リムジンを降りて、冷たい春雨の中でわたしは震えていた。グレーのユニフォームに真っ白な手袋をした
「ありがとう」
あなたもランチにして、と運転手に1万ジェニーをそっと握らせ、わたしは『トレメイン』に入った。
トレメインはビストロ風の料理を出してくれる、若いアッパークラスの芸術家や俳優などトレンディーな人々が多く出入りするレストランとして知られていた。控え目な照明とシックなインテリアが床の鮮やかなテラコッタとグリーンのタイル装飾を引きたてていて、その趣味の良さにわたしは毎度のごとく感心させられた。
わたしの顔を見るとすぐにウェイターが近づいてきて、どうぞこちらです、と最奥近くの落ち着いたテーブルに案内してくれた。そのテーブルにはわたしの連れがすでに座って待っていた。
「この店は好みじゃなかった?」
「べつに」
「どのワインを飲んでるの?」
「ソムリエに聞けよ」
あなたがワインリストから選んだんでしょ、と指摘することはやめておいた。替わりにわたしはフォークでサラダをかき混ぜて気分を紛らわせようとした。
テーブルを包んでいるのは外気にも負けない冷え冷えと強張った空気だった。ゼパイルの顔つきや視線、気づまりで不自然な会話、緊張と怒りの気配などからすると、許しとか恭順とかいう考えは、彼の胸に熱く燃える考えではないらしい。
昨日の今日だから仕方がないと思いつつも、怒るのをやめてくれないかな、とわたしはため息をついた。なんだか面倒くさかった。ゼパイルが怒りや不満や不安を抱いていることくらいわかっている。でも、そんなことでこちらの態度を変えるくらいなら、初めからあんなやり方は選ばなかった。
ゼパイルはわたしのため息を当てつけだと感じたのか、眉を寄せて睨んできた。わたしはもうこれ以上彼の不機嫌に取り合う気はなかった。
「あなたは、今の生活に満足してるの?」
「お前に関係ねェだろ」
「そうなの。あなたの問題よ、よーく考えてね。わたしは仕事と報酬を提示しようとしてる。うまくいけば、あなたはひと財産を得て仕事を終えることができるわ。自棄になっていい加減なことをしないほうがいいと思うけど」
ゼパイルは落ちつかなげに身じろぎをしたものの、すぐに無関心な態度となって肩をすくめた。
「オレに選択権はねェよ」
会話のないまま食事は進んでいた。ウェイターたちも気を遣ってかあまり近寄らない。沈黙の時間が過ぎ、とうとうゼパイルは口を開いた。
「……仕事って何すればいいんだ?」
フォークとナイフで鴨のグリルをつつきながらの、よそよそしい調子の質問だった。
わたしは無視して質問した。
「家族はいるの?」
少し待ってからまた訊いた。
「友だちや恋人は?」
ゼパイルも無視で返した。
「あら、そう。まともな関係がないのね。それか、あなたにまともに人の話に傾ける耳がないんだわ」
ゼパイルは懸命に平静を保とうとしているようだった。
「そうじゃなきゃ、あんなつまらない詐欺に手を出したりはしないわよね」
「お前はどうなんだ?」
思いがけず鋭い声だった。
「何が?」
「なんでお前みたいなガキが学校も行かず大人を脅してんだよ? パパとママはどうした?」
少し考えて口を開いた。
「一言で答えられると思うわ。わたし、自立しようと思ってるの」
それをゼパイルは鼻で笑い飛ばした。
「これが?」
わたしは皮肉たっぷりに微笑んだ。
「あら、何かやり方を間違ってた?」
わたしは黄金色のバターが泡を立てる鱒のムニエルにフォークを入れながら切り出した。
「やってほしいことがあるの」
わたしが仕事を説明するのをゼパイルは苦々しい顔で聞いていた。まだまだ計画の初段階だから不確定の部分が大きすぎてはっきりとはしゃべれなくて、それでそういった表情をしているのだと思っていた。そうしたら話を聞き終わった彼はこう言った。
「狂ってる。お前、頭がおかしいぜ」
「忌憚のない意見をどうもありがとう」
「絶対にうまくいかねーよ、そんなの」
「どうかしらね」
その可能性のためにあんたがいるのよ、とは言わなかった。ゼパイルには矢面に立ってもらってわたしを危険から隠す役割をも期待している。でもこの男が原作のヨークシン編である2000年までは元気いっぱいなのは確定しているのだから、きっとわたしの計画はうまくいき、この男も死ぬような目には合わないと思う。そう考えれば自信が湧いてくるし、断然罪悪感も消えていった。
「あ、そうそう。忘れるところだった」
わたしはトートバッグから封筒を取り出してゼパイルに渡した。
「何だ?」
「開けてみて。確かめて」
ゼパイルは封筒を開け、折りたたまれた紙片を何枚か取り出した。さっと彼の視線が紙の上を動いたけれど、いくらも読み進めないうちに鼻にしわが寄ったのを見て、これは助けが必要かなと悟った。
「手元に書類は3枚あるわね? 最初のものは銀行の貸金庫の契約書のコピーよ。ウルズブラザーズ銀行の本店が発行してるの。今はその細かい文字は読まなくても結構よ。
次はわたしが預けたものの確認書。――わかった? あの像よ。わたしはどんなものでも美術品というものを金庫の中に隠しておくのには断固として反対だけれど、この場合は仕方ないわよね。だけどまさか、わたしが、冬ごもりを始める前のクマがせっせと寝床に食べ物を集めておくみたいなことをするとはね。絵は飾ってこそだし、花器は花を生けてこそだと思うのよ。まあ、愛でかたなんて人それぞれだとは思うけど……。べつにわたしは愛でるために貸し金庫に入れておくわけじゃないんだから、これは勘定に入れなくていいのかしら――ごめんなさい、話がそれたわ。
3番目の書類、それは同意書よ。要約するとね、以後その貸金庫は、わたしとあなたが一緒でないと開けてもらえないのよ。どちらかひとりだけではだめなの。これを聞いて少しは安心した? わたしにはあなたが生きていなければあの像に価値なんかないし、あなたはわたしがあなたの知らないところであの像を売ったり隠したりされる心配がなくなる。そうそう、わたしが死んだら金庫はあなた一人でも開けられるようになるわ。でもだからって早まらないでね。殺された場合、あるいは疑いが残る死の場合、その権利はうちの顧問弁護士のものになるから」
このように若干ゼパイルに不利な内容となっているけれど、まだフェアのうちだろう。フェアが今さら何なのか、というもっともな疑問はあるけれど、それでも多少は相手を尊重しなければ何もうまくいきっこない。二度目の人生でだって人間関係には苦労するのだ。
ゼパイルには、このことを頭に入れて一度すみずみまで読んでおきなさいよ、とすごくためになるアドヴァイスをしてあげて、わたしはトートバッグにふたたび手を突っ込んだ。
引っ張り出したのは今朝の『ヨークシンデイリーガゼット』。ショーファーが読んでいたのをもらったのだ。
わたしはうきうきしながら一面に目を落とした。昨日の『藁を集める少女』がどうなったのか知りたかった。落札金額はいくらか? 誰が落札したのか? 正確に言えば少しは知っていた。今朝歯みがきをしながらテレビで見たから。でもテレビなんかに詳しい情報を期待するのは間違いだ。
(3分で何がわかるというの?)
しかし、わたしの期待に反して、新聞にもとくに目新しい情報はなかった。午後3時からサザンピースで始まったオークションではオークションルームから報道陣は締め出され、午後7時を回ってやっと公式のインタヴューができたらしい。記事は、サザンピースの会長が慇懃に全世界が注目しているすばらしい絵を扱えたことを光栄に思っていると述べ、オークション担当部長が自分のキャリアの中で最高の経験だったと控え目に微笑み、オークション参加者は興奮して『少女』の美しさをほめちぎっていたことを伝えていた。
落札金額は253億ジェニー。サザンピースの会長は内心狂喜乱舞だろうし、ライバルの競売会社は歯ぎしりして悔しがっているだろう。グリードアイランドのせいでこの馬鹿げた金額が霞んじゃいそうになるけれど。
わたしにはインフレがすごい、としか言えない。狂気の沙汰だと思う。前世では、かつてはどんなにすばらしい美術品でも10万ドル止まりだった時代があった。メトロポリタン美術館が破るまでは、100万ドル以上の価格で購入しないことを定めた館長同士の紳士協定が実効性を持っていた時代もあった。それが胡散霧消してからも、一枚の絵にこれだけの値がついたことはなかった。
落札者についてはまだ特定されていなかった。でもそれは時間の問題だといえた。2、3日もすれば絶対にどこからか漏れてくる。だいたい、落札金額でいくらか想像はできる。だって253億ジェニーだ、ただの個人蒐集家が出せる金額じゃない。バッテラのように桁違いの大富豪か、ごく一部のハンターか、まあ2、3人くらい。一番ありそうなのは、一流とされる美術館のいずれか――それも国会で絵を買うための特別の予算が可決された3つの国のいずれかだ。やっぱり国のお金が動くとなると強い。
記事は最後に、高すぎる落札金額について得意げに批判をかまして終わっていた。国民の税金の一部を費やすだけの価値が、国家的な美術館の財政を傾けかねないほどの購入代金の価値が、その絵一枚にあったのか疑問の声が出ている、となんとも恣意的な書き方をしている。この部分を見れば、国会で絵を買うための特別の予算が可決された3つの国のひとつがこの国だということは明らかだった。でもほんとうにそんな声を聞いたのか、だとすれば誰の声なのか、記事は絶対に明らかにはしない。
第一、そんなことを心配するのは早すぎると思った。誰が落としたのかすらまだわかってないのに。早すぎるだけじゃなくて自信過剰だ。落としたのはこの国の美術館だと半ば確信しているんじゃないだろうか。ちょっと慎みに欠ける態度。国民性。みなさんおなじみの。
でもたとえ落札出来ていたとしても、絵には国境の問題がある。絵はフランシュ人のものだった。フランシュ人以外の者が落札していたとしたら、フランシュ政府は国家的宝の流出の危機として面子にかけても待ったをかけるのではないだろうか? それを思えば、『少女』がすでに現実の国境を越えてこの地にあるのは落札者にとって幸いだっただろう。
わたしは落札者の推測を諦めて新聞を閉じた。顔を上げると、ゼパイルはとっくに書類を封筒にしまってわたしをじろじろ見ていた。
わたしは挑戦的に眉をつり上げ、一度閉じた新聞をまた開いた。そして目についた記事を見るとはなしに見る。
ゼパイルはため息をついた。
「何苛ついてんだ?」
「好きなだけわたしを見ていていいのよ」
「……何かおもしろいことでも書いてあんのか?」
わたしは新聞紙をバサバサいわせた。ゼパイルは眉をしかめた。
こういう態度はよくない。これがわたしの悪いところだとはわかっている。でも折れようと決めるまでにいくらか時間がかかった。
「……おもしろい記事ね。そうね、あったわ」
紙面の端っこの中くらいの大きさの記事を示す。
ヨークシン市警は8日、空を飛べる方法を教えると嘘をつき、信者から約2300万ジェニーをだまし取ったとして、詐欺容疑で宗教法人白き翼の教祖ネル容疑者(67)を逮捕した。逮捕容疑は詐欺で、1994年7月~1997年6月、法人が空を飛べる方法を教える、と市内に住む男性信者(35)をだまし、計12回にわたり約2300万ジェニーをネル容疑者の銀行口座に振り込ませたとしている。今年5月に被害者が告訴した。同署によるとネル容疑者は容疑を否認している。また、別の男性信者もネル容疑者から960万ジェニーをだまし取られたと告訴しており、同署が調べている。とかなんとか。
「なんだこりゃ? 空飛んでどうすんだ?」
「さあねえ。1000万2000万払ってまでやりたいことだったのかしらねぇ」
「ふん、野球を俯瞰で観戦したかったとか?」
「タダで、より望ましいアングルからってこと? それに野球観戦だなんていかにも男の人の考えそうなことね」
「じゃあ女は何を考えるんだ?」
「そうね、靴を擦り減らさず街を歩けると思うわね。それから体重を測るときちょっと浮いていられるわ」
「馬鹿らしい」
「お互いさまでしょ」
まあこんなところだ。ゼパイルにはまだわからないだろうけれど、もし念能力者ならもっと違う考えかたをする。
話が終わったかに思えた沈黙のあとで、ゼパイルはぶっきらぼうに尋ねた。
「なんでオレだったんだ?」
「なんでって……」
わたしは食後の紅茶が入ったカップをソーサーに戻した。
理由はいくつかある。わたしに贋作師の知り合いはいなかったから。犯罪に関わっていた人間なら抵抗感も薄いだろうと思ったから。そういう人間なら犯罪に巻き込んでも大して良心が痛まないから――いくらわたしでも罪のない人間を脅して悦に入るほど悪党ではない。それに、原作を見て一方的に彼を知っていたから。そう、いろいろあるけれど、まとめれば、
「ちょうど、都合がよかったからよ」
犯罪の片棒を担ぐ相手として目をつけられた理由なんてこんなものだろう。でもわたしは気を遣ってもう少し付け足した。
「それに、あなたには才能がある。あと必要なのは運くらいね」
それからこれはついでだけれど、ゼパイルにあってわたしにないものって何なのか、知りたいと思った。念もろくに使えないその日暮らしのちんけな贋作師と、前世の記憶があって原作情報持っている特別なはずのわたし。でも原作で活躍するという『特別』をあたえられたのはこの男だった。
なぜ、と思う。じゃあなぜわたしはこの記憶や情報を持って生まれてきたのか? 何かやるべきことがあるのではないか? わたしにも『特別』になれるチャンスがあるのではないか? こうした思いは、考えまいとしていても、ふとしたときに頭をかすめた。そしてわたしの背を押し、とうとうわたしに踏み切らせてしまったのではないかという気がした。
食後の紅茶を飲みながらゼパイルが手洗いに立つ機会を待っていたけれど、空気が読めないゼパイルは座ったままで、とうとう
「今日のランチは仕事の話をするためだったから、経費で落とすわ。勘定書をこちらに回して」
そうしてウェイターを呼んで勘定をして、冷めた紅茶を飲みほしていたとき、ゼパイルがため息とともに呟いた。
「……この店には、オレが自分で来ようと思ってたんだ」
ゼパイルが来たいだろうと思って選んだのだけれど、余計なことをしてしまったらしい。わたしは慰めるように言った。
「次はそうなるわよ、きれいな女の人を連れてね」
「リムジンに乗って?」
「あなたがそうしたいなら」
「ごめんだな」
「そうね。あなたがやるとスノッブにしか見えないわね」
わたしの優しい気持ちは長続きしなかった。
そして席を立つ前にずっと気に入らなかったお前呼ばわりに文句を言おうとしたとき、あまりにも今さらなことに、それこそ今さら気がついた。
「あー、名前……その、クローディアよ。えーと、契約も成立したことだし教えるわ」
「……なんでいきなりへどもどしてんだよ」
「は? え、は? 何言ってるの?」
「いやいや」
「何? 何なの?」
「名乗るの忘れてたんだろ」
「何を言うの。簡単に名前とか教えるわけがないわよね。ほら、個人情報よ。あんまり知らない人に自分のこととか喋っちゃいけないって親からも言われてるし」
「お前自立したいって言ってたじゃねェか。なんでそこだけ親の言いつけ守ってんだよ」
「関係ないわよね! それとこれとは関係ないわよね」
「気づいてないのか? さっき見た書類にお前の名前書いてあったぞ」
「あっ」
「お前、一体何なんだ?」
はっとした。
「ただのガキかと思いきや平気で人を脅すし、こんなレストランに連れてきて金持ちのお嬢様かと思えばいろいろやばいこともやってるみたいだし、完全にイカレちまってるように見えてガキっぽいところもあるし……なあ? 頭がいい、行動力がある、度胸もある。普通のガキにはない。だからお前が普通じゃないってのは確かなんだが」
『普通じゃない』――これは『特別』とは全然違う。
(わたしに何て言えっての? 幽霊? 異世界人? わたしが何者かなんて誰にも、わたしにだってわからないわよ)
そう思ってかすかに怒りがわいたけれど、沈黙は金、雄弁は銀。わたしはこれ以上余計なことは何も言わないことにした。