガーがアルブレヒトに警告しなかったのは、見えた"ダハール"が微量だったこと、そして"混沌"という単語またそれに付随する意味が、一介の見習い魔術師であるルディガーには余りに重かったからである。
しかし今やアルブレヒトに伝えなかったことは、彼が負傷するという結果を伴って最悪の形で現れた。
今ならルディガーにはまざまざと視える。"かつてフリッツだった者"の周囲に黒々と淀んだ流れが溜まっているのが。
4人は今、所有者の死んだフリッツの家の中で、そのかつての所有者の亡骸を囲んで座っていた。戦いの興奮で意識しなかった皮なめし屋の悪臭は既に全員に感じられるようになっていた。それと共に、強烈な血の匂いが部屋中に沸き起こり嗅覚を貫いていた。
しかし、この家の外の霧の中には獣人と化した村人たちが潜んでいるかと思うと、臭気の溜まったあばら家が石を積み上げた要塞であるかのように思えて、容易には外に出ようと思えなくなるのだった。
獣人は顔をルディガーの方に向けてうつぶせに倒れていた。その顔に少しでも人間らしいところがあるといえば、2つの目と一対の鼻孔があるという点しかなく、びっしりと獣じみた鋭い歯が生えている口、鋭角に尖った耳は人よりは野性動物に属する部位だった。鼻も人間にしては、潰れ過ぎていたし、眼球は充血して真っ赤だった。
そして、その人間と最も異なる点は褐色の体毛であった。体毛は頭から首、あごに続いて、ぼろ切れを纏った肩、背中まで一面に生えていた。
「で、でも、こいつがフリッツだって?」
ベルトルドが言った。
「いくら何でもそんな……」
「しかしわしの故郷で聞いたが、獣人はかつて皆、人だったと言うぞ」
イムラクが反論した。
「でも何でそれがこの村に……」
理解できないベルトルドはルディガーに顔を向ける。
「なあ、あんた魔導師なんだろ? 何でこんなただの村に獣人がいるんだい? 俺に分かるように教えてくれよ」
ルディガーは答えない。まず帝国立魔法大学校の八学府のどれにも属していないルディガーは、"魔導師"ではない。ルディガーはただの魔術師見習いである。しかしその点を指摘する気はルディガーにはなかった。ルディガーはベルトルドの質問を本気で考えていたのである。
やがて今までの状況を元に考えた結論をルディガーは述べた。
「分からないだ。どうしてこの村に獣人がいるかも、黒魔術のしるしがあるかも」
その発言により、一行の間には深い沈黙が漂った。
沈黙を破ったのはイムラクだった。背負い袋を開けて何やらガサゴソと探ると、包みを取り出して言う。
「何にせよ、ここで腹ごしらえじゃ。腹が減っては戦はできんからな」
そう言って、包みを開け中のナッツを手づかみで頬張り、ルディガーにもビスケットを取り出してすすめる。
ルディガーは素直にそれをとり、バリバリとかじり食べ始めた。それを契機に一行の雰囲気は多少やわらぎ、アルブレヒトも自分の荷物から塩漬け肉の入った包みを取り出して、包みをうまく持ちながら頬張り始めた。
ベルトルドが無理矢理に陽気さを取り戻して言った。
「俺山型パン持って来てるんだ。誰かいるかい? 一杯やってもいいかもな」
そう言って革製の酒入れとパンを鞄から取り出す。
「やめておけ。ここからは判断力は保っといた方がいい。水にするんだな」
アルブレヒトが諭す。ベルトルドは仕方なく酒入れをしまい、同じく革製の水筒を引っ張り出した。
ベルトルドが一杯飲むと、イムラクもベルトルドに声をかける。
「こっちにも水をくれんか?」
そのまま四人は水を回し飲みする。
飲み終わったアルブレヒトが口を開く。
「そう言えば、ずっと考えていたんだが、ベルトルド」と、呼びかけた。
口をモグモグさせながら向き直るベルトルドに対して続ける。
「この村が隣村と呼ばれる理由は、この村の職業にあるんだろ?」
ベルトルドは雷に打たれたようにビクッとして、押し黙った。暫くしてそろそろと動き出すと、口の中のパンを飲み込み、言った。
「……その通りだ。ここら辺の土地は痩せてるし、元々貧乏な小作人が多かったんだが、次第に村のつまはじきにされた皮なめし屋とか染め物屋だとかが住み始めて、それで村の連中はいよいよここのやつを下に見るようになった。今じゃ同じ村とも思いたくないってんで、隣村って呼んでるわけだ」
イムラクが一喝する。
「おぬしら、同族に対してそのような態度をとって何とも思わんのか!」
アルブレヒトが手振りで、声の大きさをおとすようにイムラクに注意する。
「……そりゃあ俺だって嫌だったさ。フリッツは小さい頃からの友達だった。ガキの頃は大人の都合なんて知らないからな。皮なめし屋の息子と靴屋の息子ってのもあって、そりゃ散々遊んだもんよ」
ベルトルドは暫し沈黙した。
「でもよ、俺だって気付くさ。フリッツと遊ぶとおやじやお袋がいい顔しないってことぐらいな。村の連中の影口が聞こえる年になりゃあ、自然とフリッツとは疎遠になった。だけどよ、俺はいつだって村の連中が正しいなんて思ったこたあねえぞ!」
ベルトルドは叫んだ。
ルディガーは思った。
同じだ。
自分と同じだ。
ただフリッツと自分を分けるのは、彼には一応同じ集落に仲間がいたこと、そして彼が既に死んでいるということだけだ。
自分にもかつてこう思っていた友人がいただろうか。彼と分かちがたく結び付いていたにも関わらず、周囲によって半ば強引に裂かれてしまった友人が。
ルディガーはそんな友人を思い出せなかった。ルディガーは自分を物事を忘れない人間だと思っているが、今度は自分が忘れてしまったのかもしれないと思った。
きっと自分にもいただろう。
故郷に、彼の身近に、誰よりもその友達のことを考えるが、その友達よりもほんの少しばかり自分を大切にしたがために、その友達と二度と野原を駆けることの無かった少年が。
いや、ひょっとすると自分もそうやって友人から逃げ、安全な場所で安穏と過ごしてきたのかもしれない。
ルディガーの思考は廻り、自分に向けて返ってきた。
自分は"魔女の眼"を持っていることで、知らず知らずの内に他人と自分の間に境界線を定めていたのではないか。そうやって自らは常に線のこちら側にいて、他人が線を越えるのを拒んできたのではないか。
同じだ。フリッツもベルトルドも、彼ルディガーも。人間が、その根本的な所に持っている差別と排他主義の表れに過ぎない。
「フリッツ、ごめんな。お前がこんな姿になる前にお前に謝っときゃあ良かった」
ベルトルドが、既に人間だった時の面影は残していない亡骸に言う。
「こんな姿で死んじまってなあ、弔いも挙げられねえ。モール神だって引き受けてくれるかどうか」
ベルトルドはその門戸をあらゆる階層の人間に平等に開いていると言われる、死の神の名を出した。
確かに獣人ではモール神の庭には埋葬できないだろう。2シリングさえ払えば、どんな人間でも埋葬して貰える墓地だというのに。
この世界で誰しもに平等に与えられるのは、母親の腹から生まれることと、死してモールの下に還ることだけだ。フリッツはその片方の権利を永久に奪われた。ルディガーにはベルトルドの思いはよくわかった。
「それにしても憎いのはフリッツをこんな姿にした奴だ。何の恨みがあってこんなことしやがる!」
ベルトルドはいきり立った。
「その事なんだがな」とアルブレヒト。
「このことを仕組んだ奴は、この集落が村の中で差別されてるって知ってたんじゃないか?」
ベルトルドは問う。
「知ってた? でもなぜ? 何のために?」
「それは分からん。だが、例えばこの集落がまるごと無くなったとしても、あんたの村の人間は自分たちの家が無くなる程には関心を持たないだろう? つまりはそういう事だと思うね」
アルブレヒトは言い終わって、壁に背中を付け、天井を見上げた。
ベルトルドは今言われた意味を考える風な顔付きをするとブルッと体を震わせた。
「ここが無くなる? じゃあ早く逃げないと。無事な人間がまだいるかも」
そう言って立ち上がる。
「確かに座っていても埒があかん。腹ごしらえはできた。今からは戦じゃ」
イムラクも続く。
二人に続いて立ち上がったアルブレヒトとルディガーを見てベルトルドが言う。
「そうだ。俺の秘密は話したんだ。そっちのデカい方が故郷を飛び出した理由と……あんたの耳の傷の訳も後で聞かせてもらうぜ」
「ふん。訳も何も気に入らない領主の元を出た。それだけだ」
アルブレヒトの返事はにべもない。
ルディガーはベルトルドに言われ、はっと左の耳に手をやった。耳の中程が鋭い刃物で切り裂いたように、えぐれている。
その時、彼の目の前に閃光のように記憶が蘇った。
黒いフードを目深に被った人物が指をこちらに向けている。その向こうにいて叫んでいるのは彼の師匠だ。もう一人の黒フードと対峙している。
師匠は彼に叫んでいる。
「ルディガー! ――――、――――!」
その時彼は現実に引き戻された。
「ルディガー! どうした、ぼうっとして」アルブレヒトだ。
「い、いや、何でもないだよ」
そう言ってルディガーは、率先して筵を開ける。背後でベルトルドの声が聞こえる。
「筵は開けたままで留めておこう。開けておかないと、霊魂が部屋から出れずにずっとさ迷うって言うし」
家の外は日が沈みかけているからか、既に薄暗く、霧で覆われている。
まるで、さ迷う霊魂のような霧に。
霧はひんやりと冷たく、徐々に体温を奪っていった。イムラクの持つランタンの光が周囲をぼおっと照らしているものの、その光は弱々しく直ぐにでも霧に掻き消されてしまいそうだった。
既に日は沈みかけているようで、霧の片側が薄く赤みがかり、反対側は暗く沈んでいた。どうやらこの霧の中では方向感覚が失われたり、取り戻されたりするようで、一行はスムーズに村の中央部へと進むことができた。
時々道に人家が忽然と姿を現すこともあったが、決して一行は中に足を踏み入れなかった。さっきのフリッツとの遭遇が全員に暗く影を投げかけており、ベルトルドをはじめ皆、同じ轍は踏みたくなかった。一行は会話も無く、淡々と進んでいた。
村の中心部に引き寄せられていることにより、感覚的にこの怪異の原因もそこにあるのだとベルトルドにも分かってきた。
ベルトルドはこの一連の不可思議な出来事の中で自分の果たした役割がいかに小さいかを考えていた。さっきの闘いで彼は相手にかすり傷を負わせたに過ぎない。姿は変わってしまったとはいえ、かつての友を手にかけなくてよかったという安心感もあったが、もう元の人間に戻れないなら、いっそ自分が止めを差してやりたかったという義務感もあった。自分に力が無いばっかりに、友人を送ってやれなかったという考えもベルトルドを苦しめていた。
そして、何より自分のせいで他の三人はこんなことに巻き込まれてしまったのだという罪悪感がベルトルドの胸の中で渦を成していた。もちろんベルトルド自身がのっぴきならない事態に陥ったことの後悔もある。
あてどもなく、くよくよと考え込んでいる内に、少し広い場所に出たようだった。どうやら霧の外からも見えた広場のようだ。横にちらちらと見えていた人家が無くなり、目の前には一面に濃い霧が覆われている。
その時、ベルトルドはあっと声をあげた。
目の前に濃くわだかまっていた霧が、スウっと薄くなり途端に視界が開けたのである。未だ霧は残っている。しかしさっきまでの何重にもなった厚いカーテンは、今や引き裂かれた薄いシルクのベールのようになっていた。もっとも霧が薄くなったのは前方だけで、背後はやはり厚いカーテンで覆われていたのだが。
そしてそこには驚くべき光景が広がっていた。
そこは村の外からも見えた村の中心部にある広場だった。広場といっても適度な広さの更地が広がっているだけで、石も敷いていないが。
しかしベルトルドが知る限りそこに以前は存在しなかったものが姿を現していた。
広場には赤い塗料でもって何らかの(それが魔術的な目的のために描かれたことはベルトルドにも理解できた)複雑な図形が描かれていた。それは細かく見ると文字のようでもあり、しかしベルトルドはそれがアヴァーランドでもそれ以外のエンパイア諸州のものでも、ドワーフのルーン文字──ドワーフはアヴァーランドでは珍しくない──でも、ましてや──ベルトルドは数えるほどしか見たことの無い──エルフの文字でも無いことが分かった。というよりは、本能的に理解した。
それは余りに禍々しく、明らかに邪悪な意図の為に書かれる文字だった。
これは"混沌"の文字だ。
ベルトルドは直感した。
"混沌"についてはベルトルドも他のアヴァーランド人と同様にほんの僅か、権力者が民衆に知ることを許した数えるほどの知識しか持っていなかった。それは良くないもの、劣ったもの、恥ずべきことの象徴だった。"混沌"の信者はわざわざ優れたシグマー神やエンパイア八柱の神々ではなく、劣った悪しき神を信仰している。そして魔狩人やシグマー教団の優れた方々がその間違いを正してくれる。そう思っていた。
しかし実際は違った。それは"敵"だった。
ベルトルドにとって北方の戦乱も森に潜む獣人も、都市に巣くう秘密教団も余りに縁遠い存在だった。それが今目の前に端的に現れ、ベルトルドは純粋に恐怖した。ベルトルドは平和な村に囲まれ、世界の汚濁も血だまりも見えていたのに見ていなかった。それが形をとった今、ベルトルドはまるで今まで暮らしていたのが怪物の胃袋であったかのような錯覚を得ていた。
ふと横を見ると、ルディガー、アルブレヒト、イムラクもやはり青ざめた顔をしていた。彼らにしても、混沌の脅威をこれほどまざまざと目にするのは初めてなのだろう。
ベルトルドは少し安心した。
"混沌"の文字は恐ろしくねじまがっており、ある文字が別の文字と繋がっているかと思うと、他の文字を飛び越して次の文字と一体になっている有り様だった。そして文字は遠目で見ると一本の線を描いており、その線はぐるりと直径15ヤードほどの円を形づくっていた。
文字は赤いインク────それこそ
アルブレヒトがルディガーに顔を向け、ルディガーは円を見つめたまま口を開く。
「もう発動した後……だよ」
「それじゃ、これは」
ベルトルドが声をあげる。やはり?
ルディガーは頷いた。
「魔術の儀式の為の魔方陣だと思うだよ」
「この文字は?」と、ベルトルド。
「分からないけど、魔術語の文字じゃないだよ。多分……」
声を濁らせる。
「いや、間違いなく"混沌"の悪魔の使う文字だよ」
「ううむ、見るからに性根の腐った輩の書く文字じゃな」と、イムラク。
「そこへいくと、我がドワーフの匠の操るルーン文字は実に明快。直線を組み合わせた明朗にして力強いその文字は一度岩に刻めば千年の時をも軽々と耐え抜くのだ」
イムラクの自慢話を聞き流していた三人だが、アルブレヒトが円の中を指した。
「おい、こいつの中にもなにかあるぞ」
そう言ってルディガーに目を向ける。
「これは足を踏み入れていいものなのか?」
ルディガーは黙り込む。
しばらく考えて答えた。
「分からないけど、これは村人を獣人に変えるためのものだと思うだ。儀式はもう済んでいるから今入っても何も起こらないと思うだよ」
ふん、と鼻を鳴らして、アルブレヒトはそれでも怯えた様子でそろそろと足を踏み出す。
アルブレヒトのつま先は円の中の地面についた。
周囲には何も変わったことはない。
アルブレヒトはそのまま踵までゆっくりと足をつけ、一息つく。
そのまま両足を踏み入れるとグングンと進んでいった。振り向くと残り三人に言う。
「おーい、お前達も早く来い」
三人は互いに顔を見合わせて、躊躇する。やがてイムラクが意を決したように一歩を踏み出す。そのまま何も無いのを確認すると二人も続いた。
アルブレヒトの元まで来ると、アルブレヒトは地面を指して訊ねた。
「これは何だ?」
そこには外側の円より一回り小さく同様に赤い文字で書かれた円、そしてその中心には一体の獣人の生首が鎮座していた。フリッツと違い、もはや人の面影は全く残っていない。山羊のものと思われる巨大な角が一対、頭部の両側から突きだしている。その苦悶に歪んだ顔、そして鋭く尖った牙と、邪悪な眼差しがそれが只の獣の頭部でないと、教えていた。首は切断されており、既に血は流れていなかった。腐りかけた独特の臭いが鼻をついた。
そして衝撃は生首より小さいものの、その邪悪性ではそれにひけをとらない物品がその周囲に並べてあった。
それは一見して複数のカードの束と分かり、ベルトルドが屈み込んで見ると一セットのタロットカードと分かった。
その余りの背徳さにベルトルドは息を飲んだ。"魔導師"のカードは明らかに"混沌"の黒魔術師と分かるけばけばしく猥雑な服を着た男が描かれており、その横の"皇帝"のカードで玉座に座っているのは王冠を被り干からびた骸骨である。ベルトルドは身をのけぞった。
さすがに誰もそれらの物品に触れようという者はおらず、しばらくしてルディガーが呟いた。
「儀式に使う道具だよ。汚れてるから触れない方がいいだ」
誰も反対せず、円から離れるように歩み去った。
しかし、外側の円に着く前に一行の目にはもう一回り小さい別の円が映った。全員目を合わせるが、アルブレヒトが先導するように先に立って歩き出した。その円は直径5ヤードほど、使われている文字はベルトルドの知らない不可思議な文字ではあるが、先ほどのような悪意は感じなかった。
そして円の中には
その男はマントを羽織り、顔をこちらに向け、両手足を重ねて横たわっていた。
アルブレヒトが倒れていた男に駆け寄るが、首筋を少し触って、こちらを向くと言った。
「もう死んでいる」
ベルトルドは特に不思議に思わなかった。それは男の姿を見たときから予感していたからだ。しかし、異常な形の人の死に既に慣れてしまっている自分に対しては少し驚いた。
ベルトルドはもう少し近づき、男の顔に見覚えが無いことに気付いた。顔に際立った特徴の無いその男は、輝きを失った瞳で一行を見つめていた。男が魔術の生け贄にされたのは明らかだった。
ルディガーは腰を下ろし魔方陣を見つめている。
その時アルブレヒトが声をあげた。
「こいつ、傷口が無いぞ」
ベルトルドも男を見るが、沈みつつある夕陽にぼんやりと照らされた土気色のそのはだに確かに血はついていなかった。
「服の中はどうなんだい?」
ベルトルドの問いにアルブレヒトが答える。
「別に見当たらんし、わざわざ殺した後に服を着せるのか?」
「じゃあきっと魔法で魂を奪ったんだ」
アルブレヒトはルディガーに視線を向けるが、集中しているルディガーは気づない。 代わりにアルブレヒトはベルトルドに訊ねた。
「こいつは誰だ? 村の住人か?」
ベルトルドは首を振る。
「いや、見たこともない顔だ」
そこにイムラクが割って入った。ふんふんとさも分かったかのように、死体を検分する。
「ふむ、死因は分からんが、大分軟弱なやつのようだな。手にちっともマメができておらん。この中指のタコは羽ペンの持ちすぎじゃろうな」
死体の腕をぐにゃりと持ち上げて、子細に観察しながら言う。
「ほう?」とアルブレヒトは興味ありげだ。
首を曲げると、ルディガーに声をかけた。
「ルディガー! 何か分かったか?」
ルディガーはいつものように暫く黙って考えると、こちらを向いて言った。
「この儀式は"影の魔法体系"の呪文だよ」
「"影"? そいつはお前の言ってたなんたらの風を使うやつか?」
「"ウルグの風"だよ。影の魔術を操る
「ほほお、臆病者の使う魔法ということだな」と、アルブレヒトは突然腰に下げた剣を抜くと、死体の首にピタリとあてた。
ベルトルドは慌てた。アルブレヒトが恐怖の余りおかしくなったと思ったからだ。
「お、おい! 何してるんだ?」
しかし剣を自分に向けられても困るので、アルブレヒトからじわじわと体を離した。イムラクも横で固まっている。
それには答えずに、アルブレヒトはもう一度ルディガーに訊ねた。
「ルディガー! その影の何たらには人間を死体に見せかける術もあるのか?」
ルディガーは暫くじっと黙って、それから口をゆっくりと開いた。
「知らないだ。本当はあるかもしれないけど、おらは教わってないだ」
そして少しの沈黙。
「……でも、"影の魔法体系"ならそういう呪文があっても不思議じゃないだよ」
アルブレヒトは満足げに頷くと、目の前の死体に目を向けた。
「だそうだ。あんたもボロが出たな」
剣を構えたまま言い放つ。死体は(当然のように)黙っている。
ベルトルドは更に慌てた。
「死体なんだから答える訳ないだろう? どうしてその男が生きてるなんて思うんだ?」
「一つにはこの死体が腕を曲げられるほど、まだ柔らかいということだ。死んでからまだ時間がたってない証拠だ」
アルブレヒトは目線を死体に合わせ、剣を構えたまま続ける。
「しかし俺たちが来たときにそんな大がかりな魔法を使った気配は無かった。こいつの死とこの魔法陣自体は別の魔法ってことだ」
「しかし、こやつは生け贄なのじゃろう?」とイムラクが訊く。
「本当のこの魔法の捧げ物なら、ほらこいつの後ろにあるさ」
言われて見ると、確かに男の背後にランタンとランプが置いてあった。どちらも大分使い古したボロボロの物品だったが、飾り等から元々は大層立派な品だったように見えた。
「でも、これがそうだからってどうだって言うのさ?」
「これからが二つ目の理由だ。こいつには外傷は何一つ無い。ルディガー、人間の魂を奪う魔法ってのはあるのか?」
ルディガーは今度は考え込まなかった。
「あるだよ。人の魂をはぎ取る呪文は"死の魔法体系"を使う
「だそうだ。こいつは
死体はアルブレヒトの意見には何も反応ない。
一呼吸置いて更に続ける。
「三つ目の理由はこいつが指にマメもつくらず、ペンダコしかない手をしてるってことだ。このご時世にそんなことしてられる連中は貴族か魔術師しかいないからな、そうなんだろう? 魔術師の先生?」
死体はやはり死体のまま固まっている。
「そいつが死体に化けてるんなら、耳も聞こえないんじゃないのか?」
ベルトルドが釘をさす。
アルブレヒトはやけに自信たっぷりだ。
「聞こえるさ。俺たちが来るのを目を開けてじっと見てたほどの臆病者だからな」
そして大きく息を吸って大声を出す。
「十秒待つ! それまでに術を解け。さもなくば貴様の首を切り落とす!」
死体は何も反応しない。
ベルトルドはやはりアルブレヒトが間違えたのだ、死体に化けるなんてそんなことあるわけが無いと思った。
その時、世にも奇妙なことが起こった。
土気色の死体の口が下方にパカッと開いた。顔の全体としては未だ口を開けた死体としか言い様が無かった。そして開いた口から不気味な声が轟いた。
「uruaaa、ugurugaaa!」
そして今度はそれに唱和するように、周囲の霧の中から声が聞こえた。
「ggguuwwaaaaaaaaoooooo!」
「uuuugguurrraaaaaaaaa!」
「rrruuuruugggggwwwaaaaaaa!」
そして更にそれらの声に答えるように、遠くから何十もの獣の叫び声が響いた。
4人は一斉に死体から飛び退き、それぞれの武器──ルディガーは杖、イムラクは肉切り包丁、ベルトルドは革断ち用のナイフ、アルブレヒトは剣に加えて
死体はまるで、もう死体でいるのに飽きたかのように、ビクビクと震え、ポキポキと骨を鳴らしつつ腕を地面につき立ち上がることに成功していた。そのまま首を曲げ骨を鳴らすと、先ほどよりは自然に口を開いた。
「そこの魔術師、名前はルディガーだな?」
呼ばれたルディガーがビクリと反応する。
今や死体でない男は大きく伸びをしつつ訊く。
「どうだ? こんな愚民共と旅をするのはよして、俺達の仲間に来んか?」
ルディガーは黙っている。
ベルトルドは不意に大きな怒りに襲われた。
「お前がこの村に魔法をかけた魔術師か!」
男はベルトルドの方を向きもしない。ルディガーがようやく反応する。
「お前さんが何考えてるか知んねえけども、ベルトルドの質問に答えてくんねえか」
ベルトルドは会ってまだ短いこの男がこんな口をきくのに驚いた。死体男は首をすくめる。瞬きをすると、曇った瞳に輝きが戻る。その眼でちらりとベルトルドを見た。
「優しいこったな。その通りだぜ? だから何だってんだ?」
「じゃあお前らは何の為にこんな真似を仕出かしたんだ! みんなを殺す為か?」
男は鼻で笑った。
「俺達がこんなちっぽけな高々50人の村を相手にする筈無いだろうが。実験だよ、実験。本当の目的はもっと大きいところにあるのさ、もっともお前なんぞに言ったところで理解できる訳無いがね」
ベルトルドは死体に化けていたときのこの男の顔が凡庸に見えたことを思い出していた。しかし今段々と血色の良くなっている男の顔を見ると、そこに一つの特徴を見出だした。それは嘲りだった。男の顔にはまるで仮面をしているように、嘲りの表情が張り付いていた。ベルトルドは男が心底ただの人間を見下していると思い、同時に対話の可能性も無いと知った。
男は続けていた。
「俺はこんなやつじゃなくてお前に話してるんだ、ルディガー。俺の名はハンス。ハンス=ザテリート。栄えある"灰色の学府"に所属する魔術師さ」
男は自らについて語っている時ですら、顔から嘲りの色を絶やさなかった。
「こんな人間やらドワーフやらと付き合ってても力は伸びないぜ。どうだい? 俺がもっと優秀な仲間を紹介してやるよ。こんな人間なんて、これだけで殺せるのさ、ほれ!」
そう言ってハンスはベルトルドに対して腕を振った。ベルトルドは"殺す"という単語を聞いた瞬間頭が固まり、ハンスが腕を振ると、両腕で体を庇い、目を閉じた。
笑い声が響き、恐る恐る目を開けると、ハンスが腹を抱えて笑っていた。
「凡人なんてこんなもんさ。何も分かっちゃいない。何も視えちゃいない。どうだ、ルディガーとやら。こんな野郎共にゃ愛想が尽きたろう? 黙ってないで何とか言ってくれないか?」
ルディガーは目を閉じ、暫くの間(ハンスがイライラし出して足踏みを始めるほどの間)沈黙していたが、不意に口を開いた。
「帝国魔術規約
第1条
あらゆる
第2条
いかなる魔導師も、悪意によると、金銭ないし政治上の利益追求によるとを問わず、帝国皇帝の統治を妨害したり、皇帝の失脚を目論んだりすることは、いかなる理由によってもなしてはならない。
第3条
魔法諸学府のあらゆる魔導師は、天主シグマー神聖帝国の諸法に従わねばならない。すなわち、州法、地域法、都市国家法のいずれに対しても、あらゆる忠実な帝国市民と同様に従わねばならないのである。ただし例外として、魔導師には、魔法を研究し、
第4条
魔法諸学府には、この世界に存在する魔法の秘術的エネルギーを研究、実践、文書化する自由が与えられる。ただし、ウルサーンの
第6条
いかなる魔導師も、戦場を例外として、公衆の目に触れるところで呪文を発動することは、帝国皇帝、天主シグマー神聖帝国の選帝侯、ないし本法律の条文で規定される合法的な雇用主による要求があった場合を除き、認められない。そうした許可なく呪文を発動することは、実証可能な正当な理由がない限りは不可とする。
第7条
いかなる魔導師も、禁じられた悪魔神の魔法体系や、死霊術の不浄なる行ない、ないし、その他のあらゆる妖術や俗魔術といった、暗黒の魔術の邪なパワーを利用する行為の研究に手を染めることは許されない。当条文をないがしろにした魔導師は、言語道断行為によって有罪とされ、異端者にして反逆者として、速やかに剣と火炎によって裁かれる。
お前のやったことは、第1条、第2条、第3条、第6条、第7条 の明確な違反であり、第4条に従って、秘術の実践、研究、文書化する自由を剥奪され、第7条に従って断罪されるに値する」
ベルトルドは驚いた。ルディガーがいつものボソボソとした調子ではなく、朗々と響くような声で暗唱したからだ。
ハンスは嘲りの色を隠そうともしない。
「俺もその条文なら、覚えたぜ。カビの生えた文章だよな」
「……おらはそうは教わらなかっただ」
ルディガーは顔に哀しみをたたえていた。
「お前さんに協力するぐらいなら、馬糞食った方が遥かにマシだよ」
露骨に拒否されながらも、ハンスは余裕を崩さなかった。
「ほう、お前師匠がいるのか。どこの誰だよ」
「"翡翠の学府"のヨナス=ゲーデル師だよ」
答えを聞いたハンスは、ふふんと笑った。
「やっぱりな。時代遅れの
「それによ、どっち道時間稼ぎも終わりだ。uggrruuugaaaguuwwaaaaa!」
ハンスは突然大声で叫んだ。すると4人の背後に、無数の松明が浮かび上がった。
「こちとらが親切に口きいてやってるとでも思ってたのか? おめでた過ぎるぜ。てめえらなんぞただの時間潰しよ」
そう言い放つと、ハンスは大きく息を吸った。
「ggyuuraa! uuruzzaag! goowaag! waaaazzzuugg!」
声が霧に吸い込まれるのと同時に、霧の中からヌッと何体かの人影が姿を現した。
ベルトルドは右手に出現したものを見て、声を失った。
それはただの獣人ではなかった。胴体はフリッツと大差は無かったが、大きな相違はその頭部にあった。
その獣人は2つの眼の代わりに、顔の中心に巨大な目をただ一つだけ持っていたのだ。その目の周囲には血管が、まるで無数のミミズのようにのたくっていた。まぶたの無い目玉がヌルリと動き、ベルトルドに焦点を合わせた。
ベルトルドは、自分が叫び声をあげたのを感じた。
そして日は完全に没した。
>ディーモン語
悪魔語のこと。獣人とかディーモンとかが使う言語で、彼らにまつわる儀式魔術もディーモン語で行います。考えるの楽しい。
>反省点
説明っぽくなりすぎてないか心配です。
そろそろ男だけにも飽きt…いや何でもないです。
この話が一段落ついたらヒロインも出る予定です。