わたしは人目を忍んで勝手によそ様の家の敷地に入りこみ、屋敷の裏手にあった大きな樫の木に登った。べつに見晴らしがそんなにいいわけじゃないけれど、用をたすには十分な高さがある。
持ってきていたバッグのなかに手を突っこみ、突起がついた楕円形の物体を取り出す。映画ではよく見るけれど、自分では使ったことのない物体。手榴弾。ユタカがなぜか持っていたやつを勝手に拝借してきたのだ。
わたしは目を凝らして向かいの家のほうを眺めた。
「いける……かなあ?」
こちらの屋敷、前庭、正面が向かい合う道路、向かいの家の前庭を飛び越えたところが目標地点。その距離約100メートルといったところだろうか。かよわいわたしが不安定な足場から投げるとしたらギリギリだろう。
わたしは荷物の手近な枝に引っ掛けてがっしりした枝に足をかけた。そのまましばらく“纏”と“点”。オーラの流れを隈なく知覚することが扱いを容易にする。
認めるのは悔しいけれど、ここで幻影旅団に接してから、洗練された念というもののイメージがはっきりできるようになった。“纏”すらも比較すると見劣りがしていて、以前見たフランクリンの“練”に比べてわたしの“練”はお粗末そのものだと言えた。たとえるなら花火とマッチ。お寒い限りだった。クロロがわたしに一撃入れたときのオーラ移動の早さと滑らかさといったら。わたしと比べるなんて失笑ものだと思う。もちろん失笑されるのはわたしだ。
勝てない。はっきりわかった。この認識も収穫だろうと思う。わたしの、もしかしたら、という淡い期待を完全に打ち砕いてくれた。身体能力、体術、人を傷つけたり殺したりすることをためらわない、いかれた神経。念の強烈な才能、その習熟度。戦闘力。個々の能力や才能では、あの中の誰にも、何ひとつとして敵わない。あれでまだ伸びる余地があるとは恐れ入る。たしか3年後にはゾルディック家と事を構えるはず。そしてその3年後にはクロロひとりでゼノとシルバふたりと渡り合ってしまえるのだ。頭抜けているクロロは置いておいても、彼ら幻影旅団は控えめに言っても一流と言えた。一流の悪党なんて社会の害悪以上のものではないし、腐ったミカンであることは間違いないけれど、見習うべき点がないわけじゃない。それも念くらいだと確信しているけれど。
わたしはゆっくりオーラを腕に集めた。投げるという動きはひねったり伸ばしたり踏ん張ったりする体全体を使う運動だから、“硬”はむしろ効率が悪い。腕にオーラを7~8割、体全体に残りの2~3割を振り分ける。
手榴弾の安全ピンを抜き、投げる体勢を整えて、息を吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸う。次の吐くタイミングで全身に力を入れ、
「ふん!」
思いっきり投げた。
手榴弾は葉っぱのあいだを突き抜けていって、すぐに見えなくなった。わたしは偏執的な上官の命令を待つ新兵さながらに目を見開いて次に何が起こるかを待った。その5秒後くらいにカッと光が閃き、爆発が起こった。
「うー。うー。目、痛い……」
わたしは目を押さえてうずくまった。涙がぱたぱた落ちた。暗い所でいきなり強い明かりを見たものだからすごく目が痛かった。ちょっと考えればわかりそうなものなのに。
爆風と目の痛みがおさまってからようやく顔を上げて周囲のようすを確かめた。デルベの屋敷は窓がすべて割れ、屋根と3階がひどく損傷していた。屋根のすぐ上で爆発したらしかった。屋敷のまわりにちょろちょろしていた黒スーツの男たちは伏せっていたり物陰に隠れたりしている。次の攻撃に警戒しているようだった。わたしは期待にこたえてもう一発放った。そしてそれの確認はせずに、樫の木からジャンプして裏の塀を越えて飛び降りた。
庭の端っこを抜けて道路に面した正面の生垣の隙間から這い出れば、デルベの屋敷前の道と平行にはしる人気のない道に出られた。
「やった。すごい。わたし偉い!」
服をぱんぱんはたいて葉っぱや土を落としながら、お屋敷を手榴弾で吹き飛ばしたことのある11歳はわたしだけじゃないかな、と考えた。惜しむらくはこのことをみんなに自慢して回れないところだ。良心のクローディアはマフィアの屋敷を吹き飛ばしたときは何も言わなかったけれど、わたしが警察につかまってしまって家族を嘆かせるのは気にするだろうから。
「さて、まだお家に帰るには早いかしら。今日くらいそんなにいい子にならなくったっていいわよね」
手持ちのバッグの中をがさごそかき回しながらこの後の予定を考えた。
(手榴弾あとひとつか……どうしよっかな)
「あれ、クローディア、あんた門限ないの?」
すぐ後ろからいきなり男の声。ぎょっとして振り向きながら飛びすさった。“凝”。
「……ベアクロー、脅かさないでよ」
わたしは安堵のため息をつきながらオーラを戻した。
「何やってんの?」
「……そっちこそ」
きまりが悪くて、問いは聞かなかったことにしてごまかしてしまうことにした。
(まったく、なんでこんなところにいるのよ)
「わたし、家出中よ。門限なんか守らなくってもいいの」
「ふーん、そう? オレと同じで夜遊びってわけ?」
ベアクローはいつもの飄々とした笑みを浮かべた。
「オレ、遊び相手を探して来たんだけどさ、さっきの爆発ってクローディアがやったんだよな?」
(遊び相手を探して?)
それでここに現れたらしい。
なんとなく危険な香りをかぎつけて、わたしは突発性の健忘症を患った。
「わたしが? まさか! わたしはまだ11歳よ。11歳の子どもがそんなことすると思うの?」
「違った?」
「ええ。でも仮に、仮によ、わたしがさっきの爆発に関係していたとして、子どもが爆竹みたいなもので遊ぶのなんかよくあることでしょ」
「そうだな」
納得してくれたようでわたしはとてもうれしい。これでベアクローもわたしを今夜の遊び相手にしようと考えることはないだろう。考えないでほしい。
「じゃあもうわたしは行くから。ベアクロー、あなたもほら、さっさと遊び相手を探しに行きなさいよ」
この殺し屋モードになっている危険人物を早いところ追い払いたくて言ったけれど、当の本人はまったく動こうとするようすを見せなかった。
「えー? うーん、なんかもう気が削がれちゃったんだよな」
「は? なんで?」
「張り合いがなくってさ。弱っちいんだもん。仮にもマフィアなんだったらさ、もっと、なあ? やだねー、こんな国に長くいるとやっぱり腑抜けちゃうのかね」
首を振りながらぐだぐだと愚痴を言い、ベアクローは塀に身をもたせかけた。
(動く気なさすぎでしょ)
「じゃあもうホテルに戻ってれば? ユタカによろしくね」
そう言って別れて行こうとすると、ベアクローもついてくるそぶりを見せた。
「……来なくていいわよ?」
「冷たいこと言うなよ。暇なんだもん。あの男とふたりでホテルにいるのも嫌だし……もっと退屈しそうじゃん」
「だからってわたしと来ても――」
「何やってるんだ、お前ら!」
通りにどすの利いた大声が響き、わたしのベアクローに遠慮を願う言葉は遮られた。パッと“凝”をして大声を発したらしき人影を確かめた。人影は遠かったけれど付近には明かりがあり、見えた風体からまっとうな勤め人でないことを察するのは容易だった。
(能力者じゃない。でも……)
男はまっすぐ前に両手を突き出していた。
(銃を持ってる!)
わたしは銃口を向けられた恐怖で凍りつきそうになりながらなんとかオーラを噴出させ、固めて身を守ろうとした。
「下手っぴ。ぜーんぜんダメ」
泰然自若としたベアクローがわたしを横目で見て空気を読まないコメントをくれた。
(うっさいわね!)
頭にきたけれど言い返せるほどの余裕がなかった。
(ベアクローに任せていいの? 逃げる? 弾当たらない?)
銃で撃たれかねない状況というのはまったく初めてのことだった。焦りと恐怖で目の前の男から目を離せなくなっていた。
わたしたちが返答しないことで相手も警戒を強めたらしく、ピリピリとした緊張が空気に混ざりはじめた。
ピクッと相手の引き金にかかる指が震え、あっと思って息を呑んだ瞬間、横で何かが射出されたような聞きなれない音がした。そして目を見開いて見つめるわたしの前で男がぞっとするような声をもらしながら倒れ伏した。その体からオーラが大きく乱れ、徐々に絶えていくのを、信じられないような気持ちで身じろぎもできずに見ていた。
「銃よりも念能力者のほうを怖がるべきだと思うけど? そういうところ、あんたも素人だよな」
ベアクローは銃を下ろしながらのんびり言った。
わたしは感情を表に出さないように努めたけれど、できなかった。ベアクローに引きつった顔を見せてしまった。
「……どうしろっての?」
「あんたが軍人時代のオレの部下だったら、ああいう場面ではためらわず殺しに行けって教えるところだけどな。倫理の崖っぷちに立たされたら、疑問符なんかかなぐり捨てろ、世界一鈍感な人間になれって。ま、あんたにはそんな必要もないな」
銃声に反応して夜道をかけるいくつもの足音と男たちの声が聞こえてきた。
「……とりあえず逃げましょ」
ベアクローの腕を引っぱりその場を離れた。できるだけ早く違うところへ行きたかった。今が夜で、周囲にろくに明かりもないことがありがたかった。死体も見えないし、わたしの表情もベアクローに見えないから。
「そういえばさ、クローディア、どうしてあんたこの銃が念を弾代わりにこめて撃つものだってわかったんだ?」
ベアクローは苛立たしいほどに余裕のある態度で尋ねた。わたしは冷静を装って答えた。
「雷管がないでしょ、それ。発火させる必要がない銃なんておもちゃか念を使うかよ。撃鉄もないしね。初めてヨークシンで会った日、見せてもらったときに変だなって感じたの。あなたは特別製のおもちゃだって言ったわよね」
「よく見てるな。その通りだよ。たいしたもんだ」
「どうも」
褒められはしたもののうれしい気分にはならなかった。自分の声がはるか遠くから聞こえてくるような感じがしていた。先ほどの出来事が何度も頭の中で再演されていた。脳みそがふわふわしていて、吐きたくなるような胸のむかつきがなければこのまま卒倒してしまいそうだった。
ベアクローは腕からわたしの指を外し、大きな手でわたしの頭をぽんと撫でた。
「なにカッカしてるんだ?」
「してないわよ!」
「してるだろ」
「じゃあしてるわよ!」
「何か気に入らないことでもあった?」
ベアクローは首をかしげた。
「……」
「おーい」
わたしの頭の中でまた人影が倒れ、オーラが消えていった。死ぬ間際の苦痛の声が耳にこびりついて離れない。吐き気はひどくなる一方だったし、自分でもよくわからないけれどわたしは何かに腹を立てていた。
(なんなの? なんなの? なんなの?)
落ち着け、と自分に言い聞かせた。しかしすぐにあきらめた。無理に落ち着く必要なんてないじゃないか?
「いいわよ! こうなりゃもう自棄っぱちよ! ハシゴするわよ!」
「ん? 飲みに行くのか?」
「なんでよ! 銃をぶっ放しに行くに決まってるじゃない! ついでに手榴弾も放りこむわよ!」
「いいねえ。楽しくなってきた」
ベアクローは破顔してまたわたしの頭を撫でた。
グレイ家のサマーハウスは海が見下ろせる高台にあった。今夜はその一帯はとてもにぎやかだった。黒塗りの高級車が詰めかけ、黒服の男たちが我が物顔に闊歩し、クラクションが断続的に鳴らされ、怒鳴り合う声が聞こえていた。もう一遊び終えてきたわたしとベアクローはそのようすを真っ暗で人気のない浜辺から見上げていた。
「おー、やってるやってる」
「盛り上がってるな」
ベアクローはビンを傾けてビールを飲んだ。わたしも缶入りの安っぽい味のするオレンジジュースを口に運んだ。わたしたちは昼間の熱がだいぶ冷めた砂にお尻をのせて、波が打ち寄せる音と物騒なざわめきとを静かに聞いていた。前世でお祭りの夜に家の縁側で祭囃子に耳をすませながら買って帰ったかき氷を食べていたことをふと思い出した。そういう楽しさと寂しさがあった。
「こういうのが粋ってやつなのかしら?」
「さあねえ」
ベアクローはビンを砂に突き刺し、手を頭の後ろで組んでそのまま仰向けに横たわった。そして大きなあくびをひとつ。
「眠いの?」
「んー? いや、まだ大丈夫」
わたしも真似して寝転がろうかと思ったけれど、長い髪に砂がついて頭がじゃりじゃりになりそうでやめておいた。
「そういや、なんでマフィアの連中がここに集まるのがわかったんだ?」
「ああ、うん」
「最初っからわかってただろ? じゃなきゃあんな大荷物をあらかじめ準備しといて逃げ出せるはずないしな」
「……そうね、たぶんこういうことになるってわかってたわ」
オレンジジュースをまた一口。おいしくない。
(レモネードがよかったな)
カフェで飲んだレモネードの味を思い出した。もう当分、あの店には行けないだろう。そろそろヨークシンでの暮らしに戻らなければならない。
「マフィアは何しにここまで来たんだ? 今夜のことにあんたの関与が疑われてるのか?」
いくつもの銃声が夜空に広がっていった。ホッチキスを留めるような音のものもあれば、一週間餌を与えられなかった猛獣の吼え声のようなものもあった。何発銃が撃たれたのかもよくわからず、空が何度か赤く染まったのを見た。それから悲鳴や叫び声が聞こえた。
「今夜は騒がしかったからみんなはしゃいでるのね、きっと。 小人閑居して不善をなすって感じなんじゃないの?」
「おい、真面目に答えろよ」
「わたしにどうしてマフィアの考えがわかるのよ?」
木々や車が非現実的なまでのものすごい勢いで吹っ飛んでいった。
「なんでこんな住宅街で抗争なんかやるんだ? 繁華街とか商業地区とかでやるのが普通じゃないか?」
闇を切り裂くようにいくつもの閃光が走り、衝撃音や破壊音がして爆発が起こった。
(あれは“ダブルマシンガン”? すごい)
今ので何人死んだだろう、と考えた。それから、世界一無神経な人間はそんなこと気にしないはずだと考えた。
「ほんと、不思議よね」
大破し、真っ赤に炎上している車が見えた。銃声と悲鳴と怒鳴り声は一向にやまない。
「じゃあ、今マフィア連中を殺して回ってんのはどいつらだ?」
高級車に乗ってその場を逃げ出そうとするちんぴらたちで高台は混乱の坩堝と化していた。しかしいくらも走らないうちに片端から大破させられていた。
「相当だぜ、そいつら。かなりの念の使い手だ」
「あら、決まってるでしょ」
わたしは寝転んでいるベアクローを見下ろした。高台で何カ所も上がる火の手のおかげで、顔がはっきり見えるくらいには明るくなっていた。
「幻影旅団よ」
ベアクローの目はひどく興味を引かれていることを如実に語っていた。
「逃げ出したのはそいつらからか? 行ってきてもいい?」
「だめよ」
ハルマゲドンが起こったかと思うような耳を聾する爆音が聞こえた。顔を上げるとグレイ家のサマーハウスが、その残骸すらなく吹き飛ばされ、消え失せていた。
「その機会は遠からずあるわ。だから今はそばにいて。わたしが流れ弾で死んじゃったらどうするの?」
わたしのヴァカンスはとうとう終わった。