ゴーストワールド   作:まや子

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20. 友だち

 がちゃがちゃ、たん!

 がちゃたん、がちゃたたん!

「…………」

「……待って、待って……コマンドどうだったっけ……?」

「…………」

「……あ、やだ。……」

「…………」

「………………え? 何今の」

「…………」

「あー! ……体力どう? もうだめ?」

 がちゃ、たん、たん、だん!

「負けた!」

 わたしは耳につけていたノイズキャンセラーを放り投げて、じゅうたんの敷かれた床に勢いよく仰向けに寝っ転がった。

「もーなんで勝てないの!? あーやだ! もう疲れた!」

「……休憩する?」

「する」

 上からユタカがわたしの顔をのぞきこんで、手を差し出した。その手につかまって立ち上がり、放す前にその手首をきゅっと外側にねじってやった。

「ちょ、い、痛い! 何すんだよ!」

「得意げな顔してるからよ」

「そういう腹いせやめろよ! 勝てないからって!」

「大人げなく勝ちに来てるんじゃないわよ。ちょっとくらいわたしにも花を持たせなさいよ」

 つーんとそっぽを向くと、ガキだなぁと文句を言われた。格闘ゲーム初心者に一度も勝ちを譲ろうとしない20代後半の男にそんなことを言われるのは業腹だったけれど、これ以上突っかかるとほんとうに負け犬っぽいから、頑張って耐えた。

 

 首を回し肩を回し腰を叩きながらキチネットへ向かい、ヤカンの中のぬるま湯を水に交換してコンロの火を入れた。ティーボックスをのぞくと案の定紅茶。

「緑茶はないの?」

「ない。紅茶だけ」

「なーによ、ジャポン人のくせに」

「……次からは用意しとくよ」

 そう言うユタカはサイドボードからケーキ皿やフォークを出している。わたしの手土産のおやつが部屋備え付けの小型冷蔵庫で冷やされているのだ。

「あ、そうそう、3人分出しといて」

「え、なんで」

「ベアクローが来るの」

「はあ!?」

 ユタカは手を止めてわたしに向きなおった。

「なんで?」

「呼んだからよ。今ヨークシンにいるんですって。ちょうどいいじゃない」

「一言オレに断るくらいしろよ……。ここオレの部屋なんだけど……」

 不満らしい渋面に厚かましかったかと気づいた。

「そうよね、ごめんなさい。わたしを入れてくれるくらいだから構わないかと思ったの」

 わたしとベアクローは共犯だったんだから、わたしはよくてベアクローはだめということはないだろうと思ったのだ。でもまあよく考えたら、わたしが決めていいことじゃなかった。

「今だったらキャンセルできるけど」

「いいよ、そこまでしなくて……」

「ごめん」

 ユタカは落ちつかなげに顔をこすった。

「いいけどさ。それより――あんた、あいつのことどこまで知ってる?」

「え?」

「ベアクロー。ベアクローと名乗ってるあいつのことだよ」

 ユタカは手を伸ばしてまだ沸いていないヤカンにかかっている火を落とすと、返事を待たずに寝室に入っていき、A4サイズの封筒を手に戻ってきた。

「海兵隊の情報部に知り合いがいるんだ。調べてもらったよ。あいつの本名も社会保障番号も軍歴も市民コードもわかる」

 封筒はわたしの手に押し付けられた。

「ユタカ」

「その後の経歴も調べてるけど、そっちはまだほとんどわかってない。闇の中だ。でも、けっこう名の通った殺し屋なのは間違いないよ」

 気遣いと努力を無下にするのは少し心苦しかったけれど、わたしは首を振って封筒を押し返した。

「――見る気ないわ」

「見たほうがいい」

「なぜ?」

 ユタカは困ったように視線をそらした。困っているのはわたしもだった。

(余計なことは知りたくないの)

 明らかに堅気じゃない人の身元や仕事は知りたくない。取扱いに困るような情報は煩わしい。わたしがユタカに頼んでベアクローのことを探らせたとベアクローに疑われたくない。それに、こいつはわたしを試している可能性がある。自分を利用するために近づいたのではないかとか、自分のことを調べるつもりではないかとか。だからここは適当な理由をつけて断るのが正解の反応だ。

「ユタカ、わたしはベアクローがどんな人間でも構わない」

 いかれた殺し屋だということはすでに確定しており、今更それ以上に重要な情報などありはしない。

 急にユタカは表情を歪めた。

「…………実はあんたのことも調べた」

「気が咎めるの? わたしは別にだめとは言ってないし、そうされると思ってたけど」

「ごめん。勝手にそんなことして」

「いいのよ。隠してないもの」

 念も使えない情報屋が探れる程度のわたしに関する情報なんてどうでもいい。

「それより、どうしてわたしにベアクローの情報をやろうと思ったの?」

「あいつは危険だ」

 ユタカの答えは素早く、目は真剣だった。

「わかってる――」

「わかってない。あいつは快楽殺人鬼だ」

「わかってるわ」

「わかってない。あんたには甘い顔してるかもしれないけど、あいつはもうわかってるだけで300人以上も殺してる軍人崩れの濡れ仕事屋だ。背後から近寄ってナイフで首を切り裂いたり心臓に突き立てたりするまで3秒とかからない男なんだ。なぶり殺しにするからあいつの死体は遊び傷も多いって。それでベアクローなんてあだ名がつけられたんだ。あんたはあいつがどれだけ危ないか、ちゃんとわかってない。いつ、何がきっかけでこ、殺されたっておかしくないんだぞ」

「わかってるってば!」

「わかってるんだったらどうして……!」

 それきり、言い合いになりそうな気配を感じてわたしとユタカは黙りこんだ。お互いの苛立ちを含んだ無言に堪えかねて、わたしは背を向けてヤカンを火にかけ直した。シューという古びたヤカンの音。お湯が沸くまでの時間を持て余して、わたしは背を向けたままなんとか和解への第一歩を踏み出した。

「……なんで、そこまでわたしに構うの」

「あんたがまだ子どもだからだろ」

(まだ子どもだから……かあ)

 わたしにそんな言葉をくれた人は久しくいなかった。子どもらしくあることや、子どもだという理由だけで保護されることを、わたしに望んでくれる大人が周りにいたこともなかった。わたしが望まれるのはいつでもたいてい、天才少女であることだけだ。

 ユタカはいいやつなのだろう。優しく、かなり常識的な感覚を持っている。気遣いには感謝でもって報いるべきだ。いらない世話だとはねつけるべきじゃない。

「あんたが普通の子どもじゃないって知ってるけど……でもまだ子どもだろ。あんたは警察の犯罪者データベースにもまだ記録がない、これからいくらでも真っ当に生きていけるはずの子どもだ」

「……わかってるわ。わかってる、わかってる」

 でもそんな人生など望んじゃいないのだ。

「……今は、あなたの言うことを心に留めておくってことじゃいけない? すぐに、はいそうですか、とはできないわ」

 わたしは譲歩するべきだ。それでもわたしには彼の言わんとすることを受け入れるつもりにはなれなかった。

「えー、うーん。……いい、よ。今は」

 そのうち、などと言うやつの言葉はわたしだってまったく信用できない。でもユタカは不満げながらもうなずいた。そろそろベアクロー本人が来そうだし、ここらが妥協点なのだった。

 

「これ――」

 ユタカは違う封筒を差し出した。

「イーラン=フェンリの調査報告書……頼まれてたやつ」

 こちらは受け取って、封を手で切った。けっこうな分量があった。どうしてわざわざプリントアウトしたのか訊いてみたら、パソコン上のデータは消去したとしても上級者には簡単に復元されてしまうからと返ってきた。

 ありがたいことに目次まで付いていて、ざっと目を通すと、イーランの生い立ちや周囲の人の評価、彼の持っていた各種証明書の真贋など、多岐にわたって事細かに調査されていた。

「ビーアリーカまで行ったよ。オレの中で1、2を争うくらい大変だった。……直接的なつながりはつかみ切れなかったけど、これ、この手の込みようはプロの仕事だよ」

「ありがとう。助かるわ」

 だいたいわたしが考えていたような感じだった。でも裏付けが得られたのは大きい。

「お代は?」

「いいよ、いらない」

「だめよ」

「ベアクローだって何も受け取ってないのに、オレだけ請求するわけにはいかないだろ」

「なによその対抗意識。骨を折ってくれたんでしょ、もらっておきなさいな。わたし、これからも頼むつもりだもの。お金とらないとそのうち負担になるわよ」

 そうこうしているうちにお湯が沸いて、この件はうやむやになってしまった。

 

 カチャカチャとお皿を並べて、温めて茶葉を入れたポットにお湯を注ぎ、ティーコジーをかぶせたちょうどそのときを見計らったかのように部屋のドアがノックされた。

「……ほんと、小憎たらしいタイミングで来るな」

 ユタカの呟きに苦笑を返しながらドアを開くと、現れたベアクローがいつものようにわたしの頭を撫でまわして、元気そうだな、と片頬を上げた。

 

 ユタカとベアクローのあいだにあまり親密な空気がないことに気づいたのは、テーブルについてそうも経たないころだった。

 会話というものがなかった。ティーストレーナーで茶葉をこしながら紅茶をいれているのをわたしの横から見たユタカが、

「その網、そうやって使うものなんだ……」

 とどうでもいいことを言ったほかは、どちらかが何かを言うことはなかった。

 

 紅茶を飲みながらはじめは心を解きほぐそうと適当に雑談をしていたけれど、じきにわたしは話を振り続けるのに疲れた。わたしがベアクローと話しているとユタカは入ってこない。ユタカと話しているとベアクローは自分とは関係ないみたいな顔をしている。

(もう、なんなの?)

 次第にいらついてきた。

(なんでこいつら、わたしにこんなに気を遣わせるの?)

 わたしたち3人は天秤みたいな関係だった。わたしが支点で、ユタカとベアクローが左右にいる。わたしがどちらか片方を構えば、もう片方の存在はどんどん軽くなっていってしまう。関係の中心にいられることは嬉しく、ほっとするけれど、こういうのはすごく面倒くさかった。

「あなたたち、どうしたの? 眠いの?」

 苛々しながら苦情を申し立てると、ユタカはなぜかムスッとして手洗いに立って行ってしまった。

「なんなの?」

「さあねえ」

 ベアクローはいつもの無関心と無責任が腹立つ感じにブレンドされた態度でのんびり首をかしげた。

 

「クローディア」

 呼ばれてティーカップから顔を上げて正面を見ると、ベアクローは手の中からテーブルにカタッとに小さなスティックを落とした。USBフラッシュメモリーだった。

「何?」

「ユタカ=キヌカワを調べた」

 わたしはさすがに呆れを隠せなかった。

(こいつらは、まったく、ふたりして同じことを……)

「迷惑だったかねえ」

「そうじゃないの。ありがたいわ、わたしは調べないつもりだったから」

「あいつに気を遣いすぎなんじゃないの?」

「気くらい遣うわよ」

 戦闘能力を持たない、情報を扱う後方担当のユタカが自分のことを調べられたくないだろうこと、自分が調べられた形跡をすぐに発見できるだろうことは、考えるまでもない。ユタカと友好的になりきらず、周りの人々をあまり気にしないベアクローだからこそユタカを調べることができた。わたしがそんなことをしたら変に潔癖そうな彼の心証を害するだろうし、わたしはそれを恐れていた。

 複雑なバックグラウンドを持っている、自分より有能な人間たちと付き合うことの難しさにため息をついて、わたしはスティックを取り上げた。

「ありがとう、これ、ベアクローも気を遣ってくれたのよね」

「見る気あるのか?」

「うん。ユタカに構わないか訊いてみてからね」

「気を遣いすぎ」

「うん」

 もちろんこんなのはただのポーズだった。あなたの個人情報やプライヴァシーも断りもなく暴きませんよ、というベアクロー向けのアピールにすぎない。人には他人に知られたくないことがひとつやふたつ、あるいはそれ以上にあるものなのだ。そしてユタカは自分がわたしのことを調べた手前、わたしがこれを見ることをもう拒めやしないだろう。

 

 ユタカは携帯電話を操作しながら戻ってきた。

「クローディア」

「何?」

「今、頼まれてたやつの追加の情報が入ってきた」

「え?」

 うながすと、ベアクローがいるのを気にするようにちらちらうかがいながらも教えてくれた。

「……先日から、ここ、ヨークシンにいる」

「わかった。ありがとう」

 

 おそらく高年収、優しい、しかもハッカー。これだけのイケてる要素を持ちながらユタカがどこかダサく見えるのは、ひどく内気な態度のせいだった。特にベアクローといると、おどおど、と容赦ない擬態語をつけてしまいたくなるくらいひどかった。わからないでもない。ベアクローはいわゆる凶悪犯罪者だ。

「オレが来るまで何してたんだ?」

「…………」

「……ユタカと格ゲーしてたの。ユタカって強いのよ」

 ユタカに答えさせてベアクローと会話させようというわたしの試みは本人の黙りの前にあえなく潰え、仕方なく明るい調子でユタカを持ちあげつつ答えると、なぜか当のユタカから横目で睨まれた。頬がほんのり赤くなっている。わけがわからず睨み返せば、携帯電話で横腹を小突かれた。画面を見ると、

『格闘のプロに何言ってんだよ! オレが2Dでだけ強くて得意がってると思われるだろ!』

 と書かれていた。

(……自分の口で言いなさいよ)

 しかし言えないのがユタカなのだ。

「格ゲーって、格闘ゲームだろ? テレビの画面のやつがそう?」

「ええ」

 ベアクローが指差した先にはテレビとそれにつながるジョイステーションがあった。画面はキャラクター選択画面で止まっている。

「『バックストリートファイターズⅣ』。人気のゲームなんですって」

 ダメージを負った度合いに比例してキャラクターのビジュアルも損壊していく。負けは死と同義であり、死して屍を拾うものなしを地でいく修羅のゲームだった。

「ふーん」

 顔には、くだらない、と書いてあった。

「テレビをなんで床に下ろしてんの? 床に座ってやってたわけ?」

「ええ、まあ……」

 そこに触れられると歯切れが悪くなるわたし。これ以上行儀の悪さに突っ込まれまいと苦しまぎれに床に置かれていたものを指した。

「ね、コントローラー見てみてよ。スティックなの。ゲームセンターにいるみたいじゃない?」

 付け足しは小声だった。

「――行ったことないけど」

「スティックじゃないのもあるのか?」

「そう。普通の、パッドがね。スティックは格闘ゲーム用のコントローラーなのよ」

「へえ」

 ここでまた脇腹を小突かれた。視線を落とすと、

『もうこの話題変えよう! 変えて! なんか、いたたまれないというか、聞いてられない』

 と携帯電話に打ち込まれていた。

『なんで?』

 と返すと、

『だってあいつあからさまに興味なさそうだろ! あんたがオレに合わせてくれてんのがわかって申し訳ないし』

 と、女子高生並みの速度で打ち込まれた文章が返ってきた。そう思うなら自分から何か話題を振ってくれればいいのに。みんなして黙っているよりはましだというわたしの的確な判断がわからないのだろうか?

 

 この携帯電話を介したやりとりをしていて思い出したことがあった。

「ねえ、そういえばわたし、まだユタカとメアド交換してないわ」

 モーナンカスで別れたときに走り書きの電話番号のメモをもらっただけだった。

「え? あ、ああ……」

「とっくに調べてるからメアド交換なんか必要ないって顔ね。だめよ。現代っ子の人間関係の儀式はここからなのよ」

「……わかった」

 完全に他人事の空気を出しつつ、人間関係の儀式ねえ、と片肘ついて眉を上げて眺めていたベアクローももちろん輪に加わらせた。ベアクローはすごく嫌そうな顔をしていた。

 

 その後ベアクローはさっさと帰っていき、残ったふたりで格闘ゲームで10本先取をやった。案の定ユタカは勝ちを譲らず、わたしは全敗した。

「帰る?」

「うん」

「じゃあ――」

「うん。あ、そうだ。友だち、もうひとり増やしたいの。いい?」

「え、ええと……」

「いい人よ。きっと気に入るわ」

「なら、うん……」

 大丈夫。わたしには確信がある。絶対うまくいく、まあ、今よりは。などと、わたしは力強い言葉をかけつつ立ち上がった。

(わたしがこれから先もこのふたりに挟まれてやっていくんじゃつらいし)

 ここでも面倒なことはゼパイルに丸投げするという基本方針は適用される。

「じゃあね」

 ひらりと手を振ったときだった。

「――また遊びに来たら。今度は友だちとしてさ」

 うつむきがちにぼそぼそと発された声を間違いなく聞いた。

 思いがけずもらった言葉。示された好意。

「ありがとう」

(友だち?)

 前に友だちがいたのはもう10年は昔のころで、彼らは前世の記憶の中でのみ存在している。環境も自分自身も大きく変わってしまってもう今のわたしにはそのような関係がうまく思い描けなかったけれど、友だちはほしいと思っていたところなので、とりあえず便宜的にこの関係をそう呼んでおくことにした。


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