ゴーストワールド   作:まや子

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10. 海岸通り(2)

 波頭が遠くの沖で白く崩れる。遠浅の海。水面に日光が散乱してまぶしい。浜辺では子どもたちが砂の城をつくるのに熱中している。満ちてくる潮にさらわれる前に仕上げようと懸命だ。

 わたしたちは浜辺沿いの遊歩道をゆっくり歩いていた。食後に少し散歩でもしようとクロロとシャルナークが言いだしたからだった。うまく断る言葉が思いつかなかった。幻影旅団に昼食後の散歩を誘われた際に角を立てずに逃げ出す方法なんて、前世でも今世でも誰も教えてくれなかった。

 ふわふわとわたしの赤褐色の髪が潮風にもてあそばれる。クロロとシャルナークにはさまれて、ストレスで胃が痛い。わたしはブリザードキャンディSを包装フィルムから出して口に入れた。じりじりする痛みが清涼感でまぎれる。

 

 終わりだと思っていた質疑はまだ続いていた。わたしが『沈黙の強制』により話せないと言った範囲について訊かれた。クロロが念を消せば制約と誓約も消えるので、わたしが『答えられない』質問もできるようになるのは条理だ。なぜあれで終わりだなどと考えていたのか、わたしは自分の頭の緩さが嫌になった。

 話せないものは話せないので、わたしは、話せない、と繰り返すしかなく、ふたりに殺気をあてられて終始身をすくませていた。

 クロロが、ふぅとため息をついた。それを受けてシャルナークがいかにもぞんざいな脅しをかけてくる。

「なめてるの? それとも死にたい?」

 顔はしらけきっていた。もういいから殺しちゃおうよ、と言わんばかりだ。小さい子どもに対する思いやりが絶滅している。

 わたしはもごもごと否定し、この場の決定権を握っているクロロに闘争心のかけらもない目をむけ、心の中で訴えた。

(どうか落ち着いて、損得で考えて。今わたしを殺しても得るものはないはず――)

 クロロはわたしの一心の訴えを微風のように受け流し、

「そうだな。殺そうか」

 と、あっさり死刑宣告をだした。

 わたしは信じられない気持ちでクロロを凝視した。そればかりか彼の正気をわざわざ確かめさえした。

「本気で言ってるの……?」

「そうだけど」

 彼の返事で、片足がすでに棺桶につっこまれたことを悟った。

 

 研ぎ澄まされたオーラがびりびりと肌にあたり、わたしは反射的に飛びすさった。クロロが“纏”をほどいてオーラを噴出させ、“練”の状態にしたのだ。

 あたりを見回すけれど、遠くに人影が見えるだけ。近くの建物も午睡の中にあるような静けさ。助けはおろか盾になってくれそうな犠牲者があらわれてくれることも期待できそうにない。逃げなければ――、そう思うのに、体はもうそれ以上動かなかった。のどがひりついて声も出なかった。

 念を使えば少しは楽になるとわかっていたけれど、使う意味なんかちっとも見出せなかった。闘っても敵うはずないし、相手が殺す気になっているなら逃がしてくれるわけないし、わたしが念を知らないふりをしていたことでより心証を悪くするかもしれないし、わたしの下手な念じゃ苦しむ時間が長くなるだけという結果に終わるかもしれなかったからだ。生きのびる可能性を上げるために念を習得したのに――それだけじゃなくて多少のミーハー心があったことは否定しないけれど――、肝心な場面で使えないという実に皮肉な事態に陥っていた。

 わたしはがたがた震えていることしかできなかった。棺桶につっこまれた片足を、もう一方の足が大急ぎで追いかけているみたいだった。

 

「お別れだ」

 “舌”。その瞬間クロロのオーラは禍々しさを増し、一拍後、わたしの胴へ一撃が放たれた――。

 

 ――わたしは弾きとばされ、背中から地面にたたきつけられて転がった。

(生きてる……!)

 一瞬止まった呼吸は、激しい咳きこみにより取り戻された。胃の内容物がせりあがってきたけれど、根性で飲み下した。これ以上の醜態はごめんだった。

 胸の下あたりが痛くて、腕で抱えて丸まった。呼吸はいくらか安定を取り戻したけれど、まだぜいぜいとのどが鳴った。瞬きで涙を払ってにじんだ視界をクリアにする。そのままクロロとシャルナークを確認すると、ふたりは自然体でわたしを観察していた。

「あれ、ほんとうに知らないのかな」

 それがクロロの一言目だった。観察の結果に驚いているような訝しがっているような、そんな調子。まったく悪びれたところがない。わたしは彼を陰険な目つきで睨んだ。

「どうも答え方が素人っぽくなかったから、もしかしたらって思ったんだけど……」

 綻びのない“纏”にオーラを戻したクロロは確かめるようにじっとわたしを見た。

 額に嫌な汗がじっとりにじんだ。あせって念が使えるところを見せなくてよかった、と心底思った。わたしが念を使えるかどうかを見るためのブラフだったらしい。初めから殺すつもりなどなかったのだ。

 クロロは胡散顔で、でも、と続ける。

「いくら圧力かけてたからって一度も嘘をつかないのは変だよね。小さな嘘を混ぜて脅しに抵抗するのが普通なんだけど」

 言われて気づくあたり、わたしは救いようのない間抜けだ。シャルナークもその疑念に同感して、手の中の携帯電話を、これ見て、とクロロに示した。

「オレ語数の統計とってたんだけどさ、ちょっと不自然な傾向が出たんだよね。口数が少なくなったり急に説明的になったりさ。これ、隠し事してるときの典型だよ」

 彼はずっと携帯電話をいじっていた。わたしの答えの裏付けをとっているのだとばかり思っていたけれど、そんなこともしていたらしい。有能すぎる。

 クロロはその情報をピースにして頭の中のパズルにはめているようだった。考えを補完するものであったらしく、どこか満足げだ。そうだよな、と確認するようにうなずいている。そして優雅な足取りで近づき、わたしを見下ろした。

「隠し事があるはずの君は、なぜかひとつの嘘もつかなかった。――質問と回答のルールを完全に理解していたからじゃないのか?」

 平然とした声に、わたしはくちびるをかんでうめいた。

(いい加減にしてよ)

 どうしてこうも的確に真実に迫れるのだろう。クロロは作者のお気に入りであろうと思われるけれど、だからといってここまでご立派な性能をもたせることはないじゃないか? 遵法精神やモラルが大崩壊しているとはいえ、イケメンで強くて賢いのではたっぷりお釣りがくる。シャルナークもシャルナークだ。あの先手必勝の、一撃で相手を無力化できる念能力だけで十分だろう。

 嫌味が服を着て歩いているようなやつらだった。考えれば考えるほど腹が立った――とくにわたし自身に引き比べて考えたときには。

 

 わたしは脂汗をかきながら身を起こした。もんどりうって転がったせいで髪は砂っぽいし、ワンピースは汚れたし、腕やひざはすりむいているし、なにより殴られた腹には無視できない疼痛があるし、それら全部がわたしをみじめな気分にした。プライドが大きく傷ついていた。でも、わたしが芋虫みたいに這いつくばっていて彼らがそれを冷ややかに見下ろしている図というのは、わたしのプライドが許す範囲を超えていた。

 震えそうになる足を踏ん張って、腹をかばっていた腕をおろして、ショックをひた隠しにして、わたしはまるで傷ついてもいないといった顔で彼らに対峙した。

 わたしは過度のストレスにさらされた難民のごとき心境で、しかし精いっぱいに虚勢を張って――彼らを刺激しないように敵対的な態度は抑えて――ごまかしにかかった。

「ルール? ……わたしが知ってるのは尋問を受けたときの答え方よ」

 クロロは興味をひかれたみたいな表情になった。

「わかるでしょ。相手が求めている情報をいくつか与えてやって……」

 ここでむせた。いきなり声を発するには呼吸器の調子が整っていなかった。

「……――そうしないでいて最終的にとられる情報よりも、少ない情報で切り抜けるの」

 幸いだったことに、前世を含めて今まで実践する機会のなかった知識だ。それはそうだろう。普通に生きていて戦争映画ばりの尋問シーンに直面することなんてまずない。でも暗い世界に足を突っ込んでいるとわかることもある。世の中には誰からでも情報を引き出す方法と手段というものがあり、沈黙は必ず守られない。認めざるを得ないことは認め、それ以上の情報は提供しないのが最良の行動方針なのだ。

 ちなみにこれはわたしが嘘をつかなかった理由にはなっていない。与えてやる真実というのは、より大きな真実を隠すための嘘を信じさせるべく与えられるものなのだから。彼らもそれには気づいている。

「それに、あなたたち、本気じゃなかった」

「なんでそう思う?」

 馬鹿馬鹿しい。

「やり方がぬるすぎる。本気でわたしから情報を得るつもりがない」

 本気で正確な情報を得ようと思ったら数カ月はかかるものなのだ。しゃべらせて、かつしゃべったことの真偽を確かめようと思ったら。フェイタンの得意な拷問でもまず目的に沿えない。極度の痛みをあたえられれば誰だって何でも認めるし、逃れられるならと思えばあることないことしゃべる。尋問には専門的な技術が必要だ。少なくともレストランのテラス席ですませるようなお手軽なやり方では無理だ。

 でもこれも、わたしが嘘をつかなかった理由にはなっていない。

 わたしは乾いたくちびるをなめて潤した。次の台詞が重要なのだ。最大限の効果を発揮するように音程と速さを計算しながら、わたしは言った。

「それならわたしが与える情報だけでいいとあなたたちは考えているはず。だからあなたたちに事実を誤認させるつもりでもなければ、わたしに嘘をつく理由はない。そうでしょ」

 

 わたしの言い分を聞き終わったクロロは、ゆっくりと口角をあげて、うっとりするほどきれいな笑みを浮かべた。

「やっぱり君は賢いね、クローディア」

(ほめられてるの? 馬鹿にされてるの?)

「それに度胸もある。……あとクローディア、君、殺されるなんて思ってなかっただろ」

 当然だろう。クロロなら手刀の一閃でわたしの頭を落とせる。手にオーラを集めればいいだけなのに非効率な“練”をしたのには理由があったからだ。もちろん威嚇のためだ。現にわたしに一発入れる瞬間はオーラを移動させて威力をほとんど削いでいた。それにエミール会にもまだ連れて行っていないことだし。

 返事を期待されているふうではなかったからわたしは黙っていた。

 クロロは頭の中を整理して確認しているように何度かうなずきながら、

「そういうことにしておこう。今は君が投げてよこした情報だけでよしとしよう」

 と言って、ようやく追及の終わりを告げたのだった。

 

「じゃあオレたちは行くけど――シャル」

「ほい」

 シャルナークはわたしに携帯電話を差しだした。いたって普通の、折りたたみ式でパールホワイトの携帯電話。

「あげるよ。肌身離さず、電源も切らないで、番号やホームコードを変えるのもなし、こっちからの発信には必ず応えること」

「……発信器とか」

「ついてないって」

 そうして不審がるわたしの手に押し付けた。こんなものを用意されているとは、やはり殺す気はなかったのだ。わたしはため息をついた。

 クロロはわたしの反応に心外そうに肩をすくめた。

「もっと感謝してくれてもいいんじゃないか? ――これで君は救急車なりタクシーなり好きに呼べるんだから。内臓は傷つけないようにしたけど、肋骨は1本折れてるよ。お大事に」

 殺意を抑えたわたしは、今間違いなく世界で一番寛容な人間だろう。

 道理で痛すぎると思った。暴行罪で訴えたかった。でもクロロは流星街出身なのであって、いないことになっている人間を法廷へ連れて行くことはできない。泣き寝入りだ。

 

 クロロの別れの言葉にも人間性は皆無だった。

「エミール会の件はよろしく」

 シャルナークはにこっと笑いかけてきたけれど、それもわたしの癇に障った。

「またね、クローディア」

 そして彼らは肋骨を折られてふらふらのわたしを、外見年齢10歳の女の子のわたしを放置して、そのまま去っていった。

 

 ふたりの姿が完全に見えなくなってさらに10分待ってから、海岸通りまで歩きタクシーを捕まえてサマーハウスに戻った。メイドのカーン夫人がひとり残っていてわたしの格好に眉をひそめたので、砂浜で遊んでたらはしゃぎすぎちゃったの、と言い訳した。

 シャワーを浴びて――そのときに腹の青いあざを直視してまた落ち込んだ――、清潔なペールピンクのワンピースに着替えなおすと気分は少し回復した。お腹がほんとうに痛くてまたちょっと涙が出た。鼻をかんで、とりあえず鎮痛剤を大人の分量超えて飲んだ。

 電話して医師に往診を頼み、カーン夫人にそのことを伝えて、わたしはベッドにもぐりこんだ。くたくただった。

 シーツの中で丸まって目を閉じていると、カーン夫人が掃除機をかけたり物を動かしたりする音が聞こえた。カーン夫人に夕食はいらないと伝えておけばよかったとぼんやりした頭で思った。体のあちこちが痛くて疲れすぎていたから、何も食べる気になれなかった。

 

 薬が効いてきて、うつらうつらまどろみながら、わたしは不思議な気分にたゆたっていた。先ほどまでのことが現実にあったということが信じられない気がした。というより、自分が生きているということがいまだによく飲み込めていなかった。だってわたしは確かに死んだのに。しかしわたしはかつて漫画の世界と認識していた世界で生きている。ここが死者の国なのか? だとするとこの生は本物の生なのか? わからない。あるいはこれは死ぬ前に見る奇妙な夢なんじゃないのか?

 現実感が薄れて、だんだん現実と非現実の境があいまいになっていった。

 

 まるで接地感のない感覚の中で、前世での出来事や感情の記憶が浮かんでは消え浮かんでは消えていった。なかにはわたしが忘れていたようなものもあった。忘れられないもの。父や母の顔、言葉。「あなたはきれいなものが好きなのね」。「これはお前がお嫁に行くときにお前に持たせるつもりだ、×××」。果たされなかった約束。ああ、彼らはまだ生きて元気にやっているだろうか? そして美術がわたしの人生に舞い降りてきた瞬間――。

 ゴッホの『星降る夜』、ピサロの『赤い屋根、冬の効果』、シスレーの『雪のルヴシエンヌ』、カサットの『青い肘掛椅子の少女』。印象派以前では、エル・グレコの『受胎告知』、フェッティの『メランコリー』、ベラスケスの『ロークビーのヴィーナス』。ほかにもたくさん。この世界にはない、あるいは似て非なる名画たちがモザイクのように鮮やかにわたしの意識を染め上げた。わたしが死ぬ前の世界の美術。あまりにも懐かしい。美しくて感動したけれど、その感動は傷だから、うれしさや悲しさが胸に詰まって、息を飲んで身じろぎもできないでいた。

 絢爛たる色の洪水のなかで、前世のわたしと今のわたしが入り混じっていくようだった。どちらがどちらのものなのか、境界がわからなくなる。生きているのかもう死んでいるのか。頭のなかの洗濯機にいろんなものをつめこんで、ぐるんぐるん回しているみたいだった。

 突然、鏡が割れるように世界が砕け、そのひとつひとつに覚えのある光景が映された。

 わたしからわたしが流れ出していく。

 

 そして、霧散していく自己が再び形になり、わたしになった――。

 


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