アヴァーランドの象徴ともいえる太陽はその最後の残光で大気を照らしながら、地平線のかなた黒火峠へとゆっくりと沈んでいった。
既に霧で薄暗くなっている村はすぐに闇に包まれた。
光源はイムラクの持っているランタンと遠くにゆらめく松明の火しかない。影が伸びたことから、ベルトルドには背後のイムラクがランタンを地面に置いたと頭の片隅で理解した。
しかし、既にベルトルドの脳裡には一つのこと以外は取り除かれていた。その一つのこと、具体的には純粋な、恐怖、は次第に大きく、ベルトルドを覆うように広がっていた。
肺は痙攣し、血液が耳元で警告の鼓動を高らかに打ち鳴らしていた。目の前の危険そのものである存在から逃げようと思うが、ひざは震えるばかりで動こうとしない。
目前の獣人の頭部は人間の二倍ほどの大きさに膨れ上がっており、鼻の上、顔の中心にはこぶし大の巨大な眼球がたった一つ位置を占めていた。かつて人間だった時にはあったであろう二つの眼はもはや痕跡すら分からず、単眼の周囲では太く黒々とした赤や青紫色の血管がドクドクと脈打っていた。見開かれた眼球は瞬きもせずにベルトルドを凝視していた。獣人はベルトルドを見つめつつ、ゆっくりと歩み寄ってきた。巨大な眼球の下では、牙を剥いた口が涎をダラダラと垂らしていた。
背後で誰かが何か言っていたが、ベルトルドの耳には届かなかった。
突然目前の獣人が歩みを止め、勢いよく走り出した。そのままベルトルドに突進すると、右腕に持った槍で振りかぶりつつ切りかかった。
ベルトルドには目の前に迫りつつある槍の穂先を呆然と見つめることしかできなかった。
──衝撃──。
ゴスッという音と共に、ベルトルドの頭に槍が当たった。ベルトルドにとって幸運だったのは相手の狙いがそれ、槍の刃より柄に近い部分が当たったことだった。
そしてベルトルドの中で何かが切れた。
それは故郷での安穏な暮らしによってうずめられていた、原始的な闘争本能ともいえ、故郷を蹂躙する者に対しての強烈な怒りでもあった。
ベルトルドは顔をあげた。
獣人は彼がもはやさっきまでの棒立ちの獲物ではなく、闘う意志のある戦士であることに気付いた。
ベルトルドは足が震えて倒れそうになるのを必死でこらえ、自分でも訳が分からず、ただ心の命じるままに叫び声をあげた。
「あ"ぁ"ぁ"ぁ"があっ!!」
最後の叫びと同時に渾身の力でベルトルドは手に持った皮裁ち刀を振った。一瞬の不気味な感触とともに相手の足の太い血管がちぎれ、ベルトルドの足元に汚れた血液が降りかかる。
与えた傷は大きいがベルトルドも傷ついていた。ここで獣人があと一撃入れれば彼は倒れただろう。勝敗を分けたのはベルトルドの叫びだった。
もはや人語のていを成していない雄叫びに、しかし獣は一瞬怯んだ。その表情を押し隠している眼球にかすかな怯えがみえた。そして怯んだ槍の突きはベルトルドを大きくそれた。
獣人は焦った。声が漏れた。
「guaaa、gaaaaa」
ベルトルドは意味も分からず叫び返した。
「おめぇらの勝手にさせるかよっ! ここは"俺たちの村"だっ!!」
言いながら全体重を皮裁ち刀にかけ突きかかった。
獣人はとっさに左手に持った盾を構えた。ベルトルドの刃は盾の木目の間に刺さった。木材がはじけ飛んだ。盾の木材が舞う中、ベルトルドの刃は獣人の左の二の腕にズブズブと沈みこんだ。そのまま横に切り裂くと腕は皮一枚で肩からブラブラと垂れ下がり、切り口から鮮血が吹き出した。ベルトルドには獣人が血潮と木切れの中でヨロヨロと彼から退き、2,3歩歩き倒れたそのすべてがスローモーションに見えた。
獣人は死んだ。
ベルトルドは安堵も悲しみもなく、ただ疲労を感じ肩で息をしつつ、振り返った。
彼の眼に、腕から生えた蟹のようなハサミを振り上げる獣人が映った。
そして、痛み……。彼の眼球はグルリと裏返り、彼の体はひざをつき土に倒れこんだ。
アルブレヒトの肉体は既に限界に達していた。
3人には心配させまいと強がったが、皮なめし職人の家での戦闘からずっとアルブレヒトの頭は万力で固く締め付けられたように痛み、骨はミシミシと悲鳴をあげていた。本来であれば宿の寝台で安静にしなくてはならない程の傷であったが、彼は自らの体を偽り、無理やりに歩を進めていたのだった。
ハンスが死体でないと気付いた段階で剣を抜いたのも、早くケリをつけたいと焦ったからだった。
しかし、彼の思惑に反してハンスは投降せず、逆に4人は囲いこまれてしまった。アルブレヒトは自らの浅はかさを呪った。混沌に魂を売った人間がやすやすと投降なぞ、する訳がないことを見抜けなかった浅はかさを。
既にアルブレヒトは限界だった。
ベルトルドの前に、一つ目の化け物が現れた瞬間に彼の精神力もまた敗れ去った。彼は最も4人を見易い位置に立っていた。左手でイムラクが戦っているのも、右隣のルディガーが恐怖でひざを震わせながらハンスに対して問いかけているのも、右奥のベルトルドが単眼の獣人に襲われているのも、すべてが見えていた。
しかし、どれ一つとってみても彼に関わりのあるものはなかった。彼にとって今一番大切なのは我が身であった。隙を見て逃げ出せるかどうか、彼が教われないかどうか、それしかなかった。彼が特別臆病だったわけではない。彼は傷ついていた。既に限界に達していた。しかも、彼はもう十分闘ったのでは無かったか? ここで彼が逃げたとして、誰も彼は責められないだろう。
背後の霧の中から腕から手の替わりにハサミの生えている獣人が突進してきた。アルブレヒトは恐ろしげな単眼の獣人のために恐怖で身がすくんでいた。
しかしハサミ手の獣人はアルブレヒトを通り過ぎ、隣のルディガーにハサミで切りかかった。ルディガーはハサミ手には気付いていたがアルブレヒトと同じく単眼に射すくめられていた。ハサミはルディガーをかすり、ルディガーのこめかみから血が吹き出した。
しかしそれを見てもアルブレヒトの心には、攻撃されずにすんだという安堵しか浮かばなかった。
これで生き残れるかもしれない。
アルブレヒトの胸に希望が浮かんだ。
もう一撃、強いのをくらったらやられる。気絶ですんだら儲けもの、悪くすれば土の下だ。そんな人生誰が送りたいっていうんだ?
なら、
不意に頭に声が聞こえた。
それは彼の頭の考えだったか、呟きだったか、それとも風か獣人のうなり声を聞き違えたか、彼には分からなかった。
しかし、その声の言う通りだ。
こんなところで死にそうだと言って尻尾を巻くくらいだったら、なぜ彼女を助け故郷を飛び出してきたのだったか。名も知らない女(前に聞いたが、今はもう忘れてしまった)を助けてメリットなぞはどこにもない。この集落に入るときもそうだった。彼はいつも誰かを助けるときは利益を度外視するのではなかったのか?
それはいったい誰の為に?
「自分の為だ」
アルブレヒトは小さく呟いた。
口を開くと、頭はとたんに回転を始めた。周りを見渡すと、イムラクは依然として一体の獣人と闘っていた。ルディガーはハサミ手の獣人に攻撃され、同時にハンスの呪文の的にされていた。ハンスが何か呟くと、ハンスの持った杖(彼が気付かない内に持ったらしい)の先に薄暗い塊が現れ、勢いよく飛んでルディガーに突き刺さるのだ。一見して威力は無さそうだが、ルディガーが呻く様を見るとそうではないらしい。
そしてベルトルドは、単眼の獣人に強烈な突きを喰らわしていた。単眼の獣人は激しく倒れ、動かなくなった。
その時ハンスは焦りながら何か怒鳴った。その途端ルディガーを殴りつけていたハサミ手の獣人は急いでルディガーから離れ、ベルトルドの後ろに回り込んだ。アルブレヒトはベルトルドが振り向いたところを獣人が斬り倒すのを見た。そして理解した。獣人は目の前の敵の妖術師によって操られているのだ、と。
ベルトルドを助けることは出来なかった。自分が遅かったせいだ。しかしまだ、仲間は戦っている。ハンスが自分を攻撃しなかったのは、体力もなく、戦意もないと見くびり、より脅威だと感じたルディガーを先に始末しようとのことだろう。
手元を見ると、右手に持った
「獣人は魔術師に操られている。奴を倒せば、獣人は戦えないぞ!」
そう言って
昔からこいつは苦手だな。
心中で独りごちたアルブレヒトは
隣のルディガーはハンスと同様に何か唱え、光る力の塊を造り出していた。しかしハンスと違い、飛んでいった塊はハンスの周囲で消えてなくなった。
その時アルブレヒトはハンスが身に周囲の霧より濃い"影のようなもの"をまとっているのに気が付いた。どうやら魔法で造った鎧のようなものらしい。
ハンスは影の塊でルディガーにやり返す。ルディガーは身を守れずに更にうめき声をあげた。どうやらそろそろキツくなってきたようだ。
アルブレヒトは覚悟を決めた。剣を固く握る。身を深く沈め、一気に飛び出した。土を蹴って走る。ハンスがこちらに気付いた。呆気にとられた顔、そして驚愕の顔に変わる。相手から2ヤードの距離で剣を構え、斬りかかりつつ間合いを詰める。
それは満身創痍のアルブレヒトにとって全力の一撃だった。
しかし、その一撃は身を引いたハンスの目の前を通り過ぎた。
それからの10秒は短く、そして長かった。助けに駆け寄ったルディガーの杖の一撃を、ハンスは右腕の影の鎧で簡単に止めた。そして一言叫ぶ。
アルブレヒトは分かった。助けを呼んだのだと。続いて右手から突進した獣人のハサミ手の一撃を、アルブレヒトは剣で辛うじて防ぐ。
アルブレヒトは考えた。今最も効果的な一言を。そして出した答えを叫ぶ。
「イムラク!!」
その叫びでハンスの目は見開かれた。いくら魔術師といえど近距離で多人数に殴られればひとたまりもない。その驚きで唱えかけていた呪文を不意にする。杖の先に集まりかけていた影は文字どおり雲散霧消した。かわりにハンスは横目で叫ぶ。
「ggyuuraa! zaarrrg!」
ハサミ手の獣人は今度はドワーフの方へと向きを変える。
しかし、アルブレヒトはそれに気を止めなかった。そこまでの行為は読めていた。ハンスが向き直ったとき、その一瞬の隙を突くために。
その瞬間は短かった。しかし充分だった。頭部への一撃。影がまとわりついているからか、手応えは小さい。しかし、それによって出来た活路は大きい。
更に渾身の力を込めて胴を横なぎにする。ゴキッという鈍い音が響く。血の噴出。
その一撃は一見勝負を決めたかに見える。しかしアルブレヒトは知っていた。まだ、ハンスには戦意があると。止めを刺すために剣を握ったアルブレヒトの目の前に手がかざされた。
「ごの゛グズが」
血にまみれた口で、うつ向いたハンスが言う。続く短い呪文。手に集まった影の一撃。それが体を庇った腕に刺さる瞬間、アルブレヒトは気付いた。それは一種のダーツなのだと。
鋭く尖った影の尖端が肉にえぐり混み腕が悲鳴をあげる。強烈な痛みに意識が遠のく。
しかしまだ、倒れる訳にはいかない。
ハンスが目をやると、確かに止めを刺した瀕死のアルブレヒトはいまだ剣を構えていた。どうやら魔法の投げ矢は腕を貫通して心臓までは届かなかったらしい。一見して重傷と分かるが、目には光がある。そして、ハンスはアルブレヒトだけでなくルディガーの杖の打撃も相手しなくてはならなかった。戦闘の素人のルディガーの攻撃は軽くあしらえるが、その間のアルブレヒトの逆襲が恐い。なんとか、それに備えなくてはならなかった。
アルブレヒトは機を見ていた。一撃はなんとか耐えられたが、腕が痺れた。もう一撃が最後の攻撃になるだろう。ハンスはルディガーの攻撃では傷を負っていない。ハンスはルディガーを甘く見ている。必ず次に攻撃するのは俺の方だ。その一瞬が機会になる。
そこを逃せば、終わりだ。
ハンスが腕をあげた。
今だ。アルブレヒトは剣を振った。
ハンスは腕と体を素早く引っ込めた。
剣は空を斬った。
その次にアルブレヒトが見たのはハンスが持っている杖の端。自分に向くその先端に形成された、影の鋭い刃。
アルブレヒトは横に避けようとする。
それより早く矢はねじ込んでいた。
衝撃で仰向きに倒れ込む瞬間、アルブレヒトは思った。
そうだ。この攻撃は必ず俺にくる。これでいい。ハンスはルディガーを甘く見ている。この一瞬が勝負だ。この機会を逃すな。
いけ、ルディガー。
>以下余談。
最終戦闘に出てくる獣人にはそれぞれ混沌変異を与えています。
混沌変異っていうのはランダムで決めてます。ウォーハンマーRPGで(最も?)悪名高い異能《恐怖誘発》を持てる「身の毛のよだつ風貌」が出たのはマグレでしたが、これが今回PC達の不幸の元となります。
ウォーハンマーRPGではd100(10面ダイス2個ふって出た目を百分率で表したもの)が能力値以下ならテスト成功なんですが、《恐怖誘発》を持っている相手に対しては意志力テストに成功するまで何もできなくなるんですね。
この世界の初期能力値の平均は31なので、3分の1以下の確率で無防備状態になるという鬼畜プレーになります。しかも相手の攻撃は食らうと割りとあっさり倒れますし(今回のベルトルド然り)。
敵の出目がはしったおかげでパーティーがぼろぼろ倒れていきます。
ちょっと後悔。
まぁ、ウォーハンマーではよくあること?ですけど。
ちなみにアルブレヒトは今回ずっと耐久力0で戦ってます。ウォーハンマーでは耐久力(=ヒットポイント)が0になってもすぐには死にませんが、次にダメージが入ると出目次第で脊髄が折れたり、腕が千切れたり、頭が潰れて脳漿が飛び散ったりします。今回アルブレヒトがずっとつらいつらい言ってるのは弱音でもあり、また当然の感想でもあります。そこんとこよろしくお願いします。
まあ一つ言えることがあるとしたら、
「これだからいいんですよ、これが!」
ってことですかね。
あと実はこの話、最初から最後までで正味一分くらいだったりします。