トントンとノックをする。
ドアの向こうで書類を慌ただしくかきまわす音がした。
「入れ!」
ややあって、ジュリアンの忌々しげな声がした。
ノブに手をかけて回し、ドアを開くまでに、これは娘として扱われる状況なのだろうか、それとも駒として扱われる状況なのだろうかと考えた。声から察するに、明らかに後者のようだったけれど。
「失礼しまーす」
入ってすぐに、今日はどれだけ待っても椅子をすすめられることはないとわかった。
ジュリアンはデスク――正確にはデスクではなくパートナーズビューローというアンティークの家具――の向こう側で皮の肘掛椅子に体を沈め、わたしをぎらぎらと鋭い目で睨みつけていた。くっきりと青い目。その目を最後に見たのは半年ほども前のことだったと思いだした。ジュリアンは半年ぶりのわたしとの再会を特別な感慨で迎えたようだった。
「なぜ呼ばれたかわかるか?」
ジュリアンの表情は硬かった。自分が今から言わねばならないことへの不満と腹立ちを隠そうとしていない。
わたしは言葉に詰まった。
「報告が少し滞ったから、お父様?」
ジュリアンは前のめりになって、おそろしげに目を見開いた。一瞬戸惑って、しかしこぶしをデスクに振りおろした。おまえが子どもでなかったら、女でなかったら――娘でなかったら、おまえを殴っていた。そう言わんばかりの動作だった。しかるのち、うなり声のようなものをあげた。ジュリアンはひとしきり深呼吸して、またうなった。
「クローディア。おまえはモーナンカスで何をしていた?」
「もちろんヴァカンスを過ごしてたわ、お父様」
ジュリアンは口をすぼめ、鼻の穴を広げた。破裂寸前に見えた。
「ああ、そうだろうとも――それで? 私がおまえに与えた仕事はどうなった?」
「メールで報告した通りよ。――つまり、終わったわ」
「そうだな。おまえが優秀で嬉しいよ、クローディア。その仕事についてちょっと振り返ってみよう。わたしは1カ月前、電話でおまえに、夏のうちにモーナンカスでうちのファームの資金の流れを調査して来いといったな。そしておまえはモーナンカスへ発った。そうだな? 不思議なのは、その次の日におまえがなぜか肋骨を折るという大けがをしていることなんだが――」
「ちょっと厄介事に巻き込まれて……」
「そうか! なるほどな! ……それで、まだ不可解なことがあるんだが、資金の流れを調査するのに、どうしておまえはうちのサマーハウスをぶち壊す必要があったんだ?」
ジュリアンの目は血走っていた。
「わたしが壊したわけじゃないわ」
「おまえが幻影旅団と頻繁に会っていたと聞いているんだがな?」
(イーラン! あの口の軽いキザ男!)
怒りがぱっと胸の内で燃え上がったけれど、それをひた隠して、わたしは弁解がましく説明を試みた。
「実は、わたしの骨を折ったのも幻影旅団なの」
「それで? ……そういえばこのあいだヨークシンの家に泥棒まで入られたらしいな。お前の危機管理はどうなっているんだ、クローディア?」
失望もあらわといった様子だった。ジュリアンの中でわたしの株は下がり続けている。わたしはあせった。このままでは取引停止、悪くすれば上場廃止になりそうな気配だった。幻影旅団を利用しようと彼らにこちらから故意に接触し、にもかかわらず取引関係を築くことに失敗したのみならず一方的に利用され、ほうほうの体でヨークシンに逃げ帰ってきたことはなんとしてもジュリアンから隠さなければならない。わたしは苦し紛れに嘘をついた。
「泥棒に入られたのは警備会社の責任よ、お父様。それに彼らとは初日に、ほんとうに偶然に出会ったの。そのことは報告書に記載の通りよ。でも団長のクロロ=ルシルフルはわたしの顔を見覚えていたの。彼はこの偶然の出会いを最初は偶然とは考えなかったわ。それでわたしを殴って尋問しようとしたの」
「――つまり、こういうことか? おまえは彼ら幻影旅団に偶然見つかって、ファームの秘密をしゃべらされそうになった。でもしゃべらなかった。その後誤解も解け、幻影旅団とつるむようになった。にもかかわらず幻影旅団は彼らの仕事の終わりに行きがけの駄賃としてサマーハウスを襲い、破壊していった」
「その通りよ、お父様」
長い沈黙が続いた。
「……この説明に説得力があると思っているのか?」
わたしは何も言わなかった。
ジュリアンは深いため息をつき、顔をうつむけてデスクについた腕で額を支えた。
「ああそうだ。ほんとうの話なのだろう。おまえが私を裏切ったはずがない」
「わかってくれてうれしいわ」
ジュリアンはムラサキガイのような青く冷たい目でわたしの目をみつめた。
「あの家にはグレイ家の歴史とアイデンティティが蓄積された多くの芸術品があった。あの家そのものもそうだ。180年の歴史、わたしのかわいい子どもたちだ」
(……人を馬鹿にするのもいい加減にしてよ)
凍ったような青い目。わたしはそれをじっと見すえた。感情を出さないようにするのに苦心していた。
(わたしのかわいい子どもたちですって。じゃあわたしは何なの?)
「モーナンカスのサマーハウスは全壊だ。跡形もない。クローディア、おまえはたしかに資金の流れを調査し、重大な不正をみつけもした。だがな、肝心の資産が失われてしまって、おまえがしたことがいったい何になるというのだ?」
わたしは答えに窮した。そしてそういうときにいつもするように、沈黙を選択した。この判断が正しかったことはすぐに証明された。彼は返答を待たなかった。
「うちだけではない。ほかにも何軒か襲われたし、ヴィネッタファミリーの支部も壊滅させられている。あそこは皆殺しだ。映画のような最期を迎えられて支部長のデルベも本望だろう。あいつは自己顕示欲の強い男だったからな」
ほとんど投げやりな言い方だった。
「……なあクローディア、あの晩、いったいモーナンカスで何が起こったのだ?」
今度の静寂は前より長かった。
ジュリアンは納得したがっていると感じた。わたしは頭の中ですばやく話すべき情報を選別した。どこから話すか、どこまで話すか、どの程度嘘をつくか。答えは出た。
「幻影旅団はわたしに接触してきたの、お父様、エミール会の件で。参加させてほしいって。その便宜さえはかってくれたら、もう詮索はしないと、彼らはそう誓ったの」
「悪いがクローディア、それが何か関係あるのか?」
「あるわ、お父様。すべてはここからだもの。当然、わたしは彼らの言葉を信用しなかったわ。強請りをやる人間というのは際限なく強請ってくるものよ。そしてお父様のファームの仕事について知られてしまうのはそれ以上に問題だと思ったわ」
ジュリアンは煩わしげに手を振ってさえぎった。
「その話はいい」
わたしは鼻白んだ。裏の仕事を手伝わせることもあるくせに、わたしが言及しようとするとそうやって嫌がる。矛盾しているし、自分がしていることを恥じているならやめればいいのに。でも今はそんなことを議論している場合じゃないから文句は呑みこんだ。
「とにかく、わたしは彼ら幻影旅団をどうにかする必要があると判断したの。全員いるわけじゃなかったけど、団長とブレーンがそろっていたみたいだったから、彼らがいなくなれば自壊すると思ったのよ。
それでわたしは、幻影旅団とヴィネッタファミリーとをつぶし合わせることにしたの。幻影旅団の仕業に見せかけて幹部の自宅でも攻撃すれば、それで彼らには十分だと思ったわ。
そして決行の日を、幻影旅団が動く日と決めたの。いつどこに強盗に入る気かはわからなかったけど、アジトの場所を突き止めてたから、市中の混乱に乗じて、一仕事終えてアジトで気を抜いているところをヴィネッタファミリーに襲撃させるというのがおおまかな計画だったわ」
わたしは一息ついて、ジュリアンが完全に理解するのを待った。
「いつどこに強盗に入るかわからないと今言ったけど、ある程度の予測はついてたわ。そう、彼らはエミール会に関心を示してた。エミール会に行きたがったのも品定めのためでしょうね。彼らの仕事は必ずエミール会のあとに行われると確信があったわ」
わたしはボスの疑問を先回りして言った。
「そして案の定、幻影旅団はエミール会のあと、動き出したわ」
ジュリアンは両手の指先を合わせて小さな尖塔の形をつくった。
「ここからは時系列順に話すわ。
彼らはまずジョイス――ホテルのオーナーなんだけど――彼の邸宅へ入ったみたい。本人、家族、使用人、すべて皆殺し。ジョイスは競売会にいたから、競り落としたものを狙われたんだと思うわ。調べが進めばわかることよね。ほかにも盗られたものがあるのかもしれないけど、それはちょっとわからないわ。
そして2件目が女優のエンリ=ルクローサの夏の別荘。彼女は外出中で無事。パーティー狂いが命を救ったのね。使用人も帰宅していて人的被害はゼロ。でも別荘はあとかたもなく壊されてるわ。……おそらくだけど、やつあたりじゃないかしら。彼女はエミール会で競り落とした宝石をつけてパーティーにあらわれたそうだから。」
ジュリアンは憂鬱そうな顔をした。
「幻影旅団が次に向かったのはヴィネッタファミリーの支部長、マンタル=デルベの邸宅。彼は妻子ともども殺されたわ。警備をしていた部下も。デルベもエミール会で見かけたわ。というわけでわたしが幻影旅団に何かする必要もなくなったの。自分たちで報復の標的になってくれたわけだもの。
それから、えーと、4件目はカジノの支配人、モンダドーリの自宅ね。彼はその時刻は職場にいて無事だったみたい。職場はエトルーズ、最近カキン系マフィアの清安和に買収されたカジノよ」
「ああ、それは知っている。モンダドーリの自宅に警察の捜査の手が入って、マネーロンダリングの証拠が出てきたそうだな。エトルーズは閉鎖になるだろう。数少ない心温まるニュースだな」
「そうよね。今となっては自分だけが不幸というわけじゃないって事実だけが慰めよね」
私の相槌にジュリアンはカッと目を見開いた。信じがたいという感情を最大限に表現した顔つきだった。今にも飛びかかってきそうに思えた。わたしはあわてて話を続けた。
「5件目はちょっと距離が離れてるわ。あと、手口からみても犯行時刻から考えても、彼らはひとりかふたりで行動していたことは間違いないでしょうね。ヴィアジョア地区、コトリカ人退役将校フルンゼの自宅よ。本人と家族が殺されたわ。この家も同様に荒らされてるけど、何を盗られたのかは不明ね。
……そして最後なんだけど――」
そこで息をつまらせた。
「グレイ家のサマーハウスが襲われたわ。たぶん、彼らの顔を知っているわたしを殺していこうと思ったんじゃないかしら」
ジュリアンは死者に黙祷をささげるように目を閉じた。
数秒して目を開け、わたしに労わるような、がっかりしたようなまなざしを投げた。
「……おまえが生きているだけでもよかったと考えるべきなのか」
(もちろん、そう考えてよ。普通の親ならそう考えるわよ)
わたしは胸にさげた懐中時計に触れた。彫られたダリアの意匠の凹凸をゆっくり指でなぞった。
息を大きく吸って吐き、気分を入れ替えようと試みた。ブリザードキャンディSの助けがほしかった。
「わたしはちょうど外出してたわ。幻影旅団のアジトを襲わせるタイミングをはかるために。家が大変なことになっているのも気づかなかった。あの夜はどこもかしこも大騒ぎだったもの。
おかしいと感じたのはしばらくしてからだったわ。家のほうで何度も銃声が聞こえたの。それから急いで取って返して、支部長のデルベを襲われたヴィネッタファミリーが集めた部下を引き連れて、幻影旅団を追ってうちのサマーハウスで彼らと鉢合わせしたことを知ったの」
わたしは言葉をつづけた。
「銃声と怒号は絶え間なく続いてたわ。ヴィネッタと同盟関係にあるエルゲン=ヴィダや子ファミリーのマシュークファミリーの車もどんどん集まってきてた。付近には何十人もの男があふれてたわ。
わたしは距離を置いてずっと様子をうかがってたの。事態に収拾がつくのも時間の問題だろうと思ってたわ。数が違いすぎたもの。――たしかに、それからたった数十分で決着はついたの。勝敗の予測は外れたけどね」
ジュリアンはうめいた。
しばし間が空いたのち、ジュリアンはあきらめ顔で言った。
「……それほどか」
彼は背もたれに寄り掛かり、天井をみつめた。そして深くため息をついて目を閉じ、迷いを振り切るように目を開けた。
ジュリアンはわたしを直視した。
「やつらはおそらく念使いだ」
わたしは返事に困った。あいまいな、うー、とうめく以上のリアクションが求められていることはわかったけれど、もっと適切なリアクションといっても思い浮かばなかった。
困ったあげく、わたしはあいまいさに理解の色を混ぜて言った。
「……そう。そうじゃないかとわたしも思ってたわ」
ジュリアンは驚愕した。
「念を知っていたのか! おまえなら不思議ではないような気もするが……いや、もしかして私が冗談を言っているのだとは思っていないか? 私をからかっているのか?」
「いいえ、お父様。詳しくは知らないけど、そういう存在は気づいてたわ。ときどき、絵や彫刻や家具なんかからもやもやしたものが見えるような気がしてたの。そういうものはたいてい手が込んでいて出来のいい工芸品だったわ。幻影旅団のひとりにそのことを言ったら、それは念だって」
ジュリアンは感じ入ったようにうなずいた。
「ああ。おまえは考えが実に柔軟だ……子どもだからだろうか。しかもおまえも多少念を使えるとはな。そう。念という力を使う連中が世界には何人もいるのだ。だがしかしその数は多くない。正しく使える者ともなるとせいぜい一握りだ。
念は物に宿るだけではない。肉体を強化し、道具に性能を付け加え、オーラを実体化させることもできる。念使いを相手にすることは普通の人間には難しい。オーラすら見えないのでは、まさしく何をされているかわからぬうちにやられてしまう。
おまえも覚えておくといい。マフィアはこの念使いを奪いあっている――マフィアだけではないが。強い念使いはそのままファミリーの強さにつながるらしいな。念使いの質と量の差がファミリーの実力の決定的な差となる――まあ、直系組ですら集めかねているのが現状のようだがな。犬ころのようにそこらへんにいるわけではないのだ、これが」
ジュリアンにしゃべらせていたらどこまでも脱線してしまうので、割り込んで言った。
「幻影旅団は、その念使いの集団だとみていいのね? あいつらは10人程度しか構成員がいないわ。それは、念使いの数の少なさと、それでも十分なほどの強力さが理由だと、そう考えていいのよね?」
「そうだ、クローディア。こうなってはそうとしか考えられない」
(まったく、ありがたいお話をどうもありがとう)
わたしはため息をついた。
「ここまでがあの日の夜起こったことで、わたしが知ってることの全部よ。いい? これを前提に聞いてね。……わたし、幻影旅団の話はイーランにしかしてないの。わたしとイーラン以外、あの国にいたほかの誰も、国内に幻影旅団が入ってきているとは知らなかったのよ。なのに、どうしてヴィネッタファミリーは自分たちに仇なす者としてあの夜即座に幻影旅団の首に多額の報奨金をかけることができたの?」
わたしはトートバッグの中から書類をばさっとパートナーズビューローの上に出した。ユタカが作成したイーランの素性調査書だ。
「お父様は本物の目利きだったみたいね。イーラン=フェンリは贋作だった。わたし、お父様の財政顧問を解任することを勧めるわ」